8

 ユーシスの耳が捉えたのは、艶やかで弾んだ声。ユーシスの双眸が捉えたのは、ウェーブの掛かった真っ赤な長髪とサイハイブーツにコート。その姿形は一見すれば人間。

 だが警鐘を激しく鳴らした本能にユーシスは痛みを無視し即座に立ち上がった。


「ウェアウルフなんて初めてだわ」


 髪色と同じく真っ赤な口紅から聞こえてきた這うように肌を撫でる声は高揚とし、アーモンドアイは絡み付くような視線をユーシスへと向けていた。月の下に立つ美人な女性は、その色白な肌が身に纏った赤へより一層色気を加え艶やかを際立て、それでいて全体にどこか儚さを纏っていた。


「お前がジャックか?」

「ウェアウルフのお肉はやっぱり硬いのかしら? それとも柔軟で柔らか?」


 聞こえていないのか意図的に無視しているのか、女性は返事のタイミングで独り言のように呟く。

 すると女性は胸前で両腕を交差させて構え、罰点を描き広げながら振り下ろした。一瞬の間、そよ風すら止み全てを静寂が包み込む夜本来の姿が辺りには流れた。その不気味さすら覚える静けさにユーシスは微かだが眉を顰める。

 だがその瞬間。突如ユーシスを正面から風が包み込み、同時に全身は無数の傷に襲われた。浅いが同時に全身の皮膚から噴き出す少量の鮮血。ソルからのダメージも相俟ってユーシスは目を瞠りながら片膝を着いた。その際、首を垂れるように一度下がった顔を上げると、女性は堪能するように舌なめずりした。それにより月明りに照らされ艶めかしく煌めく唇は口角を緩やかに上げる。


「ん~! やっぱり硬めなのね。でもワタシは硬いのも好き。切りごたえがあって気持ちぃんだもの」


 話しが通じ合ない、そう思ったユーシスはもうこれ以上言葉を口にすることはなく、片膝を着いた姿勢から少し前のめりとなり地面を一蹴した。そして立ち上がりながら前進し一瞬の内に女性の眼前へ。勢いそのまま首を逃がさぬよう掴むと地面へと押し倒し押さえ付けた。

 だが女性は悠然とした様子で馬乗りになったユーシスを見つめていた。


「柔軟な筋肉に覆われたかったぁい骨。それを一刀両断するのってきっと気持ちぃと思わない?」


 恋人のように触れる余裕に満ちた声に一拍遅れユーシスはハッとした表情を浮かべると、優勢に見える状況を放棄し大きく間合いを取った。僅かに肌に触れる風と女性から離れ着地したユーシスの袖に入った裂け目。


「もう少しで気持ち良くなれたのに残念だわ」


 起き上がりながら女性は僅かに眉間へ皺を寄せた。


「今までの柔らかな感覚も良いけど、やっぱり切りごたえがなくちゃね。だからあなたってすっごく――美味しそう」


 まるで誘惑でもするかのように――だがそれでいて獲物を狙う猛禽類のように見つめながら女性は言葉の後、舌なめずりをした。

 一方で相手の動きを警戒しつつもユーシスは見えない刃の事を考えていた。先程の状況を思い返しながらなぜ一歩先に気が点けたのかについて思考を巡らせる。


「一気に楽しむのもいいけどやっぱり……。ちょっとずつ、つまみ食いして最後に一口。お楽しみはたっくさーん味わいたいものね」


 言葉の後、一拍程度の間を空け女性は演劇のように上げた手をユーシスへ向け伸ばした。


「さぁ。お楽しみの時間よ。美味しく食べてあげる」


 そしてその手が刀のように振り下ろされると、ユーシスは自分の感覚に引かれ横へ飛び込んだ。何かが掠め切れた髪先は風に乗り空へと消え、片膝を着けたままユーシスは先程まで自分が居た空を一瞥。


「避けちゃっ駄目よ。気持ち良くさせてくれなきゃ。――でも、やっぱりウェアウルフって凄いのね。人間なんて食べられた事にすら気がつかなかったのに、簡単に避けちゃうなんて」


 嘆称した口ぶりの女性の話は右から左に、ユーシスは無意識だったまだ新鮮な感覚から要素を探っていた。


「(何だ? 何が引っ掛かってるんだ? それが分かれば警戒し易いんだが。このままだと不意を貰っちまうかもしれねーしな)」

「あっという間に食べちゃうのも悪くないけど。やっぱり我慢した方がもーっと気持ちぃわよね。――だからちょっとぐらい頑張っちゃおうかしら」


 そう言うと女性は手を振り上げ一振り。一瞬の間を空け、ユーシスは斜めへ避けながら前進。そんなユーシスへ向け、女性はもう片方の手を(同じように)更に一振り。まだ無意識的な感覚ではなくこれまでのタイミングを優先しユーシスは(逆方向の)斜前へ移動しながらも前進し続けた。女性が右、左と手を振ればそれに合わせ見えない何かを避ける動きをするユーシス。しかし毎回、完璧とはいかず頬や腕には浅い傷が一つまた一つと刻まれた。とはいえ、ユーシスの足は止まらない。

 だがそれはあと数歩進み手を伸ばせば届く距離まで迫った時。女性は手を横へ払うように振り――息を呑んだユーシスは無理矢理に足を止めるとそのまま最初の位置へと大きく退いた。


「ん~。残念。でもあのまま終わっちゃうのもちょっと食べ応えが無いわよねぇ」


 そう言いながらも口調からその類の感情は感じられなかった。

 そんな女性の直ぐ目の前の地面には深い傷跡が境界線を引くように残されていた。


「風か」


 するとユーシスはその傷跡から女性へ視線を移し、そう呟いた。


「もう気付いちゃったのね。見えないのに流石はウェアウルフ」

「微かに風の音がした。最後の一発で分かったんだがな。威力に応じて強くなるのか?」

「風に紛れるワタシの刃。伊達に立派なお耳が付いてないって訳ね」

「仕組みは分かった。もうこれで問題ない」


 そして今度はユーシスが先手を取り動き出した。間合いを詰め始めるユーシスと手を振りその動きを止めようとする女性。だが音へ意識を集中させ的確にタイミングを計りユーシスは、漏れなく全てを躱し眼前へと迫った。

 ユーシスが真っ先に止めたのは、視界両端で動き出す左右の手。順に止め、刃を先んじて防いだ。


「これでもう何も出来ないだろ」

「あら。あなたって結構男前なのね。こんなに近づかれたらドキドキしちゃうかも」


 だが女性はユーシスの思惑とは裏腹に依然と悠々とした態度だった。


「それにそのお耳もワンちゃんみたいでカワイイ。ウェアウルフって思ってたよりも愛らしいのね。気に入っちゃったわ」


 内側にあった勝利を揺るがすには十分過ぎる振る舞いにユーシスは眉を顰めた。


「――余計に食べたくて堪らなくなっちゃうじゃない」


 真剣味を帯びるように少し低くなった声。言葉の後、女性は不敵な笑みを浮かべた。

 それと同時にユーシスの肩から上空へ血の噴水が上がった。あまりにも不意の出来事に感覚の全てを一瞬遅れで受け取り認識する脳。今までのどれよりも深いが致命的ではない程度に肩を抉る風の刃。

 ユーシスは戸惑いながらも態勢を立て直す為、女性の手首から手を離し振出しへ戻るように退いた。


「ん~。っあぁぁ」


 一方で頬に手を当て恍惚とした表情を浮かべる女性。その顔には返り血が僅かに掛かっている事もあり色気よりも狂気が勝る表情と成っていた。


「やっぱり人間よりも気持ちぃ切り心地。もしその体を一気に切ったら……。ワタシ我慢出来そうにないわ。想像するだけで――っあぁ。だけど、もっといっぱーい気持ち良くなりたいから、ね」


 一人盛り上がる女性を他所にユーシスは只管に思考を巡らせていた。


「(アイツは手で操ってるんじゃないか?)」


 これまでの攻撃を思い出してみてもその全てで女性は手を動かし、それに合わせ刃はユーシスへと襲い掛かっていた。

 だが先程は違った。両手を押さえ付けていたのにも関わらず刃はユーシスの肩を切り裂いたのだ。


「こんなに気持ち良くさせて貰ったものね。お礼として教えてあげる。って言っても単純な事よ。ただ単に手を使った方が上手く操れるってだけ。ちゃーんと気持ちぃ所を切れるのよ」

「あの距離なら適当だろーが関係ねーってことか」

「そう言う事。ちゃーんと分かってお利口さんね」


 女性は素振りだけでユーシスを撫でて見せた。


「それじゃあ続き――」


 そう言って再び戦闘が始まるかと思われたが、女性の顔は突然他所を見遣る。

 そしてあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。


「これからがお楽しみだったのに……」


 愚痴を零すように呟くと視線をユーシスへ。


「残念だけど邪魔が入っちゃったわね。また会いましょ。ワタシのかわい子ちゃん」


 一方的にそう告げると女性は屋上から飛び降りた。唐突な行動にユーシスはその後を追い路地を見下ろすがそこにもう女性の姿は無い。

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