第9話 滅びゆく原風景をいつくしんで暮らすということ

 朝食を食べてすぐの七時ごろ、椿は妻の祖母である花代はなよと茶屋の開店準備をしていた。


 妻の実家である池谷家はお茶農家だ。同時に自家製のお茶の販売も手がけていて、自宅から徒歩数分の製茶工場に店舗を付設していた。


 門構えは立派な木組みに屋根瓦、軒先には池谷本家の屋号。

 レジ前にはパック詰めの茶葉や贈答用の缶、壁には量り売り用の一斗缶がずらりと並び、色とりどりの茶器は美しくも可愛らしく、奥には湯を沸かすことのできる畳のスペースがある。

 創業した明治時代から百年以上継承されてきた伝統と格式ある茶屋だ。


 椿はこの家の歴史に連なることができたことを光栄に思っていた。

 実家を出た時には九条家の千年の歴史を捨ててきてしまったことによる深い悲しみや悔しさに苛まれたものだったが、人間の住むところには長短あれど必ず歴史がある。この家にも、学び、つなぎ、遺していくことのできる歴史がある。


 ふと振り向くと、そこには一面の水田が広がっていた。遠くには最近造成された新興住宅地が見えるので見渡す限りとまではいかないが、湧水が豊富なこの地区では田んぼに水を張るのはそう難しいことではない。

 沼津は山と海が近い。けれどその間には平らな土地があって、水田を作ることもできたし、人間が住むこともできる。

 京都にも水が湧いていたが、沼津の水は規模が違う。勇壮で、雄大で、夏に荒れ狂い、秋に大きな実りをもたらす。


 皐月さつきの田には植えられたばかりの若い稲が並んでいた。透明度の高い水が太陽の光を浴びて輝いている。水面に雲が映り込み、地平線を境に空と鏡写しになっているように見えた。


 田んぼに鳥がいる。大きな白い鳥だった。細く長い脚で稲と稲の間を歩き、時々田んぼの水の中にくちばしを突っ込んでいる。優美で優雅な姿であった。


 椿は興奮して花代に尋ねた。


「おばあちゃん、あの鳥さん何ですか? あの、白くて大きい鳥さん」


 新茶と書かれたのぼりを出していた花代が手を止め、振り返る。


「初めて見たの?」

「見たことなかったです」

さぎさね。白鷺」

「あれが、鷺」


 こんな身近に飛来するとは思っていなかった。どこか遠くにいる歌の中でしか出会えない鳥だと思っていたのだ。伝説に触れた気がした。


 鷺を見つめ、田んぼを見つめ、すでに朝日とは呼べないほど高く昇った太陽を見つめる。


「この時季にはよく来るよ。のっそりしてるように見えるけど結構敏感で近づくとすぐ逃げるから捕まえることはできないね」

「そんなことしいひんです」


 鷺が悠々と歩いている。


 千年都市に生まれ育った椿の心にもなぜか懐かしさが込み上げてくる。


 これが、日本の原風景。


うをむ 稲波の海の 白鳥しらどりや 皐月の朝は 晴れ渡りけり」


 歌は競い合わせるものではない。けしてひとに聞かせて評価を受けるためのものではなく、こういう時に口をついて出てくるものなのだ。それを、椿は初めて知った。


「気に入ったかね」


 花代が自身の腰に手を当てる。


「この景色を眺めていられるのもたぶん今のうちだよ」

「鷺ってそんな短い期間しかいはらへんのですか」

「いや、そういう意味じゃなくてさ」


 嫁いできてからざっと五十年以上この土地に生きてきた彼女は、すっかり落ち着いた、悟り切った目をしていた。


「この田んぼを管理してるじいさんもいい年だからね。いつまで田んぼを続けられるかわからない」


 椿は押し黙った。

 農家はどこも後継者不足に喘いでいる。目の前の田んぼにも相続人がいるとは限らない。


 自分はあくまでよそからやってきた人間として日本の原風景を消費している立場だ。


 本当は他人事ではない。お茶農家もそうだ。我が家は幸いにも椿の妻である向日葵と椿が相続するのでまだ荒れ果てるということはないだろうが、同業者たちは次々と廃業している。天候に左右され、肥料の価格に左右され、市場の嗜好の変化に左右されるこの職種は、楽しいことばかりではない。


 それでも向日葵が相続にこだわっている理由のひとつに、沼津の美しい茶畑を後世に残したい、というものがあると聞いた。


 滅びゆく、日本人の心の風景。


 守っていくには、いったいどうしたらいいのか。


「ほら、もう店に上がるよ」

「はい」

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太平洋は今日も晴れ SSまとめ(2021年10月~2022年6月) 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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