第36話


 平田さんと吉祥寺のバーで落ち合ったのは、それから三日後の事だった。

 私はそこで平田さんから投げかけられるであろう、幾つかの質問の返答パターンを何度も何度もイメージしてからそこに向かった。

 幸い、私の方が先に着いた様で、私はカウンターに座るとダイキリを注文した。生のレモンではなく、添加物たっぷりのカクテルレモンを使っており、それは酷く不味かった。私は味わう事なく一気に飲み干すと、カウンターまわりに寄せられているアルコールの種類を確認したが、それらはどれも私の好みではなかった。ギルビー・ウォッカの青ラベル、赤ラベルのジン、ボルスをラインで一通り揃え、チンザノ、イエガー、どの街にでもある、安価で性欲の匂いがする種類のバーのラインナップだった。私は諦めてチンザノのハーフ・アンド・ハーフをロックで注文する。学生以来に飲んだそれは、酷く甘ったるく、一体なんでこんなものを当時の自分は飲んでいたのか見当もつかなかった。

 どうにかそれを半分程飲み終える頃、平田さんはやってきて「遅れてごめんね」と言った。「お店はすぐわかった?」と言うので「大丈夫でした」と答える。

「何呑んでるの?」と訊くので、チンザノのハーフ・アンド・ハーフだと答えると「同じもので」と店員に言った。

「伊藤がさ、凄い勢いでお礼を言ってきて」

「ああ……」私はそれを想像すると、つい愛想のない声が出たが、平田さんはそれを気にせず続けた。

「俺からも、有難う。パチさんのお陰で皆、随分助かったみたいだよ」

「いえ、そんな。まずお礼を言うのは私の方なのに、あれから陸にお礼も言えなくて、すみません。伊藤さんに巧く話しを付けてくれて、有難う御座いました」そう言うと、平田さんの前にコースターが置かれ、その上にデュラレックスのピカルディが乗った。

 私たちは軽くグラスを当て、乾杯と言うと田口の話や、伊藤さんの話、住んでいる街の話、吉祥寺では良く呑むのか等、当たり障りのない会話を繰り返した。「店、変えようか?」と、平田さんが言い、平田さんの行きつけだという、こじんまりとしたワインバーへ移動した。「カウンターで良い?」と店員が訊くと「今日はちょっと仕事の話だからテーブルの方がいいかな」と答え、私達はテーブル席に座った。「お腹空いてる?」と訊かれたので「さほど」と答えると、平田さんはピクルスとチーズの盛り合わせ、フルボディの赤ワインをボトルで注文した。

「前もこれだったから、勝手に頼んじゃったけど平気?」

「大丈夫ですよ、好きです、フルボディ」

「良かった」

 そう言うと、平田さんは注文したもの全てがテーブルに並ぶまで、一言も喋らなかった。

「ところでさ、佐々木とは連絡取ってる?」

「……、いえ、ここ半月はとってないですね」

「そしたら、ちょっとパチさんから連絡して貰ってもいい? 三人で呑もうよみたいな感じで」

「私より平田さんの方が親しいんですから、平田さんから誘ったらどうですか?」

「それもそうか」

 そう言うと平田さんは佐々木さんに電話を掛けた。現在この電話番号は使われておりません。というアナウンスが微かに聞こえたが「駄目だ、留守電になっちゃった」と、嘘を吐いた。

 私達はボトルを空にすると「今日はもう帰ろうか」と、平田さんは言った。私は店を出ると、平田さんに「これ、田口さんの件のお礼です」と言って、ワインの入った袋を渡した。フルボディの、適当な値段の適当なワインだ。

「こんなことしてくれなくていいのに」といった後で「ありがとう、おいしくいただくね」と言った。井の頭通まで出るとタクシーを止め、私が乗り込むと平田さんも乗り込んできて「送るよ」と言った「平気ですよ」と言うと「心配だから」と言い、そっと私の手に平田さんの手が重なった。私はそれを交わすように手の位置を変え、タクシーの運転手に「私は降ります」と言った。平田さんを跨ぐようにしてタクシーを降りると、遅れて平田さんが追いかけてきて「ごめん、そういうつもりじゃなくて」というので「じゃあどう言うつもりだったんですか?」と訊いた。

「いや、違わないな。ごめん、もう少し一緒に居たくて」

「はあ」

「立ち話もあれだから、どこか……」

「どこも行かないですよ、ここで充分です」

「パチさん酔ってる? 心配だよ、やっぱり送るよ」

「私は酔ってないし、気も確かですし、いい大人なので一人で帰れます」

「どうしちゃったの? 突然」

「あいにく……、私は色々間に合ってるんです、そういうの」

「そういうの? もしかして僕がパチさんをどうこうしようと思ってる?」

「違ったなら謝ります、すみません」

「うーん……、弱ったな」

 そう言うと平田さんは私を抱き締めてキスをした。私はそれを突き飛ばすと唾を吐き、唇をコートの裾で拭った。

「佐々木さんなら死にましたよ、あなたの所為で自殺したんです。言ってる意味わかりますか?」そう言うと私は踵を返し、タクシーを拾って乗り込むとすぐにドアを閉めた「自動だから触らないでよ」と文句を言われたが、謝る事が出来なかった。

 どうしてあんなくだらない男と。そう思ったが、それは佐々木さんも知っていた事だった。


 家についても携帯は定期的に鳴った。今の私に電話を掛けるのは平田さん以外居なかったので、そのまま電源を切った。私は、佐々木さんの約束ひとつ守れなかった事にすべての気を取られ、電気をつけることも、歯を磨くことも、着替えることも、何もできないまま、そのまま床にへたり込んでいた。


 酷い罪悪感といわれのない不安に面を食らい、布団の中で丸くなって泣いていると、そのまま眠りに落ちた。夢の中で私は何度も何度も佐々木さんに謝ったが、目が覚める頃合いが来ても、彼女はついに許してくれなかった。


それ以降、私は佐々木さんとは二度と、夢の中でさえ会える事はなかった。

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