第35話

 コーヒーを淹れ、二人に出すと、積る話もあるだろう。と、私は物置から適当な短編小説と椅子を引っ張り出し、流しの前にそれを置くとコーヒーを啜りながら本を読んだ。

 タイトルを良く見ず持ってきたそれは星新一で、私はボッコちゃんだけを繰り返し読んだ。

 ボッコちゃんの読み直しが十二回目に差し掛かる頃、田口がドアを開け「君もこっちおいでよ、伊藤がお礼を言いたいって」と言った。


 私がリビングに戻ると、伊藤さんは顔をパンパンに腫らし、額が床に付きそうな程、何度も頭を下げると私にお礼を言った。私はそんなにお礼を言われるような事は何もしていないと言い、頭を上げる様にお願いしたが、伊藤さんは扇風機の風を受けた赤べこのようにそれを止めないので、見かねた田口が伊藤さんの肩を押し上げ「ストップ、やり過ぎ」と言って笑った。

 私は二人をマンションの階段下まで送ると言い、別れを言い合うと、二人が見えなくなるまでそこに立って見送った。部屋に戻り、コーヒーカップを片付けると、部屋が嫌に広く感じた。そしてそこで初めて、私はもう一か月以上自分の家に戻っていない事を思い出し、ストーブを消し、戸締りをするとマンションを出た。


 家に入ると、部屋の中は酷い埃と、何が原因かは分からないが、かび臭い匂いがした。私は部屋の窓を開けると、掃除機を掛け、雑巾で一通りを拭いた。

食べ残していたレーズンパンが見事なカビを携えていたので、ビニル袋で何重にも包み、ゴミ箱へ投げ捨てる。

 私は誰かに今日までの事を話したいと思ったが、気軽に電話を出来るような人はひとりもいなかった。佐々木さんが生きていてくれたらどんなに良かっただろう。そう思った。久々に感じたあの親しみが、私の心に、またひとつ大きな穴を空けてくれた様な気がした

 私の部屋にある、様々なものが沈黙を決め込んでいたので、私は静寂に耐えられず、テレビのリモコンに手を伸ばした。画面の中では、知らない男女が喧嘩をしていた「だから言ったじゃない、全部あなたの所為よ!」

 私も全部誰かの所為にしてしまいたかった。佐々木さんが死んでしまった事も、初恋の人が死んでしまった事も、自分が絵描きになってしまった事も、こういう時に話が出来る友達が一人もいない事も、全部誰かの所為にしてしまいたかった。でも誰かの所為にしたところで何も解決しない事を知っていた。そして私はそろそろ気付くべきだった。だからと言って、自分の所為にし続けたところでも、解決しない事の方が多い事にも。


 テレビをつけたまま寝てしまったのか、起きるとアンパンマンが流れていた。

 高校生の頃、私はこのアニメがあまり好きではなかった。村だか町の象徴ともいえるアンパンマンがバイキンマンをやっつけて解決を迎える度、私の無い胸は痛んだ。バイキンマンは唯一の仲間ともいえるドキンちゃんの要望を叶える為、そこへ下り、だけど不器用な彼は「それを譲ってほしい」という言葉が言えずに実力行使に出る。それに対して「何かが必要な時は、そう伝えればいいんだよ」なんて諭すこともせず、ただただ暴力で解決する。住人たちは彼を悪者扱いし、仕舞にはバイキンマンが何をするともなく村だか町に姿を見せただけで、彼らは「バイキンマンが出た! やっつけろ!」と声たかだかに叫ぶのだ。そんなものを物心つく頃から刷り込まれていると思うと私はぞっとした。本当に不器用な人は、自分の事を不器用だと皆に言い訳する術すら、その発想すら持たないのだ。そういう事は、誰も教えてくれなかった。自分が自分で気づくまで、誰一人として教えてはくれなかった。そして、そうやって社会からはみ出してしまう私たちが、どう生きればいいのかも、誰も教えてくれなかった。

 私は道徳の授業の教材に、佐々木さんの残した語録集を加えるべきだと思った。まだ読んでもいない、手元にも届いてないそれは、きっと私や彼女の様な、世の中を斜に構えないとならない様な子供たちに、何かを間違えば役に立つ気がした。


 私がそんな風にして、佐々木さんの事ばかり考えていると、どこかに回線が繋がってしまったのか、見知らぬ番号から電話が来た。

平田さんだった。

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