第16話

 そこから数日は、奇妙なものだった。

 まず先一昨日、先一昨日の田口は、田口を拾った日から二日目の田口そのもので、置物の様に、ただそこに居た。かと思えば何かの封を切ったように突如無邪気に話し出し、そのままそうしていないと死んでしまう呪いにでも掛かった様に意味の分からない事ばかりを口走ったのが一昨日。昨日の田口は至って普通で、まるで高校のクラスに二人はいるような好青年そのものだった。さて、今日の田口はどんなものだろう。と思っていると、伊藤さんから「電話をしたいので、都合のいい時間帯を連絡して欲しい」とメッセージが届いた。

 私は溜まっていた殆どの仕事がどうにか終わったものの、平均睡眠3時間という生活の中で、田口の多重人格のような振れ幅に勝手に振り回され、傍から見たら私と田口のどちらが病人か分からない程に草臥れていた。

私は田口を起こそうとベッドに近づき、《今日のびっくり箱は……、こちらの田口君です!》と、心の中でドラムロールをしながらそう叫ぶと「ご飯できたよ」と、声を掛けた。

 自分で思うよりずっと、私は疲れているようだ。


 田口は薄く目を開けると「おはよう」と言ったので、私は今日のこの瞬間の田口くんが、今日の終わりまで、この田口くんでいてくれる事を願った。

 フライパンでじっくり焼いた紅鮭と、胡瓜と蕪の糠漬けにおかかを乗せ、

濃い目にとった煮干し出汁に豆腐と滑子を入れ、まるやの三葉葵赤だしを溶いた味噌汁に三つ葉の茎を散らしたものをテーブルに置くと、私はご飯を炊き忘れた事に気づいた。

 そう、私はとても疲れているのだ。

「コンビニでおにぎりか何か買ってくる」そう言いながらコートを羽織ろうとすると

「いや、充分だよ。ありがとう」と、田口はテーブルの前の床に座った。

「あ、この味噌汁おいしい。あ、頂きますって言うの忘れちゃったな」そう言った田口を見て、私はこの彼だけを切り取って伊藤さんを会わせたいと、こころから思った。

 鮭の油が少しきついというので、代わりに濃い目に取った出汁に、薄く塩味をつけた玉子焼きをつくると、田口はそれを三切ほど食べた。「今日は吐かないでいられそうな気がする」というので、私は今すぐ駆け出したい衝動にかられた。

 伊藤さんに連絡することを思い出し、田口に「今日は何か食べたいもの、ある?」そう訊くと、「買い出しに一緒に行きたい」と言うので、私は喜びのあまり即答で「そうしよう」と答えてしまったが、その結果、伊藤さんと電話するタイミングを悉く失う羽目になった。念のため田口に紺色のワークキャップを被せ、家を出てすぐ、田口は歩けなくなってしまったのだ。膝が笑い、息が切れ、肩で息をしている。それでも、「やばいね」と笑って見せたが、思っていたよりずっと力を失っていたその身体を引き摺り、数メートル歩くごとに休憩をとり、切れる息を整えなければならない事に、田口自身もショックを受けているようだった。

 コインパーキングのコンクリート塀に凭れ掛かったまま、ずるずるとしゃがみ込んだ田口に、目の前の自動販売機で買ったヴォルビックを手渡すと「まあ、私もそんなもんだったよ」と声を掛ける。

「まさか」

「いやほんとに。一度さ、自殺みたいな事をしたのよね。昔の話だし、特に誰に言う事でもなかったから……。薬を手あたり次第、四百錠くらい飲んで。まあ友達が見つけて救急車を呼んでくれて助かったから、こうして生きてるんだけど」そう笑うと、少し皮肉さを帯びたような気がして、私は慌てて「退院した後すぐは、今のあなたみたいな感じで、陸に歩けなかったのよ」そう付け足した。

 田口はそれには答えず、息を整えることに集中しているようだった。手持ち無沙汰になった私はコートのポケットに手を突っ込み、そこに入っていたラッキーストライクを取り出すと火を付けた。

「煙草、吸うんだね」

「止めてたんだけどね、この間苦手な種類の打ち合わせがあって、つい買っちゃったのよね」

「俺も一本貰っていい?」

「大丈夫? 久々に吸うと結構くるよ」

「へいき」

 私は煙草を一本取ってライターと一緒に渡してやると、田口は旨そうに煙を吸い込み目を閉じた。

「大丈夫?」

「少しクラっとしたけど、大丈夫」そう答えると、田口はまだ充分に長い煙草を地面に擦り着け、「もう少しだけ、こうしてていい?」と訊くので、私は「構わないよ」と答え、田口の消した煙草を携帯灰皿にしまった。

 コインパーキングには遮るものが何もなく、日差しを目一杯浴びているお陰で、真冬とは思えない程温かく、目を閉じると瞼が赤く透けて見えた。

「どうする? 今日はやめとく?」そう声を掛けると

「いや、大丈夫、動けそう」と言うので、私はこの時間に一番空いていて、一番近い、けれど値段も高く、品ぞろえも悪いスーパーマーケットへ向かう事にしたが、よろけて転びそうになった田口の腕を掴むようにしてゆっくりと歩き、五度の休憩を挟みながら、どうにかマンションに戻る頃には午後二時を回っていた。

 マンションに戻ると部屋の換気のために窓を開け、お風呂掃除を終えると、お湯を溜め、田口に先に入るように伝えた。田口がバスルームのドアを閉めるのを見届けると、玄関を出て、階段の下――田口が倒れていた場所――で、伊藤さんに電話を掛けた。

 伊藤さんには一日に三度ほど田口の様子をメッセージで伝えていたが、電話をするのは久し振りだったので、私は既に説明していた内容をもう少し詳しく伝えると、そちらは何か進展はあったかと訊いた。

 スタッフのひとりが、田舎に使っていない家があり、そこを使ってはどうかという話が出たが、場所は北海道で、それに付き添える人が誰もいないという事が一番の問題だったこと。田口の不在により、他のメンバーは他のミュージシャンのサポート等の仕事を請け負っているようで、協力したい気持ちはあるものの、各々の時間が上手くかみ合わず、現時点で彼らを宛てにするのは難しいという事。

「ただ、ベースとギターのサポートが十二月の末で一旦落ち着くので、コンシェルジュ付きのマンションに田口を入れて、二人が交互に田口の様子を見に行くという方向で話が進んでいるのですが……」伊藤さんがそう申し訳なさそうに言うので

「あと一か月半くらいですね」そう言った後で、私はこの数日間の奇妙な田口を一通り並べると得も言われぬ不安な気持ちになったが、それを昨日と今日の田口で押し消し「であれば、引き続き私の方で預かっても構いませんよ」と答えるしかなかった。

 伊藤さんに何度もお詫びとお礼を繰り返され、終話を見失いかけた私は「結局田口さんからは何も聞き出せず仕舞いですみません」と謝り、二言三言会話を交わすと電話を切った。


 部屋に戻ると、田口はまだバスルームにいる様だった。

私はソファに寝転ぶと軽く目を閉じる。私の頭は、もうなにも考えられない程に疲れていた。


 手に握っていた携帯電話の落ちる音で目を覚ますと、辺りはもうすでに真っ暗だった。私は慌てて飛び起きると、田口が「おきた?」と、私の方を見ずに声を掛けた。

田口はソファの前の床に腰を下ろし、私に背を向けるようなかたちでソファに凭れ掛かっていた。

「ごめん、とても寝てたみたい」

「大丈夫、俺もさっきまで転寝してたから」

「今何時?」

「俺も今起きたから、どうだろう」

 私は身体を捩り、携帯を拾う。時間を確認すると、午後七時過ぎだった。

「今日はあの後……、二人で夕ご飯を食べて、午後九時に寝て、お互いの昼夜逆転を正すつもりだったのに」と私が呆然として言うと、田口はおかしそうに声を立てて笑ったので、私は未だ夢でもみているのかと思った。

 そして、自分の身体に、ブランケットが掛けられていることに気づき、「掛けてくれたの?」と訊くと、頷くように目の前の影が揺れた。私は寝起きのかすれた声で「ありがとう」と言い、電気をつけようと立ち上がろうとして、田口の脚の上に頭から転がり込んだ。

 私は謝りながら、慌てて起き上がろうとすると、おでこに温かい手が触れ、押さえつけられるようにして頭が男の太ももに僅かに沈んだ。「もう少し休んでなよ」と言うので、私はそこから目だけを上げたが、ストーブの火が田口と思われる男の輪郭を柔らかく照らすだけで、表情までは読み取れなかった。田口の手は、本物の人間の手の様に温かく、私はそのまま瞼を閉じると、またゆっくりと眠りに落ちた。

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