第17話


 次に目が覚めると、私は変わらず田口の太ももに頭を乗せたまま、田口が掛けてくれたであろうブランケットにくるまっていたが、部屋はさっきよりも、随分冷え込んでいた。

 私はストーブの芯を焼き切ってしまったかと思い、急いで身体を持ち上げたが、相変わらず薄暗がりに青い火が微かに揺れていたのでほっとする。このストーブをくれた、かつて友人だった女の子が、アラジンのストーブは石油を切らしたまま空焼きをすると、もの凄い《すす》で部屋がまみれてしまう場合があるので、石油を切らさないように気を付けて使う様にと言っていたのだ。

 今夜が一等冷えるだけか。そう思いながら、石油の残量を確認し、両手にミトンを嵌めてストーブの上のたらいを流しへ運び終えたところで、田口も目を覚ましたのか「さむい」と言った。私は「そこだと風邪をひくから、ベッドで寝なよ」と声を掛け、ストーブの火を吹き消す。「あなたはどこで寝るの?」というので、ソファを顎で指しながら「あっちで寝るよ」と答える。

 立ち上がろうとした田口が、足が痺れているというので、私は人より少しだけ脳味噌が多く詰まっているのだと笑いながら詫びを言った。

 田口をベッドへ移動させた後、私はマルカのメッキ鋼板で出来た湯たんぽに、たらいの中身を注ごうとしたが上手く行かず、お湯は湯気を立てながら殆ど流しに吸い込まれる。ステンレスが反返り、ぼこん。と、大きな音を立てた。

 まあ、こんなものか。と、どうにか八分目までお湯を入れると、蓋をしっかり閉め、メッキ合板に残っていた水気をタオルで拭き取り毛糸で編みこまれたケースに入れる。

「今日は石油を入れ忘れたから、このままストーブ点けないけど、エアコンやヒーターもあるから、寒かったら言ってね」そう言ってベッドの足元に湯たんぽを忍ばせると、田口は返事の代わりに「別に変な事しないから、こっちで寝なよ」と言う。

 今までそう言った男たちの内、八割がそう言っていながらセックスへと事を運んだが、それは若い頃の統計であり、そもそも田口は残り二割の部類に感じられた。

ここで変に間を置いたり、過剰に反応する私の方がどうかしている様に思えたので「そうする」と言って、私はそのまま田口の横に滑り込む。

 シーツと枕、布団カバーはひんやりと冷たく、田口は私に背を向けていたので、私もそのまま背中同士を向き合わせるようにして横を向いた。もうすでに充分な睡眠を取っていたせいで、まったくと言っていい程、私は睡魔の「す」の字も捕まえられそうになかった。それでも私は目を閉じ、狩人になったつもりで、それが姿を現すのを物陰から窺った。

 田口も眠っている気配はなく、右耳で時計の秒針を追っていると、田口が唾を飲み込む音が嫌に大きく響いた。

「今日さ」

「ん?」

「昔、自殺みたいなことをしたっていってたけど、なんで?」

「なんでって」

「理由? というか、きっかけ、というか」

「そうだね、特別これという理由なんてなかったよ」

「良くわからないな」

「十九歳の時だよ。

 たかが十九年生きた時点でも、色んなことがあったんだよね。大した事じゃないよ、良くある不幸みたいなやつがいっぱいあったのかなとは思う。それを受け入れよう、受け入れようとしていうるうちに、ちょっとずつ精神が可笑しくなって……、いたんだろうね。

 それに気づいた誰かが、精神科に行きなよって言ったんだけど、当時って、そういう事が恥ずかしいというか、自分は病気じゃない。という気持ちが強くてね。なかなか行けずに居たのだけど、そう言ってもいられなくなるというか。

日に日に眠れなくなって、食べても吐くようになって、どんどん身体が重くなっていくの。そうしている内に、バイトや学校に支障が出始めて、信用なんかも失い始めるじゃない?

 そうなってくると、睡眠薬程度を貰って、せめて眠れるようにしなくちゃ。そう思う様になる。で、良い病院だとか悪い病院だとか、こっちは初心者でそんな事まるで知らないから、家から一番近い病院に行くのね。移動する気力もない、予約の電話だって辛い、そういう思いをして予約を取っても一ヵ月くらい待たされるのよ。予約がいっぱいだとか言って。でも、病院に行けば良くなるっていう頭があるから、今までより少し気が楽になるのよね。でも、いざ病院に行くと、雑な診察を受けて“あなたは重度のうつ病なので治りません”なんて言われたりして、良く分からない薬をたくさん出されるの。

 それを飲み始めた途端、幻聴や幻覚がはじまって、家のドアを開けられなくなって、誰かに会いたいのに誰にも会いたくなくて……、

 家を出る時にね、とても無理をして、人間の振りをするの。でも無理なものは無理だから、上手く笑えなかったり、喋れなかったり、いつも何も考えずに出来ていたはずの事が、どんどん出来なくなり始めるのよ。普通の人が普通に出来ることが出来なくなる。っていうのかな。そしてどんどん自己嫌悪に陥るの。

 音楽も聴けなくなったな、言葉がね、意味を含んでいる言葉が聴けなくて。あと絵も描けなくなったかな。手が震えちゃってね、何もまともに描けないのよ。美大生なのに、そんなことってある?

 普通の事はおろか、好きだったことも、起き上がることもできなくて、意味もなく泣き出したかと思えば、息の仕方まで忘れそうになって。そんなこと誰に相談するのもお門違いだから、結局それを医者に言うんだけど“もっと強い薬を出しますね”しか言わないのよ。で、その頃にはね、現実がとにかく地獄で……、それに加えて、いつもの大したこともない不幸も止まらず重なる上に、生活はぐちゃぐちゃ。でも、眠るともっと地獄なの。やっと眠れたと思っても酷い夢を見て飛び起きる。夢の種類は大体が現実か区別がつかないような夢で、それは現実で起こりうることの最悪のパターンを繰り返すの。

 気づけば一日のうち半分以上の記憶が飛んでたり、見覚えのない日記が部屋に転がってたりして。日記といっても、もう普通のものじゃないのよ、殴り書きで、震えた線で『息ができない』とか『苦しい』とか『ゆるして』とか『ごめんなさい』みたいなね。

 そういうのが続いて一年位経った頃かしら。目に映る景色から本当に文字通り色がなくなって、何を食べても砂の味がして。嬉しいとか、悲しいとか、もう涙すら出なくなるの。不思議よね。感情がどこにも見当たらなくなって、なんかもう生きてないのよね。

 そんな時にね、ある朝目が覚めると、天気が良くて、久しぶりに『嬉しい』って思ったの。四月の終わり頃だったかな。前の日まで寒かったのに、それが嘘みたいに温かくて。

 丁度部屋の窓を開けたら、風が気持ちよくて、ああ、私、今、幸せだな。って」

 あの時の事を思い出しながら、私がぺらぺら喋るのを田口は黙って聞き、突然言葉が途切れると「それで?」と、言った。

「もうどこを探しても見当たらなかった感情が戻ってきたのよ? ああ、もうこんな日は二度と来ないかもしれないって思ったら、『あ、私、今日死にたい!』って思ったのよね。そしたら、思い立ったが吉日って言うじゃない?

コンビニエンスストアでビールと唐辛子のついた煎餅を買ってね。そこから先はさっき言った通りよ。四百錠くらいの薬……、睡眠薬、精神安定剤、下剤、下痢止め、風邪薬、頭痛薬、生理痛を和らげる薬に抗うつ剤、片っ端から家にあるだけの薬を端からビールで飲んでいったの。で、もうこっちは意識なんてないから、そこから何があったかなんて知らないの。気付いたら病院のベッドの上よ。でもそこが病院なんて知らないから、ふっと目に入ったトラバーチン模様を見て、一瞬天国かしらなんて思うんだけど、手足は縛られてるし、点滴だの、心電図の配線だので、すぐに自分が病院にいることに気付くの。あ、失敗した。そうわかった瞬間、もの凄い絶望感よ。私はチャンスは逃してしまった、こんなチャンス二度とやってこないのに……! ってね。で、こっちがしんみりしてる横で、オムツを替えるから腰を上げてだの、胃洗浄したばかりだから云々言われるんだけど、もうね、身体が動かないの。腰を上げることもできないのよ。こっちは『やっと逃げられた、やっと終われた!』って思ってたのに、堪ったもんじゃないわよね。でもね、何より堪らなかったのは、そこから顔を合せる人たちの顔よ。見たこともない哀れみを込めた目で私を見るの。

 私は“自分はうつ病じゃない”と最後まで信じていたし、そういう目で見られたくなかったから、殆ど誰にもそんなこと言ってなかったんだけど、一人に知れたら、噂って一気に一瞬で広まるのよね。“あいつが自殺未遂をしたらしい”って。そしたらね、一瞬にしてメンヘラ呼ばわりよ。携帯電話には酔っぱらった友達が『お前、何勝手に死のうとしてるんだよ!!』みたいな留守電を残したりしてくるの。今まで何も気づかなかった程度の付き合いしかなかった奴が、酒の力借りて浸ってんじゃねえよって呆れる力も残ってないのよ。

 と言うわけで、まあ取り合えず……、そんなことしても、現実は何も変わるどころか、余計悪化しただけだったわね」私がため息交じりにそういうと、この長い独り言のような滑稽な説明から田口が拾ったのは「なんで最後に食べた物が唐辛子のついた煎餅なの?」その部分だったので、私はそれがとても気に入ったが、「そこ?」と驚いた振りをした。

「ああ、でも、姉にも似たような事を言われたわ。最後の晩餐なのに何でそんなもの食べたのよ!」って

「お姉さんいるの?」

「正確には、いた。ね」

「それは……、」

「死んだのよ、私が自殺に失敗して、私の最後の晩餐を馬鹿にした一か月後にね」

「そりゃまたどうして?」

「そんなの知らないわよ」

「知りたくなかったの?」

「万が一知りたかったとしても、もう本人が死んでいるなら憶測を超えることはないし」

「し?」

「私が逆の立場なら詮索なんてされたくないから、私もしないであげたいと思ったのよ」

 私が姉の最期に関して知っている事は、姉は勤めていた会社を無断欠勤すると、銀行ですべての貯金を下ろそうとしたが、制限が掛かっていた為に出来ず、三十万円程を下ろすと、自家用車で江の島まで行った。銀行の監視カメラがそれを捉えており、それは姉の生きている最期の姿を映したものだった。その後、下ろしたお金のうち六千五百円だけを使い、人気のない真夜中の駐車場で睡眠薬を飲んだ。練炭自殺だった。

「死ぬときって、残されるであろう誰一人の事も思い浮かばない程、自己中心的になるの。というより、もう誰一人として自分の中に存在していないのよね。もう、そういう所までいっちゃってるのよ。だから、残された方の気持ちを云々ってあるじゃない。あれを聞くと、なんて噛み合わない会話なんだろうって思う」

「当てつけで死ぬ場合とかはどうなの?」

「それは自殺じゃなくて、事故よ」

「事故?」

「最初に言っておくけど、これは持論で、皆がみんなそうだという訳ではないわよ。

 なんていうか……、当てつけたいっていう時点で、その人たちは死にたい訳じゃないのよ。私が当てつけで死を選ぶなら、当てつけられた相手がどういう反応をするか見てみたいもの。だから大半は、死ぬ『振り』なのよ。で、『振り』に失敗して本当に死んじゃう。事故みたいなものよね。そもそも、当てつけたい気力がある時点で、そういう人って死ぬことに向いてないのよ。それに……、その相手って自分に興味がないのよ。じゃなきゃ当てつけに死を選ぶ? でも、そういう相手に自殺して見せたって『へえ、死んだんだ?』どころか、死んだことすら気づいてくれない事の方が多いわよ。だから、例えばその当てつけたい対象が自分に心底興味もそっけもない親だったとして、死んだことには気づくかもしれないけど、はあそうですか。って、痛くも痒くもないわけでしょ? だったら自殺よりも殺人を犯した方がずっと効果があるわよね。家族や親族を傷付けたいなら無差別殺人? 浮気相手を懲らしめたいならその人の大事な人? でも……」そう言いかけたとき、私はもっと注意深くこの会話をするべきだったと気づく。

 しまった。そう、眉間にしわを寄せ、私はあからさまに田口の方を振り返ることもできず、自分がさっきまで何の話をしていたかも見失ってしまっていると

「でも……?」と、田口が訊く。

「でも……」と、私が言葉に詰まると

「当てつけたい相手が居るなら、自殺よりも殺人を犯した方がずっと効果がある。でも。の、先」と、田口が言った。

「そう、そう。でもね、自分のそういった感情を満たすために、誰かの命を奪うっていう発想が、まず良く分からないわよね。私は誰かの命を奪うくらいなら来世のまた来世まで自分が死んだ方が良いと思うもの。でもまあそれも極端な話よね。不思議なんだけど、そういうのって、怒りが外に向くタイプと内に押し込むタイプがいて、その延長線上にあるものなのかしらね。だとしたらその違いってどこで生まれるのかしら」

 私がそう言い終わると、私はもう他に喋ることもなく、田口も何も言わず、時計の秒針の音だけが時間を刻んでいた。

 しばらくすると、田口は寝返りを打ち、私の方を見ている気配がした。学生の頃から使っている古いベッドは、スプリングが痛み、動くたびに、都度、軋む音を立てる。

「死ぬのに必要なのって、なんだと思う?」

「どうだろうね、私の場合は。でしか答えられないけど……、只の衝動の様なものだったわね。まあ、失敗した訳だけど」

 質問にそう答えると、田口は私の背中に顔を押し付けた。私は閉じていた目を開けると、さっきまで部屋の中を覆っていた闇が、青色に変わり始めていることに驚く。 私はいったいどれくらい喋り続けていたのだろう。

起きるか眠るか悩んだ後、「おはよう?」と、訊くと「もう少しだけ、こうしてて良い?」というので「構わないよ」と答える。

そのまま、幾ばくかの時が過ぎ、部屋の中が白み始めると、田口の「もう少し」が終わったようで、背中に顔を押し付けたまま、口を開き、籠った声で言う。

「またあの味噌汁が飲みたい」

「昨日と同じので良いの?」

 頷いた田口のおでこが、私の背中を滑るように擦った。

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