第15話

 足元のヒーターでは間に合わない程、身体が冷え切ってしまったので、私は作業部屋を出て、バスタブにお湯を張った。本当は暖房なりストーブなりを点けて作業出来たらいいのだが、そうすると私は睡魔に勝てる唯一の術を失う事になりかねなかった。

 時計は午前四時を指しており、田口が何度も寝返りを打つ気配がしたので、まだ寝付けていないのかと声を掛けた。返事は期待していなかったが、反して声は返ってきた。

「いや、時折聞こえる物音が心地よくて……、人が嫌で逃げてきたのに、人の気配に安心するなんて、思わなかった」

 その言葉に私は返事をせず、何か温かい物を飲むかと訊きながらリビングへ入ると、程よい暖かさと程よい湿度が私を迎えてくれた。すると、躾の行き届いた犬が飼い主の姿を見つけたかの様に、眠気が私の足元に駆け寄って来る。

 私はあきらめてバスタブの蛇口を捻るとお湯を止め、田口にまだ起きているか訊いた。当分は寝たくても無理そうだというので、三十分したら起こして欲しいと言い、私は物置から毛布の様に厚手で大判のブランケットを引っ張り出すとソファに横たわった。

「俺がそっちに行くから、ベッドを使いなよ」と遠くの方で声がしたので「そうしたら起きられない」と答えてすぐ、私は深い眠りに落ちた。


 身体を突然揺さぶられ、私が言葉にならない声を絞り出すと「もう少し寝る?」と声がした。その声が田口のものだという事を思い出すのに少し時間が掛かったが、起き上がると睡魔はすっかり私の頭をするりと抜け出し、目元から逃げて行ってしまった様だった。

 起こしてくれた礼を言い、私は台所でチャイを淹れ、マグカップを二つ持ってリビングに戻ると、田口はソファに移動し、パソコンを触っていた。

「何か調べ事?」

「いや、久しぶりに何か音楽が聴きたいと思って……、掛けていい?」

「いいよ、碌な曲は入ってないと思うけど」

 そう言うと、それには答えず、Mitchell AkiyamaのSmall Explosions That Are Yours to Keepを流し始めた。

「電気つける?」とマグカップを渡しながら聞くと「このままで良い」と言い

ストーブの燃える音の上に、ノートパソコンの安いスピーカーの音が重なる。

 チャイを口にした田口が不思議そうな顔をしたので

「ああ、前回は牛乳が入ってたけど、今回は入れてないの」そう答えると、私はブランデーの新しいボトルの封を切り、田口のマグカップに少したらしてやった。

「体が温まれば、少しは眠くなるかもしれないから」そう言うと、私は自分のマグカップを持って、作業部屋へ戻る。

 先ほどまで描いていた絵をぼんやりと眺めていると、薄いドアの隙間から、But Promise Meの低音が聞こえ、その低音が、かつての私を引き連れる。

 何を食べても味などなかった、砂を嚙むように舌の上がじゃりじゃりとしていた。目に映る全ては色がなく、音も声も、他人の存在を感じるもの全てに怯えていた。今思い出してもぞっとするあの感覚は、そうそう忘れられるものではなかった。

少なからず、田口はそういう場所にはまだ至っていない事は幸いなのか。このまま軽度で済むのか、これからどんどん悪化していくのか。そもそも、違う症状が出ることも当たり前で、私とはまた違った何かを抱えて行く可能性だってある。


 全ての下書きを終えた時、時計は午前十時を指していた。「眠ろう」そう独り言を言い、リビングに戻ると、ベッドの中に田口の姿が見えない代わりに、小さな寝息が聞こえた。その音を辿ると、二人掛けのソファの上、綺麗に収まるようにひざを折って眠っている。

 私は深いため息をつき、田口にブランケットを掛けてやると、私はストーブの火を消して、ベッドに潜り込んだ。

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