第12話

 店内には聞こえるか聞こえないかの薄いヴォリュームで適当なジャズが流れ、私が二本目の煙草を灰皿に圧しつけていると、男は顔を上げた。

「すみません、僕も結構食らってて…」

「腐れ縁、ですもんね」

男は、こくり。と頷いてすぐ首を振り、

「それでも初対面の人の前でこんな…」と言い淀む。


「鬱は移るから、しばらくあんたと関わりたくないんだよね」その言葉が不意に蘇った。

 大昔、電話口で誰かに言われた言葉だ。


 大丈夫、これは正常な判断で、行動で、行為であり、動作だ。彼はこの状況に滅入っているだけで、それに対する極めて当り前な症状が出ているだけだ。私は、久しぶりに見た大人の涙に戸惑っただけで、検討違いの記憶を引っ張り出したに過ぎない。

私が私にそう言い聞かせていると

「田口は、死のうとしていたんでしょうか」と、伊藤さんが言った。

 それはあまりに小さな声で、独り言とも思えるような、何より、田口を良く知りもしない私に訊くべき言葉ではなかった。それでも彼の目の前には私しかおらず、それは私に向けた言葉の様だったので、少し悩んだ後、その質問に答えた。

「それこそ最初の頃は、その可能性もあるのかなと思いましたが、そうであれば、病院から私の家に辿り着く前に、それを選べている訳ですし。ただ、少なからずの事情を知ったあとで彼を見た時に、ああ、この人、逃げたかったんだなって。その上、ここではないどこかへ逃げたところで、何も変わらない事も知っている。それでも逃げたいという衝動に駆られたのだろうなと。私の思い込みが先行しているだけかもしれませんが……」

 そう言い終えると再び沈黙が訪れ、しばらく待ってもそれに対しての返事はなかった。もしかしたらあれは本当に独り言だったのかもしれない。そう疑い始める頃、アイスコーヒーの氷が解けて、寒々しい音を立てる。

 そして、それが何かの合図かと言うように、小さく息を吸い、伊藤さんは喋り始めた。

「ここ半年、あいつを病院に押し込んでいたけど、良くなるどころか悪くなる一方でした。最初の内はね、あいつ気遣い屋だから、周りに平気な振りをしてたんですけど、表ではいい顔をする割に、寝付けない、飯は食えない、明らかに見た目があいつじゃなくなってくんですよ。心の病気っていうだけで、体は元気なはずなのに、なんか重篤な病気を患った患者みたいに痩せてった。それでも話し掛けられれば、なんともない振りをする。健康な俺から見れば、それは異様な光景でした。ただ、警察から連絡が入って……、犯人の目星がついたたっていう。それを聞いてから、あいつもうおかしくなっちゃって……、どんどん表情もなくなって、言葉も発さなくなって……」

 そこまで言うと、伊藤さんはまた目頭を押さえた。

「だから、吐いてしまうにしても、少量にせよ、飯を口にするようになった、大した言葉ではなくても、声を発するようになった。それが本当なのであれば、俺個人としては、なんかもうそれだけで充分頑張ったっていうか……仕事の事なんか忘れて、自分の事だけ考えて元気になって欲しいなんて、無責任な事を言えないけど、本当もう、それしかなくて……。

 でも、そういかない事は俺だって田口だって分かってる。今回の事を会社に言えば、じゃあそろそろいけるね。って、そうなると思うんです。『何がそろそろなんだよ!!』って思いますけど。それは田口の具合が良くなった、ならないとかではなく、『ある程度の冷却期間は与えてやっただろ。それにもう回復に向かってるんだろ?』っていう具合のね。本当の話、半年前の時点で、こういうのは早すぎると反感を買うし、遅すぎると意味がないとか言うやつもいて。不幸に対する同情の旬って短いからさ。みたいなことを言うんですよ。普通に田口の前でね。で、こういうのって一発で治る人ってごく稀だと思うんですよ。こういう業界にいれば、そんなの厭って程見てるわけで。無理して田口を引っ張り出して、やっぱり駄目で、そしたらまた田口を病院に押し込めて、で、また田口がぶっ壊れて……、っていうのを繰り返すうちに、もう終わったアーティストとして適当に扱われる。田口自身も擦り減って、本当の意味での社会復帰が難しくなる。それだけは絶対に避けたい……」

 そういうと、伊藤さんは、誰に言うでもなく、唯一の腐れ縁なのに、こういう時、何もしてやれなくて……と、涙をかみ殺すようにつぶやいた。


 私は、田口を羨ましく思う反面、その煩わしさを想った。

 何か適当な言葉を探そうとしたはずが、ふと、私は私の事を可哀そうだといって泣いた男の事を思い出した。まだ私が十五歳だった頃、真夜中のスーパーマーケットの駐車場で、私は家出をする前に、最後に恋人の顔を見ておこうと彼の地元近くまで足を運んでいた。それ以外の事――なんで家出をしただとか、どんな会話をしただとか――は忘れてしまったが、その時私は「君にだけは同情して欲しくはなかった」と言った、そんな幼かった日の、小さな出来事。秋が深くなるほんの手前の、羽織った薄手のジャケットに吹き込む風に身震いをしながら、シャッターを降ろしたスーパーマーケットの昼光色が、恋人のただでさえ青白い頬から色味を更に奪っているようだった。肝心な事は何一つ覚えていないのに、そういった質感や温度、匂いのようなものは、今でも昨日の事のように思い出せた。

 あの頃の私はあまりに捻くれ過ぎたせいで、もはやこの世で自分が一番の正直者だと思っていた。そのお陰で、誰かが他人の事を思い、誰かの為だけにわざわざ涙を流すなんてファンタジーだと思っていたし、「誰かの為」という言葉は、地図にない国の言葉で、日本語に良く似た発音と表示をし、一見似たり寄ったりの意味にも見えるけれど、正しく訳すと「自分の為に、あなたはそうするべきである」という意味になる言葉だと思っていた。

 けれど、こうして色々なものを失ってみると、シンプルに自分のために泣いてくれる誰かの存在が、どれほど尊いものかと思う事もある。そんなどうでも良いことを思い返していると

………さん?

「パチさん?」

その音が耳に届き、私はハっとする。

「すみません、言葉に詰まってしまって」

「いえ……、パチさんからしたら、何の話だよって、本当……、こっちがすみません……」

 私はその言葉に頷くともせず、無意識に火を付けたまま持て余していた煙草を消そうと灰皿を見ると、いつのまにそんなに吸ったのか、小さな灰皿は吸い殻で一杯になっていた。煙草の先の方で、かつて煙草だった物たちの屍の山を掻き分けていると、チップペーパーの色が似ているだけでKOOLのロゴが入ったものが半分ほど混ざっており、いずれの煙草も巻紙の部分が長く残っていたので、私は何もかもお互い様だな。と思いながら、煙草を消せる隙間をみつけると、そこに吸いかけのラッキーストライクをねじ込み押し消した。

 私は会話が中断している事に気づき

「今日は、その話をしに来た訳ですから、何も伊藤さんが謝るような事はないですよ」と言うと、伊藤さんは口元にだけ愛想笑いを浮かべ

「ただね、こういう時に、どうやったらあいつが心穏やかに過ごせるかさえも分からないんですよ。さっきは、ああいったけど、一発で良くなるどころか、そもそも、ああいう医者に掛かって治ったやつなんているのかなって。ああいう心の病気みたいなやつと、上手く付き合ってる人もいるとは聞きますけどね。変な薬飲まされて、ちょっとずつみんなおかしくなって、死んだり、消えたり、退いたり。持ち直してまたこういう仕事を続けてる奴って、あんまり知らないんですよ。まあ、私生活はめちゃくちゃでも、なんとかアーティストとして活動を続けるとか、商業ベースではなくただ続ける。って、そういう奴はいますけど……、でも、ちゃんと克服してやってける奴っていうのが、いない訳じゃない。だから、どうにかあいつにも踏ん張って貰いたい。でも、そのための最短距離どころか、良くなる見込みや方法がまったく見当もつかない」

 そう吐き出すと、思っていたあらかたを言い終えたのか、また涙が落ちそうになったのか。顔を上に向け、大きく息を吸い込むと、ゆっくりと目を閉じた。六秒ほど息を止めると、ゆっくりと息を吐き出す。その動作を私は黙って見つめていた。


 彼の言っている事に関しては、身に覚えがあった。私もの周りにも、そういう風にして何人かの知り合いが死んでいった。死のうとして失敗をして、周りを巻き込んで、消息の途絶えた友人もいる。勿論、そこから折り合いをつけてどうにか、大なり小なりの浮き沈みと戦いながら、平気な振りをして生きていける人もいる。私みたいに。

 とはいえ、私には家族を殺されたこともなければ、田口のような立場に立ったこともないし、そもそも田口の事も必要最低限さえも知らなければ、私に言える事は殆ど何もなかった。

 それでも、ここで足踏みをしている訳にはいかないので、どうにか言葉を絞り出すと、それはとてもごく当たり前の事だった。どうも私は小さい頃から簡単な事を難しく考える癖がある。「ごめんなさい」で済むことを、言い訳を交えて大げさにしてうやむやにすることで逃げていたツケを大人になって払っているのだ。

「つまり、伊藤さんとしては、田口さんの回復を優先的に考えている。だけどこのまま病院に戻すことが最善とは思えない。ということですよね」

 そう切り出すと、伊藤さんは頷く。

「そう、そしてできれば田口の望む方法で療養させたいんですよね。

 会社に対しては、田口がそう望んだのでしばらく自分が預かると言えば、まあ多少揉めはするだろうけど、そういう方向にもっていくことは出来ると思うんです。ただ、実際に預かって、俺が仕事で目を離している隙に何かあったら? 結局病院に居る時と同じか、それより悪化したら? そもそもそれを田口が望んでいないのだとしたら? そういうことを考えだすと、どうにも動けなかったんですが、こうやって無関係なパチさんにも迷惑をかけてしまってるわけですし。

 それに田口とも、というか、誰よりも田口と話さないといけない。でも、逃げた理由が分からないのに、それが可能なのかどうか……、パチさんの言う通り、衝動的なものであれば、少し時間をおいてアプローチすればどうにかなるのか。なんて安直なんでしょうか……」

「確かに……、まずは田口さんがどうしたいか。というところですが、それを彼自身が決められる程の余裕が彼にあるのかが問題ですよね。時間は確かにある程度何かを解決してくれるような気分にさせてくれる事もあれば、悪化させることもあります。本当の意味で、彼が落ち着くには恐ろしい程の時間が掛かるような気はしています」

 私がそういうと、伊藤さんは頷きながら

「田口を保護してもらって、こうやって連絡をくれた事で既に有難いのに、これ以上は……、とも思うんですが、すみません、もう俺も行き詰まっていて……、その、パチさんから、田口にそういった事を聞いて貰う事は可能ですか?」そう訊くので、

「おそらくですが……、ある程度時間を貰えれば、ある程度の事を聞き出すことは可能だとは思います。ただ……、彼を見つけて保護した後、次の日にはもう居なくなってるだろうなって思ってたんです。ところが彼は次の日も今日も私の作業場にいる。それは、身体が弱っていたのもあるとは思いますが……、私が彼をほんとうに知らないのかもしれない。という事が大きかったと思うんです。だから私は未だに彼に対して、その振りを続けていますし。なので、田口さんがこれからどうしたいのか。に対する具体性のある……、伊藤さんや会社の事を絡めた返事を求める質問は難しいかと思いますが、海を見たいだとか、北に行きたいだとか、将来は宇宙飛行士になりたいだとか、そういった種類の返事を聞くような質問は、出来ると思います。ただ、その質問も、もう少し時間が掛かるというか、なにせまだ彼とは会話と呼べるような会話さえもしていませんから……」そう答えたが、今朝、田口に連絡を取りたい人、取るべき人が居るかと訊いた際、いない。と答えた事を思い出した。私はそれを伊藤さんに伝えるか悩んだ後、

「とりあえず、彼がどうしたいのかを私は現状で可能な範囲で聞き出せるようにしてみます。ですので、伊藤さんは彼の面倒を見ることが可能そうな体制というか、伊藤さん一人で仕事をしながら彼の面倒を見ることは難しいと思うので、協力してくれそうな人を……」そう言ったあと、ふと思い当たった事を思ったままに訊ねる。「彼に……なくなってしまった以外の家族は……」そしてすぐに後悔する。案の定、伊藤さんが首を横に振ったからだ。


 伊藤さんは、バンドのメンバーや、信頼できそうなスタッフを集めて、今後の事を検討した後、すぐに連絡をするといった。2,3日の時間を欲しいと言われたので、それまでは私も作業場に泊まり、彼が再び勝手に行方をくらまさないように気を付ける。と約束した。


 そしてまた、記憶の中の誰かが言った

「ああ、君は本当に浅はかだね」と。


 勢いと軽い善意で彼を拾い、誰にも言わないなんて調子のいいことを言いながら、事情を知った途端に自分の保身を考え、「私は何も悪くありません! たまたま彼を保護しただけなんです!」と大手を振って、ここに来たのだ。そして、ここに来たらここに来たで、また目の前の男に易い同情を振るい、その場しのぎの言葉を並べているだけの。そう、本当浅はかだな。私は何も変わっていない。変わっていない? 違うな、寧ろ悪化している。


 本当にその通りだ。そんな愚かで浅はかな事ってない。でも、これが私と言う人間出来る、他人に対しての精一杯の偽善なのだ。


 私は、伊藤さんに、脱走前の田口の食事内容など――ほとんど食べていなかったというが――を念のため確認し、精神的なもの以外に併発した病気などはないか確認した。

「すみません、そういうところまで気が回ってなくて……」伊藤さんがそういうので

「いえ、私も昔付き合っていた人が心をおやしちゃって、過食嘔吐っていうんですかね、そういうのを繰り返した後、胃潰瘍になっちゃって、今の田口さんぐらいガリガリに痩せちゃった事があったんです……、それで色々本を読んだり試したりして……、もし田口さんもそうであれば気を付けないといけないというか、預かる上で、間違った事はしたくないな。と……」そういうと

「おやす?」と聞き返されたので「ああ、方言? なんですかね、壊すっていう意味です」と答えると「出身は?」というので「山梨ですよ」と答えた。

「それでその、心をおやしちゃった彼氏さんはどうなったんですか?」

「そうですね……、もう全く何も上手くいかなくなって。なんて言うんですかね。精神がやられる、身体がやられる、仕事に行けなくなる、お金が無くなる。そうするともっと精神がやられる。精神的な余裕がないから、言葉や態度がどんどんキツくなっていって。それに殆ど家で寝た切りだったので、当たれる相手が私しかいないんですよね。俺がこうなったのは全部お前の所為だ。なんて言われたりして。最終的には振られてしまいましたけど」そう言って私は軽く笑い、話を続けた。

「別れた後、引っ越して、仕事も変えたって事は風の噂で聞いてたんですが、一年後くらいですかね。何事もなかった様に呑みに誘われて、何かと思ったら恋愛相談だったんですよ。拍子抜けしましたが、ずっとあのままではなかった事に、心から安堵しました。別れたとはいえ、ずっと心配してましたから。それにね、今は一回りも年下の娘と付き合ってますよ。もうすぐ結婚するみたいで、もうすっかり元気にやってます」

 それが何の慰めになるかは分からなかったが、言うだけ言った後で、それ以降の事は押し黙った。その彼女がマンションの五階から飛び降りて、半身不随になってしまった事。命は繋いだが、精神面でも肉体面でも余計に社会に復帰できなくなってしまった事。

 それでも彼は再び心をおやすことはなく、彼女を旅行に連れていきたいだの、彼女の父親と飯を食べるだの、あの頃とは別人の様に逞しくなっていた。本人はそんな事こそ――彼女の飛び降り事件――あったものの、あの頃よりずっと幸せそうだったが、それ以外の人がどうなのか、それにこの環境下で、彼がまたいつ心をおやすか等、彼自身も分かってはいないだろう。

「まあ、その彼と田口さんとでは、状況も環境も、抱えているものも、その壮絶さも、それに対する本人の精神力も、解決への挑み方も違うと思うので、参考にはならないかもしれないけれど……、でも、伊藤さんみたいな人が傍にいてくれる事に彼自身が気づければ……」

 一番言ってあげたい、だけどそんな無責任な事は、会話に勢いをつけたところで、私には言い切れなかった。それでも、伊藤さんはその意味を汲み取ったのか「ああ、俺、頑張らないと……」と言った。

 私はその言葉が聞こえていない振りをして、「頑張らなくて良いんだよ、これ以上頑張って、あなたも潰れてしまってはいけない」そう思ったが、そんな事は、口が裂けても言えなかった。


 最低でも一日に一度は田口の状況を連絡すると伝え、殆ど手を付けていなかったアイスコーヒーに手を伸ばした時、私はもっと先に言うべきだった事を、言い忘れていた事に思い当たる。

「そういいましたが……、すみません、もしかしたら、また行方をくらましているかも……」

「どういうことですか?」

 私は、ここに来る前に田口とした会話と、パソコンを貸したことを説明する。

「急ぎましょう」と、伊藤さんは言い、私は頷いてすぐに店を出た。

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