第11話


「初めまして、神初です」と会釈をすると、伊藤と思しき男は立ったまま

「伊藤です。……、早速ですけど、彼の左足の裏は見ましたか?」と訊いた。

「紺色の刺青のようなものが……、柄はおそらく土星だったかと」そう答えると、男は顎に手を当てたあと、長い溜息をつき、向かいの椅子を引き腰を掛けた。自分も煙草吸っていいかと訊き、私がそれに頷くより前に男は煙草に火を付ける。なんともない振りをしているが、男の手は少し震えているように見えた。

 男は煙を吐き出しながら、田口の様子はあれから変わりないかと訊くので、私が一瞬戸惑うと、たいらさんに報告した話から。と付け加えたので、私は少し間を開けてから、今日は何とか吐かずに物を食べられたことを報告した。

 それを聞いた男は、何度か頷いた後、さほど吸っていない煙草をもみ消す。煙草はうまく消えておらず、灰皿の上で息絶える前のミミズのように体を捻じ曲げ、いのちののろしとでも言うように煙をくゆらせていた。


「田口が病院を脱走したことは表には出ていませんが、熱心なファンが何人か病院に張り込んでいたので、そう言った類の噂が立ったんです。『脱走した彼を私が匿ってます』みたいなやつ。正直彼は、会社的にそこまで金を掛けてまで守りたい位置にはいない。というか必要がないというか。日本を揺るがすようなアイドルとだったら、版権なんかも絡んでくるし、そういう事もありますけど、あいつはそうじゃない。なんですが、不思議な事に上層部から指示があって。その噂も含め、今回の事件にまつわる……、あまり良くない噂のようなものは端からもみ消しているし、彼が行方知らずになった事は会社でもごく一部の人間しか知らない。といっても、どこからか漏れるのも時間の問題だとも思うんですが」

 そこまで言い終わると、男はまた煙草に火を付け、店員がホットコーヒーを運んできた。

「ということは、他にも表に出ていない事がある。と言う事ですか?」

「まあ、たいらさんと親しいなら、ある程度聞いてると思うけど…、あいつ、割とルーズだったというか……、自殺した犯人がね、田口とそういう関係に合った事とか、まあいろいろですよ」と言った。


 なるほど。

私は昨夜の二人の言葉を思い出し、心の中でつぶやくと、

「そうですね、そのあたりも伺ってますが…」

 そこまで言って口を閉ざした。


 余計な事を言うのは得策ではない。


「そうだ、動画なんですが…」

 次の言葉を探し、咄嗟にそう口にしたが、それを遮るように

「ああ、いいですよ。嘘じゃないのは分かってるので」

 そう言いながら伊藤さんは灰皿に手を伸ばした。

「たいらさんから電話を貰った後すぐに病衣の写真を送って貰ったんです。ここに来る前に、実物も貰ってるし。あれね、僕が持ってきたやつなんですよ。僕が地元で入院した時のやつ。うっかり返しそびれたものが、上京した時の荷物に紛れ込んでて。

 まあ実家に帰る時に返そうと思ったまま忘れてて、最近引っ越しをすることになって、荷造りしてたんですけど、そうしたらまた出てきたんですよ。だからいい加減にどうにかしようとしていた時にあいつが入院したもんだから。おかしいですよね、あれ持って病院に駆け込んだんです。僕も気が動転してたんでしょうね。あんなもの持ってきても何の役にも立たないことはその辺を歩いて猫にでも分かる。それにあいつ、入院中はそこで借りた病衣を来てたんですよ。とはいえ持って帰るのも面倒だし、予備ってことで、何かあったら着ていいよって言って渡したんですけど……、まさか逃げる時にあれに着替えるなんで思わないじゃないですか。動くのも怠そうなやつが、わざわざ着替えますか? 病衣から病衣へ。

 退院の目途も立ってなかったから、あいつが入院時に着てきた洋服は僕が持ち帰ってしまっていたし、ちょっとでも変装したい気持ちがあったのかもしれませんが……、僕には無意味に思えちゃって……、でも、おかしなことに、そのおかげであなたを信用することには役立った」と、男は皮肉そうに言った。

「動画の事は……そうはいっても、この世の中は信じられないところから考えつかない事をする人もいるので、念のために。足の裏の事は…まあ、似たようなもんですが、あなたの反応を見るために最初に言っただけです。試すようなことをしてすみません」

 そういって男は軽く頭を下げると、すぐに顔を上げ、喫茶店の外の通りを見る振りをして、話をすすめた。

「あの墨は学生の頃、僕と一緒に入れたんですよ。あいつとは腐れ縁っていうのかな。まあその話は今はいいや。で、それを入れた事は、お互いと、それを彫った彫師しか知らない。と言っても、彫師がアレを田口だと覚えていれば。ですけど。十年以上も前に、たかが足の裏のワンポイントだけを彫った相手の事を覚えているとも思えないし。あとはまあ、裸足でステージに立つ人もいるけど、あいつはそういうことはしないし。まあ、奥さんは別としても、やっただけの女が、わざわざ足の裏を覗き見る様な事もないですからね」と、伊藤さんは笑ってみせたが、自分でもさほど可笑しくない事に気づいた様で、口元の笑みはすぐに消えた。

 その瞬間、テーブルの上を何かが打つ音がした。私が目を上げると、男はうなだれるように頭を落とし、声を殺し、肩を震わせていた。その後しばらく、テーブルに大粒の涙がぱたりぱたりと楕円に落ちるのを、私はただ黙って眺めていた。

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