第13話

 この時間帯は電車の方が早いと思い、駅まで走り改札を抜けると、丁度目の前に総武線三鷹行きが停まったので、私はそれに飛び乗った。

 どんなに気だけが急いでも、疲れるだけで時間が縮まる事はないと分かっているのに、それでも私の気持ちは落ち着かなかった。

そもそも。彼が居なくなろうがどうなろうが、私には関係ないはずだった。それでも、私は田口を元居た場所に帰らせる為に、こんな事をしているのだ。それが正しいかどうかは別として、伊藤さんのように田口を想ってくれる人がいるのであれば、田口はそれを手放すべきではないと思った。それと同時に、田口にとって、これらは余計なお世話でしかないという事も分かっているつもりだった。

 危険だな。と思った。「分っているつもり」だって?

 自分がそんな盲目な事を思うだなんて……。私は私が、酷く恥ずかしくなった。

そして薄々気づいている。おそらく、田口にとって伊藤さんは、佐々木さんのいう《はずれ》のひとだ。でもそれは、その人が不要という意味ではない。それでも、違うものは違うのだ。そんな人をどう今の時点の田口と繋げるのか、私にはさっぱり見当もつかなかった。

そんなことを考えながら、ふと車内を見渡すと、来た時とは違い、サラリーマンやOLが多く目についた。普段から気を付けていたはずの、正しく働いている人たちの正しい時間に相応しくない要素として紛れ込んでしまい、自分ひとりが酷く浮いているような気がした。とは言え、車内にいる九割の人が手の中に収めた携帯電話の画面をにらみ続けているので、私の存在には誰一気付いてはおらず、それは唯々、過剰になった自意識の成すものだった。

そんな風にして、私が私の小さな劣等感に対し一方的な競り合いをしていると、見慣れた景色が窓の前に流れ込んできた。私は進行方向右側のドアの前に立ち、目の前のそれが開くのを待った。


 マンションに着くと、田口はパソコンを前に転寝をしていた。

私は息を切らしながら、伊藤さんに「家に居ました、また連絡します」とショートメッセージを送る。


 そっとパソコンを自分の方に向け、マウスを軽く動かすと、画面には、知らない女の名前を検索している様子が残っていた。それが田口の家族を殺した、田口と“そういった関係”だった女だという事は、表示されている検索結果を見ればすぐに分かった。


 田口は私に自身の立場を隠すためか「自分の《ファン》に殺された」とは言わなかった。勿論、犯人とそういう関係にあったという事も。

ところで、彼は犯人が自殺したとことまでは知っていたのだろうか? 田口が調べたかった事はそっちの方――犯人がその後どうなったのか――かもしれないと思うと同時、私は田口が心をおやした理由が気に掛かった。

家族を殺された、しかも自分のファンに。私を含む世間は、それだけで一人の人間が心をおやす立派な理由になり得ると思い込めたが、本当にそうなのだろうか。


 私は小さな寝息を立てる田口の顔をしばらく眺めた後、ヨーグルトやゼリーを買って来ていない事を思い出し、もう一度家を出る。さっきまでは急いでいて気づかなかったが、僅かに雨の降る前の匂いがした。


 いつものスーパーマーケットを通り過ぎ、駅の改札の前を横切り北口に出ると、濃紺色に影を落とす街に、八百屋の白熱灯のオレンジが浮かび、行き交う人の草臥れた背中を照らしていた。


 学生時代から住むこの街は若者の街と呼ばれ、駅前から商店街まで、所狭しに居酒屋が並んでいる。その為、週末に限らず酔っぱらいが道端に落ちている。特に酷いのは夏場だ。

 私の仕事場であるマンショは、駅から二本の通りを挟んだ裏路地にあるので、他人に迷惑は掛けたくないという自制心は在るものの、体がそれに追いつかなかった酔っ払いたちに人気のあるスポットの様で、納期が迫った私の生活が昼夜逆転する頃には、それらに良く遭遇した。

大概の、文字通り「只の酔っぱらい」は放っておいたし、ただ酔っぱらって寝ているだけではなさそうな人――急性アルコール中毒を引き起こしていそうな人――等が居た時でも、警察を呼んだり、水を渡したりする程度の事をするだけだった。一度、二十歳そこそこの女の子が倒れていた時は、歩けるようになるまで、その場でつきっきり介抱した事はある。――はだけた刈安色のブラウスからむき出しになった胸の谷間を、時々誰かが覗き込むようにして通り過ぎるので、放っておけなかったのだ。――案の定季節は夏で、私は蕎麦と言う名前をした、小麦粉をたっぷり使った蕎麦のようなものを食べに、駅前の立食い蕎麦屋に向かっている最中だった。

胃の中にある物をあらかた吐き切り、私の渡した水(五百ミリリットルのペットボトル二本)を飲み切ると、駅前の花壇とベンチの間に倒れ込んでいた彼女は二時間四十五分程の時間をかけて、自力でベンチに座れるほどに回復した。

それを見て、もう大丈夫だろう。と、私はその場を立ち去ろうとしたが、もう少し一緒にいて欲しいと縋られた。正直今すぐ蕎麦とも呼べない蕎麦を食べて家に帰りたかったが、青ざめた顔にぼってりと腫れた目元でじっと見つめられながら、私は《NO》と言える程の言い訳を並べられず、しぶしぶベンチに並んで座った。

 そこから見て数メートル先の立ち食い蕎麦屋の看板を眺めながら、膝小僧に張り付いた砂を指の背で払い、私は私の可哀そうな空腹を紛らわせる為、無駄に吸い殻の山を積み上げ、私たちの頭上を蝙蝠の小さな群れが跨いでいった。


「ペットをする為に上京したんです、でも本当にお金がなくって……、住み込みの居酒屋を見つけて働き始めたんだけど、そこの店長とそういう関係なっちゃって……。本当は辞めたいの。でも、そしたら住む場所がなくなっちゃうって思うと不安で……。彼には奥さんもいるし、バレたらどうしようって思うとそっちも怖いし、止めなくちゃって思うのに止められなくって……。そういったままもう三年も同じ生活を続けてるんです。私もう限界で……。私は何のために東京に来たのか分かんない」 そう彼女は鼻を啜りながら言った。

それを皮切りに、彼女は見ず知らずの私に午前三時から五時までの二時間、壊れたラジオのように語り続け、生ぬるいはずの風が、サンダル履きの足を少しずつ冷やしていった。

 ラッパはもう吹かないの?と訊くと、彼女は、「あまりに貧乏で、そんなものはとうに売ってしまった。あと、ラッパじゃなくてペットです」と言った。

 その後も私は、彼女の身の上話をただただ聞き続け、私は私の可哀そうな空腹に心から同情し「これからお姉さんの家で飲み直したい」と言われたので丁寧に断り、彼女の住み込みで働く居酒屋の近くまで送り届けた。それは知り合いから「店長が歩く生殖器のような奴」と訊かされている焼鳥屋だった。

 めでたし、めでたし。

 私は、私の見知らぬ酔っ払い介抱ファイルのvol.3を閉じ、ここが夜明けの住宅街が隣接した商店街でなければ、私は盛大なブーイングを受けているだろうと思った。

そんな何年も前の夏の夜明けの出来事を思い出しながら、そう、ちょうどこのベンチだったよな。と、かつてラッパ吹きを目指して上京したはずなのに何者にもなれなかった女の子が落ちていたベンチの横を通り過ぎる。


 話が大幅に逸れてしまったが、要は病人とは言え、拾って家にまで上げたのは、今回が初めての事で、今更ながら、とんでもないな。と、声を出して笑うと、すれ違ったサラリーマンが、訝しそう顔で私の方を振り返った。


 そういえば。と思い、佐々木さんに電話を入れる。佐々木さんは三コール程で「もしもし」と電話に出た。

「どうにかなりました?」というので

気持ち的にどうにかなったつもりでいたが、現状は何も変わっていない事を思い出し

「おそらく?」と答えた。

平田さんの言っていた通り、悪い様にはならなかった事を含めお礼を言うと、今日あった事をかいつまんで話した。

「仕事の時から思ってましたけど、パチさんって、なんだかんだ面倒見良いですよね」

「どうだろう……、仕事の時なんて、私は借りてきた猫のようにそこに居ただけだし、佐々木さんの方がよっぽど……」

 よっぽど、周りを気遣い、会話を振り、その場を回していた様に思ったが、それと面倒を見るとは別のものだと思いあたる。すると佐々木さんが絶妙なタイミングで

「思い当たりました?」と言い

「占い師っていうのは、何かこう、本当に見えたりするものなの?」と、私は尋ねた。

「まさか! まあ、そういう人も、中には居るみたいですけど、私にはそんな特殊能力はありませんよ」と佐々木さんは可笑しそうに笑った。

「まあ詳しくは今度会った時にお話しします。そんなことより、パチさん、なんで田口さんを拾ったんですか? 何故かあの時はすんなり聞き流してしまったけど、よくよく考えなくても、普通はそんなことしないのになあと思って」

「そういうのは見えないの?」

「だから、私にはそんな特殊能力はありませんよ」

呆れたように佐々木さんが言うので、私はそれが可笑しくなって笑いながら答える。

「今思うと……、というより、馬鹿馬鹿しすぎて黙っていたのだけど……、色んな事を思い出したというか……。そのうちの一つがね、昔読んだ漫画のワンシーンよ。雪の日に、酔っぱらって公園で寝てそのまま凍死しちゃうっていうやつ。翌朝ドアを開けて階段を下りて、もしこの男が死んでしまったら、どうしよう……。そんな事を考えてたら、田口さんに腕を掴まれて、その手があまりに冷たかったら、ついさっき思い出していた漫画の話とカチコチに硬くなった死体と田口さんがイコールになっちゃって『とにかく今すぐあたためなくては!』そう脳へ勝手な指令が届いちゃったのよ、きっと。きっと? おそらく」そういうと、私は精肉店の行列に並びながら、ショーケースの中を確認する。

「ふうん。まあ、それでも普通は拾わないですけどね。それに誰も呼ばないでとか言われたら怖いじゃないですか。それこそ安いドラマじゃないですが、訳アリの匂いしかしない」

「それね、私も思ったのよ。でもこれって、刷り込みよね。小さいころ、そういう種類のドラマが多かったから、意識の根底にそういう情報があるというか」そこまで言うと、そろそろ自分の注文の順番であることに気づく。

「ねえ、パチさん、大変。面白そうな話になってきたのに、私この後打合せなんです。なので、近いうち二人で呑みに行きません? ちゃんとお互いの時間があるときに」と、佐々木さんは笑いながら言うので、私はお詫びを言うと、手帳を見てまた連絡する。と言い、電話を切ると「お次の方!」と、店員の声が響いた。私はショーケースの中を見る振りをして、やっぱり本当は見えているのではないかと首を傾げる。

 ハム二百グラム、鶏ひき肉をムネの方で三百グラム、豚ロースはカナダを五百グラムで。そう言うと、店員はショーケースに並んだ塊たちをゴム手袋をはめた手で掴み取り、次々と重しの上に乗せ、値段を確認した。それが終わると、それぞれの肉の塊たちをポリ袋へ入投げ入れ、しっかりと封を結んだ。


 そういえば、「普通は拾わない」と言っていたけれど、佐々木さんだったら、同じ状況で田口を拾うだろうかと考える。


“まあ私も拾いますけど……、その前に私以上に世話を焼くのが上手くて、私に少し好意のある男友達を呼びますね。”私の想像の中の佐々木さんが呆れたようにそう言った。

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