二十三年前③

 番平理恵の捜索願が出された日の翌日、倉橋と椎原は、彼女の自宅──埼玉市の一等地にある庭付きの一戸建てだ──を訪問していた。彼女が行方不明になった経緯を詳しく聞くためだ。

 今日は土曜日、彼女の両親はどちらも在宅しており、四人は客間で革張りのソファに座って対面している。

 父親の篤恒あつひさは、世間の銀行員に対する偏見を凝縮したような──神経質そうな雰囲気の男だった。自らそのイメージに寄せているのか、銀縁の眼鏡を光らせてもいた。また、意外、と言うといささか大げさかもしれないが、八歳と四歳の子供の父親にしては少し年齢を重ねているようだった。今年で四十七歳になるらしい。「若いころは結婚なんてするつもりはなかったので」と、その理由を語った。

 その、結婚する気のない男を射止めた女──妻の名は、まきと言った。こちらは旦那とは対照的に派手な顔立ちをしていた。彫りの深い顔に蒙古もうこひだのないきれいな平行二重が付いていて、「わたし、実はハーフなんです」と言われれば、誰もが疑いもせずに、「なるほど、どうりで」と納得するだろう。年齢は三十二歳。倉橋の頭に、遊び慣れていない仕事一筋の高収入中年男を手玉に取るやり手ホステス、という一文が浮かんだが、あえて口に出したりはしなかった。

 のだが、椎原は、「いやぁー、上手くやったっすねー」と下衆な視線を槇に送った。「どこで知り合ったんすか? フィリピンパブとかっすかぁ?」

「いえ、わたし、こう見えても青森生まれの純日本人なんです」槇は不機嫌になることなく言った。この手の揶揄やゆには慣れているのかもしれない。

「青森ぃ?! めっちゃくちゃ田舎もんじゃないすか! 山と田んぼと雪しかないんすよね? 自分、青森は宅配ピザも届かないって聞いたことあるっす。ヤバいっしょ。よくもまぁ、そんな辺境で槇ちゃんみたいな美人が生まれたもんす」生命の神秘っすね、遺伝子の奇跡っすね、と椎原は感動した様子でうなずいている。

「お前いい加減にしろよ、失礼なこと言うな」倉橋は椎原を叱った。次いで、「申し訳ありません、こいつものすっっっごく、それはもう救いようのないバカなんです」と番平夫妻に頭を下げた。

 ──その一方で、倉橋の心は違和感を覚えていた。

 何だ? 何か、こう……。

 しかし、その正体を突き止めることはあたわなかった。やはりニコチンがないと頭がえない──卑屈な感情が、心の暗がりから倉橋を見ていた。溜め息をこらえつつ、頭を上げて話を戻す。「えー、それでは、捜索願の提出に至った経緯をお聞かせ願えますか」

「わかりました」「わかりました」夫妻は同じタイミングで声を発した。篤恒が槇に目配せすると、彼女は小さくうなずき、「昨日は──」と説明を始めた。

 その内容をまとめると、こうだ。

 昨日は金曜日ということで、番平理恵は通常どおり登校していた。午後三時過ぎごろに帰宅すると彼女は、「ただいまぁ!──いってきます!」と学校指定の黒いランドセルを玄関の廊下に放り投げて遊びに出掛けた。これは別段珍しいことではないそうだ。随分と元気のいいお嬢さんだな、とも思うが、槇曰く、「誰に似たのか、理恵は少々お転婆なところがありまして」ということらしい。

 槇が異変を察したのは、逢魔時おうまがときになって少ししてからだった。いつもならば日が暮れて外遊びがしにくくなるとすぐに、「お腹空いたぁー、今日のごはん何ー?」と騒々しい声が聞こえるのに、昨日は午後六時になろうかというところまで待ってもそれがなかったのだ。

 不安になった槇は、心当たりを捜し回った。しかし甲斐はなく、番平理恵の、あの元気な声を聞くことも、わんぱくな笑顔を見ることも、ついぞ叶わなかった。

 そして、篤恒の帰宅後、二人はそろって大弥矢警察署に出向いた。

 夫妻の話が終わると椎原は、「んー?」と間延びした声を出した。

 倉橋は構えた。今度は何を言い出すんだ?

 椎原は言う。「りっちゃんは一人で遊びに行ったんすか?」

 おい幾ら何でもりっちゃんはねぇだろ?! お前は番平理恵の何なんだ? クラスメイトなのか? どうして当たり前のようにそんなに馴れ馴れしい呼び方ができるんだ?──と思うが、もはや倉橋は怒る気にもなれない。

 え? りっちゃん? と目を白黒させていた夫妻は、遅れて質問の意味を理解したらしい。「え、ええ、家を出た時点では一人だったはずです。でも、途中で友達と一緒になったみたいです」と槇が答えた。

「りっちゃんって八歳なんすよね? ここらでそんくらいのちびっ子が遊ぶってなると何をするんすか?」椎原の問いは、捜索のためというよりは純粋に個人的興味から発せられたものであるように聞こえた。「ケイドロとかっすか?」

「そうですね、そういう場合もあるし──」槇は言う。「最近はバドミントンにハマっていて、公園で友達と打ち合ってるようです」

 へぇ~、と、自分から聞いておきながら椎原はおざなりな相づちを打った。「健康系小学生っすね」

 倉橋は尋ねる。「では、行方不明になる前の理恵さんと最後に会っていたのは、そのお友達ということでしょうか?」

「ええ、おそらくは」槇は答えた。

「そのお友達がどこの誰か教えていただけますか」

「それは構いませんけど……」槇は眉を曇らせた。

「どうされました?」

「いえ」槇は言う。「その子も含めて、よく理恵と遊んでくれている子のおうちには昨日のうちに尋ねて回りました。でも、理恵の行方は誰も知らないみたいで」

「そうだったんですね。それだと、たしかにあまり期待はできないかもしれませんね」と肯定的なニュアンスで相づちを打ってから、しかし倉橋は、「それでも念のためお聞かせ願えますか」と再び要求した。

「ええ、わかりました」

「それと、理恵さんと交遊のある人物を、わかる範囲でいいのですべて教えてください」

「はい」槇はうなずいた。長い髪が小さく揺れた。

 槇が言う名前と連絡先を椎原がメモしおえたところで、

「一つお尋ねしたいのですが」篤恒が落ち着いた声音で言った。「警察は、理恵の行方不明についてどのようにお考えでしょうか?」

「『どのように』というのは──」わかっていても倉橋は自然と口にしていた。

「つまり、例の殺人事件と関係はあるのか、と聞いているのです」抜け目のなさそうな一重まぶたが、眼鏡越しに倉橋を観察していた。

「……」どうする? 正直に答えるべきか? しかし、確定したわけでもないのにいたずらに不安を煽るようなことは言わないほうがいいのではないか──一瞬の迷いが、倉橋の返答を遅らせた。その隙を突くように、

「え、そりゃあ、ロリコン野郎にさらわれちゃったかもー、とは思ってるっすよ」

 椎原がそれを認めた、あまりにもあっさりと。

「やはりそうでしたか」篤恒は、すでに諦めているかのような力のない声で応じた。

「いやいやいや」椎原は今更ながら焦ったように言う。「まだ決まったわけじゃないんで! 帳場・・のみんなもよくわかってないっすもん! こういうときって、あんまネガティブになんないほうがいいっすよ。悪いことばっか考えてると夜しか寝れなくなっちゃうっすよ?」

「『帳場のみんな』ということは──」篤恒は確認するように倉橋を見た。「〈埼玉市少女誘拐殺人事件〉の特別捜査本部が扱うべき案件だと考えている、と、そういうことですね」

 あ、と椎原が声を発したのを聞きながら倉橋は、観念した。「たしかに篤恒さんのおっしゃるとおりです。しかし、関与を断定できているわけではありません。あくまで危惧しているという段階にすぎません」

「ええ、わかっています」

 篤恒は物わかりよくうなずいた。彼の隣に座る槇も声を荒らげたりはしなかった。けれど、瞳は恐怖に染まっている。

「我々も力を尽くします。それは約束します」

 倉橋自身、その言葉に何の意味もないことを自覚していた。

「ええ、わかっています」一字一句同じ言葉が、篤恒の口から発せられた。

 その後も会話を続けたが、結局、番平理恵の発見や〈埼玉市少女誘拐殺人事件〉の犯人の特定に繋がりそうな情報は得られなかった。

 番平宅を出て捜査車両に戻ると、倉橋は煙草をくわえて火を点けた。深呼吸するように有害な煙を吸い込む。わずかな間の後、すぅ、と脳を覆う霧が晴れていく。

「それ」と運転席から声がした。

「何だ?」と視線をやった。

「そのライター、あれっすよね、ハイブランドの……」しかし、そこで椎原は言葉に迷ったようだった。ブランド名を思い出せないらしい。

 倉橋は右手にあるライターに目を移した。金色に輝く本体部分に一匹の黒豹クロヒョウがあしらわれている。「カルティエだよ」と答えてやる。

「そうそう、それっす」椎原はキーを回しながら言った。「結構高いっすよね、カルティエって」

「まぁそうだな」

 車が走りはじめた。

「で、それがどうしたんだ?」倉橋は尋ねた。

「スーツとか靴とかにはお金掛けないのにライターはブランド品なんすね」

「ああ」そういうことか、と合点した。たしかにこんな金ぴかなブツは俺らしくないよな。スーツは吊るしの安物、靴だって合成皮革ごうせいひかくだ。ライターだけ浮いている。

 椎原はその童顔にからかうようなニュアンスをにじませて、「彼女さんっすか?」

「そんなんじゃねぇよ」倉橋は煙と共に言葉を吐き出した。「知り合いに貰ったんだ」

「へぇ~……」椎原は声を落としていき、そのまま口をつぐんでしまった。

「何だよ」倉橋は怪訝に思った。

 すると、椎原はこちらをチラ見してから、「倉さんって、ホモなんすか?」と聞いてきた。

「はぁ? 何でそうなるんだ? バカか?」いや、「バカだったか……」とすぐさま自己完結。

「だって、女じゃなくて、でもプレゼントされたものなんすよね?」

 倉橋は椎原の思考を理解した。彼の中には、〈ブランド品の贈り物〉=〈恋人又は配偶者からのもの〉という公式が存在しているのだろう。

 何なんだろうな、このハッピーな脳みそは、と純粋に疑問に思う。溜め息は白い。

「男友達がくれたんだよ」

「その人、変わってるっすね」男にブランド品を贈るなんて、という言葉が行間から覗いていた。

「変わってるといえば変わってるかもな」

 ミステリー小説に登場するような喫茶店を作りたい、という理由で、せっかく入った一流企業をためらいなく辞めてしまうようなやつだ。変人とのそしりも妥当な気がする。

 まぁ、でも──。

 倉橋はライターをスーツの内ポケットに仕舞った。かすかな重みを胸に感じた。

 ──このライターは気に入っている。 



 倉橋がその知らせを聞いたのは、大弥矢警察署の特別捜査本部で朝の捜査会議の開始を待っている時だった。

 ──埼玉市北東区の田園地帯の畦道あぜみちで〈埼玉市少女誘拐殺人事件〉と関係しているとおぼしき女児の遺体が発見された。

 十一月中旬、番平理恵が行方不明になってから二十六日もの時間が経過していた。

 まずは稲熊が現場に向かい、それからおよそ三十分後、倉橋たち平捜査員に初動捜査に加わるよう指令が下った。その際、遺体は番平理恵のものと見てまず間違いないということも伝えられた。

 セダンに乗り込み、現場に急行する。

 現場の状況は安藤仁美の時と大部分が共通していたが、違いもあった。今回の遺体は、膣や直腸内に瓶の欠片がなく、また、性器周辺の刺し傷もなかったものの、右の太ももの肉がごっそりと削ぎ落とされ、さらに両目が抉り取られていたのだ。先に臨場していた稲熊によると、その理由は犯人からの手紙──遺体の頭部にヘアピンで留められていた──に記されているという。前回同様、それを写した写真を見せてもらう。


『やぁ、調子はどうだい?

 ……え? 僕? 僕はもちろん絶好調だよ。彼女たちのおかげで毎日が輝いてるんだ。これが幸せというものなんだね。最近は生まれてきてよかったと心から思っているよ。愛し合うって、すばらしいね(笑)

 さてさて、この手紙を読んでいるということは、二つ目の生ごみは回収してくれたんだよね? どう? ミッシングリンククイズの答えはわかりそうかい?

 ……え? わからないって? ふうん、あっそう。頭が悪いんだね。かわいそう。そこまでバカだと生きづらいんじゃない? 自殺すれば?

 ところで話は変わるけど、刑事さんは小学生のオマンコに突っ込んだことはあるかい? 

 ……え? ない? それはいけない! 経年劣化しまくりの汚らしい中古品とはまるで違う、最高のきつきつオチンポホール、それを味わわないなんて信じられない! 絶対に人生損してる! 悪いことは言わない。今日の仕事が終わったらすぐにロリハントに出掛けるべきだ!!

 ……勘違いしないでほしいんだけど、僕はけっして短小ってわけじゃないよ? その証拠に無理やり押し込んでも根元までは入らないし、二人とも、「痛い痛い助けてお母さん助けて許してごめんなさいごめんなさい」って感じにかわいく泣いていたよ。

 恐怖、嫌悪、混乱、絶望、そしてそれらの裏側に潜む僕に向けられた純白の憎悪!

 最高だよね。そんな扇情的な絶頂顔を見せつけられたら中出しを我慢できるわけがないよね?──ま、どうせ飽きたら殺すし、避妊なんて初めから頭にないんだけどね! あ! まだ初潮も来てないか! あは、うっかりうっかり。

 次も楽しみだなぁ……考えると勃起してきちゃった。

 じゃ、僕もロリレイプをがんばるから君たちも偽善者ごっこをがんばってね☆

           善良すぎる少女愛好家


PS ロリもも肉とお目々はカレーに入れてみたよ。白状しちゃうとカレーの味が強くて素材の味はよくわからなかったけど、まぁまぁおいしかったかな。食品メーカーの努力の賜物たまものだね!』 


 手紙によると犯人はカニバリズムに興じたらしかった。真偽のほどは定かではないが、事実、彼女の身体は欠損しているわけで、彼女の両親の心情を思うと悲憤を覚えずにはいられない。

 手紙を写した写真を稲熊に返却しようとすると、彼は、「ほかの方にも回してください」と言った。

 そうだった、と思い、倉橋は手近な捜査員に写真を渡す。情報が行きわたるまで少し待たなければならないようだった。

 すると、椎原が口を開いた。倉橋に向かって言う。「何か、わざとくさくないっすか?」彼は案外とうたぐり深いのかもしれない。「狂人ぶってるだけってことはないっすかね?」

「かもしれないな」倉橋は色なき風のような口調で言った。「ただ、そんな演技をして犯人にどんなメリットがあるんだ?」

「それは……わかんないっすけど」椎原は口ごもる一歩手前といった様子で答えた。「何つーか、『サイコな俺かっけー』みたいな? サイコパスへの憧れってゆーんすか? そういうのじゃないすか」

「その可能性もあることは否定しねぇが……」肯定するだけの根拠もない、という言葉を声音で伝えた。

 椎原はそれを正しく受け取ったようで、「まぁ、たしかにまだわかんねっすけど」と、あらぬかたを見やりながらささやいた。

 


 午後二時を回ったところで、倉橋と椎原は現場付近での聞き込み捜査を一時中断し、最寄りのコンビニエンスストアで菓子パンやおにぎりなどを購入した。これらが本日の昼食である。駐車場の隅に駐めた覆面パトカーに戻ると二人は早速、レジ袋から品を取り出して食べはじめた。

「なかなかいい情報出てこないっすね」新発売と銘打たれた昔からあるりんごのデニッシュをかじりながら椎原が言った。パンの欠片がポロポロと零れている。

 さけおにぎりをペットボトルのお茶で流し込んでから、「ああ」と倉橋は答えた。「仕方ねぇよ、だいたいこんなもんだ」

「そうっすね」そう言って椎原は、温かいミルクティーをすすった。

 短時間で食事を終わらせた倉橋は、ほとんど無意識とさえ言える所作でスーツから煙草を取り出した。見ると、覆面パトカーの灰皿はいっぱいになっていた。それでも煙草を吸わないという選択肢はない。押し込めばいけるだろ、と楽観的に考えて、煙草に火を寄せた。少し窓を開ける。

 すると、非喫煙者の椎原が、「吸いすぎじゃないっすか? 肺がんリスクがどーのこーのってテレビで誰かが言ってたっすよ」などと言ってきた。

 なので、「リスクのある人生のほうが楽しいだろ」と返してみた。

「ギャンブル中毒にもなってるじゃないっすか」

「そうでもない」おそらくな、と小さく肩をすくめた──その時、倉橋のニコチンまみれの脳裏に、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために助手席で埼玉市の地図を広げる。

「何してんすか」そう聞いた椎原の声は、興味のなさそうな音色だった。

「被害者の自宅や死体遺棄の場所に意味があるのかもしれない、と思ってな」

 地理的な視点からミッシングリンクを推理しようというのだ。

「あー、そういう……」椎原は納得したようだった。

 倉橋は煙草を咥えながら地図をにらみつける。

 まず被害者の自宅だが、これはどちらも埼玉市の中心部にある。人気の土地で、住みやすさという点では非常に恵まれている。県庁や裁判所など公的機関、大型ショッピングモールなどの商業施設、東大受験にも強い名門進学校、大規模な病院から小さなクリニックまでの各種医療施設、整備の行き届いた公園──こういった施設が集まり、都内へのアクセスも容易、そういう土地で彼女たちは暮らしていた。

 次に、第一の被害者、安藤仁美の遺体の発見場所へ視線を移動させた。彼女が遺棄されていたのは、埼玉市内の南西のエリア──隣接する志屓しき市との境目の辺りだ。亜螺川に架かる橋の下に捨てられていた。

 そして、今回の番平理恵の遺棄現場へと更に目を移す。埼玉市内の北東のエリアに広がる田園地帯、その南の辺りに存在するやや幅広の畦道がそれだ。登校途中の小学生が発見したという。

 これらの場所に何か意味があるのか?──倉橋は思考する。しかし、クイズの答えにふさわしい共通点は考えつかない。

 煙草を挟んだ指に熱を感じた。煙草がかなり短くなっていた。灰皿で火を揉み消し、満杯のそれに吸い殻を押し入れた。

「何かわかったっすかぁ?」椎原が尋ねてきた。いつの間に開けたのか、スティック状のチョコレート菓子をぽりぽりとかじっている。

「いや」と倉橋は小さく答えた。「犯人は土地鑑のある人間なんだろうとは思うが──」人口の多い場所で目撃されることなく誘拐と遺棄を完遂しているということは、そういうことだろう。「それ以外はわからん」

「困ったっすねー」椎原は頬張りながら言った。困っているようには見えない。

 甘いものがあまり得意ではない倉橋は、馥郁ふくいくたる煙草の煙を押しのけて車内に充満しはじめたチョコレートのにおいに顔をしかめた。考えてみると、椎原の昼食はいつもいつも甘ったるい糖質の塊ばかりだ。やっぱ、こいつとは合わねぇなぁ──内心でもしかめっ面を浮かべていると、

「んー、被害者ちゃんが裕福な家の子ってことと埼玉市の子ってことしか、はっきりした共通点はないんすよね?」椎原は更に聞いてきた。

「そうだな──それがどうかしたか?」

「どうかしたってほどじゃないんすけど──」若者特有のずる賢さゆえだろうか、椎原はそう前置きし、「埼玉市の金持ちの子じゃなきゃいけない理由が、何かあるのかなぁって思ったんすよ」

「共通点を作るために意図的に埼玉市内の裕福な家の子を狙っているのではなく、何か理由があって結果的にそうなってるんじゃないかってことか」たしかにそういうパターンも考えられるな、と思う。「つまり、それこそがミッシングリンククイズの答えだと?」

「──えっ」椎原は不理解の色を浮かべた。「ちょっと何言ってるかわかんないっす。ジョーチョーな言い方されると脳みそが絡まるんすよ」

「糖質の過剰摂取で思考力が低下してんじゃねぇか」

「そんなわけないっすよ。糖質はIQのもとっすから」

「そんな話、初めて聞いたぞ」脳にはブドウ糖が必要だと言いたいのだろうか。

「マジすか?」と意外そうに言ってから椎原は、「でも事実っすよ。よかったっすね、一つ賢くなったじゃないすか」と悪気のない瞳。

「……おう、そうだな」

 とりあえずもう一本吸おう、と懐に手を入れた。



 番平理恵の遺体が発見され、事件の通称が〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉へと変更されてから十一日後の午前十一時前、大弥矢警察署の三階にある特別捜査本部を出た倉橋と椎原は、この日の地取じどり捜査──埼玉市の小学校近辺での聞き込み捜査だ──に向かうために階段を下りていた。足取りは重い。捜査に進展がないせいだ。

 椎原の、捜査に対する愚痴のようなものに適当に相づちを打ちながら歩を進めていると、ちょうど一階に着いたところで女のヒステリックな怒鳴り声が耳に飛び込んできた。思わず足が止まる。

 何だよ、うるせぇな、と倉橋は眉を険しくした。声のしたほうへ視線をやる。高級そうなグレージュのコートを着た女が、庁舎案内のカウンターにいる若い女性職員に食ってかかっていた。

「?」椎原が、疑問符を張り付けた顔を倉橋のほうに向けてきた。「何すかね?」

「さぁな」何かは知らねぇが俺たちが関わる必要はないだろ、と倉橋はなおざりにしようとしたのだが、

「あ! あの人って」と椎原は騒いでいる女を指差し、「女優の天城あまぎ伶依子れいこじゃないっすか?!」と声を上げた。

 椎原のその明瞭な声は彼女たちにもばっちりと届いてしまったようで、二人そろってこちらに顔を向けてきた。カウンターにいる女性職員は、倉橋たちを認めた瞬間、どうしてか安堵したような表情になった。

 嫌な予感がした。面倒事の予感だ。

「すみませんー、ちょっとー」カウンターの女性職員が手を挙げてよく通る声で言った。明らかに倉橋たちを呼んでいる。

 勘弁してくれ、いったい何だってんだ?──露骨に顔をしかめる倉橋をよそに、椎原は好青年然とした声色で、

「どうしたっすかー?」

 と歩み寄っていく。

 仕方なく、本当に仕方なく倉橋も続く。

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