二十三年前②

 百合子によると、安藤仁美が行方不明になったのは、今からちょうど三週間前の九月十五日──その日は祝日で彼女は午後から友人の家に遊びに行っていたという。しかし、門限である午後五時半になっても彼女は帰ってこなかった。今までこんなことなかったのにどうしたのかしら、と心配した百合子は、すぐに彼女が遊びに行った友人宅に電話を掛けた。決まりきったほとんど意味のない挨拶を早回しで終わらせ、「うちの仁美はまだお邪魔してますでしょうか」と尋ねた。

 ええ、盛り上がっているみたいなので帰るように催促するのもかわいそうだと思ってしまって──。

 そういう言葉を期待していたのだが、現実は無情だった。友人の母親から返ってきたのは、

『五時過ぎには帰りましたよ?』と訝る声だった。

 百合子が壁掛け時計に目をやると、その針は五時四十四分を指していた。友人宅から自宅までは自転車で十分もあれば到着する。百合子の胸中で不安が膨らんでいった。

『……もしかしてまだおうちに戻ってないんですか?』友人の母親も察したようだった。

「ええ、いったい何をしているのか……」いつもどおりの声音で答えられたかは、よく覚えていない。

 百合子は夫の航平と共に家を出て懸命に娘を捜した──が、発見できず、午後七時ごろに大弥矢警察署に駆け込んだ。

 その後、朗報を聞くことなく時が過ぎ、昨日、悲報を伝える電話を受けた。そして、今に至る。

 これが、安藤仁美が行方不明になった日から今日までの顛末だそうだ。

 この話の次に、倉橋は怨恨の線を探るため、「仁美さんや百合子さん、ご主人の航平さんに恨みを抱く人物に心当たりはありませんか?」と尋ねた。

 しかし、百合子は首を左右に振った。「わかりません。仁美がいなくなってから夫ともいろいろ話しましたが、そういう人間はわたしたちの周りにはいないのです」

「では、この辺りで変質者や不審者を見たというようなことは──」

「いえ」百合子は眉間にしわを寄せつづけている。「そんな話は聞いておりません」すみません、とかすれた声でつぶやくように言った。

「そうですか……」

 倉橋はそれからも幾つかの質問を投げかけたが、有益な情報は得られなかった。

 礼を述べて安藤宅を辞去した倉橋と椎原は、覆面パトカーの黒のセダンに乗り──運転は椎原だ──安藤仁美が訪れていたという友人宅に向かっていた。そちらからも話を聞く必要があると考えたからなのだが、

「なぁんかダメそうじゃないっすか」椎原が言った。「あんま、いい情報はゲットできなそうな気がするんすよねぇ」

「お前の言いたいこともわかるが、それでも行かないわけにはいかない」

 今までだって捜索していなかったわけではなかったはずなのに見つからなかったのだから、今、突然思い出したように有益な情報が飛び出してくるとは思えない。ほとんど間違いなく無駄骨を折ることになるだろう──椎原はそんなふうに考えているのだろう。たしかに正しい理屈だ。だが、行方不明になる直前に会っていた人間を聞き込み捜査の対象から外すのは、ありえない。

「……やめちゃいません?」椎原はそんなことを言い出した。「聞き込みをするにしても、もっと期待できそうなとこでやりましょうよ」

「例えばどこだよ」

「え、そんなのはわからないっすよ」なぜそれを自分に聞くのか、という語調だった。

「お前ふざけんなよ」仕事を、捜査を何だと思っているのか。「具体的な代替案もなく、めんどうだからやめる、なんてのが通用するわけねぇだろ」

「まぁ、そうっすよね」言うだけ言ってみただけ、ということだったのだろう、椎原に応えた様子はない。「しゃーないっすね」

「わかってんなら初めからアホなことは言わないでくれ」余計に疲れる。

「いやぁ、自分、楽に楽しく生きたいんすよ。手を抜ける可能性がちょっとでもあるならそれに全力を尽くしたいってゆーか」

「それだと、結局は全力を出してるから意味ないんじゃないか?」

「え」と椎原は呆けた声を出した。「言われてみれば……」と深刻そうな表情。何ということだ、という嘆きが見て取れた──運転から意識が離れているように見える。

「おい、ちゃんと集中して運転しろ」

「あ、それは大丈夫っす」椎原は、けろりと答えた。「自分、運転は得意なんで」

 今さっきまで衝撃の事実に愕然がくぜんとしている様子だったのに、どういう精神構造をしているのだろうか──それはともかく、

「そういうことならこれからも運転はよろしくな」

「えー、嫌っすよ」と口をとがらせた。「めんどくさいんで、せめて交代でお願いしますよー」

「気が向いたらな」

 パワハラっす、パワハラ上司っす──などと椎原はぶつぶつ言っていたが、当然、聞き流した。



 宵の刻を少し過ぎたころ、成果の挙がらない聞き込み捜査を切り上げて捜査本部に戻った倉橋と椎原は、しばらくは毎日のルーティンになるであろう捜査会議に参加していた。広い第一会議室には多くの刑事がいる。皆、不機嫌な顔をしているように見えるが、倉橋同様、単に疲れているだけだろう。

 今回の捜査会議の目玉は、安藤仁美の遺体の検案及び解剖の結果報告であった。

 蚊守壁医科大学の法医学教室曰く、『遺体の処女膜は広がっており、加えて、膣、肛門及び直腸にはガラス片によるもの以外にも多数の裂傷があることから、挿入行為があったものと推認される。また、それら裂傷並びに性器及び肛門周辺の刺創しそう(片刃の刃物による可能性が高い)に生活反応が認められ、他方、死斑しはんの様態、内臓の鬱血うっけつなど窒息死の特徴が確認された。したがって、死因は、首にある索痕も併せて考えるに頚部圧迫による窒息と推認される』という──進行役の稲熊が右手にマイクを持って、そう説明した。今日も自慢──かどうかは定かではないが──の七三分けに乱れはない。

「うへぇー」倉橋の隣に座っている椎原が、思わずといった趣で声を発した。心底うんざりするように顔をしかめている。

 生活反応があるということは、生きながらにしてそこを傷つけられた、すなわち今回のケースだと性器と肛門に瓶を挿入されて割られた時にも、股ぐらをめった刺しにされた時にも安藤仁美は生きていて、更には意識があった可能性さえあるということだ。椎原の反応にもうなずける。ヤクザの拷問じゃねぇか、と倉橋もムカムカしていた。

「ヤバいっすね、完璧アウトっすよ、もうヤバいくらいヤバいっすよ」椎原はまくし立てるように声を投げてきた。

 共感するところではあるが、倉橋は気を逸らすように、「野梅やばいは春の季語らしいぞ」と言った。不快なことばかりを考えつづけたくなかったのだ。

 ちなみに、もののあはれ、などといったものに興味を持ったことはない。そんな倉橋が野梅という言葉を知っているのは、先日読んだ小説に登場したからで、その小説のキャラクターのように普段から日本語の正しさに囚われているわけでもない。

「は?」椎原は目に困惑を映した。「ヤバイワハルノキゴ?」片言の外国人が唱えた魔法の呪文のようだ。「いきなり何言ってんすか?」

「今は秋なんだから、『野梅、野梅』って連呼しないほうがいいんじゃねぇかってことだよ」

「はぁ」気の抜けきった相づち。「よくわかんねぇっすけど、了解っす。冬になってから言うようにするっす」

「──っ」危うく吹き出すところだった。

「何でにやけてんすか」

「何でもねぇよ」ほら、会議に集中しろ、と子供に注意するかのように促すと、

「ういっす」

 と来た。やはり軽すぎる。が、不思議と不快感はない。だんだんと馴れてきたということだろうか──。



 倉橋たち捜査員一同は、悪辣な殺人鬼を逮捕しようと刻苦精励こっくせいれいした。それは、正義感からというよりも、世間の声に急かされて、という面のほうが大きいようだった。

 そうして二週間が過ぎた。しかし、未だに逮捕どころか被疑者すらいない状況が続いていた──例の精液については、現在、警察の保有するDNAデータベースにある、どのDNA型とも一致しないことが判明していた。これは犯人が前科者や過去の事件関係者ではないということで、つまりは事実上、膣や直腸内に残された精液がほとんど捜査の役に立たないことを意味する。

「うーん、何度考えてもわからないっす」頭の後ろで手を組んだ状態でパイプ椅子にもたれながら椎原が言った。「次の殺人も一向に起きないし、あの手紙はやっぱりただのブラフだったんじゃないんすかねー」

「かもな」倉橋は答えた。「だが、油断はできねぇよ」

「そりゃあそうっすけどー」

 倉橋たちは、特別捜査本部にて夜の捜査会議が始まるのを待っていた。周りには、いかつい、しかし疲労感を背負った捜査員たちが、続々と集まりつつある。あと十分もしないうちに捜査が進展していないことを報告するためだけの捜査会議が開かれるはずだ──そう思っていたのだが、今日は少し違うところがあった。会議の開始に先立って配られた資料──A4サイズのコピー用紙をホチキスで留めた簡素なものだ──に、とある捜索願の詳細、行方不明になった少女の情報が記されていたのだ。

 おいおいおい──嫌な予感が現実になりつつあることに不安と嘆きを心が発した。とうとう次の子がさらわれちまったのか……?

 会議の始まりを告げた稲熊は、

「先ほど──具体的には今日の午後九時過ぎに、ある捜索願が出されました。まずは、お手元の資料をご確認ください」

 と言った。

 椎原が慌ててコピー用紙をめくるのがわかった。そして彼は、「あっちゃー」と小さく発した。「倉さん、これって、たぶんそういうことっすよね?」

「稲熊さんの話を聞けばわかるだろ」すげなく答えた。倉橋は強がっていた。スーツの内ポケットに手が伸びかけるも、押しとどめた。

 気がつけば、第一会議室の空気が暗く、重くなっていた。

 稲熊は説明を続ける。「行方不明になったのは、埼玉市に住む番平ばんだいら理恵りえさん。今年で八歳になる、私立開達かいたつ小学校に通う少女です」

 開達小学校は県内では有名な私立小学校だ──教育環境が非常に充実しているという話は聞いたことがあるが、倉橋は人生において関わったことはない。完全に未知の世界である。

聡明そうめいなお嬢さんなのでしょうね」と置いて稲熊は、家族構成の説明に移った。「お父様は、みなも銀行に勤務する不動産鑑定士で、お母様は専業主婦をしており、ご兄弟は四歳の弟が一人だそうです」

 みなも銀行というと、いわゆるメガバンクと呼ばれる巨大銀行だ。そこで不動産鑑定士をしているのならば、相当な高収入だろう。

「行方不明になった時期、年齢、性別、居住地域、家庭環境──これらの共通点から〈埼玉市少女誘拐殺人事件〉と関係がある可能性を憂慮し、取り上げさせていただきました」そして稲熊は、「したがいまして、今後は我々も番平理恵さんの捜索に当たりたいと思います──異議がありましたら挙手をお願いします」

 第一会議室は沈黙した。誰にも反対意見はないようだった。

「異議はないようですので、この方針は決定ということで、次は例のクイズについてです。番平理恵さんが〈埼玉市少女誘拐殺人事件〉の犯人にさらわれたのだと仮定すると、前述の共通点がミッシングリンクになると言えますが、これらだけをクイズの答えとするのは、手紙にあった、『もっと細かく答えないと大正解はあげられない』『僕の好みさえわかれば待ち伏せして逮捕することも可能』との文言にそぐわいと思われます──換言しますと、待ち伏せができるほどターゲットを限定できていないため解答として不十分だと愚考いたしました。手紙がまったくの虚偽である可能性もありますが、そうでない可能性を無視するわけにもいきませんので、手紙に嘘はないと仮定したうえでの皆さんのご意見をお聞かせください」クイズに関して何かありましたら挙手をお願いします、と稲熊は呼びかけた。何度も繰り返し、そして返事のなかった言葉だ。しかし、今回は新たな要素が加わっている。皆、これまで以上に真剣な面持ちで黙考しているようだった。

 資料にある番平理恵の写真を眺めながら倉橋も思考する──しかし、わかりそうになかった。番平理恵の一重の鋭い瞳に、どうしてわからないの? 早く助けてよ、苦しいよ、死にたくないよ、と訴えられている──責められているように感じ、自然と眉にいびつな力が入った。今も生き地獄にいるかもしれないと、そして近いうちに非道な手段で殺害されるかもしれないと思うと胸が痛い──けど、と倉橋は言い訳をする。まだ情報が少ない。もっとヒントを集めないと頭のいい人間でも答えにはたどり着けないだろう──。

「あのー、ちょっと確認してもいっすかー?」不意に意識を現実に引き戻された。その大きな声を発したのは、椎原であった。緩い雰囲気そのままに控えめに右手を挙げている。

 おいおいおい、と先ほどと同じ言葉が倉橋の頭の中に響いた。しかし、その音質は異なっていた──比較すると、だいぶん軽い。

 また変なことを言うんじゃないだろうな。下手なことは言わないでくれよ……。

 倉橋は相方のやらかしを心配していた。

「彼にマイクロフォンを」今まで何の答えも返ってこなかった問いかけに対して初めて反応があったからだろう、稲熊の声は、変化が小さすぎてわかりにくいことこの上ないが、弾んでいた。

 バケツリレーさながらに捜査員の手から手へとマイクが渡され、間もなく椎原の手のひらに収まった。「あざっす」と彼は小さく会釈し、「えと、大弥矢署の椎原っす」と始めた──瞬間、第一会議室全体に空間が歪むかのような強烈なエコー。「うわっ」本人が一番驚いている。

「マイクを貸せっ!」倉橋がマイクを確認すると、エコーの設定──マイクに調整用のつまみがある──が最大になっていた。

「はぁ」倉橋の吐息は気疲れに染まっていた。何やってんだか。本題に入る前からやらかしやがって。

 しかし、冷静に考えるとマイクを渡したほうにも責任があるとわかる。やはり、何やってんだか、だった。

 エコーをゼロにしてから、「ほら、エコーは切ったからもう大丈夫だ」と椎原にマイクを返す。

「サーセン」マイクを受け取った椎原は、改めて口を開いた。「いやぁ、人生、何があるかわかんないっすね」あっけらかんと言ってから、「あれ? 何を言おうとしてたんだっけ……」

 はぁ?──倉橋は呆気あっけにとられたし、周りのむつくけき捜査員たちも、ぽかんと口を半開きにしている。クールな稲熊も例外ではない──すなわち、例外的な事態である。

「あ、そうだ」椎原は言った。どうやら思い出したようだ。よかった。本当によかった。「あの、たいしたことじゃないんすけど、お金持ちの子がさらわれたんすよね? だったら身代金みのしろきん目的の可能性もあるんじゃないかなー、みたいな。そこんとこ、どういうスタンスでいくんかなー、的な?」

 倉橋の緊張が、ふっと緩んだ。何だ、それを聞きたかっただけか、と。本当にたいしたことじゃねぇなぁ、とも思う。

「──ああ、はい」一瞬遅れて稲熊は声を発した。フォーマル感皆無の椎原の口ぶりに唖然として思考力を奪われていたのかもしれない。「言葉足らずでしたね、申し訳ありません。先ほどわたしは、『今後は我々も番平理恵さんの捜索に当たりたいと思います』と申し上げましたが、それには身代金こそが真の目的である場合を想定した捜査も含まれています。椎原さんのおっしゃるとおり、手紙はミスリードで、真の目的は金銭である可能性もありますので、それには当然対応します」

「了解っす。それなら安心っす」椎原も彼なりに考えていたらしい。言動はバイトの高校生並みだが、わざわざ世間の嫌われ者たる警察官になるだけのことはあるということか。

「ほかに聞きたいことはありますか」稲熊は聞いた。

「大丈夫っす」椎原は答え、「クイズの答えはまったくわかんないんで──うん、あとはもう言うことは何もないっすね」とさわやかに言いきった。「あざした」

「……」稲熊は沈黙している。気のせいか、神経質に撫でつけられた七三分けにいつもの艶がない。

「?」椎原は不思議そうに稲熊を見た。「どうしたんすか? 大丈夫っすか?」

 大丈夫っすか? じゃねぇよ。お前巡査だろ。稲熊さんは警視なんだぞ。年齢もずっと上だし、もっとまともな言い方はできねぇのかよ。

 倉橋は頭痛を感じた。

 まさかとは思うが、バディを組んでいるからという理由で俺が説教されるなんてことはないよな?

「……はい、ありがとうございました」ようやく稲熊は再起動した。「ほかにご意見やご質問のある方はいらっしゃいますか?」

 その後の会議はアクシデントなく進行していった──クイズの答えは出せないままだったが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る