桜小路蒼介②

 蒼介のスマートフォンが着信音を鳴らす。時刻は午後の八時四十五分を回ったところだ。

 夕食が終わった後も帰らずにのんびり(?)していた堂坂と顔を見合せる。早く出てやれ、とでも言うように堂坂がうなずいた。

 わかりました、とうなずき返し、スマートフォンを見ると、電話を掛けてきたのが課長の白田であると判明してしまった。十中八九、仕事の電話だろう。やだやだ、と嘆息し、通話アイコンをタップする。

「お疲れ様です」と感情のこもらない枕詞まくらことばを置き、「どうされました?」

『お前、今どこにいる?』白田は当たり前のように蒼介の質問を無視した。

 あ、これダメなやつだ、とワンチャンただの雑談電話かもしれないと考えようとしていた蒼介の希望は打ち砕かれた。

「……埼玉市の自宅です」正直者ゆえに不服さのにじむ声音になってしまった。

『堂坂も一緒か?』言下げんかに尋ねてきた。

「ええ、いますけど」

『わりぃが、仕事だ。堂坂と二人で今から現場に行って初動捜査に加わってほしい』

 ですよねー、と思いつつ、「被害者ガイシャはVTuberだったりします?」

 すると白田は、『お、よくわかったな。配信を見てたのか?』

「まぁ、そんなとこです」

『そうか、なら、話が早いな』と、それから白田は、VTuber・天雲響華、本名・早野はやのまい(二十六歳)の自宅マンションで他殺と見られる彼女の死体が発見されたことを説明し、そのマンションの住所を口にした。

 早野のマンションはここからそう遠くない。車を飛ばせば二十分と掛からずに到着するだろう。

「わかりました、すぐに向かいます」

 答えると、白田は申し訳なさそうな声色で、

『本当に悪いな。俺も若いやつらの邪魔はしたくな──』

「誤解です」蒼介の神速のレスポンス。

『お、おう、そうか』白田はたじろぐように言い、しかし、『──じゃあそういうことだから頼んだぞ』とすばらしい切り替えを見せた。

 わかりました、と通話を終えて蒼介は、堂坂に白田の言葉を伝えた。

「やはりこうなったか」堂坂はつぶやくように応じ、ソファから腰を上げた。スーツのジャケットを羽織り、「行こうか」

「ええ」蒼介はそれから、ソファに座ってスマートフォンで何かをしている雫由に、「すまんが、行ってくる」

 雫由は気にしたふうもなく、というかスマートフォンから目を離さずに、「うん、いってらっしゃい」  

 そして、玄関を出て車に乗ろうとしたところで堂坂がぽつりと言った。「ところで課長は何を誤解していたんだ?」

「……さ、さぁ?」

 

 

 早野の自宅マンションは、埼玉市の心臓部たる大弥矢おおみや駅から車で二十分ほどの場所、住宅やマンション、飲食店、パチンコ店、ホテルなどが煩雑に存在する第二種住居地域にあった。十五階建ての比較的新しいマンションだ。

 現場に到着した蒼介たちは、初動捜査の陣頭指揮を執る長妻ながつまゆたか管理官の下──早野の部屋のある十四階の外廊下に向かった。

 十四階に着いてエレベーターの扉が開くと、忙しく動き回る鑑識官たちの中にひょろりと背の高い白髪頭の中年男性を見つけた。彼が長妻だ。

 長妻も蒼介たちに気づいたようで、「お、早かったね」

 お疲れ様です、と蒼介と堂坂がそれぞれ応え、続けて堂坂が、「状況を教えていただけますか」

「ん~、それがねぇ」長妻はよく伸びる餅のような口調で言う。「よくわからないんだよねぇ」

「よくわからない?」蒼介がオウム返しに問う。「どういうことですか?」

「うん、まずはこれを見てほしい」長妻は早野の部屋の玄関扉──鑑識官たちがひっきりなしに出入りするため開けっぱなしだ──のドアノブを指した。

 どれどれ、という感じで堂坂がドアノブに顔を近づけて確認する──と、「ん、これは……」彼女は何かに気づいた様子。

 もしかして、と蒼介はすでに予想を立てていた。

「鍵穴の辺りに何かで引っ掻いたような傷が幾つかある」堂坂は言う。「ピッキング跡でしょうか」

 やっぱり──蒼介の予想は的中した。ということは、「物取りによる殺人ですかね?」

「室内の引き出しなども荒らされてるみたいだし、俺も最初はそう思ったんだけどねぇ」長妻が答える。「でも、冷静に考えるとその可能性は低いと思うんだよね。だって、ここの鍵は、最近のマンションの例に洩れずディンプルキーなんだよ」

 ああそっか、じゃあ違うな、と蒼介も得心した。ディンプルキーは非常にピッキングしにくい鍵なのだ。それでも無理やりピッキングで何とかしようとするとかなりの時間が掛かる。したがって、現実的ではないだろう。

 ちなみに、この玄関扉にはドアチェーンが付いているが、ゴムとテープを使えば外からでも簡単に外せるため考慮する必要はない。

「ふむ」と堂坂は眼鏡のブリッジを中指で軽く押し、「では、これは物取りに見せかけるための偽装工作でしょうか。つまり裏を返せば──」顔見知りによる犯行。そう続けようとしたのだろうが、彼女の発言は、

「まぁまぁ、そう結論を急がないでくれ」長妻により中断させられた。「短気は損気だよ、千尋ちゃん」

「はぁ、わかりました」堂坂は生返事をした。自身の推理を否定されたこと、あるいは千尋ちゃん呼びされていることを納得しかねているのだろうか。

 長妻は苦笑し、続ける。「遺体の様子から殺害方法は刺殺だと思われるんだけど、凶器は現場──配信用の防音室にもほかの部屋にも残されていなかった。傷は腹部、胸部、背中に一つずつの計三つ。おそらく、最初に、当てやすい腹部を刺して身動きできないようにダメージを与え、次に心臓を狙って胸部と背中を刺したんだろう」殺意の塊みたいなやり方だねぇ、怖い怖い、と軽口めいた調子で言ってから、「ただ、被害者の早野は即死はしなかったみたいで、防音室のパソコン周りには血痕が広範囲に残されているそうだ」

 多量に出血しながら動いたということだろう。たしかに堂坂から聞いたライブ配信の様子とも矛盾しない。早野が、『え、あれ、どうして……』と戸惑うように言った後、最期の言葉らしきものを視聴者たちに伝えるまでにタイムラグがあったのは、彼女を刺した犯人がマンションから立ち去るのを待って、あるいは立ち去った後に意識が戻って、それから最期の力を振り絞って行ったからだと考えられるということだ。

 ここまで理解できた蒼介は、ん、あれ? それっておかしくないか? と不可解な点に気がついた。

「響華ちゃん──早野はなぜ犯人の名前を口にしなかったのでしょうか?」顔見知りの犯行であったのならダイイング・メッセージとしてその名を全国の証言者候補リスナーたちに伝えることもできたはずだ。

「うん、そうだね、そこも引っかかるんだ」長妻は含みを持たせつつも首肯し、「物取りによる犯行だったから、犯人をかばったから、刺されたショックでそこまで頭が回らなかったから、と、幾つかのパターンが考えられるけど、今のところ断定するには決め手を欠く状況なんだ」

 なるほどそれは厄介だ、と、そして、今夜は寝かせてもらえないんだろうな、やだなぁ、雫由、今夜は帰れないよごめんな、と悲しい気持ちになりつつも蒼介は、「そうはいっても物取りの線はほとんど除外してもいいんでしょう?」と確認。「それともピッキング以外で侵入した形跡でもあったんですか?」

 いや、と長妻は細い首を横に振って否定し、「それは、少なくとも現時点では発見されていないそうだ」指紋採取中の鑑識官たちを横目に、「だから物取りなどの合鍵を用いない侵入者の可能性については、蒼介君の言うとおり低いと見ていいだろう」と答え、一呼吸置いてから、「千尋ちゃんに聞きたいんだけど、千尋ちゃんみたいな若い女の子は普通、在宅中でも玄関扉の施錠はするものだよね?」

「若い女の子……?」この人三十三歳だぞ? 長妻さんは何を言ってるんだ? と首をひねる蒼介の瞳に、おかしみにほぐされたような堂坂の視線が触れた。何となく気まずさを感じ、「あ、いえ、違うんす、これはそういうことではなくてですね──」とごにょごにょしつつ肩を縮める。

 小さく苦笑して堂坂は、長妻に視線を移し、彼の質問に答える。「そうですね、若くない・・・・わたしでも基本的には警戒して施錠しますので、若い子ならなおさらかと思います」若くない、のところがやけに明瞭で、非常に聞き取りやすかった。

「……」

 蒼介は閉口したが、長妻は、当たり前だが、平然と、「だよね。そうすると、何らかの理由で施錠されていなかったからこそ見ず知らずの人間が侵入してきて早野を刺殺した、というのはあまり現実的ではないと言える──ここまではいいよね?」

「ええ」「だ、大丈夫です」堂坂と蒼介がうなずくと、

「となると、現場の状況から最も妥当だと考えられるパターンは、合鍵を持つ早野の知り合いがその合鍵を使用して侵入し、ライブ配信中の彼女を刺殺。その後、彼女の死を確認することなく、あるいはそれを見誤った状態のまま物取りに見せかけるための偽装工作をし、逃走した──おそらくこんな感じだろう」──と思うんだけどねぇ、と困ったように眉尻を下げ、「これって妙だと思わない?」

 え、何が? いい感じの推理だと思うけど……。

 蒼介には瑕疵はないように思われたのだが、

「たしかにそうですね」堂坂は違うようだった。「それだと犯人にメリットがない」

 メリット? と再度首をかしげかけ、「あ」と気づく。

「そうなんだよね」と長妻。「わざわざライブ配信中に殺す理由がわからないんだ。合鍵を渡されるぐらい親しい関係ならば早野がライブ配信中だと知っていたはずだ。それは取りも直さず意図的にそのタイミングを狙ったということになるわけだけど、そんなことをしても正確な犯行時刻が知られるだけで、犯人にとっては何の利益もないはずなんだ」俺たち警察からすれば助かるけどねぇ、と肩をすくめた。

「……整合性の取れる場合を強引にでも挙げるならば」堂坂は言う。「猟奇的な動機の場合、又は相当に自信のあるアリバイ工作をしている場合でしょうか」

「うん、そうだね、俺もそう思う。現時点で判明している事実からだとそれくらいしか考えられない。けど、その二パターンは、絶対にないとは言えないけど、でも、フィクションの世界でもない限りそうそうあることじゃない」俺も長いこと警察官をやらせてもらってるけどねぇ、と置き、「本当の猟奇殺人は片手の指で数えられる程度しかお目に掛かったことがないし、推理小説じみた複雑でドラマチックなアリバイトリックに至っては一度も見たことがない」

 たしかにそれはそうだろう、と思う。実際の殺人事件は──例えば家族への不満が爆発して衝動的に刺してしまった、というように──泥くさく、何よりシンプルだ。現実と創作はやはり別。これは議論の余地のない真実だろう、と蒼介も認めている──まぁ、今年の夏のあれのようにごく稀に例外的なケースもあるようだが。

「だから、よくわからないんだよねぇ」と長妻は最初の台詞を繰り返した。「目の前の現実は顔見知りによる犯行だと物語っている。それなのに、そう考えると非現実的な状況を受け入れなければならなくなる」それから少しだけ語調を明るくし、「ま、幽霊の正体見たり枯れ尾花って言うし、調べていけばたいしたことのないありふれた真相にたどり着くかもしれないけどねぇ、今のところはこんな感じだよ」と結んだ。

 うーん、何だか難しい事件に当たっちゃったなぁ、と推理の苦手な蒼介は天、というか天井を仰いだ。俺肉体労働担当なんだけどなぁ困るなぁ向いてないのかなぁ人事にお願いしてみようかなぁ。

「──そういえば、エントランスに防犯カメラがありましたが」不意に堂坂が言った。「それに犯人が映っている可能性は──」しかし、彼女自身その可能性は高くないと思っているのか、自信なげな声だ。

「それなんだけどねぇ、あまり期待しないほうがいいと思うよ」長妻は答える。「映像の確認ができるのはマンションの管理人が来てからだからまだ推測でしかないけど、物取りに見せかける偽装工作をするような人間が、それに思い至らないとは思えない。何らかの対策をしていると見るべきだと思うよ」

「対策?」そんなこと簡単にできるのだろうか、と疑問に思う。「ここのマンションってオートロックでしたよね? それなら部外者が不法侵入するには共連ともづれや入れ違えによるしかないし、普通に映ってるんじゃ……?」

 共連れとは、住人などがマンションに入る際に何食わぬ顔で共に入る侵入方法のことで、入れ違えはその逆、つまり住人の外出のタイミングに合わせて侵入する方法のことだ。

 ふふ、とお手本のような微笑を洩らした長妻は、「半分は正解だね」と不正解を告げた。

「桜小路は盗犯の仕事はしたことがなかったんだったか」堂坂は長妻に言い訳──蒼介をフォローするように説明的な台詞を口にした。

「ええ、刑事部ではずっと一課の強行犯係ですし、その前を含めても交通指導課と交番勤務しか経験がないです」こちらは言い訳そのものの発言。しかし、事実だから仕方がない。

 うん、と置いて長妻は、「こういったオートロックマンションへの空き巣の事例では、今、蒼介君が挙げてくれた手口以外にも非常口からの侵入というのがよくあるんだ」

 非常口か、なるほどー、とノータイムで納得しかけて、しかし、はたと気づいた。いや待てよそれは難しいのではないか、と。

「こういうとこの非常口って、内からは鍵なしで開くけど一度出てしまうと自動で施錠されて外からは鍵がないと開かないってタイプが多かったような……」要は、そちらから侵入するにしてもその鍵を何とかしなければどうしようもないのでは、と思ったのだ。

「そうだね、それは間違ってないよ。そうでなければオートロックの意味がなくなってしまうからねぇ」でもね、と長妻は言葉の向きを変える。「例えば、カメラの映像の保存期間──一般的には一、二週間、長くても一箇月ぐらいか、まぁ、そのくらいの期間を空けることを前提に、前もって共連れ等で正面玄関から侵入して非常口の扉に細工をしておけば、殺人の実行時には非常口から鍵なしで侵入でき、かつ細工時の犯人の映像が記録媒体HDDやSSDなどから消えているという状況は作り出せるんだ」

「細工というのは、具体的にはどういうものなんですか?」鍵屋じゃあるまいし素人に可能なのか、と懐疑している。だっていまいち想像できないし。

 はぁ、と堂坂は太い溜め息をついた。そして、「申し訳ありません、わたしの指導が不十分でした」と、しかつめらしく長妻に謝罪。

 まじめだねぇ、と優しげな苦笑を浮かべて長妻は、「ゆっくり覚えていけばいいさ」と、それから蒼介の質問に対し、「細工の詳細だったね。例えば、非常口のラッチボルトの受け口に詰め物をしたり、ドアストッパーを噛ませたり、だね──つまり、非常口の扉が完全には閉まらない状態にして施錠されないようにするということさ」

 そういうことか! と今度こそ合点した蒼介は、「すみません、やっとわかりました。お手数お掛けしました」

「わかってくれたならオッケーよ」長妻はふわりと答えた。

 話が落ち着いたところで、

「──状況はわかりました」堂坂が言う。「では、ご指示を頂けますか」

「う~ん、そうだねぇ」長妻は早野の部屋の玄関口を一瞥し、「本当は現場を見せたいんだけど、鑑識さんたちの仕事がもう少し掛かりそうだからねぇ、とりあえず近隣住民に話を聞いてきてほしい。で、頃合いを見計らって俺のとこに来てくれるかな」と指示。

 蒼介と堂坂は、「わかりました」「承知しました」と応じた。

 続いて長妻は、「聞き込みの地域は──」とその範囲を指定した。

 初動捜査が始まった。



 しばしの間、聞き込み捜査をしてから長妻の所に戻ると、彼は、胡坐あぐらをかいた鼻の、鑑識官の壮年男性と話をしていた。

 長妻が言う。「ご苦労さん──どうだった? 何か有益な情報はあったかな?」

「いえ、それが全然ダメでした」蒼介は答えた。

「そう──ま、仕方ないねぇ」長妻は重みを感じさせない口調で言い、「じゃあ次は現場を見ようか」

 ということは鑑識の仕事は粗方終了したのだろう。

 首肯すると、

「それでは、ご案内しますね」と鑑識官の男性が慇懃いんぎんな声音で言った。

 鑑識官の壮年男性は黒石くろいしと名乗った。警部補らしい。すなわち、蒼介たち四人の中では警視である長妻に次ぐ階級──堂坂と同格なのだが、彼はなぜか誰よりも腰を低くして観光地のツアーガイドよろしく蒼介たちを先導している。

「こちらが早野舞の遺体のあった部屋です」

 まずは殺害場所と思われる配信用の防音室を訪れた。十帖ほどだろうか、そこそこの広さの洋室だ。

 入って右側の壁際には大きなパソコンデスクがあり、その上には二つのディスプレイとデスクトップパソコン、キーボード、マイク、エナジードリンクの缶やペットボトルなどが置かれている。その反対側の壁際の棚には天雲響華のキャラクターグッズが並べられていて、その横のフローリングには段ボール箱がある。さらに電子ピアノとギターもあり、まさに配信者の仕事部屋といった趣だ。

 遺体はすでに運び出されている。が、その痕跡たる血痕は、パソコンデスクの前の、ゲーミングチェアというやつだろうか、座り心地のよさそうな椅子とその下のカーペットを中心に広範囲に残されている。

「……ひどいですね」その時の早野の苦しみを思い、蒼介は顔をしかめた。

「ええ、まだ若いのに不憫ですよ、本当に」と黒石の相づち。

「桜小路、ちょっとこれを見てくれ」堂坂だ。彼女はパソコンのディスプレイを見ながら何やら真剣な面持ち。

 どうしたんすか、と近寄ると、

「これってカメラだよな?」堂坂は、ディスプレイの上部に据え付けられている、中心にレンズのある黒く細長い物体を指差して言った。

「そうですね、それで撮影してアバターを動かしてたんでしょうね」

「なぁ、桜小路」

「何ですか」

「配信中、つまりは撮影中に犯人がこの部屋に入ってきたわけだから、その犯人も撮影されていて、どこかにデータが残っているのではないか?」

 気づけば、長妻と黒石も横に来ていた。

「たしかにそうですね」と黒石は同調し、

「けどねぇ、そんな誰でも気づきそうなことを見落とすかねぇ」と長妻は懐疑的だ。

 そして、髪の毛程度は容れられるだろう時間が過ぎてから先輩たちは、で、どうなんだ? と蒼介に回答を要求してきた──二十代だからこういう流行りものに明るいとでも思っているのだろうか。

 俺だってそんなに詳しくないんだけどなぁ、と内心文句を垂れつつも、「響華ちゃん推しのうちの義妹──あーと、推しっていうのはファンとして応援してるって意味なんですけど、その、響華ちゃんのファンの義妹から聞いた話では、響華ちゃんの所属事務所の〈さいば~きゃんどるず〉では独自に開発したトラッキングソフトをタレントに配付しているそうなんです。そのソフトは事故による顔バレを防止するために指定したトラッキングポイントの追尾以外は行わないようになってるらしいんです。だから、顔とか部屋の様子とかはそもそも撮影していないはずですよ」

「流石はアイドル系VTuber事務所といったところでしょうか。よく考えられていますね」と黒石は感心するように言い、

「そこまでして隠さなきゃならないほどひどい顔してんのかねぇ、VTuberやってる子たちってのは」と長妻はすごくひねくれたことを言う。

 そして、言い出しっぺの堂坂はというと、

「とら、とらっきんぐ?」

 舌足らずの幼児のような、年齢にそぐわないちぐはぐな愛嬌を零していた。

「アバターを動かすための動作追尾機能のことですよ」と補足すると、

「あ、ああ、そうだったな」と、さもド忘れしただけで本当はちゃんと知っていましたよ、というような言い草。

 蒼介は半眼で堂坂を見た。

「な、何だ?」堂坂はうろたえているようだ。

「いえ、別に」

 と、妙な空気が漂いかけた時、

「〈さいば~きゃんどるず〉が自社開発のトラッキングソフトを使わせているという情報は、一般に公開されているのかい?」長妻がはっきりとした語気で聞いてきた。

「ええと……」

 雫由との会話を思い返す。その会話は、女性に人気の男性VTuberが配信事故で顔バレしてしまった、というネットニュースを見た蒼介が始めたものだった。

「『人気VTuber、チー牛顔をさらして炎上』だってさ」

「うん、知ってる」

「大変だよなぁ、芸能人は──VTuberって、芸能人と言えるのか?」

「よく炎上で稼いでるから能人だよ」

「ふうん」

「うん」

「雫由の好きなVTuber、ええと、何て名前だっけ? 天丼餃子?」

「天雲響華。そんな高カロリーな名前じゃない」

「そうそうそれ。その子は大丈夫なのか? 恥ずかしい瞬間をうっかり全国にお届けしたりとか」

「響華ちゃんはうっかりじゃなくてちゃっかりしてるから大丈夫だと思う。それに、事務所の顔バレ対策もしっかりしてるから」

「うっかりでちゃっかりなしっかりした顔バレ対策?──配信時は銀行強盗のコスプレでもするのか?」

「ふざけないで」

「あ、はい、ごめんなさい」

「……響華ちゃんの事務所は顔バレ対策を徹底した配信用アプリを用意してるんだよ」

 そして、雫由は自身のスマートフォンを操作し、「ほら」と言ってその画面を蒼介に向けた。

『弊社開発のトラッキングソフトは……』と、その仕様についての解説が表示されていた。

 あれはたしか……、と記憶を掘り返す──そうだ、〈さいば~きゃんどるず〉の公式サイトだった。

 失われ(かけ)しいにしえの記憶の発掘に何とか成功した蒼介は、長妻の質問に答えるべく口を開いた。「事務所の公式サイトで普通に公開されてる情報のはずです」

「あらら」長妻は残念そうな声で、「それを知ってる人間が限定的なら被疑者を絞れたんだけどねぇ、そう甘くはないか」それから、ふー、と息を吐き、仕切り直すように、「──ま、そこら辺も含めて後で裏を取るとして」と言ってから黒石に声を向けた。「ところで、足痕跡ゲソコンはあったかな?」

「いえ、それらしいものは発見できませんでした」黒石は間を空けずに答えた。

 そうか、とささやくように応じた長妻は、次いで、「では、合鍵を持っている人物の特定に繋がりそうなものは?──例えば恋人とのツーショットとかだね」

「いえ、それも」と黒石は首を横に振った。

「……スマホに手がかりがあったりはしないかね」どうやら長妻は早野の恋人が犯人なのではないかと推測しているようだ。

 妥当なところだと蒼介も思うし、堂坂もそれに異議はないらしく口を挟まずにいる。

「どうでしょうか」と予防線を張るように口にしてから黒石は言う。「署に持ち帰って確認してみないことには何とも──」

 スマートフォンには恋人とのやり取りの履歴が残っているかもしれないが、ロックが掛かっているだろうし、この場ですぐに確認とはいかないのだろう。これも仕方のないことだ。急いては事を仕損じる。焦らずにいこう。

 と蒼介は思ったのだが、

「──やはりすぐに見たいですか?」

 黒石は長妻に尋ねた。

 お?──風向きが変わったのを肌に感じた蒼介は、期待感を膨らませる。

「そりゃあ見たいさ」長妻は、それが当然の真理であるかのように言った。「できるんならぜひお願いしたいねぇ」

「わかりました、実は──」

 黒石が言うことには、何種類かのパスワードが記されたメモが見つかっていたらしい。署に戻ってからじっくり確認しようと考えていたそうだが、臨機応変な対応もできなくはないという。

 回収された証拠品が載せられたパトカーは、マンション前の路肩に駐められている。うちそろってそこまで移動すると、黒石は、「少々お待ちください」と言ってパトカーのリアドアを開けた。車内に身を入れ、そしてすぐにお目当てのものを手にして、リアドアを閉めた。

「お待たせしました、これがそのメモで──」と黒石は証拠品用の透明なビニール袋に入ったメモ用紙を見せ、「そして、こちらが早野のスマートフォンです」と同じくビニール袋に入ったスマートフォンを見せた──いつの間にやら黒い手袋をしている。おそらく導電糸どうでんしの使われたスマートフォン対応手袋だろう。

 メモ用紙にはパスワードらしき文字列が五つとそのうち四つのパスワードにそれぞれ対応するようにユーザー名らしきものが二つ、メールアドレスらしきものが二つ記されている。

「とりあえず、この、単体で書かれているパスワードを入力してみてくれ」

「わかりました」長妻の指示に従って黒石は、ビニール袋からスマートフォンを取り出して操作しはじめた。するとすぐに、「──ロック解除できました」

 おー、と蒼介は心の中で控えめな歓声を上げた。

「よし」と発して長妻は、次の指示を出す。「通話・メッセージ用のアプリから確認していこう」

 黒石は首肯し、すばやく指を踊らせる。

 夜の静けさを聞きながら朗報を待つ。

 風が髪を撫でて流れてゆく。さらさらとした、秋夜しゅうやのそれは、随分と心地よい。見れば、堂坂は空を仰ぎ見ていた。蒼介もそれに倣い、夜空を見上げてみた。月が出ていた。満月ではないが、弓張り月と言うほどでもない。

 何とも中途半端でいまいち風情がないなぁ。そんなことを思いつつも、ぼんやりと月を眺めつづける。しばし、そうしていた。

「ありました」静かな、しかし確かな口調で黒石が言った。「恋人らしき男性に、『撮影長引きそう』『合鍵で開けて入ってて』というメッセージを送っています」

 パチン、と長妻は軽快に指を鳴らし、「いいね!」と、これまた軽快な声で言い、「とりあえずはその彼氏君を最有力被疑者として最優先で調べるよ」

「はい!」「承知しました」「かしこまりました」蒼介、堂坂、黒石がそれぞれの言葉で首肯を伝えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る