(三)

 次の日もゆうはやってきた。


 さすがに三日目ともなると伊織は驚きはしなかった。他の者も似たようなものである。

 伊織が帰宅した頃、前の日もその前の日ともだいたい同じ刻限に現れた彼女を、三日目の武蔵は二日目と同じく木剣の二刀で応じた。

 二日目と同じ場所で向かい合う二人を、やはり眺めているのも昨日と同じ面々である。

 緊張感がまるでないこともないのだが、昨日のやりとりからどれほどの隔絶した実力差があるのかは知れていた。前回にも増して問題なさげに、たまにする稽古を眺めているような雰囲気である。

 ゆうが、そのある種自分を侮蔑しているような空気のを感じていないはずがない――のだが。

 さして気にしている風もなく、担ぐように野太刀を構える。

 それに応じて、武蔵は軽く中段に剣を上げた。


「――――――――ッ」


 唸るような、呻くような……なんというべきか、声になっていない声だった。

 全員の目がゆうの顔に集中する。

 端正な顔が、熱病に浮かされているかのように歪んでいた。明らかに苦しんでいる。

 額に汗の珠が浮いている。

 だが、不可解なことでもあった。

 彼女は一歩も動いていないし、対する武蔵も剣を上げただけである。

 野太刀も木剣も、互いの身に触れてさえいない状態であった。

 それなのに。

 明らかに、ゆうは気圧されている。 


「ふむ」


 と、武蔵は声を漏らしたかと思うと、ふらりと前に出た。


「…………!」


 ゆうは構えを変えないままに引いた。それは武蔵が出ただけの距離であったが、偶然ではなかった。

 武蔵が一歩、二歩と進むごとに、ゆうは一歩、二歩と下がっている。

 そのまま……気づけば、庭を何周も歩かされていた。

 やがて、それが四周ほどにも及ぼうかとした時、先にゆうの膝が折れた。


「……参りました」


 言うまでもないのだが……、その日もゆうは宮本家で夕餉を食べて帰っていったのだった。



   ◆ ◆ ◆



「……というあらましでございます」

 話を聞き終えた忠政は、呆れたように「なんとまあ」と声をあげてから、しばらく呆然と天井を眺めていたかと思うと、やがて扇子を広げて口元を隠してくつくつと笑い始めた。

 どうやら伊織から今聞いた話が、相当に面白く感じられたらしい。


(これでひとまずは……)


 ほっと安堵の息を漏らす伊織であったが、その自分を厳しい目で見ている者がいるのにも気づいている。

 ちらりと目を向けると、彼と同じく近習の常盤藤右衛門が、殿と仲間の見えない位置で眉を顰めているのが見えた。

 その常盤は、伊織の視線に気づいてぷいと顔をそらす。


「……………」 


 伊織は見なかったことにした。

 小笠原家が信州にあった頃から仕える常盤藤右衛門は、播磨に転封されてからとりたてられた伊織のことをよく思っていない。

 他にも播磨の人間はいないでもないのだが、やはりいきなり近習に抜擢されたということが問題なのだろう。

 ことあれば伊織の非を見つけ出して咎めだてようと伺っている……そんな節がある。伊織としては勘弁して欲しいところだが、仕方のないと諦めてもいる。人の心などそう変えられるものでもない。ひとたび歪めば戻ることは難しい。

 そして歪んだ心から見れば、何もかもが歪んで見える。

 今も多分、伊織が主君の興を買うため、あることないことない交ぜにして話をしたとでも思っているのだろう。

 自分も他人事として聞いていれば、きっとそうだったろうなとも思う。

 何一つ嘘はないのだが。

 何一つ本当らしく聞こえない。

 忠政はそんな近習たちの見えざるところでの確執を知ってか知らすが、ひとしきり笑った後に、疲れたように息を吐いた。 

「しかし、がん流とは……」

 と呟いた。

 何処か意味ありげに、微かに困惑している風にも聞こえたが、ここで伊織がそれを問いただすのはまさしく僭越というものである。

 忠政はしばし思案した後。

「なにやら、おかしなことが起こりそうじゃの。伊織、事が終わり次第、解る限りのことを報告するように」

「は」

 否やをいえる立場に伊織はなく。

 平伏して、この日の茶会は終わった。



   ◆ ◆ ◆



 ……やがて片付けも済み、帰宅のためにと伊織は足早に廊下を進んでいたが、不意に声をかけられた。

 今日もゆうがくるのに――と思って気が急いていた伊織であったが、さすがに城中がかけられた声を無碍にはできず、足を止めた。


「清川殿か」


 清川秀久という、伊織より十幾つか年上で馬廻組に所属している男である。馬廻りというのは殿様の護衛であり、生半な腕前では勤まらない仕事である。清川も元々は戦場往来の兵法者であったと伊織は聞いている。

 その清川が、


「宮本先生のことで、申したいことがある」


 と言うのである。

 清川は細面の顔であったが、その上に頬が病的にこけていて、やけに神経質そうに見える。

 近習として忠政に何年も仕えている伊織は、この男が生来そのような容貌をしていても、実際の性質とは関係ないということは知っていた。

 しかし、その日の清川は何処か苦悩を滲ませた眼差しで彼を見ていた。


「父上のことでございますか」


 どうせまた面倒なことなのだろう――とは思ったが。

 清川の言葉は、それを肯定するものだった。


「どうも、最近、兵法者が妙に多く明石に来ていると思ったが……どうやら宮本先生を狙っているらしい」

「はあ――――なるほど」


 そういえば、ゆうのことで忘れていたが、何やらいう早抜きだかの使い手が着ていたとかの話もあったと伊織は思い出す。

 兵法――剣術というものが流行りだしたのは、ここ数十年のことだと伊織は聞いている。

 勿論、遥か昔、判官義経の頃からすでに剣術だのがあったという程度の知識は伊織にもある。伝教大師最澄やら、菅原道真、藤原鎌足などが開祖であると称している流派さえあるという。

 もっとも、養子になったばかりの頃、そういうものに興味を持って武蔵に尋ねたことがあるが、それらは箔付けの作り話だ、とばっさりと切り捨てられた。

 最近でも天真正伝香取神道流などは剣術の元祖を名乗っているが、あの流派がそれを称し始めたのは、徳川家が香取神宮などを庇護しだしたからだろうと。また鹿島の新当流も明神から授かっただのなんだと称しだしたが、それも神君家康公の剣術の師がこの流派の者だからだとか。

 まったくもって、武蔵の舌鋒は容赦がない。

 武蔵がいうには、このようなことは兵法を学ぼうという人間なら皆知っていることで、真に受ける方がどうかしているとのことであるが。


(それはまあ、ごもっともだが……)


 伊織だって、その手の縁起由来を正直に信じるような子どもではない。

 兵法に限ったわけではないが、世の中にはこの手の話が多すぎる。

 やれ狩猟免許を清和天皇にいただいただとか。

 源頼朝公わりの免状を賜っただの。

 兵法は要は使えればいいのだから、そのような権威付け、箔付けの話など必要ないのではないかと、伊織などは思う。

 目前の清川な、いつか何処かで


「剣槍の術などは戦場で習い覚えるもの」


 と明言していた。

 兵法の類など、特に必要はないとまで言う。

 にも関わらずに兵法者として剣を学んだのは、護衛に必要な術理が戦場のそれとは些か異なる――ということもあるが、何処そこの流儀の皆伝だのというのが、自己宣伝の足しになるからだとか。

 ひどくみもふたもない言であるが、そのように語られると、大いに皆頷いたものである。


(武士といえども食っていくためには仕事が必要であり、その仕事にも、何かしらの箔がついた方がよい――そう言われると、納得するしかないが……)

 

 伊織は軽く溜め息を吐く。


「父上に勝つことができれば、多少は看板を売るになる……ということなのでしょうな」

「多少どころか」


 清川は語気を強くした。


「新免武蔵といえば、いまやこの道の大家。話をしたというだけで土産話にもなるし、立ち合ったといえば羨望もされ、勝つなどということが、あれば来世までも誇れる誉れとなる」

「大仰な」


 とはいいつつも、そういえば先述の何某も、元々は話をしにきたのだったと思い返した。

 いまだに逢ったこともないのだが、ちゃんとたつぞうは見舞いをしたのだろうか。

 今更ながら、少し気になった。見舞いをしていたものなら報告の一つもあっただろうが。

 今日は帰ったら聞いておこうと思った。

 清川はさらに声を荒げる。


「大仰ではござらん。伊織殿はお父上がどれほどの方なのか、解っておられんのではないか」

「いや、そんなことはありません」


 咄嗟にそう答えた伊織に、まだ清川は不満げな眼差しを向けたが――やがて軽く首を振った。これ以上言い重ねても無駄だと思ったのか、興奮しすぎたので落ち着こうとしたのか。

 それにしても、とその様子を眺めていた伊織は思う。


(この清川殿にとっても、父上は畏怖と敬意の対象であるのか)


 兵法など箔付けの道具の一つとしか思っていないと明言している清川秀久をして、新免武蔵守藤原玄信という存在はかように大きなものである……そう思うと、伊織はどうにも落ち着かなくなる。

 やがて。


「近頃、宮本先生の評判は世上では鰻上りなのでござるよ」


 と清川は言う。

 しかしそんなことを言われても。


「はあ」


 としか言えない。

 初耳なのだ。

 世間のことにはそれなりに気を配っているつもりだったのだが、そんなことになっているとは知らなかった。兵法の関係などはあまり興味がないということもあるが、父に関係することはあまり聞きたくないと無意識に耳をふさいでいたのかもしれない。


(どうにも、自分とあの人は、合わない)


 それは数年来の同居生活の上での結論であるが――

 伊織の内心の動きも知らず、清川は続けた。


「歌にもなっているくらいだ」

「歌に?」

「左様。確か――


 新免武蔵は天下無双

 六十余たびと戦えど

 一度も負けたことはなし

 その業殿様褒められて

 いかになしてその強さ

 聞かれて武蔵が答えるに

 我が強いとさにあらず

 相手がみんな弱いだけ


 ……という感じだったか」


 節回しも軽快で、何度となく口ずさんでいることが伺える調子だった。いかにも子供が歌いそうなもので、どうにも清川には似合っていない。

 伊織はしかし、訝しげに目を細める。

 清川は何か粗相をしたのではと思ったか、あわてたように手を振った。


「いや、これは世間でそう歌われているということであって……」

「なるほど。そんな歌が」


 案に相違して、何か得心がいったという風に頷く伊織に、何を感じたのか清川も

「ふむ」と頷き返す。

 そして。


「それで、忘れるところだったが、最近になって何やら姫路の方で名を売る兵法者がおるのだが」

「姫路?」

「そやつ、どうも武蔵流に関わる者たちに好んで仕合を挑んでおるようなのだ」

「―――――」

 清川秀久は、記憶の底からそれの名前を掘り出した。


「確か、がん流――」



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