幕間ノ一
的場鉄斎、夜を彷徨い、岩流と対峙する事。
なんだか――めんどうだな。
夕刻から夜に変わりつつある姫路の町で、飯屋からの帰り道、的場鉄斎はそんなことを思う。足取りも何処か重かった。いかにも覇気というものが感じられない。
そっと手を左頬に当てた。
つい四日ほど前、かの新免武蔵の兵法指南所に赴いた折りに打たれた箇所である。
さすがに痛みは残っていない。ないのだが、顎の付け根辺りが諤々としている気がする。歯は一本と欠けることはなかったが、運がよかったのだろうか。
いや、多分、不幸中の幸いというべきものである。
あの猛烈な張り手を受けて死ななかったこと、歯が無事だったことは、それを目撃した者からしたら何か神仏の加護があったとも言えるほどの幸運であったらしい。
失神してからとっていた宿に運び込まれた鉄斎に、次の日にあの時に道場にいた武蔵と彼以外のただ一人の男――たつぞうという老人が見舞いにきた。
一人だけではなく連れがいた。あの時はいなかったが武蔵の弟子であったという壮年の男である。こちらは名前を聞かなかったし、名乗りもしなかった。 この人は、武蔵流の柔術を学んで骨接ぎなどをしているとたつぞうは言った。
あまり知られてないことだが、新免武蔵という人物は剣の他に柔術の使い手でもあった。
それ自体は兵法者として珍しいことではない。そして柔術は稽古の過程で骨を追ったり関節が外れたりということは時にあるので、それを治すための施療の術、いわゆる活法が得意な者は多い。
実はこの人に、打たれてすぐの時に施術してもらっていたのだとも鉄斎は知った。気絶している間のことであるから覚えが無いのは当然のことである。
「大事ないようですな」
と言われて、「かたじけない」と鉄斎は頭を下げた。
念のために顎の調子を見てもらったが、「しばらくすれば復調するでしょう」ということでそのままその男は帰宅していった。あまり暇の無い人物であったらしい。
たつぞうはしばらく残っていたが、なんとはなしに鉄斎は彼と世間話を始めていた。
なんとなく、人恋しさのようなものを感じていたというのがある。
誰でもいいから、愚痴をこぼしたくなって仕方がなかった。
武士としての矜持、兵法者としての自信、そのようなものは諸々にあの時の一撃の前に粉微塵になっていた。
今となっては、なんのために武術などをやっていたのか、そのことを考えるのも、虚しくなる――のを通り越して、何だか他人事のように思えてくる。
悔しいとか恐ろしいとか、そういう感情さえ残らなかった。
あるのは二十五歳の、何処にでもいるようなただの盆暗としての自覚である。
(なんで、兵法など始めたのだろう)
ということを、つい考えてしまう。
自らを省みるだなんて、そんなことさえ今までしたことがなかった。
鉄斎は加賀の生まれである。
加賀は中条流が盛んな土地である。中条流では富田勢源といわれる名人がいて、この家が師範家として多いに盛り上げたことから、富田流とも言われて世間に知られていた。
的場が習った戸田流も、その富田家から出た一派である。
幼少よりそれを学んだ鉄斎は十八にして皆伝を得て、さらに練磨する内に自得するところがあって早抜きの妙法を得た。
それからの鉄斎は同門の剣士に尽く勝ち、師でさえもその技を賛嘆した。
「俺の兵法、天下にも通じるやもしれぬ」
それを試すため、旅立ったのである。
故郷からこの明石につくまでに、何人もの兵法者の元を巡った。
新陰流やら新当流やらの当代の使い手たちは、さすがに強い者も数多くいた。勝ったりもすれば負けたりすることもあり、そのような仕合を何度も繰り返しているうちに自信がついた。
いっぱしの兵法者としてそれなりに評価もされるようになった――と鉄斎は思った。
それは、あながち思い込みではないはずだ。
明石を目指すことにしたのは、勿論、そこに高名な新免武蔵がいるからである。
江戸や大坂、京……あちらこちらで、その名前を聞いた。
当代一流、最高の兵法者とは誰か――そんな話題では、最初に名前が挙がるのが新免武蔵であった。
六十余度の勝負で、悉く勝利し、芸事に通じて大名たちにも評判がよく、年も四十幾つという、些か年配になりつつはあるが、兵法者として円熟の領域に達しているだろうと思える頃合である。
もっとも。
(円熟どころか……)
なんというか、上手く説明はできないのだが、実際に会ってみた宮本武蔵は、本当に、とにかく説明しがたい人物であった。
話を聞いていた途中で絵を書き出し――
磨き上げた抜刀術の妙技もまるで通じず――
八つ当たりのような理由でぶん殴られた。
何がなんだか解らない。
別に、鉄斎とても武蔵に勝とうというような大それたことを考えていた訳ではない。
噂に聞くだけでも、その技倆の高さというのは伝わってくる。
どんな相手だか知らないが、六十回も試合をして負けなかったというのはただごとではない。
仮に話半分としても三十回だ。相当なものである。
それらが全部嘘のはったりだということは鉄斎は考えない。兵法者としてハッタリは必要ではあるが、ハッタリだけで上り詰められるわけがない、ということも承知しているからである。
とにかくただ事ではない。只者ではありえない。
会ってみたい、と思った。
あわよくば、話をして自分の流儀に足りないものを教唆してくれるのではないか――そんな期待をしていた。
しかし、それとても会いたいと思ってから付け加えたような理由でしかないように思う。
今から考えれば、いかにも田舎者だなあという気がする。
そして、実際に会ってみて。
(全部ぶち壊された)
何が何だか解らなくなった。
今まで築いてきた剣の修行の遍歴も、積み重ねてきた兵法者としての自信も、本当に何もかもが、新免武蔵という人の張り手の一打の前には、なんの意味も価値もないのだと思えた。
壊されて――しかし、それを恨みと思う気持ちもわいてこない。
兵法者にあるまじきことにも思えるし、武士としては情けないことだとも思う。
だが、それこそ他人事のようだと、本当にそう感じるのだ。
……そのようなことを、鉄斎はたつぞうに話した。
こんな長々と自分語りを聞かせてしまうつもりはなかったのだが、たつぞうは制止もせずに聞けるだけの言葉を受け止めてくれたようだった。
正直、申し訳ないと思う。
一通り聞いた後のたつぞうは、何かを思い出しているような顔をしていたのが、やがてぽつりと。
「まあ、色々と試してみるといいですよ。人生はまだ長いですからな」
鉄斎は、ぼんやりとその言葉を聞いていた。
その日から、もう四日たった。
まだ、的場鉄斎は自分がどうすべきか解らないままだった。
気が付けば、逃げるように明石から少し離れた姫路の町に来ていた。
武蔵に打たれて失神した――という話はまだここには伝わっていない。
その内に広まってくるだろうか?
人の噂は駆け巡るのは早いというが。兵法者の立ち合いの結果などはあれこれと尾鰭背鰭が付け足され、近隣に広まっていくものと相場が決まっている。
だが、考えればこのことを知るのは武蔵と自分と、あのたつぞうという老人、そして武蔵の弟子という柔術使いの四人だけだ。
人の口に戸は立てられぬとはいえ、あの四人は漏らさないようにも思う。
ならば噂として広まることもないだろう……そのように安堵してしまい、我が事ながら、情けなくなった。
しかし、とまた思う。
冷静であるかどうかはともかくとして、つい先日までの自分に、こんな他人事みたいに我がことを考えられただろうか。
『色々と試してみるといいんですよ』
たつぞうの言葉が、何度となく頭の中に響く。
「色々か、色々と……あるいは、兵法以外の道も……」
そう呟いてから。
(面倒だな)
とまた思う。
変に考え込んでしまうことが、考え込んでしまう自分が、つくづく煩わしく――面倒くさい。いっそ、兵法者などやめてしまえばいいのにとも思いながら、それを捨てた自分を想像することもできない。
兵法に対する不満など幾らでも言えるし、自分の程度というのも知れてしまった。
矜持も失った。
兵法に拘泥する必要はない。仕事も、武士の面子だのを考えないのならば、いくらでもある。
それでも。
兵法者を辞めたいという気分は、まだ起きない。
なぜか。
(やはり、自分は落ち込んでいるだけなのかもしれん)
そうと自分で認知できないだけで、今まで積み上げてきたものの何もかもが通じなかったという衝撃によって、心が壊されてしまった――そう思っていたが、よくよく考えれば心が壊れれば、今こうして面倒だと考える心は何なのかということになる。
そんな、思考とも呼べぬことを考えながら、鉄斎はふらふらと川の側に来ていた。
川とは言っても、町の中を通っている用水である。綺麗に岸辺は石積みにされているし、木が植えられて景観もなかなかよい。
そういえば、あの新免武蔵は昔姫路に住んでいたが、その時に何処かの町割りをしただとか庭を造っているとか、そういう風なことを聞いたこともある。詳しくは思い出せないが。
そのことについて凄いだとか器用だとか、あれこれと論評する気持ちは起きなかった。
ただ、口をついて出た言葉が。
「ああ――面倒だ」
つい、笑ってしまった。
そして、疲れたように街路樹の一本に体を預けた。細いが、それでも大人一人を支えられないわけではない。枝垂れている緑の葉が視界に何条と見える。
柳だ。
酔っていた訳ではないのだが、なんとなくそのことに今まで気がつかなかった。遠目からでも一瞥すれば解るものを、どうしてか――それを考えるのも、また面倒だった。
「梅に鶯、柳に燕――か」
特に意味があって出た言葉ではない。
柳の木を見ての連想である。
ただ、なんとなく、あの時の絵を書き出した新免武蔵の姿が思い浮かんだ。あの人ならば、この柳の木をどう描いただろうか。そんなことを思った。
ふと、
「兵法者の方とお見受けします」
気配がした方へと、眼をやって。
二間(3.6メートル)ほど向こうの柳の木の下に、前髪のまだ残っている少年がいた。
夜目にも解る美男子だと、ぼんやりと鉄斎は思う。
思ったがそれだけだった。
警戒だのを考えるようなことはなかった。なんとなく、剣呑だなとも思ったが、本当にただそれだけだった。何も言葉は口にでない。
鉄斎が無言のままでいると、その少年は背負った野太刀へと手をかけた。
「一手ご指南――」
するりと、間合を詰めてくる。
的場鉄斎は自然と後ろ足に体重をかけ、低く構えていた。左手が刀の鍔元を押さえ、右手が柄に延びていく。
考えるのはなにもかもが面倒だったのだが、体は別のようだった。
そして体とはまた別に、頭はぼんやりと考える。
(そうだな、俺も庭を造ってみるとかもしていいかもしれない)
そんなことを考えながらも、的場鉄斎は静かに問うていた。
「何者か?」
「岩流――」
月下で、二つの刃が閃いた。
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