(ニ)
『明日もきます』
と告げてゆうは去っていったのだが、まさか本当に次の日も来るとは、伊織も思っていなかった。
彼女が訪れた翌日、つまり二日目に伊織が城から帰ると、武蔵は縁側で弓を削っていた。
……どうして弓を削っていたのかということは聞かなかった。どうせ何か思いつきでそうしているのだろう。
傍らにはいつも持ち歩いている五尺棒と、さらにその横に稽古で使っている細い木剣が大小揃いで置かれていた。
伊織は良くは知らないのだが、新免家流の武術は大刀に実手(十手)が基本形である――が、武蔵は十手はあまり好んでいないのか、大刀と小刀の二刀での工夫を重ねているらしい。元々から十手とは別に二刀遣いの型もあるし、特に問題はないのだとのことである。
伊織が帰宅して挨拶をすると、
「早い」
と武蔵は言った。
先日は遅いといわれたが、今日と昨日とは時刻としてはそれほど変わらない。要するに、養父の主観にとってだろう。
弓を削っていることからして、伊織が帰るまでに仕上げておきたかったのだろうか。
ちなみに武蔵が削っているのは楊弓という小型の弓である。弓丈二尺八寸程度のもので、楊柳から削りだされる。檀の木からも作られることもあるが、武蔵の手にあるのは楊柳のようだった。たつぞうに入手させたのかもしれない。あの老人は世事に長けていて、色々と調達してくれるのでつい伊織も気軽にものを頼んでしまう。
城であったことなどを報告しながら、伊織は武蔵が削っていたのを眺めていたが、ふと。
(もしや、あの娘が来た時のために用意しているということは――)
と思ってから、ない、と考え直した。
ありえない。
仮にも新免武蔵ともあろうものが、娘相手に飛び道具を用意して待ち構えるなどということがありえるはずがない。
そもそも、また来るのかということも、解らない。
薄闇の中で野太刀を持ったゆうの顔が脳裏に浮かんだ。
伊織は溜め息を吐いた。
「どうした?」
養子が何処か覇気のない様子なのに気づき、怪訝に問いかけてきた。
「いや、仕事やらなにやらで、疲れがたまってまして」
「そうか。お勤め、ご苦労だ」
「――――――」
珍しく労いの言葉を貰った伊織だが、どう返事したものかと一瞬、迷った。
迷うほどのことではないのだが、何故か言葉が詰まったのである。
口を開いて定型どおりに応えようとしたところに。
「ご隠居様、先日の娘が来ました」
とたつぞうが、ゆうを連れてやってきた。
……後で聞いたのだが、たつぞうは武蔵にゆうが来たら縁側の方へと連れてくるように申し付かっていたのだった。
さすがに武蔵に二十年仕えただけはある。昨日の今日で、まだ伊織はどうしたものかと態度を決めかねていたのに。まったく心得たものである。
たつぞうに案内されてきたゆうの後ろには、堀部と二人ほど家人の若者が刺又をもって控えていた。こちらはやはり昨日の今日ではどうしようもなく緊張している様子だった。無理もない。
そして、ゆうはというとこれまた昨日と代わり映えのない姿であった。
旅装束ではなくなっているが、濃紺の服は同じだった。手にあるのはやはり先日と同じく四尺を超える野太刀である。
「今日も参りました」
と告げた。
「よい」
と武蔵は言って、立ち上がる。
「では、参れ」
手にあるのは、あらかじめ用意してあった大小の細い木刀である。
武蔵がいつも稽古に使用しているものだ。通常に他の流派で用いられているよりも細く、六尺近い武蔵の手にあるとやけに華奢に見えた。
(あんなもので、受けられるのか?)
伊織の目がその木刀とゆうの抱える野太刀を行き来した。あれを受けたら、すっぱりと折れてしまいそうである。
しかし何も言わず、そのまま養父を見送った。
たつぞうは当然のような顔をしているし、堀部とその後ろに控える二人の家人でさえも、不安なくその様子を見ていた。
彼らは知っていたのだ。
武蔵はふらりとそれらを両手に持ち、庭を歩いてゆうの正面の二間(3・6メートル)ほど離れた場所に立った。
そして。
「来い」
構えた。
「はい」
ゆうは応え、野太刀を鞘から抜き、八双へと持ち上げた。
野太刀を若い娘が持ち上げるというその姿に、その場にいる、武蔵とゆう以外の人間は全員が息を呑んだ。
戦場に女武者が出るということは巴御前の昔から幾らでも例があることではあり、この時代でも剣術や薙刀を心得る女というのはそれほど珍しくはない。
しかし、ゆうのすらりとした細い肢体にはその無骨とも言える刀身はあまりにも不似合いに見えて、なおもぴんと天へと向けられた切先と揺らぐことのない真直ぐな姿勢は、まるで彼女が刀と一体となったかの如く思わせた。
「これは……」
と夕闇に滲み出るような呟きを洩らしたのは、堀部だった。竹内流を習得したこの男にして、ゆうの姿には感嘆せざるを得ないものがあるらしかった。
伊織はちらりと堀部へと目をやったが、すぐ後に武蔵を見て、「ふーん」と唸り声をあげた。
それをたつぞうは聞きとがめるでもなく。
「若様?」
「いや、お父上は流石だと思って……」
武蔵はゆうが構えたに対して、最初の構え――とはいっても、両刀を下段に落とした、一見して無防備とも見える風なままである。
六尺の巨躯でありながら、その姿の何処にも力みが感じられない。武芸に長じている訳ではない伊織にも、それは何か飄々としたものを感じさせた。
自由自在、融通無碍、そんな言葉が自然と思い浮かぶ。
いや。
(父上の、あの立ち姿は……)
覚えがある。
剣というよりも。
まるで。
「ほう、ご隠居様、少し風格を変えられたか」
たつぞうの言葉にどういう意味かと問い質そうとしたまさにその瞬間。
「やっ」
と弾けたようにゆうが動いた。一本の長い棒が倒れかかるかのような勢いと速さがあった。
腕力だけではなく、全身全霊を込めての斬撃だ。重い野太刀は手で振り回すと重みにもっていかけて腰砕けになる。自然、体一杯を使っての操法となる。
それを真正面から受ければ、鎧兜とて凹むことは必至と思われた。まして武蔵の手にあるのは細い木刀が二本。
到底受けきれるものではない――はずだ。
だから、武蔵はその打ち込みをかわした。どうかわしたのか、相変わらず伊織には解らなかった。
きっと誰にも解らないに違いない。
力いっぱいに地面を叩いたゆうは、薄闇の中でも明らかなほどに目を見開き、その場からまた独楽のように回りながら飛んだ。
おおっ、と誰かが叫ぶ声があった。
武蔵は、ゆうの真後ろにいた。
より正しくは、跳躍したゆうが、着地したすぐ後ろである。
相も変わらず下段のままに、立っている。
(やはり……)
伊織は安堵の溜め息を吐きながら、思う。
天下無双、古今無二――その名に相応しい大剣豪だ、この人は。
どれほどの刺客がこようとも、仇討ちにどんな者がきたとしても、なんら問題なく打ち勝ってしまえる人だ。
対するゆうは、今度は肩に野太刀を載せ、柄頭を武蔵に向けて前かがみに構えた。今度はより瞬発力を追求した体勢だということが一瞥で解った。獰猛な獣のような姿だった。
「ふむ」
と武蔵は頷いてから。
「ずー」
と独特の呼吸を口ずさみながら前に進んだ。
進みながら、木刀の切先を上げていく。
(あれは――)
伊織はその足の運び方、動き方に気づいた。
ゆうるりとした踏み込みであるが、ぴくりとその起こりに対して半拍ほど遅れてゆうの肩が震えた。
そして。
「やっ」
と再び野太刀が掛け声と共に打ち込まれる。今度のそれは、最初よりもなお鋭かったかもしれない。
対する武蔵の動きは、今度は伊織にも見えた。
「たん」
と大きくもなく鋭くもない気合の声が、ゆうのそれにかぶさりながらもどういう訳か伊織たちにはっきりと聞こえた。
気づいた時には、武蔵の左小太刀がゆうの野太刀を撃ち落していた――少なくとも、そのような形になっていた。
「え――」
信じられないものをみたように、ゆうは自分の手から地面へと伸びる野太刀の切っ先を見ている。そして、その峰にのっている武蔵の左小太刀も。
武蔵は二刀使いだ。
そのことに気づいて顔を上げた時。
「へったい」
こつん、と乾いた音がした。
ゆうの額を叩いた木刀の音だ。
「~~~~~~~~ッ」
野太刀をとりこぼし、そこを手で押さえて声もなくゆうはしゃがみこんだ。悲鳴を噛み潰しているのかだろうか。意地でも叫びたくはないのか。
武蔵はしばらくその様子を眺めていたが、やがてするすると蹲るゆうの横を歩き過ぎて、縁側に戻った。
そして、伊織にいった。
「見たか?」
「見ました」
その答えに満足げに武蔵は頷き、機嫌よく屋敷にあがっていった
そして、その日もゆうは宮本家で夕餉を食べて帰っていったのだった。
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