ガラスの靴を壊す夏

ピクルズジンジャー

無かったことにされる類の話。

 ◇◆◇


「……、行くよ?」


 幼馴染の伊勢屋一夏いちかは、伊勢屋家の庭の片隅で神妙な顔つきでしゃがんでいる。その右手には裁縫セットから持ち出したと思われる大きな裁ちばさみが。そして、左手にあるのはゴムと樹脂で出来た小さなビーチサンダルだ。ラメがちらつく半透明の水色で、足の甲を覆うベルトには有名なプリンセスのキャラクターがあしらわれている。いかにも幼稚園に通う年ごろの女の子が好きそうだ。ただし片方、左足分しかない。右足の方は、マイクロプラスチックという名の藻屑になったか、海流に乗って北米大陸のどこかの海岸にでも漂着しているはずである。大型の哺乳類がクラゲか何かとまちがって食べたりしていないことを祈るばかりだ。

 裁ちバサミの開いた刃にサンダルのベルトをあてがってから、一夏はもう一度、向かいで同じようにしゃがんでいる私へ「行くよ?」と宣言する。


「──、どうぞ?」


 ほんの少し前まで降り注ぐようだったのにいつのまにか幾分静かになっている蜩の合唱に気を取られつつ、はさみを持つ手に力を込めろと、私は一夏を促した。空は夕暮れに彩られ、蜩と表通りを歩く観光客のざわめきとからころと鳴る下駄の音が伊勢屋家の裏庭にも届く。夏の風情に満ちてはいるが、残念ながらこういう時間帯には蚊も出てくるのだ。目の前を横切った黒くて小さな影を手で叩きつぶし、ぺちゃんこになった蚊の死骸を手のひらから払い落とす。なのに一夏は、はさみに力を込めることもなく、何故か不満そうにもう一度、私へ言った。


「ねえ、行くよって言ってるんだけどっ?」

「だから、どうぞって言ったじゃん! さっさとしなよね、蚊も出てきたんだから」

「──何それ、美南みなみ、あんた流石に冷たすぎない? 人がようやく気持ちに踏ん切りつけようとしてるのに」

「冷たい人間はね、幼馴染が十二年も後生大事にとってた『宝物』って名前のゴミを処分するだけの場に立ち会ったりなんかしないよ?」


 あえて突き放してやると、私の哀れな幼馴染である一夏は完璧に整えた眉を吊り上げてこちらを非難する。


「何それ、ひっど! 人の大切な思い出の詰まったサンダルつかまえてゴミとか言うっ? ありえないし」

「宝物だの思い出だの夢みたいなことばっかり言ってるからいつまでたっても処分できないんじゃん! ほら、貸してみ? あんたがどうしても処分できないっていうなら私がやってあげるから」


 しびれを切らした私が手を伸ばすと、涙目の一夏はサンダルと裁ちばさみをそれぞれ持った両手を遠ざけた。


「やだっ! あたしがやるっ。あたしがやらなきゃ意味ないんだからっ」

「じゃあさっさとしなよね。久しぶりに花火がしたいって言ったのあんたでしょ?」


 手持ち花火を数セット入れたポリバケツを手で示して私は言った。それは本日、電車をのりついで遠く離れた県外の高校からはるばる帰省した一夏が、今日はどうしても花火がしたい気分だと連絡をよこして用意させたのだ。なのに言い出しっぺが、その前段階で感傷に浸ってぐずぐずしているのである。

 私はスマホで時間をチェックする。時計は19時を少し回った所だった。唇を尖らせている一夏にその画面をつきつける。


「ほら、早く。20時以降、砂浜で花火するのは禁止って決まってるんだから」

「はぁ? なにその決まり? そんなのいつできたの?」

「地元のバカと浮かれた観光客が真夜中になってもロケット花火を打ち上げて遊ぶのがずーっと問題だった上にボヤまで起きかけたせいで、去年決まったのっ! ──いいのっ? 浜で花火できなくてもっ」

「いいわけないじゃん。──ああもう冷たいっ、冷たいなぁ。久しぶりに帰ってきた上に傷心の幼馴染に対して本当に冷たすぎる。美南ってばそんな子だった? 昔はもうちょっと優しい子だったのに……」

 

 ぐずっと鼻をすすりあげながら、一夏はねちねちと私を責める。それに対して気分を全く害してないと言えばウソになるけれど、本人が言う通り今現在の一夏の心は酷いダメージを負っているのだ。こうやって誰かに当たらないと心がもたないのだ。自分で言うのもなんだけど、私は決して冷徹な人間ではないので多少の暴言はスルーしてやる。

 そうこうしているうちに、今日も空に長く居座り続けた太陽は海の彼方へ沈む。燃えるようだった夕暮れの空も、だんだんと藍色めいた夜空に塗り替えられた。ちらちらと星が瞬きだした空の様子から、明日の天気を反射で占う。きっと明日もギラギラまぶしい暴力的な快晴だろう。

 

 陽が沈んでようやく一夏も腹が決まったらしい。両目を腕でぐいぐいこすって涙を落としきってから、ゆっくり呼吸を整える。深呼吸をしている間に、泣きはらした直後で冴えなかった一夏の表情に真剣さがやどりだす。強敵を前にした時を思わせるその顔つき、目つきは、伊勢屋一夏が単なる高校二年の女子ではなく、実家から遠く離れた県外の強豪校で寮生活している程度には将来有望な空手の女子選手なんだなと思わせる気迫に満ちていた。

 たかだか女児用ビーチサンダルを処分するのに要するには大げさな気迫と意気込みを、げっ歯目の小動物みたいな黒目がちの大きな目と裁ちばさみを持つ右手に込めた瞬間、せいっ! と一夏は鋭く気合を発した。


 右手は動き、裁ちばさみの刃が閉じる。じゃき、と音がして二枚の刃はサンダルの甲の部分を両断した。

 かくして左側だけ残った女児用サンダルは、波にさらわれた右側と離れ離れになったために履物としての機能を果たさなくなったにもかかわらず「伊勢屋一夏の宝物」としてこの世にあり続けて十二年、ようやっと解放されたのだった。


 一度ハサミを入れると勢いがついたらしく、せぃやっ、だの、うりゃっ、だの気合を発しながら、一夏はサンダルを裁ちばさみで切り刻んでゆく。数分前まで涙目で躊躇っていた女子とは同一人物とは思えない無慈悲さで、愛らしいサンダルをゴムと樹脂の欠片の山へ変えてゆく。

 ほんの三十分前まで、可愛らしいクッキー缶の中に宝物として恭しく保管されていた片方だけの女児用サンダルは、ものの一分も経たない間に燃えないゴミに姿を変えたのだった。


「……、終わった……」


 一仕事終えたとばかりに、一夏はふーっと息をつく。樹脂とゴム、そのほか中敷きらしきウレタンや何かが積み重なった小さな山を前に、満足気に額を拭った。大げさな、とはちょっと思いはしたものの、私は小さく拍手をして宣言通りに一人で思い出と十二年間にもわたる初恋にケリをつけた幼馴染をたたえるため、ぱちぱちと拍手を送った。

 

「えらいえらい、一夏。よくやった」

「……美南ぃ……っ、頑張ったぁ……あたし頑張ったよぉ……」


 緊張から解放された一夏が拍手する私をみた瞬間、小動物みたいな目からだばーっと盛大に涙を流す。空手の試合の後ですら見せたことの無い泣きざまを晒した一夏は私に向けて頭を差し出した。撫でろ、慰めろ、と態度でダイレクトに訴える。私はそれに応じ、一夏の頭を軽く撫でた。

 手入れには気を使っているはずの一夏の黒髪は、今日は無造作に二つに縛られていた。分け目もぐちゃぐちゃでツインテールと呼ぶには雑すぎる髪型だけど、小柄で童顔な一夏にはなかなか似合っている。つくづく有望な女子空手選手にはみえないヤツである。

 さっきまでの無駄に凛々しい表情をどこへやら、唇を尖らせ鼻をすすりあげる幼さとあざとさまるだしの表情は、制服みたいな衣装で歌い踊る国産アイドルグループの一員を思わせた。

 ──いや、アイドルというより長毛種のダックスフントかもな……、なんて考えがそれたものだから、愛犬をかわいがる時のように手のひら全体を使ってわしゃわしゃと激しく撫でてしまう。


「よしよーし、一夏はえらいえらい。よくやった。よしよしよしよし……」

「ちょっ……! やめ、こらっ、やめてってば! ねえちょっと、ねえっ」


 甘えかかってきた癖に愛玩犬扱いは不服だったとみえて、しばらくされるがままになった後に私の手を払いのけた。むうっと唇を尖らせて怒って見せる顔つきにはもう悲しみは無い。

 

「相変わらずあんたがふざけてくるタイミングって読みにくっ! そういう所いい加減直した方がいいよっ? ったく、あんたに注意するの、あたしくらいなんだからねっ。感謝しなよっ」


 余計なことをぶつくさいいながら切り刻んだビーチサンダルの欠片をかき集めて、立ち上がる。捨ててくるからちょっと待ってて、と言って伊勢屋家の勝手口を開いて中に入った。デニムのスカートから伸びる白い両脚が宵闇に浮かぶ。甘ったるい一夏の童顔の印象からするとややアンバランスな感もある、程よく引き締まってすらりと伸びた形よい脚だ。今履いてる突っかけサンダルじゃなく、華奢でヒールの高い靴が似合そうな脚だけど、厳しいトレーニングにも耐え抜き、その気になれば人一人昏倒させるのくらい余裕な蹴りを放てる物騒な脚でもある。

 ──本当、見た目はガラスの靴だって履きこなせそうな脚なのに。


 一夏が姿を見せるまでの間、私は屈伸を繰り返して膝を伸ばす。しばらくしゃがんでいたせいで脚が痺れかけていたのだ。


 制服みたいな衣装を着たアイドルグループの一人でも、長毛種のお座敷犬でもどちらでもいい。幼馴染の欲目が多少加算されているとしても、一夏は客観的に見ても可愛らしい容姿の持ち主である。庇護欲を掻き立てる黒目勝ちの童顔、笑うとえくぼの出来る頬。ツインテールの似合うロリ顔で、小柄なのに非常にメリハリのきいたスタイルを有する芳紀十七歳の高校二年生だ。十二年前にあんな出来事さえ起きなければ、クラスの人気者グループに君臨する明るくて甘え上手で異性ウケのいい、普通の女の子になっていたことだろう。少なくとも将来有望な女子空手選手にはなっていなかったはずだ。──それは果たして良かったのか悪かったのか。

 


 十二年前の八月初旬、五歳だった一夏は近所の浜でサンダルを片方失くした。

 波打ち際で遊ぶのに夢中になっていた隙に、買ってもらったばかりのサンダルが波にさらわれてしまったのだ。気づいた時には満足に泳げない幼児には手の届かないあたりで一そろいのサンダルがプカプカ浮かんでいた。

 幸い、その傍に居た当時八歳の男子児童がそれに気づいて手を伸ばし、左片方だけ取り上げることに成功するも、次にきた波は容赦なく片方を沖へと運んでしまった。

 こうして、お気に入りのサンダルが流されてシクシク泣いている五歳の一夏のもとに、左片方のサンダルだけが戻ってきたわけである。

 日によく焼けた年上の格好いい男の子──ほんの児童だったころから既にヤツは「あの子はきっと将来男前になるよ」と大人たちから太鼓判を押される程度には目鼻立ちが整っていたし体の均整も取れていた。認めるのは癪だけど──に、片方だけとはいえお気に入りのサンダルを取り戻してもらった一夏の感激は相当なものだったらしい。

 その時そばにいた五歳の私も、ピーピー泣いていた一夏が、目の前に片方だけのサンダルを差し出された途端、大きく目を見開いて息を飲んだ瞬間を目撃している。悲嘆や絶望から一瞬にして驚嘆だとか驚愕へ。十二年後の今ならその種の二字熟語を持ち出してしまうような表情の激変に、こちらも大いに驚かされたから強く印象に残っているわけだけど。 

 当の一夏はというと、一瞬にして泣き止んだ自分をみて安心したのか、当時八歳のくせに不愛想を極めていたヤツが浮かべた微笑みから目が放せなくなっていたのだという。──私はとても信じられないけれど、アレが微笑んでみせただとか。

 

 こうして五歳の一夏は、左片方だけのサンダルを取り戻してくれた年上の男の子に心を奪われた。履物としては機能しなくなったサンダルは、きれいに洗って乾かされたあと、いい匂いのするティッシュを敷き詰めたクッキー缶の中にうやうやしく収められる宝物に昇格したのだった。

 無論、悲しむ一夏にサンダルを届けてくれた当時八歳の男子児童は、とどろく女児の胸の中で激しく美化された上で「王子様」というしゃらくさい称号を頂く存在となるのも当然と言えよう。

 しかし、である。当の男子児童には近所に住む年下の女の子から慕われ続けていることに全く気付かなかった。幸か不幸か、人生の初期段階に自分の生きる道を発見してしまい、自分の周辺をうろちょろしている小さな存在などに構っている余裕がなかったのである。

 かくして、海辺でべそをかいていた幼い女の子が努力の末に近在では名の知れ渡った美しいお姫様に成長したそのころにはもう、それなりに凛々しく精悍な若者に成長した男子児童の方も修行のために訪れた別の街で一目見かけただけのお姫様に人生初の恋を捧げていたのであった。

 これが単なる片想いで終わっていたのなら、海辺の町のお姫様にはたとえ僅かでも逆転の可能性があった。だけど、運命というやつは一途なお姫様に対してとことん意地が悪かった。王子様は一夏ではない別のお姫様が暴漢に襲われていた所を助け、お互いに恋におちてしまったのである。しかも二年前に。

 こんな形で結びつきあった恋人同士に、海辺の町で幼いころから一途に一人を想い続けていたいじらしくもしつこい恋心なんて一たまりもあるわけがない。私の方が先に好きになったのに! と泣いて叫んだ所で、結果は覆らないのだ。

 

 さて、浜に落ちている桜色の貝殻やシーグラスのように小さくて細やかで淡く、海水のようにしょっぱいこのロマンス譚に登場する当時八歳の男子児童、どこかの童話のように片方だけの靴を届けた所為で幼馴染を十二年も無自覚にがんじがらめにしてくれたのは一体どこの誰かと疑問に思う方もいるかもしれない。率直に答える、私の兄である。

 自分が近所に住んでる年下の女の子から一途に真摯に熱烈に慕われているという自覚が全くないままに、兄は私たちの全く知らない女子と華々しく恋に落ちていたのである。

 兄にいわゆる彼女的な人がいるのは帰省した時の様子で家族はなんとなく察しはしていたので、進捗があるたびに一夏には報告していた。一夏はその都度泣くわわめくわの大騒ぎを繰り広げるのが恒例だったけど、最終的には「学生同士の恋愛なんて長続きしないし」だのなんだかんだ理由をつけてはいじましく望みを繋いでいたのである。

 でも、それが断たれたのがこの夏だ。

 兄が初めて彼女さんを連れて帰省したのだ。

 それはそれは、胸焼けするほど仲睦まじい様子で、紹介が遅れた旨や彼女さんのご実家にはもう挨拶を済ませていることなんかを事後承諾で伝えて私たち家族を仰天させた後を含めた話し合いなんかもして、二人だけは機嫌良く引き揚げてしまった。よりにもよって、一夏の帰省の一日前に。

 その点に関して兄を責めるのはお門違いであると、流石に私も承知はしている。しているのだけれども──。


 サンダルを片方失くした次の日から、一夏は変わった。まず、兄の周囲をちょこちょこと笑顔でつきまとうようになった為、小学校入学時には「可愛いけどあざとい子」と化して周囲から浮き上がっていた。自分に対して関心の薄そうな兄の気を引こうと幼いながらにおしゃれに精を出すようになった結果、中学では学年では突出して可愛い女子として有名になってしまい、一部から「モテようと必死な子」と陰口を叩かれるようになった。兄が空手にのめりこむやいなや後を追いかけて一緒の道場に入門し、少しでも気を引こうとせっせと鍛錬に励んだ。その結果、黒帯をもぎ取るレベルの腕に達し、自分に陰口を叩く相手をびびらせ、敵対姿勢を露わにする兄のファンを返り討ちにし、付き合え付き合えとしつこく言いよった末に手を出そうとしてきたヤンキー気味な男子を鉄拳で容赦なくぶちのめした為に意図しない武名を地域一帯に轟かせる等、比較的非凡な女子へと変化を遂げていた(ちなみに男子に暴力をふるった件は正当防衛としてお咎めなし扱いになっている)。

 それもこれも、自分の興味のあること以外にはほぼ無関心で中学に入って早々「侍」「硬派」「朴念仁」なる古風な言葉で評されるような人間になりつつあった兄に気に入ってもらうためだけに涙ぐましい努力を積み重ねの結果である。ほんの小さなロマンスひとつで単なる可愛いもの好きな女の子が、驚くべき成長を遂げたのだ。

 なのに兄の一夏への態度は一貫して変化がなかった。あくまで「近所の子」の一人でしかなかった。

 研究や鍛錬に余念のなかった幼馴染の様子を見守り続けていた私にとって、その点どうしても複雑にならざるを得ないのだ。少なくとも努力くらい認めたらどうなんだ。まったくあの、視野狭窄な空手バカめ……。 


「お待たせ~」


 勝手口から姿を現した一夏は、何やら荷物で膨らんだビニール袋を提げていた。ゴツゴツしたふくらみの形から、ペットボトルや缶ジュースでも入れているらしい。ちなみに一夏の家は「いせ屋」という屋号の酒屋である。旅館をやってる私の家も、飲料その他を一夏の家から仕入れている。うち以外の旅館その他とも取引があるので、大手コンビニに屈することなく酒屋としての業態を維持しているとのこと。

 袋から一夏は緑茶のボトルを取り出して私へ差し出した。急に呼び出したうえに待たせたのでお礼、ということらしい。誤解されやすい所もあるが、一夏はこういう気遣いもちゃんと出来る子なのである。それはそれとして、


「……これ、売り物じゃないよね?」

「違うよ。家の冷蔵庫に入ってたやつだから。こっちもね」


 ジュースの缶やラムネ瓶らしきものが大量に入ってる袋を軽く持ちあげて、一夏は言った。それなら、ということで私はありがたくボトルの栓をあける。日が暮れたとは言え夏は夏だ、むわっと暑くて喉が渇いていたのだ。それはそれとして、


「そんなにたくさん飲み物っている?」

「いるようになるかもしれないじゃん」


 微妙にかみ合わない答えをよこした一夏は、がむしゃらに鼻歌を奏でながらさっさと歩きだした。私も花火セット一式をつっこんだポリバケツをもって歩き出す。


 目指すは夜の海水浴場、十二年前に兄が一夏の心を奪ったあの浜である。


 

 ◇◆◇



 恋はするものではなく落ちるものだ、と、古いドラマの中で誰かが言ってた。

 でもあたしの場合はするものでもなく落ちるものではなく、さらわれるものだった。

 五歳の夏の日に、あたしの心を奪ったのは幼馴染のお兄ちゃんだ。


 近所の子たちと砂浜で遊んでいた時、目を離した隙に打ち寄せた波があたしのサンダルを持ち去ってしまうというアクシデントが起きた。

 銀色のラメがチラチラ散った透き通った水色で、プリンセスのキャラクターがプリントされていたビーチサンダルは、ねだりにねだってやっと親に買ってもらったばかりのお気に入りだった。絵本に出てくるガラスでできた靴みたいだったから。

 宝物だって言っていいくらいのサンダルを流されたショックと悲しみで、あたしは波打ち際で棒立ちになった。それまでの楽しかった気持ちなんて一度に吹き飛んで、悲しさとくやしさで胸の中が塗りつぶされる。そうなると鼻の奥がつーんとして、目からは涙があふれ出る。情けないけれど、その時のあたしってば満足に泳げないたったの五歳だったんだもん。その場にしゃがんであーんあーんっていかにも子供っぽく泣くこと以外、強すぎる悲しさに襲われた五歳の女の子に出来ることって他に何かある?


 だからあたしは泣いた。エンエン泣いた。傍にいた幼馴染の美南──その頃はみーちゃんって呼んでたけど──が、あたしのことを心配そうにのぞき込んだり、頭を撫でたりして慰めようとしてくれていたけれど、あたしの悲しみは止まらない。

 泣いている間にも波は沖から押し寄せる。ざざん、ざざんと何度もやってきて、しゃがんでいたあたしの踝から下を濡らし、踵の下の砂を削る。とりわけ大きい波がやってきて腰から下までざぶんと濡らして、ざあーっと沖へ去ってゆく。その力が強くって、ぺたんとあたしは濡れた砂の上に尻もちをついた。

 サンダルだけじゃなくあたしの体ごと連れてゆきそうな波の力も、意地悪に響いた潮騒もなにもかも憎らしかった。嗅ぎなれた潮の匂いだって、そうなるとなんだか生臭く感じられてしまう。


 海なんて大嫌い。もう二度と遊ばない。


 今までとはガラっと変わった世界にたった一人取り残された気持ちになって、あたしは一層心細くなった――その時、だったんだけど。


 ぽん。と、頭に優しい衝撃を感じたことで、あたしの涙は一瞬ひっこんだ。


 びっくりして目を開けると、目の前によく知った顔があった。よく陽に焼けた、年上の男の子の、ちょっと心配そうな顔。美南のお兄ちゃん、有明さんちの達弘くんだ。

 それまで誰にも言ったことはないけれど、近所にいる男の中では一番かっこいいなってランク付けしてた顔。ほかの男の子みたいに意地悪もしないし悪ふざけもしないけど、その分無口でめったに笑ったりしない。遊びに夢中になって帰るのが遅くなった美南を迎えに来たりしたときも、「帰るぞ」とか必要以上のことしか言わないのがとっつきにくくってちょっと怖い。でもその分カッコよさがうんと引き立って見えた顔。

 サンダルが流される前まで、浅瀬で同じ年ごろの仲間と遊んでいたはずの達弘くんが、ちょっとしゃがんであたしに目線をあわせてくれている。それも心配そうに。

 美南とほぼ毎日一緒に遊んでいるあたしのことなんか、いつもちらっと見るだけのなのに。でもその時は、ほとんど褐色っていいくらい焼けた上半身に水を滴らせたまま、あたしを気遣う眼差しを向けていた。美南にだって見せたことの無いような、優しい目。

 

 ──大丈夫か?


 今よりうんと高めだったけど、少しかすれ気味な声で、達弘くんは尋ねた。

 あたしは何が起きてるのかすらわからなくて、一瞬、呼吸すら忘れて固まってしまう。そんなバカみたいなあたしの腕を掴んで、達弘くんは立ち上がらせた。それから、目の前に手に持っていた何かをさしだす。

 その瞬間、どくっと心臓が跳ねたのを覚えてる。

 透き通った水色の中でチラチラと輝くラメの粒子、プリンセスのキャラクターのプリント。目の前にあったのは、流されていったサンダルに間違いなかった。片方しか見当たらないけど、もう二度と自分の手には戻ってこない筈だった、あのサンダル。


 ──たまたま手のそばに流れてきたから、そっちだけは掴まえられたんだ。


 でももう片方は見つけられなかった。ごめんなって、謝りながらあたしの手のひらに濡れたサンダルをそっと乗せた。

 片方だけのサンダル、履物としては用をなさなくなったサンダル。大人だったら「こっちだけのあっても……」と困ってしまったかもしれないそれを手のひらにのせたまま、あたしは達弘くんを見上げた。

 あたしより三つ上で、当時小学二年だった達弘くんは目が合うと少しだけ表情を緩めた。それは確かに笑顔、微笑みってやつだった。間違いなくそうだった。


 美南のお兄ちゃんが、あの達弘くんが笑ってる。今まで特に興味なんてなかったようなあたしなんかに笑ってくれてる! 嘘みたい……! 


 しかも普段、十歳にも満たない男子なのに無口で滅多なことでは笑わなかった達弘くんの微笑みは、普段よりもずっと格好よかった。柔くて優しくて、つい甘えたくなるような、素敵な表情だった。

 でもそんな表情をみせてくれたのはほんの数秒だけ。あたしが泣き止んだの見届けると、すぐに表情を引き締めて仲間たちの元へ帰っていく。その背中を見つめながら、全身がかああっと燃えそうに熱くなるのを感じていたのだ。


 トータルで五分もないような出来事だけど、とにかくあたしはこの瞬間から十二年間心を奪われっぱなしだったのだ。

 宝物入れの中にずっと入れていたサンダルを取り出して、思い切って切り刻み、燃えないゴミ入れの中に一気に投げ込んでやったとしても、心にぽっかり空いた穴が急に塞ぐわけでもない。

 

 その痛さを紛らわせるため、あたしは思い出をぽつぽつ呟く。

 よりにもよって前日に目の前が真っ暗になるような話を聞かされた明くる日、帰省中の電車の中では、音楽配信アプリが勝手に勧めてきた古い古い失恋の歌を繰り返し聴いてしまっていた。その歌詞に影響された結果、幼馴染を誘って浜辺で花火を実行してしまう。線香花火がパチパチと松葉の形に火花を散らせるのを見つめながら、あたしは大事な思い出を語って聞かせた。


 だというのに、だ。

 

「……何っ回聞いても、たかがそれだけで十二年間もあの空手バカ兄貴に執着できたなって引くしかなくなるよね、一夏いちかのその話」


 美南のやや低い冷静な声が、あたしの思い出の世界を打ち砕いてくれたのだった。


 昼間は海水浴客でにぎわう砂浜で、ひとしきり手持ち花火や設置型の花火で遊んではしゃいだ後のことだ。

 蝋燭と、線香花火の火に照らされた幼馴染の呆れ気味な表情がこっちに浮かんでいる。整った顔にウンザリって感情をうかべてこっちを見ている。

 あーあー、分かってましたよっ。分かってたけどねっ。美南があの達弘くんを「バカ兄貴」呼ばわりしちゃうような子なんだってことはあたしが一番よぉぉく解ってますぅ~……ってなったけれど、ムッとしたから反論する。


「『たかが』っ!? 『たかが』って何っ!? 今の話のどこに『たかが』って要素があるっ!?」


 手元でパチパチはぜる線香花火を無視して、右隣にしゃがんでいる美南に顔をよせて睨んでやった。


「サンダルって言ったって履物は履物だよっ! 履物ってことはほとんど靴だよっ! 靴を回収して持ち主のところに届けてくれるだなんてどっかの童話みたいなことが現実に起こったんだからほぼ運命ってやつだって思うじゃん! そう考えたってフツーじゃんっ⁉ そういうのって『たかが』の範疇に入ったりする~?」

「まあ、五歳の子供がおとぎ話と現実を混同して、自分のことをシンデレラだって錯覚しちゃうのは仕方ないとは思うけど」


 あんたのその物言いにあたしは気分を害しましたよ、怒ってるんですよ~って顔をしてみせたのに、当の美南は眉一つ動かさない。あたしがこの話をするたびに、毎回浮かべるジトっとした目つきをしていった。


「ただ、そういうのって普通、適当なタイミングで切り上げたりするもんじゃん。なのに、十二年もじんわり持続させてるのって結構とんでもないよ? 長時間温度が引かなくて褒められるのは魔法瓶と保温機能付き弁当箱くらいなもんだからね」

「そりゃあ、昨日今日達弘くんのことを好きになったようなニワカとは格が違うし。なんたってガラスの靴を拾い拾われし運命の仲なんだから、死ぬまで好きで居続けるなんて余裕ってもんよ」

「ガラスの靴じゃないじゃん、スーパーの靴売り場で買ってもらったビニールのサンダルじゃん。……大体、いつまでも運命だのなんだの言っててどうするんだって。兄ちゃんにはもう彼女がいるのにさあ、しかも二年も前から」

「──っ」


 ジト目の美南が放った言葉は、あたしの胸を盛大にえぐった。

 憎たらしいことに、言葉に詰まったそのタイミングで、あたしの持っていた線香花火の火の玉は砂浜に落ちた。場がほんの少し暗くなる。

 はーっとやけくそのようにため息をついた美南は、大量にある線香花火を数束無造作につかみ、蝋燭の上にかざした。速攻で花火の先端に炎が燃え移り、さっきより数倍明るくなる。

 でも、線香花火を愉しむのにこのやり方は無粋だしガサツじゃん? そういう目を向けても美南は意に介さず、パチパチと騒がしくはぜる線香花火に視線を落としながらむしゃくしゃした調子で吐きだした。


「あのさ、あんたがそのサンダル話を何回も何回も何回も何っっ回もっ、聞かせてくるたびにこっちも言い返してきたからいい加減あんたも聞き飽きてる筈だけど、でももう一回だけ言っておくね。――確かにうちの兄ちゃんは、ギャン泣きしてたあんたを立ち上がらせたあと、回収に成功した片方のサンダルをあんたに渡した。それは事実だよ? でもさ、その時そんな風に長いセリフを言ったり、泣き止んだあんたに微笑みかけたり、そんな気の利いた行動に出てなんかないよ。絶対。断言する」

「──またそれぇ……? なんで信じないかなぁ? もーっ」

 

 幼馴染からの主張を耳にして、あたしは頬を膨らませた。確かにそれは美南が何度も何度も何度も何っっ度も聞かされ続けてきた主張だった。とにかく美南は、達弘くんがあたしに優しい言葉をかけてくれたり微笑んだくれたってことを絶対受け入れようとしないのだ。あの時傍にいたのに、頑なに否定しつづける。


「兄ちゃんは、波に足を取られてひっくり返ったあんたを立たせたあとに拾ったサンダルを『ほら』って手渡しただけっ。賭けてもいいけど、もう片方を見つけられなくてごめんだとか、びっくりして固まるあんたに微笑みかけるだなんてことはしてない。――当時のヤツに、気遣いだとか年下をいたわるだとか、そんな高度な社交テクニックが駆使できるはずない」


 ふんっと不機嫌そうに小さく息を吐いて、花火としての寿命を終えたこよりの束を水をはったバケツの中に放り捨てた。また場が暗くなる。

 あたしが達弘くんに心を奪われた瞬間の話をすると、美南は必ず不機嫌になる。それは昔からだ。眉間に皺を寄せながら、あれだけ完璧な達弘くんのことを平気でバカ兄貴呼ばわりしたり、ある種の天才であるがゆえに一般の人とはちょっとズレてる達弘くん独特の感覚をちくちくあげつらったり、とにかく随分辛辣になる。それだけなら、実の妹って立場による一種の照れ隠しだとか愛情表現なのかな~って受け取らなくもない。だけど、あたしがあの時心をさらわれてしまって以来、達弘くんに夢中なのをよーく知っているくせに、平気でこうやって憎たらしいことを言いまくるのってどうなの、正直?

 旅館を営んでいる家のお手伝いも面倒くさがらずにこなしつつ、勉強の方でも好成績を叩きだし、客商売で鍛えられているからか誰に対しても人あたりが良いという問答無用の優等生としても、有明旅館のイケメン兄妹としても、近在の大人たちの間でも評判な幼馴染の有明美南は、あたしの前でだけ平気で毒を吐くし意地悪もするのだ。

 あたしはというと美南の意地悪に毎回むーっと唇を尖らせてしまうのだ。


「なんで美南ってば、自分のお兄ちゃんなのに達弘くんのことをそうやってディスんのっ? しかも絶対前よりキツくなってるし!」

「自分の兄ちゃんだからでしょおッ⁉ たまにディスりでもしなきゃ身内なんかやってらんないわ、あのフリーダム空手バカのっ!」

 

 気色ばんで美南はあたしに言い返した。その声には、疲労と苦労と呆れと心配の塊が複雑にまざりあったものがにじみ出てはいた。

 確かに達弘くんは、強さの上では頂点に君臨し続けて数年も経つし、カッコよさまで極まってる学生空手家として国内外でも名前が知れ渡ってる上に、時々あっというような行動を見せて世間を驚かせることでも有名な人になりつつあったから、身内としては気苦労は絶えないみたいだ。なんといっても、もっと強くなりたいからって理由で県外の高校に進学することを一人で考えて一人で決めて、さらにより強くなりたいからって海外留学することを一人で考えて一人で決めちゃうような人だもん。そういう型破りな人はこの辺にはまず出てこない。有明旅館のおばさんやおじさんがうちの親と世間話するのを盗み聞きしながら、美南ん家も大変だなって思うことはよくあった。そこはあたしだって認める。

 認めるけれど、贅沢な悩みだよねって気持ちが無いわけじゃない。ディスれるのも美南が達弘くんと強いつながりがあるが故だ。「近所の子」「妹の友達」「同門の後輩」という立場が決定したあたしとは大違いだ。


 なんてことを考えだしたら、また気分がオチてくる。そのタイミングで実が火をつけた線香花火の束の寿命も尽きたから、また場が暗く沈む。あたしたちと同じように砂浜で花火を楽しんでいる、家族連れや学生さん、それにカップルだのといったグループの楽し気な笑い声や、シューシューパチパチといった音、ぱんっとロケット花火がはじける音が響いて、不意に訪れた間を強調した。こういうのってかなり気まずい。だから、あたしも実の真似をして、線香花火を数束掴み蝋燭の上にかざして火をつける。

 場はぱあっと明るくなり、燃え上がる花火の灯はあたしを見つめる美南を照らし、浮かび上がらせる。


 前髪を作らず耳朶のあたりで切りそろえたサイドの髪は黒くてさらさら、短い襟足の下から伸びる首筋は長くて細い。似合う人がかなり限られる難易度の高いショートカットを完全に自分のものにしているあたしの幼馴染は、形のいい目でこちらを見つめている。本人がすごくイヤそうにするからあんまり言わないけど、黙って見つめるだけで人を落ち着かなくさせる所はさすが達弘くんの妹だなって思う。

 全体的に細身でしなやかで静かに佇む樹木じみた静の雰囲気を纏った美南は、武士っぽくて逞しい達弘くんのそれとはかなり違うんだけど、輪郭や目鼻の配置に通じるものがあるのだ。血のつながりってあるんだなってついつい感心してしまう。

 美南は女の子っぽい丸み柔らかさに欠ける子だ。その分、骨格の綺麗さピンと伸びた姿勢、目鼻立ちの凛々しさや所作や動作の滑らかさや軽やかさには、性別を超越したような綺麗さがあった。古いSF映画に出てくる、将来救世主になる予定の美少年みたいな髪型が、第二次性徴を迎える前の男の子みたいな雰囲気を一層引き立てていた。──中学時代は中途半端に伸ばした髪をゴムで雑なポニーテールにした、いかにも運動部の女の子〜って外見だったのに高校で部活動をやめた途端にこれだ。素材がいい子って言うのはずるいんだから、もう。

 せっかくなんだから、着る服にはもうちょっと拘ればいいのに。白、黒、カーキ、ベージュみたいな色みの出来る限りシンプルなデザインの服を選ぶのも中学の時からあまり変わらないし。飾り気のないネイビーのTシャツに七分丈のデニムを合わせるとか、シンプルにも程がある。身につけてるものの中で白いベルトのコルク底サンダルが一番高価そうなのってどうなの、それ? もうちょっとお洒落しなよ、勿体ない。

 あたしの気持を理解せず、美南は理屈っぽく淡々と、容赦ない一言を投げつけてくる。だからもう、やってられない。


「確かにあんたの身に起きた出来事は、五歳の女の子を一時夢見心地にする程度には甘ったるいプリンセスストーリーじみたものだってことは認めてもいいよ? ──でもさあ、だったら、通り魔に危うく刺されそうになったところを助けられたって当時十七歳の女子のプリンセス度数は一体いくらになるのかって話にならない?」

「っ」

 

 ほらこういう子だ。こういう子なんだってば、有明美南って子は。


 幼馴染特有の遠慮のなさで、美南はあたしの胸を真実でぶっ刺した。その痛みに息がつまっているあたしの前で、さっき渡したボトルの烏龍茶で口を湿してから、目を逸らしていた事実をつきつけた。


「流されたサンダルの片方を拾ってくれたっていう五歳のあんたのエピソードのプリンセス度数を一としたら、下手すれば今頃生きてなかったかもしれない瞬間を助け出された当時十七歳の彼女さんのプリンセス度数はざっと見積もっても五千くらいはあったりするんじゃないかと思わない?」

「なっ、何そのレートっ、ムチャクチャじゃんっ。ジンバブエドルじゃあるまいしっ!」

「ジンバブエドルなら多分こんなもんじゃないから。──つかさあ、幸いめでたしめでたしで済んだから良かったようなもんだけど、そもそも兄ちゃんが彼女さんを助けられたのもその人に片想いしてたからなんだよ? 学校に行く途中で見かける名前も知らない他校生に一目惚れしてたからなんだよ? 通り魔に気づいたのも彼女さんを目で追う癖があったからなんだよ? そりゃお陰で事件は未然に防げたから結果オーライではあるんだけど、下手したら自分がストーカーになってたかもしれないんだよ? 大体あの仏頂面のいかつい男に遠くから無言で睨まれる女子の気持ちになってみなよ、怖いの一言しかないじゃん!」


 今の髪型になった去年の四月の頃から、達弘くんについて語る美南の口調はずいぶん苦々しいものになり、評価は辛辣を極めている。

 いつもならあたしはそれに速攻で抗議するんだけど(いくら身内だからって、無口で硬派で求道者で顔も精悍で硬派~って感じだし、そこいらのモデルなんてかなわないくらい背も高いし足も長いし、たまにチラっと見える割れた腹筋なんてもう……ッキャーッ! だし、それになにより今じゃ同世代敵無しって言われてる達弘くんに対して、美南の点は辛すぎる)、今日はそれが出来なかった。

 

 達弘くんが全然知らない人に片想いをしていた、おかげでその人は助かった。その事実がいつもあたしの胸をえぐるのだ。

 ひとしきり達弘くんへの文句を吐きつくした美南は、ボトルに残ったお茶を最後まで飲みり、私だって本当はこんなこと言いたくないんだけど……とおもむろに口にした。

 来る! と、反射的に身構えたそのすぐあと、意を決した顔つきの美南はきっぱりと言い切った。それはもう、真剣で唐竹を縦に割るような明解さで、ばっさりと。


「薄々察してるだろうからはっきり言うけど、兄ちゃんがあんたに振り向くことは今後一切無いよ。振り向いてくれなくてもいい、今まで通り好きでいるっていうなら別に止めないし、あの空手バカ野郎に好きなだけ執着しつづけたらいい。でも、出会うべきだった人に出会った以上、絶対ヤツはあんたを好きにならないよ。それだけは言っとく」


 すぱん! と音をそえたくなるような両断ぶりはいっそ気持ちいいくらい──いや、嘘、嘘です。気持ちいいわけがない。痛いし! 激痛だし! 幼馴染兼親友が胸に十二年も秘めていた片想いに対する思いやりってもんが無さすぎでしょ? 苦すぎる真実は普通もうちょっとやんわり伝えるものでしょ?

 そういう思いは視線で訴えるだけにした。認めたくないけれど覆らない事実は下手にオブラートに包むより、きっぱりはっきり伝えた方がいい。その方がダメージが少ない。それが美南の考えで、幼馴染なりにあたしのことを思いやってくれているのがわかっていたからだ。

 その証拠に、残酷極まりないことを告げた後、美南の声はいつも少しだけ柔らかくなる。あたしの表情の変化に気づくからだろう。だって、あたしの目には涙が盛り上がってる。視界がぼやけてあたしの前に居る美南の表情がボヤけている。瞬きをすると、涙が頬を転がり落ちた。

 今までなんとかこらえていた涙が出てしまうと、決壊するのは早かった。あたしの両目からだらだらと、滝のように涙が流れ落ちる。鼻の奥はツーンと痛むし、口からは情けない嗚咽がもれる。

 すん、と鼻をすすり上げたタイミングで、美南はすこしだけ優しい声で言った。


「正直、ドン引きさせられてばっかりだったけど、干支一回り分もうちの兄ちゃんに対する執着を持続させた猛者は私が知ってる限りあんたぐらいだよ? あの外見とキャラが気に入った程度の人たちなら、ヤツの態度にビビってすぐにシッポ巻いて逃げ出すのが普通なんだから。有明君が振り向いてくれるまで何年も待ってる~……なんて、兄ちゃんがあっちに行く日の前日にわざわざウチにまで告白しにきた女の子だって、次の年の三月には同じ学校の制服きた男と駅のホームでいちゃついてたし」

「……ううっ……」

「それを思えば、あんたはすごいって。五歳の時の思い込みがきっかけで、あの空手バカの脳筋兄貴をふりむかせるためだけにあんたがどれだけ努力してきたか、傍でみてきたあたしが言うんだから」

「……うっ、ううっ……」

「ヤツの愛想のなさっぷりに普通の女子なら三日で心折れるのに、あんたは毎朝笑顔で挨拶し続けたし。可愛くなりたい~ってチビのときからおしゃれに気を使うし、将来は達弘くんのお嫁さんになって有明旅館の女将さんになるから~って行儀作法習い出すし、できるだけ一緒にいたいからーって不純な動機で始めた空手の癖に、なんだかんだで黒帯取る所までは極めてスポーツ特待生枠もぎ取るし。嘘じゃなくて、一夏のそういう所、すごいって思ってるんだよ?」

「……ううっ、ううっ……ひぐっ」

「まあはっきり言って、あの空手バカ兄貴のためにそこまで努力し続けたって事実や、十二年もヤツに執着し続ける粘り強さははっきり言って怖いけど。かなり引くけど」


 サゲてからアゲてまたオトすという軽い意地悪をかましはしたけれど、実はあたしの肩のあたりをぽんぽんと軽くゆっくりたたいて慰めてくれた。ほらもう、泣くな泣くな。ああよしよし……と、冗談めかしてあやしながら。

 乙女が十二年もの長きにわたり胸に忍ばせていた一途な恋心を「執着」だの「粘り強さ」だの、いちいち可愛くない言葉で表現することには不満を感じずにはいられなかったけれど、その手つきや声音で、美南なりにあたしのことを労り慰めてくれているのは伝わる。

 わかったところで張り裂けそうな胸の痛みは消えないし、涙は止まらない。次から次へとあふれ出るし、みっともないことに鼻水まで出てきてしまう。

 あたしに対しては毒を吐くし、意地の悪いことだって言うけれど、美南はいつだってあたしの味方だった。どれだけ頑張っても、思い描いていた自分になかなかなれなくて悔しくて不甲斐なくて一人で泣いていると、すぐに気づいて励まして慰めてくれるのは美南だった。


 一夏はすごい、一夏ほどの頑張り屋をみたことがない。

 誰がどんなことを言ったって、私は一夏の味方だよ。


 大きくなるにつれて語彙は意地悪な方向へ変化していったけれど、美南はそういってあたしの努力を一番肯定してくれた。

 その都度あたしは実に甘えてあんあん泣いた。また明日頑張って笑顔になるために、大声で、涙をながした。涙だけでなく鼻水もたらして、しゃくりをあげて、横隔膜に変な泣き癖がつくまで泣きに泣くのがあたしたちの習慣だった。

 

 だからあたしは、久しぶりに泣いた。美南が差し出したタオルハンカチに顔を埋めて泣いた。

 さすがに屋外だから昔みたいにワンワン泣きはしなかったけれど、押し殺しても声はひんひん出てしまう。しゃがんだ膝の上にタオルハンカチをを置き声を殺してなく女子の姿は、当然砂浜に遊びに来ていた皆さんの目には異様なものに映るようで、ママーあのお姉ちゃん泣いてる~……なんて、小さな子の声も聞こえる。それに対応する美南の、ごめんねーなんでもないよ?、という猫を被った接客用の声も。


 ああカッコ悪。ださいし、みっともない。

 

 人の目にもつく場所で、膝に乗せたタオルハンカチに顔を埋めて泣いている自分に呆れるけれど、私はしばらくやめられなかった。美南の言った事実を認める辛さに身を切られたのもあるけれど、二年前の夏に現れて達弘くんの心をうっかり攫ってしまった顔も知らない彼女さんが憎たらしいのが何より大きい。

 通り魔に襲われ、すんでのところで命拾いした二年前のその時、その人は今のあたし達と同じ十七歳だったのだ。絶体絶命の危機に颯爽と現れたであろう達弘くんに助けてもらった上に、付き合うことにもなっただなんてずるいにも程がある。──こんなこと正直にぶちまけたら、世の中の人から「言っていいことと悪いことのわからないバカ娘」って白い目で見られるだろうけど、いいじゃん、今ぐらい。実際には口にはしてないんだし。

 あたしなんか、ずーっと好きで好きで大好きだったのに、隣に達弘くんはいない。いるのは達弘くんの妹の美南だ。

 あたしは達弘くんに振り向いてもらうためだけに、小さい頃から色んな努力をしたのに、知らないうちに知らない人に完敗してたとか、冗談が過ぎる。

 ──大体、そもそも、まずそれがおかしくない? なんなの、いきなり現れて達弘くんの心を奪っていった彼女さんは……?


 一旦感情が悲しみから怒りや恨みや妬みに向かうと止められなくなる。タオルハンカチの上から顔をあげると、砂の上に置いていたビニール袋の中から缶を一つ取り出す。水滴を浮かべたアルミ缶のプルタブを引き上げて、早速口をつける。乳酸飲料の甘酸っぱい味と炭酸のしゅわしゅわ感、微かな苦みが舌の上に広がった。

 手持ちぶさたなのか、実は残った線香花火に火をつけて火花の飛び散り具合を見つめていたけれど、缶入り飲料をごくごく飲みだしたあたしに不審な目を向ける。それに気づきはしたけれど、あたしは構わず一気に三分の一ほど飲んで、それからぷはっと息をついた。

 その瞬間から、心の痛さが炭酸の泡と一緒にはじけて解きほぐされ、体全体がふわふわ浮き上がりそうな不思議な心地になる。


「……何なのっ、本当に何なのっ、どういうことなのっ? なんで世の中ってこんなに不公平なのっ? 向こうはさっ、それまで達弘くんのことなんてなーんにも知らないで、ごく普通に生きててさっ、東京近郊に住んでるからふらっとどこにでも遊びに行けるとかさ、それだけで勝ちじゃん? その上、たまたま近くの学校に通っていたってだけでそういうことになっちゃうとか、なんなのそれ? ありえなくない?」 


 なんだか気が大きくなって、あたしは遠慮なく愚痴を連発していた。自分が不甲斐なくて情けないから今の今まで胸の中に抑え込んでいた、羨望、嫉妬、敵意、口惜しさ……その他諸々の感情が、口からポンポン勢いよく出ていく。


「あたしだったら、こんな田舎じゃなくて東京にうまれてたら、それだけで神様もう十分です、ありがとうございますって言ってたもん。その上、全世界で一番素敵な彼氏をくださいとか、できればこっちから好きになるんじゃなく向こうから好きになってくれるパターンが理想です~とか、贅沢言ったりしないもん!」

「や、彼女さんがそんなお願いしてるかどうかはわからないよ?」

「じゃなきゃ、なんでああいうお話みたいなことが実際あり得たわけ? 神様がえこひいきしてないっていうなら何が原因でそういう流れになったっていうの? 呪い? 黒魔術? あたしのがんばりを全部無効にしてくれたのって何? それが運命ってやつ?」

「知らないし! そういうこともあるんじゃないの、現実はお話じゃないんだから?」


 美南が呆れまくった目であたしをみるけど、構わずに缶の中身をぐいっと飲んだ。乳酸飲料と炭酸の混じった爽やかで甘酸っぱい味が、胸にあるカチカチに縛り上げた感情を溶かしてゆく。それに乗ってどこまでも口を滑らせるあたしのことを、眉間に皺を寄せた実はじっと見ていた。何か言いたげではあるけれど、今は黙って聞いてくれる。

 調子に乗ってあたしはもう一度、缶の中身をあおり、息をついた。そうして、胸の底のドロドロの感情のなかでも一番情けない感情を吐き出す。垂れ流しになる鼻水をタオルハンカチで拭う(実が若干イヤそうな顔をしたけどこの際無視だ)。ああもう涙も鼻水も流れっぱなしだとか、今のあたし相当ブスだな。マヌケだな、みっともないなと自覚はしては、目から鼻から流れる各種体液はじわじわと流れ続けてくれる。

 ──そもそも、すっぴんだし、髪も鬱陶しくてたまらないから適当にゴムで縛っただけだし、服なんてよれよれの部屋着だし、履いてるものは近所を歩く時用のボロボロサンダルだし。恰好からして既に終わってるし。

 上から下までみっともないあたしの姿を曝け出せるのは、今、隣にいる実しかいないのだ。

 昔からこうやって、安心して打ち明けられる相手は美南だけだったのだ。だから、これまでの習慣に従ってあたしはまた感情の栓を一気に緩めて、ぶちまけた。


「うあああ……、死ぬ気で頑張って空手部の特待生枠もぎ取ったのに〜、親に散々無理言って県外の学校行くの許してもらったのに〜っ。彼女いるって聞いた時も万一のチャンスに賭けてたのに~っ。ボロいし門限厳しいしご飯まずい寮生活に耐えてたのに~っ。──大体あれじゃんっ、土日祝日もまともに遊べないって何っ? 部活部活部活部活部活ばっか! 他の子はみんな放課後にどっか遊びにいってるのにいるのにうちらだけなんで走り込みしてるわけ? 拷問じゃんっ」

「スポーツ特待生ってそういうものでしょ? 知らないけど」

 

 ここ二年の不満やストレスもどさくさにまぎれて吐き出したあたしの叫びを、実はあっさりいなした。至極当然のことを口にしているのだから、その口ぶりは冷静だ。


「大体、兄ちゃんが卒業してから入れ替わりに同じ学校に入学しても意味なくない? 受験期に気づかなかったの?」

「プロの格闘家になるにしても大学に進学するにしても、達弘くんはこのまま拠点を東京に置くはずだし、そうなったらこっちに帰ってこないって気づいたんだもんっ! お盆とお正月くらいしか会えない地元で待つよりも、あたしも基盤を東京に移した方がエンカウントする率が高いって思ったのっ!」

「……あんたってうちの兄ちゃんがらみになると異様な閃きと実行力を発揮するよね……。イヤ本当にすごいわ」


 感心してるのか皮肉っているのかイマイチわからない口調で実は呟く。乳酸飲料の匂いにまみれたあたしの声は自分でも呆れるほど低く、恨みがましいものだった。


「……まあ、進路希望届けてすぐにまさか留学するって聞かされるとは思わなかったけどね……。しかも大学もあっちにするとか……完全に予想外だったよね……」

「あれにはうちも参ったよ。親に相談もなく勝手に決めちゃってさぁ、『どうせお前はお前の道しか進めないんだろうから高校進学の時から覚悟はしてたけど、留学なんて大事なことを親の相談なく勝手に決めるヤツがあるか!』って珍しく父さんがガチモードで説教してた。強くなるのもいいが、それ以前にお前はまずスポンサーの心象を損ねない程度の愛想と交渉術を身につけろ。将来プロとしてやっていくならなおさらだ……とかなんとか。全くだよね。しかも電話一本寄越しただけで、彼女さん連れて帰るし。爆弾投下しまくるし」


 イキイキと有明旅館のおじさんのセリフを再現なんかもしてみせた美南はウーロン茶をあおり、その後で独自の文句を付け足す。道を求めるなり極めるなりするにしても唐突すぎるんだって、あの時どんだけ視界が狭まってたんだか、あの空手バカ兄貴は……云々。

 そういう世の中の常識だとか、円滑で円満な人間関係だとかを全く考えない所が達弘くんの良さじゃん! 孤高っぷりで評価されてる人に愛想の大事さを解くなんてどうかしてないっ? って問い詰めたい気持ちはあったけれど、生まれた時から宿泊業の空気になじんでいてホスピタリティの思想が身についている美南に、他者と慣れあわずに己の道を進む求道者の魅力を語って聞かせても形良い眉をしかめられるだけだってわかっている。なのでわざわざそういう無駄なマネはしなかった。

 それに美南は「爆弾」の詳しい内容は語らないでくれた。

 だから、一旦話を変える。


「つーかさぁ、あたしらって十七歳なんだよね? セブンティーンなんだよね?」

「そうだけど。 ……あんたちょっと大丈夫? なんか変だよ?」


 気づかわし気な美南の声を無視して、感情を制御できなくなってるあたしはぐちぐちと続けた。


「十七っていったらさぁ、フツーなら浮かれて騒いで彼氏や彼女の一つでも作りましょうって時期らしいのにさぁー。あたしってば朝練だの夜錬だのに毎日毎日毎日毎日毎日毎日あけくれちゃってさぁ~……。健気じゃない? 真面目じゃない? すっごいいい子じゃない?」

「まあね、一夏が頑張り屋だってことは否定しないよ? 好きな男振り向かせたいとかよくそんな浮ついた動機でそこまでエネルギー出せるなって感心してるし」

「……たまには素直に褒めてくれてもいいんじゃないかなぁ……っ?」

「褒めてるんだからいいでしょ、贅沢言わない」

「十七歳の女子がさぁ、汗くさい毎日を耐えられたのも、クラスのやつらが夏休みに遊びに行くだのなんだのって話で盛り上がってるのを無視してエアコンもあんまり効かない武道場で正拳ついてられたのも、その甲斐あって大会で個人入賞できたのもさぁ……神様がみてるかもって思ったからなのに……。夏休み返上して真面目に部活に取り組んでる頑張り屋の一夏ちゃんにご褒美くれるかもって思ったからなのに……。万一、ひょっとしたら、奇跡が起こって、達弘くんがあたしの方を見てくれるかもしれないって希望があったからなのに……っ」

「──ちょっと待って、一夏、それ貸して」


 ジト目であたしを見るなり線香花火の燃えがらをバケツの中に投げ捨てると、美南はあたしの手から缶をひったくった。商品名を確認するなり、血相変えてあたしの腕を引きよせ顔を近づけると、耳元でしかりつけてくる。


「あんたこれ、お酒じゃん! 何考えてんのっ?」

「えー、うっそ? やばーい。ジュースとまちがえちゃったー」


 一昔前の女の子みたいに舌を出してドジっ子を装ってみたけれど、実はそれに乗ることしない。つまんない嘘つくんじゃないっ、と叱り飛ばしてから花火の燃えがらを突っ込んでいる水を張ったバケツの中に残り少なくなっていた缶の中身をぼちゃっと注いだ。火薬と甘ったるいチューハイの匂いが混ざって何とも言えない異臭になる。


「神経質だなぁ。たかだか3%のチューハイなんてジュースとそう変わんないよ?」

「あのねっ、またどっかのバカが何かやらかさないようにって、去年あたりから旅館組合のおじさんが見回りしてるのっ。地元中学の教員だとかPTAの人たちもいるのっ。おまわりさんが来るときだってあるんだからねっ。見つかったら面倒なことになるでしょう! いせ屋さんとこの一夏ちゃんが浜で酒盛りしてたとかあることない事噂されるよっ?」

「平気平気、酒屋の娘がこれっぱかしの酒で酔ったりなんかしないってば。今年の正月には一合瓶一本空けたけど、あれに比べたらこんなの水みたいなもんよ。大丈夫大丈夫~」

「全然大丈夫じゃないっ。──つうかさぁ、特待生って自覚持ちなよね? 外で大っぴらにお酒飲んでクダ巻いてたってことがあんたの学校にバレたら処分くらうのは確実だよっ? しかも一夏ってば無駄な敵を作ることだけは昔っから上手なんだし、もうちょっと危機感ってやつを……」


 せっかくの美形っぷりを台無しにするような、所帯じみたお母さんみたいな仕草と口ぶりでぶつくさぶつくさとあたしに文句をつけながら、実はあたしがもってきたビニール袋の中身を改めだす。ガサガサと袋が音をたてたので、口を尖らせたあたしの呟きは耳に入らなかったみたいだ。いいもん、って言ったんだけどね。


 別にいいもん。学校から処分くらったって、将来有望だったけれど素行が悪い女子選手って烙印押されたって。別に立派な空手家になろうと思ったことなんて一度もないんだから。

 達弘くんにみてもらいたい、できるだけ近くにいたいって、かなり浮ついた理由だけで始めただけだし。言い訳しないし。

 実際のところ、本当は小学校のときなんて辛くて辛くてすぐにでもやめたかったんだから。それでも稽古で頑張っていたら、達弘君が時々お手本見せてくれたり、コツを教えてくれたのが嬉しかっただけだし。感覚的でちょっとわかりにくかったけれど、それでも直々に指導してくれたのが嬉しくて一生懸命に練習したらいつの間にか地区大会でそれなりの結果が出せる程度になっちゃってただけだし。勢い余っただけだし。

 辞めたかったけどやめられなかった、それが正解なんだから。


 ともかく、ビニール袋の中身を確認していた実はあたしの呟きを聞いていなかった。袋の中にはまだ酒類が入っていたことに顔をしかめると、飲みきれなかったドリンク類の入った袋とバケツを下げて立ち上げる。


「もう帰るよ。花火して愚痴って気はすんだでしょ?」

「この程度で済むわけないしっ。──んじゃあ、しょうがない。あたしん家に寄ってく? 二次会だ二次会」


 美南が呆れた目でこっちを見るのを無視して、あたしも立ち上がる。アルコールのせいで少し視界がふわふわした気がしたけれど、やっぱり気の所為だろう。あんなジュースみたいなもので酔っ払うほど甘ちゃんじゃない筈なのだ、あたしは。正月に日本酒一合空けた時だって、ちゃんと意識を保ってられたんだから。──まあ次の日、酷い二日酔いになったけど。死にそうな気分で三が日をすごすことになったけど。

 ……なんて考えてたら、手首をぎゅっと掴まれる。安定感の悪いサンダルを履いていたせいで一瞬ふらついたあたしが砂の上にコケるのを防ぐためだ。

 そういう気遣いをしてくれるのは、現状、あたしにはたった一人しかいない。もちろん幼馴染で、親友で、十二年間好きだった人の妹の、有明美南って女だけなのだ。


「……ほら、酒なんて飲むから足にキてる」


 呆れた口調で言った後、あたしにビニール袋を押し付けるものの、手首をつかんだまま帰り道を歩き出す。自分は重たくて異臭を放つバケツを反対側の手に提げている。どっちかというとあたしの方が力があるというのに、だ。

 遊び終わった人たちが次々に引き返すので暗くなる浜とは反対に、あたし達の家がある通りの方はまだまだまばゆい。お土産屋さんや飲み屋から笑い声や歌声が漏れる中、暗くて砂混じりの路地をあたしの手を引いて美南は歩く。

 家屋と家屋の隙間にあたるこの路地は、地元民には歩きなれた道だけどこの時間は街灯一本きりだし、表通りが明るく賑やかなせいで暗さと不気味さが際立つ。アルコールでふわふわした頭も少し醒めたけど、実の足取りは冷静で確かだ。痛いくらいに強めに握る手首に安心感を覚えてしまい、我ながらバカみたいなことを口にする。


「……美南、今ここに変質者が出たらあたしがぶちのめしてあげるからね」

「気持ちは嬉しいけど遠慮しとく。酔っ払いが無理すると二次被害が増えるだけだから」

「……よく考えたらダメじゃん、あたしが守る方じゃダメじゃん。あたしはどっちかっていうとお姫様になりたかった方なのに。……ってことはひょっとして、あたしがこれまでやってたことって無駄? 壮大な遠回りっ?」

「そんなことないでしょ」


 アルコールがおかしな方向へ思考回路のブーストをかけたせいで、あたしは一瞬、男女関係における真理を悟った気になってしまう。けれど秒でそれを否定したのは勿論、あたしの手首をつかむ実だ。


「変質者が出てきたらぶちのめすって言ってくれるお姫様、私はいいと思うけど。そっちの方が一夏らしいよ」


 少し振り向いた以上の予備動作を見せず、真顔でさらっと簡単にそんなセリフを口にするものだから、あたしは思わずフリーズする。不意打ちを食らってまごついている所に、顔を進路方向へ向き直した美南は、真面目な時の声で淡々と続けた。


「あんたが兄ちゃんにハマらなかったことはどうしようもないけど、でもそのうち、一夏じゃなきゃダメだって人なんてすぐにでも出てくるんじゃない?」

「──そ、そうかな……」

「そうだって。大体、普通の人類は兄ちゃんとつがいになるなんて絶対無理だから」

「……またそうやって達弘くんをディスる……っ。そもそも番って何? 野生動物の一家みたいな言い方しないでほしいんだけどっ」


 優しい言葉でこっちをすぐにいい気分にさせたと思ったらすぐにサゲる。そういう美南の話法に翻弄されてあたしは抗議したけれど、今度はちゃんと振り返った実は眉間に軽く皺を寄せた渋い顔になり、あたしを説得させようとする。


「一夏は十二年兄ちゃんしか見てないせいで認識が歪んでて気づいてないだけってば。──あのさ、ホラ、宇宙からきた凶悪な生物だとか研究所で開発された邪悪な生命体がたまたま人間に寄生することに成功して、宿主の人間とイイ感じのバディになって敵と戦うような漫画や映画ってあるじゃん」

「……ああ、なんか右腕がヘンな生き物に乗っ取られてぐにゃぐにゃ変形したりする古い漫画なら読んだことある~」

「ああいうのってさ、自分と相性がいい人間に出合うまでが大変じゃない? 大抵寄生された方が拒絶反応起こして苦しんで死んだり、爆発四散したり、なにかと酷い目にあって死ぬでしょ。だからつまりそういうことだよ」

「……ええと……?」


 ふわふわした頭に、今の喩えは上手く入ってくれない。分かったのは美南は自分のお兄さんを人外扱いしてるってことと、もう一つのことだけだ。


「じゃあつまり何? あたしが達弘くんとつきあってたらヒドイ目に遭ってたこと?」

「そういうこと」


 気分をものすごく害してますって表情を作ったというのに、美南はというと、なんてことが無さそうに軽々と口にした。


「だからまあ、私は一夏が兄ちゃんに潰されることがなくって良かったと思ってるよ? あんたは怒るかもしれないけどさ」

「──……」


 路地を歩いているうちに、あたしの家のそばに着く。夕方にサンダルを切り刻んでいた庭先が見えるあたりで、あたしは何かを実に言ってやりたくなり、でも適当な言葉が出て来なくてしばらく口をパクパクさせたあと、気が付けば脈絡のないことを口走っていた。


「美南さぁ……相変わらずモテてるでしょ?」

「そんなことない、男子からはわりと煙たがられてる気がする」

「男子にじゃない、女子にだよっ! ──はぁ~っ、ったく未だに自覚無いんだっ。中学の時にあんたの部活だとか委員会だとかの後輩からすっごい悪口いわれまくったんだからね、あたしっ。先輩といつも一緒にいるあざといブスとかビッチとか!」

「──あのさぁ、一夏が女子から悪口言われまくってたのって私だけが原因じゃないから。あんたのこれまでの生き方も原因だから。──まあいいじゃん、私は生きざま含めてあんたが好きだよ? 最短距離を目指してたのにいつの間にか道が蛇行してることに気づいて落ち込んでも、いつまでもへこたれないところとか。人間として全然愛しやすい」

「だからそうやって、アゲてから落とすのはやめろって言ってんのっ!」


 中学時代の不当で鬱陶しい記憶がよみがえったせいでムカついたせいで自然と声が大きくなるあたしの前で、美南は嫌になるほど冷静になる。電灯で照らされているあたしの家の勝手口を指さして、やるんでしょ、二次会? と囁いた。こんな時間に大きい声を出してると近所迷惑になるって言いたいのを一切隠さない、いかにもしっかりものの優等生って表情で。

 ああもう、本当にこの子はこういう子なんだ、相変わらず! むしゃくしゃしたままほとんど我が家の通用口でもある勝手口のドアを開いて、ただいま! と言った。お邪魔します、と行儀よく頭を下げた実もあたしのあとに続く。



 今からちょっと昔、どこかのお姫様があたしの好きな人と相思相愛になったのは彼女が高校二年の夏だった。

 そして、あたしが彼女と同じ年になって過ごした夏のハイライトは、十二年間とっておいた宝物を処分したことと、これまでため込んでいた鬱憤やなにかをジュースみたいなお酒を片手に一晩中ぶちまけまくった末にいつのまにか寝落ちしていたことで終わった。

 目が覚めたのは次の日の昼頃で、鬱陶しい頭痛と酷い胸のむかつきと、つけっぱなしのエアコンで冷え切った部屋の寒さなんかのせいで気分は最悪だった。

 あたしの話を麦茶片手に耳を傾け、時折相槌を打っていた美南の姿はもうなくて、代わりにカラフルな空き缶がつまったゴミ袋が部屋の片隅に置かれていた。お酒のアテに食べたお菓子類の袋といったゴミもきちんと片付けられている。この辺がいかにも美南って感じで懐かしい。


 少しでも頭痛を和らげるために髪をほどき、お風呂に入ってないせいでべたつく頭皮をもみほぐしながら昨夜のことをぼんやり思い出す。

 お酒を片手に同じようなことをぐちぐち吐いた後、美南はまた手のひら全体を使って私の頭をわしゃわしゃと撫でたような気がする。犬か猫にするみたいに。 

 ──ひょっとしたら頭だけじゃなかった、ような気もする。

 髪を耳に欠けられた時の無造作な指の感覚が夢だったのか現実だったのかわからないまま、あたしは手櫛で髪をすいた。

 今年の夏にこれ以上のイベントはないだろうなってうっすら予感しながら、シャワーを浴びる前にあたしは立ち上がった。

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ガラスの靴を壊す夏 ピクルズジンジャー @amenotou

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