亡くなったんですよね



 中心街から南方さかりに位置する医療街路――通称「三〇番通り」。そこに向かう道すがら。見知らぬ白髪の少女の手を引く包帯姿のサイボーグの少年。彼の〈追憶〉はこうして始まった。



 駆け足で二人は歩き続ける。足音は聞こえない。風景も灰に染まっている。灰かぶりな世界。二人が進んでいくうちにところどころで人の笑い声や鳥獣のさえずり、くすんだ色の小石や建物が散見された。まるで彩色を中途放棄した下書きだ。これはジェイド自身が体験した記憶であるため、せてしまった部分を魔法で再現できなかったのだろう。

 急勾配の坂を下りきり、肩で息をする二人は目をらした。すると私の視界も連動する。うっすらとあかりがみえる。〈燈台とうだい〉の灯光。そのおぼろげな揺らめきに目を奪われていると、灰染めの空に夜のとばりが下りてきた。記憶の舞台が夜であったことをジェイドが思いだしたのか。

 人々は移動手段に〈飛行〉を用いるので、夜間飛行の際に医療施設が発見されやすいように魔術的なあかりを街なかにともしている。海岸沿いにおける航路標識の〈光〉は周期的に明滅を繰り返すが、医療街路では夜空の一点を照らす光の柱となる。錬金街でみた煙突がこんな感じかな。それがあちこちにあってまぶしい。

 ジェイドは〈地図〉の魔法をかけた羊皮紙を注意深く確認し、枝分かれしたみちを進む。すすけた壁をさわりながら、やや唇をんで歩くペースを早めた。


「痛い、痛いよ……ジェイド……急いでもクエレは死んだりしないから……」


 少女の悲痛な声がせた空間に響き渡った。ジェイドははっとなって手を離す。少女の手首には掴まれた跡がくっきりと浮かぶ。


「わかってる」ジェイドは焦りといら立ちを隠しきれない雰囲気だ。「おまえはクエレと面会したんだったな」

「うん」


 澄みわたる夜空が似合う落ち着いた声に、深紅の瞳をした少女。彼女の名前がレブレだということを私は知っていた。師団発行の新聞を読んだからだ。

 名前も、後ろ姿も彼とよく似ている。彼とは幼馴染であり、共に失魔症孤児院で暮らしていたので立ち振る舞いが似てくるのかもしれないし、血のつながりが近しいのかもしれなかった。


「どうだった?」

「衰弱してた。でもキミよりはまし」

「見た目がだろ。クエレは手足が千切れてて、俺が戦わなきゃ、〈ハルピュイア〉に殺されるところだったんだぜ?」

「千切れたのはジェイドくんじゃないかな……」

「いや、あいつもなくなったはずだ」


 彼らをおそったハルピュイアは、獲物の内臓を魂ごと引きずり出すといわれるほど鋭利な鉤爪を有した大型の妖鳥である。アルラウネと同じく討伐対象の魔物なのだが、ハルピュイアは基本的に争いを好まない種族であるため、たとえ居住区域内に出没してもただちに通報する住民は稀だった。不用意に近づくことや、公共の場での餌付けを禁止する看板が立てられるくらいなので脅威の程が知れる。

 だが討伐対象に指定される大型猛禽種なのは事実であり、手負いで興奮状態の個体と鉢合わせた場合、子どもの魔法ではどうにもならない魔物だった。


「遠いね」と草臥くたびれた声でレブレがいった。「足が痛くなってきた」

「……クソッ、俺たちも〈飛行〉できたら楽だってのに」

「法律だから仕方ないよ」


 へドリスでは十五歳未満による〈飛行〉は法律で禁じられていた。空を分かつ境界や障害物などはなかったが、居住区域を抜ければえた魔物たちにおそわれる世界だ。魔術師の護衛なく区域外に出ることは自殺行為に等しい。こういった法律にも頷ける。

 もし空に子どもが容易に越えられないほどの壁があったとしたら、飛行禁止の法律は不要だったのだから皮肉というより他はない。

 あとどうでもいい話をすると「皮肉」の意味を知らなかった頃の私は、肉に皮がついているのでお得だと思っていました。


「休みながら急ごう」とジェイドが言い、跡のついていないほうの手首を掴む。 

「それ矛盾してるってば」


 レブレは文句を言いつつも大人しく手を引かれている。うつむき、歩幅が縮んでいるが歩みは止めなかった。

 三〇番通りまでの方角と距離を示す標識がみえ、二人は立ち止まってそれに触れた。魔力の波紋が拡がり、彼らの足に魔法がかかる。道案内の魔道具だろうな。

 再び歩きだした小さな背中を目で追いかける。そろそろ場面を切り替えようと思い、私は目をつむった。



「腕あるじゃねえか!」


 ジェイドの大声を合図に目を開く。人工的な光にまぎれて飛び込んできたのは殺風景な病室と、清掃の行き届いたマナタイル(マナの木を加工した床材)の床だ。すみには背の高い観葉植物が飾られており、病床にしたフーカのかたわらに腰掛ける彼がいて、〈換気〉やらの魔道具による空調音が場違いにやかましい。

 遅れてやってくる浮遊感と若干の眩暈めまい。〈追憶〉の魔法は場面が切り替わるたびに気持ち悪くなるのが難点だった。


「だからキミの見間違いだって……」


 呆れた語調で返したのはレブレだ。ジェイドは木製ベッドに駆け寄るや否や、彼の腕がくっ付いていることを何度も確かめた。

 ジェイドの痛ましい姿と比較すると彼の傷は浅かったようで、頭部に巻かれた包帯以外に目立った外傷は見受けられなかった。


「ジェイドも無事だったのか」


 突然の奇行に困惑しながらも、彼の表情には安堵の色が浮かんでいた。

 ハルピュイアに立ち向かうジェイドの心境が果たしてどんなものだったのか、私には想像もつかないけれど、半身を失うほどの怪我の具合をみるからには惨憺さんたんたる光景だったに違いない。

 異様な状況下により極度の興奮に見舞われていたのなら、当然、記憶は曖昧になりやすく書き換わりも起こりやすい。引き裂かれた四肢が自分のものか他人のものか区別がつかなくなっていても無理はなかった。


「ま、無事とはいえねぇな。身体はぼろぼろで歩くのがせいぜいだ。まともに残ったのは命ぐらいか」とジェイドが吐き捨てるようにいった後、横たわる少女に視線を送る。「その女は?」

「フーカだよ。アルラウネ症の発作で入院することになったらしいんだけど、僕と同じでたまたま病室がなくてね」

「隔離病棟の相部屋同士ってわけよ。ちなみに、ここの面会時間はとっくに過ぎてるけど?」


 二人が入院していたのは流行り病の感染者を隔離するための病室だった。魔力不全の失魔症、毒性魔力による進行性疾患のアルラウネ症はともに非感染性。

 本来は別々の病院で治療が行われるのだが、魔物による深刻な負傷者が多い時期と重なり、入院をこばまれた不運な巡りあわせが出逢いをもたらしたらしい。


「〈通路〉の魔法だぜ。どうだ、凄いだろ!」


 ジェイドは白塗りの壁に魔法をかけ、生身の腕を自在にすり抜けさせる。透過系統の魔法だ。


「全然凄くないわ。見つからなかったのは運がいいだけ。覚えたての粗末な魔法を見せびらかされても反応に困るのよ」と辛辣な態度のフーカ。

  

 しかしジェイドは微塵も意に介さずにせせら笑った。


「ははッ、生意気な女だな! いかにも友達いなさそうなやつのセリフで笑っちまった」


 なにおう、と彼女が青筋を立てる。上半身を起こそうと毛布を払い退け、彼の腕を手すり代わりにしたものの力が入りきらずに諦めたようだ。


「友達くらい、いるわッ! 多くはないけど……さんにん……うーん……ひとりくらい、なら」

「……なんかすまん」


 尻すぼみに語気が弱まったところでの謝罪が追い討ちとなり、一層居たたまれない空気にさせた。


「クエレたちは何を話してたの?」とレブレがいった。彼と向かい合わせになる位置に座っていた。


 彼女の落ち着きはらった声によってよどみがいくらか取り除かれる。私も、二人が何を話していたのか気になっていたので助けられた。


「あぁ、レブレも来てくれてありがとう。どうしてここが三〇番通りと呼ばれてるのかなって話してたところさ」

 

 彼の瞳は、この謎が解けさえすれば世界の全てを手中におさめられるといったようなきらきらとした輝きに満ちていた。かわいくて食べてしまいたい。頭からこう、丸かじりで。


「そんなの坂の角度に決まってるだろ」とジェイドは未来の発明家らしい回答をひねりだす。

「病気とかで一日に三十人亡くなったからじゃない?」と被せたのはフーカだ。

「僕は三十人、魔法で生き返ったんだと思うけど」と夢見がちな意見を述べる彼。

「……ひとを生き返らせる魔法はないかな。三〇番通りって言われるようになったのは、燈台とうだいの数に由来すると聞いたことがあるよ」とレブレが彼の荒唐無稽な発言を知識で切り捨てる。

「へぇ~」と三人がいった。彼だけがちょっぴり落胆したふうなため息を混じらせる。


 そうして彼らは小一時間ばかり雑談やボードゲームなどに興じた。植物といえどもずっと眺め続けるのは退屈なので時間を進めよう。

 やがて病院食が魔法で運ばれてくると、夜間の無断面会は終わりを迎える。

 帰りがけにレブレが院内の化粧室に向かい、その付き添いのために彼が退室したことで、フーカとジェイドが二人きりになるタイミングが生まれた。


偽肢レプリカにしなかったの?」

 

 身体の至るところに嵌め込まれた金属製の補装具を指差していった。サイボーグであるジェイドの補装具は〈義肢ファクト〉と呼ばれており、魔力を通しやすい素材と魔法を組み合わせて生成される。

 対して彼女のいう〈偽肢レプリカ〉とは魔力そのものによって構成された無形補装具である。生命維持に関わる繊細な魔法であるがゆえに相応の費用がかかる。


「死にかけで選ぶ余裕がなかったんだよ」


 ジェイドはもっともらしい理由を探りながら答えた。私はすでに彼の本心を知っていて、でたらめな嘘だとわかった。

 素材に魔法をかける義肢ファクトと、人体に魔法をかける偽肢レプリカの双方にメリットとデメリットが存在するため、優位性の議論は未だに平行線を辿たどっている。

 極めて高い成功率と引き換えに醜悪な見た目になってしまう義肢ファクトよりも、費用がかさんでも事故以前の姿を取り戻せる偽肢レプリカを選ぶのが一般的だった。

 機械的な造形を醜悪だと思うかは当人次第ではあるのだけれど、義肢では二度と他者のぬくもりを感じられない点はデメリットといえるだろう。


「ふぅん。機械だとびるし不便でしょ。あたしが治ったらだけど、治してあげよっか?」

「このままでいい。俺は魔法を信用しないことにしたんだ。魔法じゃ、魔物には勝てなかった……ッ!」


 表情を固まらせるジェイド。迂闊うかつにも余計な情報を与えてしまった、という感情がだだれだった。フーカは眉根を寄せて「そう」とだけ返した。彼女は小さく腕を振り、ジェイドの汚れた包帯を新品のものに交換する。適当に巻かれていた顔の包帯が最低限の面積にとどまり、あどけなさの残る輪郭が外気にさらされた。


「そんな大雑把な巻きかたでは、あんたの不細工な顔が台無しよ」とフーカは頬を緩ませる。


 ジェイドが不満そうに唇をとがらせた。「余計なお世話だ」


「病室に来るなら清潔な恰好にしなきゃ」

「……ま、そうだな」

「またね」


 フーカは口元で手を振った。そのとき唐突に病室が色づいた。とりわけ彼女の茜色の髪と翡翠ひすいの目が鮮明に映し出され、よっぽどフーカに見惚れていたんだな、と私は微笑ましくなる。


 

 魔法のを掴んだ私は、それからの出来事を流し読みの要領で整理した。二人は頻繁に忍び込んだこと。彼が退院し、フーカが森毒専門病棟に移ってからもたまに三人で会いに行ったこと。ひとりでも会いに行ったこと。フーカが初めてジェイドの名前を呼んだこと。不意にほころばせた表情を忘れないとちかったこと。後半になるにつれてフーカに関する記憶が増えている。彼女のことを意識しだしたのだろうね。

 彼がひとりで面会に来ているところを目撃して複雑な気持ちになったり、彼女に触れられて緊張したり、生々しくて恥ずかしくなる青い思い出もあった。

 なかでも気になった場面に切り替える。そこはどうやら三人が根城にしているテントで、「ひみつきち」という名前があるようだ。この「ひみつきち」は何者かがのこした〈隠処かくれが〉による異空間を指し、十三歳未満の子どもにしか利用できず、またその在りについてはかつて子どもだった大人たちのほうが詳しかった。家出をしたり門限を過ぎても帰らずにいる子どもが、我が子の足跡を魔法で追跡した親に連れ戻されるのは日常茶飯事である。


「あいつも身寄りがないのか」


 両腕をさすりながらジェイドがいった。彼らは暗いテント内を魔法のランタンで照らし、寒さをまぎらわせるために身を寄せあっていた。季節までは特定できないが、とにかく寒かった感情が私のなかに雪崩なだれ込んできている。


「うん。生きてはいるみたいなんだけど、いまは頼れる状況じゃないんだってさ」


 フーカの父親は魔物の生態調査中の戦闘で霊的中枢を損傷し、魔法では回復不能の植物状態となっており、彼女はほとんどシングルマザーの家庭だった(このとき母親が薬品事故で逮捕されている)のだが、それを伝えるだけの理解力と語彙が彼には備わっていなかった。年齢的に仕方のないことだ。


「治りそうなのか?」

「アルラウネ症の治療薬は高額だからね。その質問には答えなくてもわかるだろうけど……」

「悪化してるんだよな」


 フーカが集中治療室に移ったという話を担当医に聞かされ、急遽、彼らは「ひみつきち」にて作戦会議を行う運びとなったのだ。


「自然治癒の前例はないよ……」というレブレの太腿ふとももの上には分厚い専門書が開かれている。「クエレはなんとかしてやろうって顔してる」

「そうかな」

「アテはあるのか?」とジェイドがたずねる。

「まったくないね」


 彼は肩をすくめていった。示し合わせたかのように三人の吐いた息が重なる。


「じゃあ、金持ちの余りモンでも盗むか? あれから馬鹿にされないように魔法の勉強もしてきたしよ」

「だめ。わたしたちは失魔症だから足手まとい」


 否定したのはレブレだ。盗みをはたらこうにも一般の魔法使いを相手取るのは無謀だった。

 

「盗んだお金で助かったとして、それでフーカは喜ぶのかな」


 続けて唇を動かした彼の率直な問いかけに、ジェイドは目にみえて狼狽ろうばいした。


「だが他に方法がねえだろ……」


 力なく絞りだされた言葉を最後に反論は途絶えた。重苦しい時間が流れていく。互いの意見に正しさとあやまりが含まれていることを子どもなりに理解しているが、膠着状態を抜け出す一手を見つけられなかったのだろう。

 膝に顔をうずめていた彼が腕を伸ばし、そこに筆があるかのように空気をまんだ。


「神様に頼もう」


 長い沈黙は破られた。きょとんとした顔でレブレが彼の横顔をみる。


「神様? 祈るってこと?」

「祈ったところで治してもらえる確証がないだろ。だいたい神様の居場所もわかんねえのに」


 ジェイドの声音は苛立ちをはらんでいた。場の魔力が乱れたせいでランタンの火が不安定に揺らぐ。


「僕は神様の居場所を知ってる。ペンとインク……あと紙があれば、ひょっとすると届くかもしれない」


 たった一言を残して彼は立ち上がった。次第に背景が黒一色に染まりだす。まもなく〈追憶〉が終わる。

 突如私は、自分のなかに温かい感情が広がっていくような錯覚におちいった。あぁ、そうか。何か途轍とてつもなく大きな決意をめて進もうとする彼の背中をみて、ジェイドは憧れを抱いたのか――。



 閉じかけた目をはっと開く。ノイズ混じりの音。砂嵐めいた映像。途切れ途切れの歪んだ点が人の形に繋がり、成長したジェイドとレブレの姿になる。


「あの話は本当なのか?」と問い詰めるジェイドの声と、「わたしにしかできなかったから」と話すレブレの声。


 二人ともかなしそうな目をしていて、その場を離れようとする彼女の肩を金属の腕がつかむ。直後の「なにかあったら絶対言えよッ!」と心配するような怒りをにじませたようなジェイドの必死さが伝わる言葉が、私の耳にこびりついて離れなかった。





 あかりが消える。そう思ったときには、私の意識は現実世界に戻されていた。 


「うえぇ……吐きそうです」


 眩暈めまいにより回転する視界と、膨大な記憶情報が脳にかける負荷とが相まって最悪の気分だった。錬金街での魔物けの結界に匹敵する。

 二日酔いのフーカが似たようなセリフと胃の内容物を吐いていたな。お酒は飲んだことないけど、私も今、っぱいものがせり上がってきたところだ。


「わりぃわりぃ、俺の魔法の質が悪すぎたな。フーカならもっと上手くできただろうが……」


 言葉のわりにジェイドは平気そうにしている。無駄に頑丈な男でむかついてきた。一度食い殺してやってもよかったが、この男に関しては食べられる部位を探すのに苦労するので避けたい。

 

「それで、かれの願いは」


 神様とやらに届いたのだろうか。

 魔法を使えない子どもが、子どもながらに大金を手にする方法は一つしかないと彼は気づいていて、芸術という魔物にすがったのだろう。


「……届かなかった。結局、クエレが集めてきたのはたった一枚の硬貨だけだ。それは今でもフーカが大切にしている」


 彼いわく、瞳に宿るとされる神様には願いが届かなかった。彼はフーカを救いだせなかったのだ。

 日々の生活を切り詰めてでも絵画にこだわる彼と、それを陰ながら支援するフーカの関係がなんとなくわかった気がした。


「ではフーカさんの病気は別の方法で治ったのでしょうか」 

「フーカが助かったのはレブレのおかげだ。あいつはフーカのためにんだ」

「身体を……」


 その意味をき返すほど愚かではなかった。私は店内のテラリウムケースに視線を移す。

 身体を売るとは、つまりはそういうことだ。


「おかしいとは思ってたさ。クエレが治療費集めに失敗して半月後、レブレは養子縁組の成立を理由に孤児院を退所し、それまで悪化の一途だったフーカの病状は快復に向かいだした。いくらなんでもタイミングが良すぎるとな。だが身売りの話を打ち明けられたのは四年後……俺たちが十六になってからだ。今更どうすることもできなかった。助けてやるとも言えなかった。俺はまだ、そのときでさえフーカを救いだせずにいただろうからよ」


 ジェイドは窓ガラスに貼付された入団希望者をつのる貼り紙を魔法でがし、金属の手で握り潰した。それからてのひらのなかの紙屑を〈錬金〉で硬貨に変え、指で弾く。硬貨は放物線を描いて地面にぶつかり、ねることなく砂になって崩れた。


「宮廷魔術師のバルタザール・ワイズマンという男をおまえは知っているか?」

「えぇ」


 私はうなずく。イバの首輪に細工をした魔術師の名前だ。そして私たちを襲った魔術師である可能性が高い男。


「かつては師団を率いるほど信頼の厚い男だったらしいが、どうも妻の最期を看取みとってから人が変わったと噂されていてな。……魔法実験のために失魔症の孤児を欲しがっていたそうだ」


 宮廷魔術師――すなわち「宮廷行き」は師団最高位の役職である。アルラウネ症の治療薬など買い占めてしまえるだろうね。


「その男に買われたのですね」

「あぁ。表向きには資産家による多額の寄付金で一命を取りめた、とフーカには伝わっているはずだ。真実はとてもじゃないが言えなかった」

「たしかに呪縛になりそうです」と私は蔓をジェイドの手に重ねた。「かれにとっても、あなたにとっても」


 フーカにとっても。レブレという一人の少女の犠牲によって彼女は救われた。そう簡単には解けない呪い。

 しかしこれは憶測に過ぎないが、かんの鋭いフーカならとうの昔に看破かんぱしているのではないかとも思う。私が教えてもらった話では、彼女が魔法薬学の道に進んで最初に取り組んだのが〈森毒〉の治療薬開発だからだ。

 フーカ自身の実体験が動機だと思っていたが、そこにはレブレへの想いがあったのかもしれない。

 

「ま、あくまで噂は噂でしかない。レブレも夢だった冒険者になれたんだ。そこまで非人道的な扱いをされたわけじゃないのはわかる。だがな、俺たちがバルタザール卿をこころよく思わないのは確かだ」


 現在、貧乏人の彼にも毎月処方できるくらいには安価な薬が開発されている。今となってはどうしようもなくどうしようもない過去だが、しこりは残ってしまうし、それぞれの痛みは皮膚の下でうずいているはずだった。

 なにより。彼の幼馴染であるレブレという少女。彼女には彼を縛りつけるであろう事実がもう一つある。


「……渡した新聞は読んだか?」とジェイドが話題を変えた。いや、たぶん変わってはいない。

「読みました」



 蔓が魔力の乱れを感じ取る。私は静かに息を吸った。



「亡くなったんですよね」


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