なんだか私の母親みたいですね


 今日も雨。昨日とは違う雨。フーカの店の窓辺からみちにできた水溜まりを眺め、彼女がいつもそうしているのを真似まねて頬杖をつく。ぱらぱらとした雨が中心街をひたし続ける。

 河川が氾濫はんらんするほどの豪雨だったり、体温で蒸発してしまいそうな霧雨きりさめだったり、粘性のある不快な雨だったり、日によってさまざまな雨が降る。

 降りしきる雨が水棲すいせいの魔物を活性化させると思われがちだが、どちらかというと魔物全体の活動は穏やかになる。外出が億劫おっくうになって家でやり過ごす人間たちのようにね。雨続きの日々の退屈さをたとえたのか、長い雨の季節は「樹木の季」と呼ばれていた。

 ふと如雨露じょうろを蔓で絡め取り、乾きかけの表皮をうるおわす。この如雨露はジェイドがくれた。〈水〉の魔道具に比べて水汲みが少々面倒ではあるけれど、管先の蓮口はすくちが水流を私好みに調節してくれる。これはこれで良い。


「嵐になりそうね」


 隣に立つフーカが呟いた。萌黄もえぎ色のローブが漂わせる薬品臭さにアルラウネの体液の匂いが混じっていることに気づき、なんだかけがされたみたいで自分が可哀想に思えてくる。


「外の薬草の避難は済ませました。空が鳴いてきたので」


 遠くのほうで空がうなりをあげている。黒い塊のふくらみが窓越しでもわかった。〈灰鯨雲バーラニンバス〉という魔物雲の鳴き声だ。上空で渦を巻きながら発達し、やがて積乱雲になって消える。樹木の季の風物詩でもあり、激しい雷雨の前触れを意味する。 

 ちなみに私は台車付きのプランター内で生活をしているため、自力で移動しつつ外の植物を避難させられたわけだ。

 台車に頼らずともつるを駆使してわせながら運んだりもできる。本来は捕食用の機能なので無理に使うと疲れるし、とてもお腹が空くので非常時以外はやりたくない。


「気が利くじゃない」と彼女は微笑みを向けた後、少しだけ表情を曇らせる。「クエレ、昨日も来なかったわね」

「二十日目になります……」

「今月の薬はあと十日分くらいだと思うから、いずれは来るでしょうけど。三日おきで話す程度なら大丈夫って伝えてあるのにあいつ、どういうつもりなのよ」

「案外なにも考えてないのでは」

 

 やや芝居がかった声で私は答えた。彼のもとを離れ、フーカと暮らし始めた最初のひと月は、森で出逢った頃のように毎日差し入れをしてくれた。それこそ頻度を減らせと怒られるくらいに。

 仕方ない人だと呆れる一方で、会いに来てくれるのは嬉しかった。しかし今月の初めに薬を取りにきて以来、彼はぱたりと顔を見せなくなった。画用紙もインクも切れかけだ。

 会いたいし、寂しい。その反面、来なくなって安堵している自分もいた。私との関わりを断てば彼の症状は悪化しない。彼が苦しまないならそれに越したことはないから。

 私の精神が、私が思い込んでいた以上に強かったのも理由になる。あれだけ抵抗したのにいざ離れてみると意外に大丈夫だったの、うん。

 現状を喜ぶべきか、悲しむべきか、悩めるだけの余裕がある。これが湖畔こはん暮らしなら魔物に殺されたのではないかと不安になるところだが、人間の街ではそういった危険とも無縁だった。

 依存状態から脱却したともいうし、大丈夫なつもりともいう。強がっていてもふとした瞬間に胸の内側がざわめいて、それは無視できない痛みに変わる。愛情とは呪いの魔法に近い性質を併せ持つのかもしれない。人食いアルラウネが愛に呪われるとは実に滑稽こっけいでらしくないと開き直ってしまいたいのに、どうにもこの呪いを解く方法がわからないのだから厄介だ。

 だからそう、開き直って。楽しめる方向で考えよう。

 今頃彼はどうしているのだろうか。軒先でぽつりぽつりと垂れる音を聴きながら、絵を描いているのだろうか。

 そうだとしたら。

 だんだんと集中力を途切れさせた彼が、わけもなく窓辺に視線をやったとき。同じ魔物雲をながめているといいな。なんていう思いをめぐらせていると、来客をしらせる鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ!」

 

 足の不自由な女性が〈浮遊〉しながら入店する。彼女はずぶ濡れだったがすぐに魔法で着替え、髪を乾燥させて一息ついた。

 雨水に対する人間の反応はおおよそ二種類に分けられる。濡れることを嫌ってあらかじめ〈撥水はっすい〉や〈雨傘〉の魔法をかけておく人と、道中濡れることは気にせず目的地で着替える人だ。

 彼女は後者の人間だった。ひとは幼いほど雨を嫌がらず、またある時期から急激に雨を嫌がり、年齢を重ねるにつれて雨を許すようになる。この女性は人間の平均寿命から考えると半ばくらいに思えたが、見た目よりも年を取っているのかな。


「あらぁ、今日もえらいねぇ……」


 常連客の一人である彼女は目を細めていった。顔を合わせるたびに褒めてくれるのだが背中の辺りがくすぐったい。

 フーカに引き取られてからというもの、私は順調に客寄せアルラウネの地位を築き上げてしまった。


「ルルシダさん。いらっしゃい。わざわざ嵐の日にまで来なくてもいいのに」とフーカが苦笑しつつ会釈する。

「魔法があるから大丈夫。それにアイルちゃんと話せば若返りそうだからねぇ」


 いいながら私のプランターまで近づいたルルシダは、目線を合わせるように〈浮遊〉を加減して前のめりに顔を寄せた。


「……えっと、葉っぱ食べます?」

「いただこうかしら」


 ルルシダは冗談っぽくいう。


「やめときなさい。アルラウネの葉を生食しても苦いだけよ。多少の疲労回復には役立つでしょうけど」

「さすがはレイカの娘ね。勉強になるわ」

「……お母さんは関係ない」


 かすかに聞こえたフーカの声は雨音にまぎれてしまいそうだった。ルルシダには聞こえていなかったのか、いつも購入する魔法薬を買い物かごに入れた後、カウンター付近に並んでいる名前がきざまれた空瓶を手に取った。


「ついでにこれも買うわ。瓶のラッピングをお願いね。アイルちゃん」

「はーい。だれかにプレゼントするんですか?」

「友人の誕生日が近いの。娘の名前が入った瓶だもの、きっと喜ぶはずよね。フーカちゃんも決めたの?」

「あたしはまだかな……」フーカは考える仕草をした。「新薬の開発で忙しいから」

「……無理はしないようにね」

「うん。用心しておく」


 ラッピングを終えた商品を手渡すと彼女は短く礼をし、魔法で扉を開けた。


「じゃあね、へカーテ!」

「へカーテ。ありがとうございました!」と私は別れの挨拶で見送る。


 仕事で学んだのはへドリス西部なまりの方言で、「またね」とか「お元気で」といった軽めの状況で用いるのが一般的なのだそう。私もすっかり人間の色が浸透してきたな。

 ルルシダが帰ってからしばらくフーカは笑顔を見せなかったが、次の客が来ると何事もなく振る舞っていた。私はそんな彼女のようすを気にかけていたのだが、接客をこなすうちに忘れてしまった。

 悪天候のため客は少なく、今日は閉店時間ぴったりに施錠した。すると珍しくフーカが向かってくる。


「ありがと。あんたが来てからうちの売り上げはうなぎのぼり。可愛い声で喋る魔物ってだけで集客効果があるものね。ご褒美に好物の肉を焼いてあげる」

「やったー! お肉ー!」素直に喜びかけて我に返る。「……って、いつまで客寄せアルラウネさせるつもりですか?」


 擬態部の首輪が店内の光を反射する。あくまで私は飼われているのであり、住み込みで雇われたわけではない。

 植物は与えられた寿命に対して暇を持て余しすぎているので、仕事を手伝う忙しさは新鮮だった。それはさておきフーカの意図くらいはいておくべきだろう。


「ここにいる限りよ。魔物とはいえタダ飯を食らわせてやるつもりはないの。あと美容と健康を保つには適度な会話が必要不可欠でしょう」

「話し相手ならフーカさんで足りてますが」 

「あたしだけではまかないきれないわ。深刻な栄養不足ね」とフーカが小さく笑いかけた。「太陽と違って、人間はひとりじゃないもの」

「なんだか私の母親みたいですね」

「あんたに母親はいなかったでしょうが」

「そうでした」


 彼の話す内容とフーカの話す内容は全然違って、彼の好きなこととフーカの好きなことも全然違う。人間は一人ひとり違うから、それぞれで得られる栄養には限りがあって、ひとりでは太陽にはなれない。特定のひとりと関わってばかりいては、思想のコピーが完成するだけで個性が生まれない。私が私でいて、他の誰でもない私に成長するためにはたくさんの人と会話する必要がある――と彼女が伝えたかったものを私が理解できたのはずっと先の話だ。

 だってこのときの私は、まだたったひとりが必要だと思っていたから。 


 彼は今日も来なかった。


 次の日も来なかった。



 彼が会いに来たのは、きっちり十日後になってからだ。湿った風がかわきだした昼下がり、この日はジェイドも遅れてやってきた。

 次の季節を運ぶといわれる〈精霊風シルフ〉が早朝に吹いていたし、変化をもたらすきざしだったのかもね。

 古くなった薬品と新発売のものを取り替えている最中、どこか躊躇ためらいを感じさせる音を立てて扉が開き、寒々しいとも暖かいともつかない悪戯いたずらめいた風が店内を一周した。

 新しいものと、新しい季節の風。移ろいゆくものたちの中で彼は、ひとりだけ取り残されてしまったみたいな表情をしていた。


「久しぶりでいいのかな」


 その言葉で、会えなかった時間の長さを実感した。私はつるを彼の手首に絡める。


「会いたかったです。ずっと待ってました」

「ちょっと体調が優れなくてさ」


 体調のことを言われてしまうと彼を責められない。諦めて空になったインクボトルを見せる。

 

「インクなくなっちゃいました」

「だと思ってさ。補充しておくよ」彼はバックパックに常備された画材道具を取り出そうとして、手を止めた。「僕のバッグごと渡したほうが早そうだ」


 そういってバックパックを蔓に引っ掛ける。彼の体臭にアルコールの匂いが混ざっていた。出逢いたての記憶がよみがえる。私と暮らしていたときはあまり飲まなかったのに、今になって酒に手を出したのだろうか。


「大事に使います」


 指摘するほどのことではないと思い、蔓をプランターの隅に引っ込める。彼はちらちらと店の奥に視線を送った。


「フーカとも話してくるよ」

  

 彼の背中が遠ざかるのをみて、あっ、と形をつくったきり声にならなかった。話し足りないな。まだ構って欲しかったな。でもどうやって引き留めたらいいのかを考えるのは難しすぎた。世間話ならフーカのほうがよっぽど上手くやれる。体調への気づかいも。病気への知識も。

 言葉が話せるのに。感情が存在するのに。私が行っているのは相手の呼びかけに応じるただの反応に過ぎない。それが悔しかった。

 現実から目を逸らしたくてはす向かいのテラリウムケースをみた。ここでは飼育用のアルラウネが販売されている。彼らは肉をあぎとを失い、サイズも人間のてのひらに乗せられる程度。魔法の行使はおろか、思考すらかなうまい。

 昔の私なら、生殺与奪の権利を人間ごときに明け渡した死にぞこないとあざけっただろうけど、その弱さが羨ましく思えた。

 彼らの毒性魔力で失魔症の成人男性が〈アルラウネ症〉を発症することは半永久的にない。時間にしておよそ千年。寿命のほうが先に尽きる。望めば生涯彼の肩に乗って過ごせる。

 何やら二人の楽しそうな声が聴こえてくる。私の吐いたため息は、どこにも響かず精霊風シルフが持ち帰ってしまう。

 どうせなら心まで持ち帰ってくれたらいいのに、と愚痴をこぼしているうちにジェイドがきたのだ。金属特有の耳障りな音を主張させながら、心なしか窮屈そうに扉を通り抜けた。


「よう、元気にしてたか?」


 彼はまず私に話しかけた。あぁ、ジェイドさん。普段よりも気の抜けた声が出て恥ずかしい。


「元気じゃないです」

風邪かぜか? 花がれてきてるぜ」

「咲きかわりの時期なのでご心配なく。不調なのは心のほうです」

「心ねぇ……プランター用の耕耘機こううんきを発明したんだが使うか? まだ細かいところは魔法に頼る段階の失敗作でな」


 ジェイドは興奮気味に解説し、自動で土をたがやせるらしい耕耘機に魔力を流す。大きさのわりに凶悪な音で心臓が止まりかける。いや、止まる心臓はないけどさ。


「私がたがやされそうなので遠慮しておきます」

「ちぎれても再生するだろ?」

「痛いは痛いんですよ! 数カ月後に私が増えていてもいいんですか?」

「それは気持ち悪いな……待てよ。あー……」


 微妙な顔をしたのも束の間、すぐさま思いつきを披露しようと口が半開きになる。


「グリフォンの餌にするのはやめてくださいね」

「そうか……」


 名案を否定されたとばかりにジェイドは肩を落とす。なぜ人間はこうも悪びれず残酷な発想を実行に移そうとするのか。

 彼の義眼が不自然に動く。探し物。または人探しかな。細かい挙動への敏感さが身についたのは日々の接客の賜物たまものだった。


「フーカさんなら奥で話してますよ」

「知ってるぜ。クエレが来てるんだろ?」

「えぇ」

「俺はあいつらが近くにいないことを確認したんだ」

「どういうことですか?」

「アイルと俺の立場は似てるだろ」とジェイドは言いにくそうに後頭部をいた。「矢印の向きを二つほど、変更したいと思ってる」


 発言の真意をみかねて、私は首をひねった。


「一つですかね。かれが振り向いてくれたらいいので」

「魔物らしく素直だな」

「ジェイドさんにしても一つでしょう。フーカさんはともかく、かれがフーカさんに向いているとは思えないのですが」

「クエレは幼馴染にしばられてんだよ」

「なるほど……」


 がちゃりと小さな音が鳴る。扉のほうを見ても誰もおらず、視線を戻したときに音の正体は握りしめられた金属の拳だと気づく。


「それでも歯車の噛み合いはよかったんだが、ちっとばかし状況が変わってきてな。アイルとも離れて一人に戻っただろ。あいつの幼馴染への執着はいずれ呪縛になる。フーカのほうを向いたってンなら、ましだったのかもしれねえ。俺たちにとってはよくないがな」


 過去の事情を知らない私は、ジェイドの言葉に賛同も反対もできなかった。知らないなりにも私とジェイドでは悩みの意味が異なるのは明白だ。


「半分機械ですけどあなたは人間で、今現在、あなたの隣にはフーカさんがいるじゃないですか。かれを好きとは限りませんし」

「好きなのは間違いねえ。おまえを引き取った理由のなかに、クエレが会いに来るからって期待が少しはあっただろうぜ」


 俺が一番フーカを見てる、とも彼はいった。もっとも説得力のある言葉だと思った。


「ジェイドさんはそれでいいんですか」

「どうだろうな……」と彼は複雑そうに顔をゆがめた。「昔からフーカはクエレを追いかけてたんで、慣れちまったのかもしれねえ」

「昔から」

「少し長い話になる」

「昨日の雨みたいにですか」

「あぁ」


 ジェイドはおもむろに杖の両端を互いのひたいに当てた。消えかけの蝋燭ろうそくのような灯滅とうめつの輝きに、私の意識は塗りつぶされていく。




 

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