亀山くん、人生観を変える
一人残された亀山くんはシュークリームとエクレアをクレープのテーブルクロスで包みこみ、小脇に抱えた。これから家に帰るまでどれだけ時間がかかるか分からないので、非常食代わりに持っていこうと考えたのだ(魔法で作ったお菓子は空気と一緒なのだと説明されたことを、今この瞬間亀山くんは、うっかり忘れていた)。
チョコレートのドアを開け外に出る。
てくてく歩いていく。
行く手に二股の道が見えた。
亀山くんは一度目と違い、じっくり両方を見比べた。どっちの道を行けばいいのかと。そうしたら片方の道が徐々に薄らいで、消えてしまった。
(これは、残ったほうの道を行けってことだよね)
迷いなく残った道のほうを進んでいく。
また分かれ道。次も、更にその次も。そのたび亀山くんは、最初の道と同じやり方で乗り切る。
竹やぶが見えてきた。手入れの悪い竹やぶだ。足元には切り株が幾つも突き出ていて、どうかするとつっかかり、こけそうになる。
ため池が見えた。
カメがいる。エサを持ってきたときと同じくため池の真ん中に突き出た枯れ木の上で、甲羅干しをしている。
亀山くんは急に心もとなくなってきた。もしかして自分は今の今まで、夢でも見ていたのではないだろうかと。
でもそんな思いはすぐに消えた。だってその手には確かに、シュークリームとエクレアが入ったクレープの包みがあるのだ。針金の枝で突いたお尻がクチクズキズキするのだ。前髪も焦げて臭いのだ。
そう、今までのことは全部本当。本当に起きたこと。
亀山くんはドロボウみたいに息を潜め、自分の家のドアを開ける。
なるべくこっそり靴を脱ぎ、廊下も静かに歩こうとしたが、体が重いのでどうしても音が出てしまう。
お母さんの声が台所から飛んできた。
「イサム、帰ってきたの。またご飯前にお菓子を食べてないでしょうね」
「食べてないよぉ」
早口に言い返した亀山くんは、自分の部屋へ駆け込んだ。しっかりドアを閉め鍵をかけ、鏡の前でズボンを下ろし、お尻の具合を確かめる。
予想通り、太目の針で突いたような傷が無数に出来ていた。
(痛いはずだよ、これじゃあ)
亀山くんは救急箱を出してきて、お尻一面に絆創膏を貼る。
続けて髪の焦げたところを鋏で切り、両脇から無事な髪を寄せ、目立たないようにした。
それからようやく気を落ち着けて、机の上にクレープのクロスを広げた。シュークリームとエクレアを食べた。やっぱりおいしい。これまで食べてきたどのお菓子よりも――お腹はちっとも膨れてくれないけど。
(僕、すごい大冒険してきたんだ。この世界とは違う世界に行ってきたんだ)
これまで悩まされてきた数々のことが、急に、どうでもいいほど小さな問題に思えてきた。
(それにしてもあの子達はすごかったなあ。あんな思い切り叩き合って、噛み付いてさ)
やせた子の太った子に対する反撃の凄まじさもさることながら、太った子の周囲に対するふるまいも、亀山くんにとってすこぶる印象深いものだった。
(あの子、僕よりずっとデブなのに優しくもないしいい人でもなかった。でも、すごく堂々としてた。自信満々だった)
率直に言って亀山くんは羨ましかった。あんな風に言いたいことを言ってしたいことをして怒られても憎まれ口を叩いて。そんな風に出来たら、どれだけ気持ちいいだろうと。
(でも駄目だよなあ。僕がそんなことしたいじめられたとき誰も守ってくれなくなっちゃう。あの子は強いから、人間じゃないから、そんなことが出来るんだ。僕は駄目なんだ、そういうことしちゃあ)
ここで終わっていたはずだ。これまでだったら。
でも今日は違った。
亀山くんはずっと馴染んできた事なかれな考えに、疑いを抱いた。
(……でも、皆僕を守ってくれてるのかな、本当に。反応を起こしてくれるのは、いっつも僕がいじめられた後じゃないか。その前その最中には何もしてくれないじゃないか。結局僕のことを、本気でどうにかしてあげなきゃいけないなんて考えてないんじゃないか……?)
疑いは頭を研ぎ澄ませる。考えに考えた末亀山くんは、不愉快かつ正確な現実認識にたどり着いた。
(僕が、鈍くて気が弱くて泣き虫の優しいデブだからだ。たとえほったらかされても、鈍くて気が弱くて泣き虫の優しいデブは、文句を言ってこない。恨みに思って何かしてくることはないって安心してるからだ)
理科室のカメと一緒だ。カメはノロマで優しい生き物。汚くなった水に文句を言わない。そのまま大人しくしていてくれる。吠えたり噛んだりしてこない。だから、ほったらかしていても大丈夫……。
(でも、そんなことないんだ本当は。カメはノロマじゃないし優しくもない生き物なんだ)
亀山くんの瞼に、カメが蛙を襲う場面が浮かんできた。
あの時カメは、カメじゃないみたいだった。素早くて凶暴な見たこともない生き物だった。正直ちょっと怖かった。なんで? と思った。お前はそういうキャラじゃないだろう、と。 だけどカメ自身はこう言うだろう。ノロマだの優しいだの、それはお前達が勝手に作ったイメージだろう。こっちが付き合う義理はないよ。
亀山くんは大きな息を吐き出す。これまでずっと胸に飲み込んでいたものと一緒に。
心の中のどこかから、声が響いてきた。これまで内側に隠されていて出てこられなかった声が。
そうだ、僕についても皆、勝手にイメージを作っているだけなんだ。
ああ、やめた。もうやめた。そんなものにいつまでも付き合ってたら、僕は僕がやりたいことひとつも出来ないで終わっちゃう。
もうやーめた。いちぬけた。
亀山くんは笑った。愉快そうに。
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