唐沢卓郎(10)

 卓郎は老人サークルの活動日で、釣り場に来ていた。今日、卓郎にはサークル活動以外にも目的があった。


『おはよう』


 卓郎はもう一つの目的である、敦也の姿を見つけて声を掛けた。卓郎は敦也に老人サークルの手伝いを頼んでいたのだ。


『おはようございます』

『来てくれてありがとう。人手が少ないので、助かるよ』

『いつでも呼んでくださいよ。卓郎さんの頼みなら絶対来ますから』


 敦也は卓郎の願いに応える事が本当に嬉しそうだった。


『おはようございます』

『あっ、千尋さん』


 挨拶を済ませた卓郎と敦也の前に千尋が現れた。


『あ、敦也君、どうしてここに……』


 二人はお互いがここにいる事を知らなかったようで、驚いていた。


『おはよう。よく来てくれたな。ありがとう』

『えっ、卓郎さんは千尋さんと知り合いだったんですか?』

『えっ? もしかして、二人は知り合いなのか?』


 卓郎は驚いたような声を上げたが、もちろん芝居だ。二人の関係を確かめたくて同時に呼んだのは卓郎自身なのだ。


『ええ、私達、最近旅先で知り合ったんです』

『卓郎さんが千尋さんと知り合いだったなんて驚きましたよ。さすが、顔が広いんですね』


 卓郎は敦也が千尋の事をどう思っているのか確かめたくて、少し牽制を入れようと思い付いた。


『千尋は俺の妹のような奴だからな。泣かせたら許さねえぞ』

『いや……、そんな泣かせるだなんて……』

『冗談だよ。それだけ良い娘(こ)だって事だよ』


 敦也の言葉からは千尋に対する気持ちは読み取れなかった。


 どんなにリアルに作られていても、「真実の世界」は所詮虚像だ。卓郎は現実と比べ、会話の中で相手の気持ちが読み取れないもどかしさを感じた。 


『丁度いい、二人でペアになって、お年寄りに釣りを教えてあげてくれないか。釣りの経験者にも声を掛けて、雰囲気を和ませて欲しいんだ』

『はい、分かりました』


 取り敢えず二人一緒に行動させて、様子を窺おうと卓郎は考えた。



『ありがとう。もうみんな慣れてきたようだな。老人の相手は大変だっただろう?』


 一通り回り終わったところで卓郎は二人に声を掛けた。


 『いえ、経験者の方も多くて、そうでもないですよ』と敦也が言えば、『私達が話し掛けると言うより、皆さんが気さくに声を掛けてくれたので助かりました』と千尋も続けた。


 二人の声は明るく弾み、楽しんでいるのが卓郎に伝わった。


『それは良かった。後は任せてもらって良いから自由にしてくれていいよ』

『はい。……じゃあ、千尋さんどうする?』

『敦也君さえ良ければ、私釣りをしたことがないから、やってみたいな』

『じゃあ、そうしようか』


 聞いている方が恥ずかしくなるくらい、初々しい二人の会話だ。


『卓郎さん、俺達ここで釣りをしています』

『おお、分かった。今日はお疲れさん。また次も頼むな』

『はい』


 卓郎は釣りに戻る二人の姿を見送った。


 何も考えずに見れば、交際を始めたばかりの若いカップルにしか見えない。問題は、敦也が騙された過去を吹っ切れているのかと、千尋がなぜ騙した相手と付き合いだしたのかだが、今後聞いて行くしかないだろう。


 今日、表向きに二人の関係を知った事により、卓郎は直接話題を振る事が出来るようになった。二人の関係が卓郎の公認になった事だけでも収穫であった。



「どうですか? これだけ証拠があればリサーチ班がどれだけ入所者に肩入れしているか分かります。特にこれは唐沢があるカップルを特別視して仲を取り持とうとしている資料です」

「入所者に肩入れねえ……」


 所長室のデスクに座る岸部の前で大木が得意げに資料を広げ熱弁している。岸部は表情を変えずに、デスクに広げられた資料を手に取る事もせず眺めていた。


「リサーチ班の奴らは所長の意向を無視して、あのクズ共を幸せにしようと企んでやがるんですよ」

「おいおい、君は怖い事を言うね。まるで私が入所者を不幸せにしろと言ったみたいじゃないか。入所者の幸せの為に仕事する事の何が悪いんだ」


 岸部はわざと大袈裟な素振りで困ったような顔を作った。


「えっ? あ、いや、その……」


 予期せぬ岸部の言葉に、大木はうろたえて言葉に詰まった。


「入所者の幸せを考える……。良い事じゃないか。君のパチンコキャンペーンだって入所者に喜んで貰いたかったんだろ?」


 もう岸部は無表情に戻り、淡々と話している。その口調は、大木に有無を言わせぬ迫力があった。


「あ、いや、もちろんその通りです……」

「そうか。なら良いじゃないか。入居者の幸せ大いに結構だ」

「は、はい、失礼します」


 大木は資料もそのままに慌てて出て行った。


 岸部はその後ろ姿を見送り小さくため息をついた。


「もう少し頭の良い奴だと思ったんだがな……」


 岸部はふと一つの資料を目に留め、手に取った。資料をめくる度に、その顔にだんだんと笑顔が浮かんでくる。


「唐沢が肩入れしている入所者か……。クズを相手に馬鹿な奴だ」


 岸部は楽しそうな笑顔を浮かべた。



 畜生! 何だってんだ、あのクソ所長の野郎。腹の中真っ黒だぜ。仕事で唐沢に嫌がらせする計画が台無しじゃねえか。


 大木は顔を真っ赤にして鬼の形相で部署への廊下を歩いていた。席に戻っても他の者が声を掛けるのがはばかられる程、興奮していた。

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