唐沢卓郎(11)

 釣りサークルの翌日、卓郎の元に敦也と千尋の二人からメールが送られてきていた。


 敦也は、昨日は楽しかったとの感想とまた次回も喜んで協力しますとの内容だった。


 問題は千尋のメールだ。千尋は敦也を騙していた事を告白してきた。敦也に騙していた事を打ち明けておらず、それが心苦しくて正直に話すべきか卓郎に聞いてきたのだ。


「うーん……」


 千尋のメールを読んで卓郎は唸った。


「どうしたんですか?」


 パソコンの前で深刻そうな顔をしている卓郎に美紀が声を掛けた。


「例の敦也と千尋の事だよ。千尋が騙していた過去を敦也に打ち明けるか悩んでいるんだ」

「やっぱり打ち明けられないでいたんですね」

「千尋はもう騙す気がないと思う。その上で本当に敦也と付き合って行きたいのなら、打ち明けて謝るのも良いかもしれんな……」

「そうですね……でも……」


 美紀は少し言いにくそうに口ごもった。


「でも?」

「でも、リアルの顔が見えない付き合いですから、ちゃんと千尋さんの気持ちが伝わるのかなあって。本当に心の繋がりが出来ていないと、敦也君は常に騙されているんじゃないかと不安に感じるかと思って」

「うん……」


 確かに一度裏切られて傷ついた敦也の心が、千尋の真実に耐え切れるのだろうか。何が真実で何が嘘か分からなくなり、全てが信じられなくなる危険もある。


「そうだな。千尋には打ち明けるのは、まだ待つように言うよ。本当に二人の絆が出来るまで。その間に俺も敦也の傷を癒すフォローも出来るしな」


 卓郎はさっそく、千尋へ返信のメールを送った。美紀はその横顔を優しいまなざしで眺めている。


「唐沢さんは本当に親身になって二人の幸せを願っているんですね」

「ああ、あの二人色々あったけど、ここで付き合いだして幸せに暮らして欲しいんだ」


 優しく微笑む卓郎の顔を見て美紀は勇気を出した。


「あ、あの……唐沢さん!」

「ん?」

「あの……唐沢さんは、ご自身の幸せについてはどうお考えですか?」


 いきなり考えもなく勢いだけで質問したので、自分でも変だと感じる言い回しで美紀は尋ねた。


「ご自身の幸せ?」

「そうです。唐沢さん自身の幸せです。唐沢さんって皆の幸せの為に一生懸命なのに、ご自身の幸せは無頓着なようで……。あ、あの自分の幸せはどう考えているんですか?」


 かなり突然で、不幸せ前提みたいな失礼な質問で、自分自身の頭の中がこんがらがってて訳分からない質問かも知れないけど、私は聞きたいのです。唐沢さんは未婚なのに彼女の話もないし、女性の話すらしない。所内にもファンがいてアプローチする女子もいるのに見向きもしない。もしかして男が好きなのかとか考えたりするけど、そんな感じも無い。私にもっと勇気があれば告白したいけど、拒否されるのが怖くて出来やしない。


 ……でも……。


 せめてどう考えているのかぐらいは知りたいのです……。


 そんな美紀の心の叫びを無視するように卓郎はまたパソコンに向き直った。


「俺はいいんだ」

「えっ?」


 卓郎の横顔を眺めながら美紀はキョトンと呆気にとられた。


「……あの……いいってどう言う事です?」

「俺は幸せにならなくていいんだ」


 卓郎は食い下がる美紀を見向きもしない。こんな冷たい卓郎は初めてだ。


「そんな……唐沢さんはいつも皆に幸せになれって言ってるのに……」

「煙草吸ってくる」


 美紀の言葉を遮るように、卓郎は立ち上がり部屋を出て行った。


「唐沢さん……」


 怒らせてしまったのだろうか……。


 美紀は卓郎の後姿を見て、猛烈な後悔が押し寄せてきた。だが、今更どうする事も出来ず、泣きそうな顔で見送るしかなかった。



 館内は全て禁煙になっている。煙草は外にある自動販売機が設置された、喫煙スペースで吸う事になっていた。


 卓郎は缶コーヒーを買い、ベンチに座り煙草に火をつけた。


「隣、良いかね?」


 気が付くと岸部所長が立っていた。偶然なのか姿を見て来たのか分からないがこんな所で一緒に煙草を吸う仲とはとても思えず、卓郎は困惑した。


 岸部は缶コーヒーを買うと卓郎の横に座った。岸部が煙草を取り出したので、仕方なく卓郎はライターで火を点け、灰皿をお互いの中央に置いた。


「入所者の為に仕事、がんばっているみたいだね」


 卓郎の方を見ず、独り言のように岸部は呟いた。


「所長に言われた通り「真実の世界」内で出来る事をしているだけです。文句言われる事では無い筈ですが」

「おいおい誤解するなよ。非難なんかしていないだろ」

「……」


 本当に心が読めない人だ。


 卓郎の警戒心は緩む事が無かった。


「あんなクズどもの為によくがんばれるなと感心するくらいだよ」

「所長はなぜそんなに入所者の事を毛嫌いするんですか? 彼らがあなたに何をしたと言うんですか?」


 卓郎の質問に、岸部は何か考えているのかすぐには答えず、煙草の煙を吐き出した。


「私の家は貧乏でね……。親父が小さな鉄工所を経営していたんだが、朝早くから深夜まで仕事をしていても全然儲かっていなかったんだよ……」


 岸部は自分の記憶を探っているのか、間を開けながらゆっくりと話し出した。


「その親父が五十を前にして倒れてそのまま死んだんだよね。もうすぐ子供も成人して楽になる所だったのに」


 岸部は次の煙草を取り出し、自分で火を点けた。


「親父は知っていたそうなんだ、自分の病気を。でも入院するとお金が掛かり、暮らしていけなくなるから我慢していたんだと」


 卓郎は淡々と話す岸部の横顔を見ながら、黙って聞いている。


「親父は働いても、働いても、ずっと生活保護を受けている人間以下の暮らししかできず、クズ共に使う金の一部でもあればもっと長生き出来たんだよね……」


 岸部は遠くを見つめていた。


「私はね、この最低生活保護施設が出来た時、小躍りしたよ。クズ共はクズなりの扱いになるってね」

「でもそれは……」

「まあいい。分かれとは言わない」


 卓郎の言葉を遮って岸部が言った。


 二人とも煙草を吸い沈黙が流れた。


「実は入所者に良い話があるんだ」


 唐突にそう言われても、先ほどの話から卓郎は素直に信じられなかった。


「良い話とは何ですか?」

「今、厚生労働省からこの施設で一組、二十代前半のカップルを退所させたいと依頼が来ていてね。表向き少子化対策の為と言っているが、裏は有るのだろう。まあ、それはこちらに関係ない。だが、出られるのは事実だ」


 退所出来る? 信じられない事だが、こんなすぐにばれる嘘を言うとも思えない。


「梶田敦也と中島千尋。君がずいぶん手助けしてあげているみたいだね」

「どうしてそれを?」


 急に二人の名前が出てきて、卓郎は驚く。


「いろいろ教えてくれる人間もいるんだよ」


 こんな余計な事をするのは大木だなと卓郎は考えた。


「私はね、ここに入るようなクズ共はチャンスを与えてもまた挫けて戻って来ると思うんだよ。君は少し躓いただけと言っていたがね」


 岸部は煙草を灰皿に落とした。


「どうだね。君が本当にそう思っているなら、二人にチャンスを与えてあげなよ。ただし、退所の手続きはこちらで行うから。君が所員だとばれると困るから、退所するまで一切二人に接触する事は禁止する。こちらの意図に反する事になれば退所の件はご破算だ」


 そこまで話すと岸部は卓郎の顔を見て問い掛けた。


「どうする? 悪い話じゃないと思うが」


 卓郎の頭に、敦也と千尋の二人の顔が浮かんだ。


 あの二人にとって、これは二度と無いチャンスだ。現実世界で仲良く暮らす事が出来れば何よりの幸せだろう。だが、本当に大丈夫か? 上手く行くのだろうか?


「どうした? 自信がないのかね?」

「すみません。少し考えさせて下さい」

「明日までに考えてくれ。リサーチ班でよく考えて結論を出してくれ」


 そう言うと岸部は缶コーヒーをゴミ箱に捨て、立ち去って行った。

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