第6話

 それが終わると早早にクラリネットを片付け、ヴァイオリンをケースから取り出す。定まらない調律を何とか済ませてから、直径一メートルはあろう壁掛けの丸時計に目をやり、弓全体を使ってト長調から弓の各部を使ってスケール練習をして、ト短調からビブラートを響かせながら音を出していく。雑音としか形容されない断続的に鳴らされた音色は、集合住宅で二日間行えば住民から苦情が届けられる。男は自分で決めた練習方法に必死で喰らいついていくことに専念していて、発せられている音に注意を向ける余裕などなく、どんな形でもよいので練習を切らすことなく続けてきた歪が男の神経を一方的に通わせてしまい、やり方の悪さを他人に指摘されて逆上する他ないほど頑なに成長させてしまった。

 日課としている練習の終わる前に、猛禽類らしい鷲の眼をした男が出勤してきた。すでにいることを予期してビブラートに集中する男にちらと目をやり、すぐに逸らして小声で朝の挨拶を口にすると、見知らぬ大多数の人人に視線を注がれているような足取りとうつむき加減で事務机に寄り、荷物を置いてすぐに車の鍵を持って外へ出る。その間の男の鳴らす音は酷いという言葉で表せばそれまでだが、美味しくないという評価に一歩進んだ精細な品評をすると、メトロノームに合わせないように音を出しているようで、それが上手くできずにたまたま拍子が合うようなリズムになり、歪んだ一本の調子で奏されていた音色は大地の振動に過敏に反応してしまう具合の悪い地震計のように針は左右に振れに振れ、音階は半音も何もない下手な人間の気まぐれな上下に移ろっていた。(アア、モウ来テシマッタ、ナンデイツモヨリ早クヤッテクルンダ、朝早クカラ楽器練習ヲシテイルト知ッテイルクセニ……)腋のあたりから火照りは顔に伝わり、冷えた四肢の末端に届くなら体温調節は良くなるものの、均衡を失った区区たる音と似た性質の発汗により、顎当てを使わずに固定しているヴァイオリンにハンカチを通して気後れによる粘ついた体液が染みついていった。

 鷲の眼の男が軽トラックのエンジンを始動させて外の寒気を揺り動かすと、吸気バルブから吸い込まれた朝の空気は連続したピストン運動によって血肉を得てマフラーから排出され、仕事をする為のパーツとして組み立てられたそれらが実体となって顕在し、事務所の引き戸を開けて次次とやってくる。皆、灰色のつなぎ服を着ていて、ダウンジャケットがあれば、重苦しいトレンチコートやボア付きのモッズコート、厚手のマウンテンパーカー、光沢のあるキルティングジャケットなど、それぞれの上着は異なっているが、示し合わせたように、細部の形状と色は違っているものの、全員ニット帽を被っている。一人として車で通勤する者はおらず、仕事で回収した原動機付自転車や二百五十に近い排気量を持つオフロード向けの自動二輪車などで、トレンチコートを着る膨らんだニット帽の中の太く縮れたドレッドヘアの男が、事務所わきに設けられたトタン屋根の空間で、コンプレッサーの音をシグナルとして、回収されてきた二輪車を稼働できる状態へ仕上げた成果だった。これらのバイクもニット帽と同じように、住んでいる所が全員東京都町田市でありながら、ある者は森野、ある者は中町、またある者は本町田といったような町名の違いのように、土台を同じくしていながら細部の類似から逃れようとする作用が働いていた。男はすでに楽器を片付けてしまい(今日モ一日ガ始マルカ……)、出勤してきた者の波長に合った動きをしていて、練習していた時間はすでに一秒だろうと一年だろうと同じ単位としての過去に葬り去ったようにその日の作業を確認しつつ足を動かす。次次と軽トラックのエンジンが火を吹きあげ、敷地内に多重の鼓動を脈動させて朝の静まった空気が数秒のうちに払われると、朝一番の活力をマグマに沸騰させたエンジン音が連打する。

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