第5話

 軽いアルミ戸を開けて事務所へ入ると、古い家屋の土間の地面から伝わる寒さと埃っぽさがあった。爪先の革がところどころ破けた黒い安全靴を脱ぎ、スリッパを履いて明かりを点けると、パソコンをのせた事務机が並んでいる。カウンター、電話、ファックス機、コピー機、壁掛けの予定表、キャスター付きのホワイトボード、幅広のスチールラックなど、必要最低限の事務機能を持った備品が揃っており、接待の為のソファーとローテーブルの他に、インテリアとして青磁の壺や、鮭を口に咥えて振り返る熊の木彫りも飾られ、部屋の端には小型冷蔵庫ほどのスピーカーがいくつかあり、アンプやミキサー、シーケンサーなどの電子楽器の機材もまとめられていて、ほぼすべてが仕事で回収されてきた物物だった。これらはタイミング良く活かされた数少ない物物であって、男達が事務所を構える以前に回収されてきたとしても、買取業者がいなければ元素記号へ向かって各素材に分解されて資源に変わるか、焼却されるか、どうかされていただろう。事務所として空けられた空間が用意されて、回収されてきた物物の中から定まっていない設計図に試しに書き込む形で配置されて、必要なら据え置かれ、より良い物がやってきたら取り替えられ、活発な代謝で内装を変えていった。人人の営みの排泄物という混沌から抽出されて事務所の姿を形成するまでに、多くの物物が過ぎていった。ほぼ最新のオペレーションシステムを持つパソコンが揃い、使いこなせない程の機能を備えたファックス機が自動で稼働するこの事務所の設備は、いかに世間の人人が消化不良のまま物物を出しているか物語っているだろう。

 男の事務机の背後には木目の壁面があり、湖上を漂う舟に座って穏やかに時を過ごす二人の女性の描かれた絵画のコピーが貼られていて、男は家から背負ってきたヴァイオリンをその下に立てかけ、自転車のグリップにかけて運んだクラリネットは整頓された机の上にのせた。胸に負っていた軽いリュックサックをおろし、すぐにクラリネットケースを開けて組み立て始めた。少し慣れた手つきで温もりのない各部を繋いでいく。──ぶるぅぅすりぃぃガ振リ舞ワスぬんちゃくガ、汗ノ張リツイタ裸ヲ滑ルヨウニ動イテ、黒イ蛇ガ八岐大蛇ニ顎ヲ開キ、りずむヲ拍子ニヤタラメッタラ踊リ騒グ──大きく息を吸い込んでロングトーンをしながらニ長調から運指をなぞっていく。目を瞑り、メトロノームと音に神経を集中させて、じっとしていればすぐに朝の冷気に蝕まれるであろうこの場所で、暖房器具の空気を嫌い、通勤時に発生した熱の冷める前に大量の酸素を取り込んだ内臓からの発熱で体を温めつつ、男にとっての礼拝はリードの振動を介して安い作りのプレハブを共鳴させて、雑木林にこもったアザーンを響かせる。週ごとに速度は変わるがほぼ一定の時刻からそれは始まり、小鳥のような愛らしい気まぐれな囀りと違って不器用に吹かれ、人を押し退けて進む猪突猛進な意志の力を迸らせて、仮に交差点で人を撥ね飛ばしても意に介さない一本気な調子を響かせていた。次にニ短調からタンギングで音を出す。力の抜けた優しさ溢れる音の粒の連続とは程遠く、一音一音がサンドバッグに拳を打ち込む血気を孕んでおり、礼拝への呼びかけだと吹き鳴らす男の想いとずれていて、細切れの不揃いな音の粒は聴く者に朝に似つかわしくないストレスを授け、一定期間取り憑かせるだけの効果を浴びせることができた。

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