5


 翌日も雨は降り続いた。しとしとと静かな雨垂れが街を覆い、冷ややかな青い空気が室内に満ちる。窓の外では生活の光が夜気に混じって、淡く周囲を照らしていた。

 安息の種類は数あれど、日が暮れてからのこの無関心な時間が私は好きだった。細やかな水の流れが耳奥に触れ、こびりついた薬品の匂いも、いつしか曖昧に紛れていく。日中を埋め尽くす公共の時間から逃れて、私は微かに灯した暖色の灯りにこの身を沈める。好きな温度で好きな質感で、好きなものに触れていられる。正真正銘私のための、私だけの世界にこもっていられる。〝上級生存者の私〟を捨て去って、〝僵尸研究に明け暮れる退屈な女〟を満喫できる。

 水中の生活に適応して、私は十分なだけの呼吸ができるようになった。それでも漠然と、水面から顔を出したくなることはあって、そんな時に思うのは、陸で過ごした日々への郷愁か、あるいは自分が至り得ない存在への羨望だろうか。いくつかの可能性を考慮する。けれども結局、どれが真かはわからずじまいだ。私はたぶん、自らの内奥にあるものを正しく把握できていない。そのような真実を見出す努力は、とうの昔に投げ出してしまったから。

 私が想うことに意味はない。手向けるものは虚構に近く、不在を発見するのとよく似ている。

 雨が降る度に、琳美から聞いた話を思い出す。〈終末現象カタストロフ〉の折にあったという、〈幻雨症げんうしょう〉と呼ばれる異常の話。症状が進行すると、どこにいても絶え間なく雨の感覚が生起されるようになり、いつか発狂して自殺に至るという。

 仮にそれが今も存在したとして、私は本物と虚構の区別をつけることができるだろうかと思う。脳を侵され認知を壊され、嘘も真も意味を失った時、それでもなお生存へと向かっていられるだろうか。自死が禁忌とされたところで、そこに選択の余地はあると言えるのだろうか。

 真実も知らない私たちに、どんな嘘が語れるというのだろう。

 肺気部図書管理システムの自動製本サービスに白玉パイユーの原稿データを流し込んで数冊の本をつくった。無地の白い表紙にはすべて、淡々とした書体で『永生城市』と印字されている。わずかにざらついた紙質は、自分で選んだものだ。コーティングされたものよりは、触り心地が良くて好ましい。

 『永生城市ヨンシェン・チェンシー』の内容は、おそらくSFに分類されるものだ。総ページ数は一五〇〇近く、本も三巻でギリギリとなった。瑶月が一人でこれを書き上げたかと思うと、得体の知れないものを目の当たりにした心地がする。どれほどの熱と執心と言葉があれば、それだけを物語れるのか、私には想像もつかない。

 早朝に肺気部へと向かい、帰ってきてすぐに読み始めたが、最終巻を閉じたのは日を跨いで夜も更けた後だった。慣れないことをしてひどく疲れたが、それでも得たものは確かにあった。

 全体の内容は、おおまかにこのようなものだ。


 螺旋を描く巨大な樹の上に住む、とある種族。彼らは皆「果実」として枝から生まれ、樹上で生活をしている。死ぬと地上に落とされて、時間をかけて土に還り、樹の養分となる。死に際しては故人の家族を中心とした伝統的な葬送儀礼を数日かけて行い、悲嘆の浄化を行う。生命の循環を摂理とする、小さな社会の話。

 世界には様々な種類の樹が無数に存在し、互いに闘争や協同を繰り返しつつ歴史を紡いできた。しかしある時、大規模な天災によって殆どの樹は燃え尽き、残ったわずかな樹も甚大な被害を負ってしまう。存続は絶望的にも思えたが、数多の人の死が残された樹に潤いを与えたことで、樹は大きな成長を遂げることになる。その影響から、果実も増え人々が繁栄を手にしていく中で、悲嘆の儀式は形骸化し、大量の生誕と大量の死なしでは人々の生活を維持できなくなっていく。

 樹々は競い合うように成長を続け、その先端は雲海を貫き、遂には空の果てへと至るが、そこは生命の存在しない無限の暗闇となっていた。以降、樹々を再び天災が遅い、地上からは一切の文明が消失する。

 すべてが無へと帰ってから長い年月が経った頃、大地には小さな芽が一つ、鮮やかな緑を震わせている。


 一つの歴史を築いた人類の栄枯盛衰が、三人称によって緻密に書き記されている。構造に溺れ歴史を忘れ、止めることのできない円環の中で破滅へと突き進む小さな人々と、死の軽視によって生が腐敗し、矛盾を抱えたまま軋んでいく大きな世界が。

 知っている、と思った。私はその光景を、おそらくは他の誰よりもよく知っていた。なぜならこの景色は、あの瑶月が私に語って聞かせた世界観の集大成とも言えるものだったからだ。彼女が思い描き私たちと共有した精神の根底、共通する無気力を、大人になった彼女の暗いニヒリズムが包み込み、こうして形を成したのだと思った。修正前のものを見ると、最後の箇所を何度もなんども書き直しているのがわかる。一切が無駄に終わるものもあれば、一転して滅びを避けたものもあったが、彼女は最後の最後で今の形へと結末を整えていた。

 瑶月がどんな思いでこれを書いたのか、私には決してわからない。彼女は理解を欲していても、それがいかに荒唐無稽で困難なことであるのかも重々承知していた。私が安易な肯定や迎合をしていたら、彼女との縁は修復のしようもないほどに壊れていただろう。

 だからこそ、私は考えなければならなかった。彼女が私に自らの肉体を預けたことの意味を。彼女があんな死に方を選んだその理由を。推理でも確認でもない場所で、今一度、つくらねばならないと思う。

 喪失の清算として。記憶の葬送として。私自身と、消えてしまった〝あなた〟のために。

白玉パイユー、こっちへ」

 ソファの片側を示すと、その空白に白玉パイユーが収まった。瑶月の家から持ってきた衣類を着せると、等身大の着せ替え人形に見えなくもない。世の中には尸娃娃シーワーワーのように愛玩用に調整された僵尸もいるし尸体性愛、ネクロフィリアなど今時珍しくもない。

 問題点があるとすれば、素体となっているのが旧友であることくらいのものだった。

 白玉パイユーの肩に頭を預けると、微かに甘い匂いがした。素体化の最終工程で行われる消臭処理には、牡丹の香りが付与されることが多い。牡丹は中国という国を象徴する花であり、高貴を示す花でもあったという。労働力として消費される死体たちに高貴の証を授けるとは、なんとも皮肉に溢れたことだ。

 本を置き、皮と骨でできた手に触れる。繊細で形は綺麗なのに、ゴツゴツして不健康な五本の指。思えば、こうしてまじまじとパーツを眺めるのは初めてだった。彼女の裸体も、死体になるまで見たことはなかった。

「ねぇ、瑶月。あなたの地獄はどこにあったの……」

 私は問いかける。今ここにあるという感触を知りながら、現在進行形で再帰し続ける僵尸の思考に語りかける。そこに地獄はありますか。そこに〝わたし〟は生まれていますか。そこに意識は、魂と呼ぶべきものはありますか。

 この街中に。暗い部屋の片隅に。十代だったあの頃に。大人になった毎日に。小説の、遺された言葉の中に。あなたの頭蓋のその中に。あなたが啜った僵尸の、代替脳の未知の奥に。

 あなたは地獄たましいを見出せた?

 記憶の中のあなたが私に囁く。

「地獄はね、悪いことをした人の魂が送られて、罰を受ける場所。罪人が行き着く無限の終わり。死者が行進する最果ての世界。ほら、周りを見て。本当にここが『最後の楽園ラスト・リゾート』だと思う?」

 あなたはきっと、私が放棄してきたことの数々と、馬鹿みたいに向き合ってきたのでしょう。そして、どうしようもなく打ちのめされた。憂鬱には底がない。一度足を踏み入れて、学習性の無気力で抗うこともやめてしまえば、結末などは言うまでもない。

 もしも不意に、この都市全体が孕む矛盾を意識して、そこから抜け出すことも叶わずに、底の見えない海原に溺れていくしかないのだと気付いたのなら。いったいどんな抵抗が許されたというのだろう。粘膜を傷つけ肺を埋める針の痛みとどう付き合うべきかもわからないまま。絶対的であった〝わたし〟の価値が、まったく無意味なガラクタに成り果てたのに、どのような在り方を許せたというのだろう。

 李瑶月が孕んでいた〝あなた〟は露と消え、〝あなた〟が見出したこの〝わたし〟も、霧の中に姿を隠している。もはや、肉体の、脳の、神経の、信号の無数の連なりに、〝わたし〟や〝あなた〟を見つけることはできない。それらは相互に記述し合う再帰性の自己であり、意識は自己を内包し、きっと魂と呼ばれるものは、意識を内包する異常な〝何か〟なのだと思う。

 それゆえ、 〝わたし〟の喪失は、魂の喪失に内包される。

 それゆえ、瑶月の死は、彼女の魂の不在を示す。

 けれど、私は。

「もう一度だけ、会いたかったよ……」

 ちゃんと正しく、別れの言葉を言いたかった。

 溢れた涙が白玉パイユーの肌を濡らしていく。もう抑圧する必要もない。あなたの死を辿る巡礼を私は終えた。いくつかの証拠と証言と妄想によって、あなたの想いと嘆きは脚色されて、私の中で物語を描き始めた。悲嘆のための筋書きを、浄化のための儀式の歌を。

 ねぇ、瑶月。私は今になってようやく、あなたが戦ってきたものに直面する。あなたが自分の心を擦り減らして抗ってきた摂理に苦しんでいる。知らなければ痛くもなかったあなたの死を、私は今実感している。

 『永生都市』であなたが描こうとしたものの全貌は、あまりにも大きくて、とてつもなく繊細に見えて、私が記述し得る範囲を超えている。だから、その一部だけを見るのは愚かなことだけど、どうか許して欲しい。

未知死ウェイチースー焉知生イェンチーシェン!」

 あなたは作中で、そう言って自ら地上へ身を投げ、大地と樹の循環に取り込まれた学者を書いた。その言葉の由来を私は知っていて、本当は「未知生、焉知死」と書くことも、それが『論語・先進』で孔子が説いた儒教の教えだということも覚えている。



「『未知生、焉知死』って知ってる?」

 いつものようにあなたが語りかける。私たちは読んでいた本から顔を上げて、視線を交わしてから「知らない」と同時に言った。

「慣用句?」

「みたいなもの。昔々の儒教の教え」

「……それが何?」

 頬杖をついた琳美が気怠げに言う。「もしかしてその話、長い?」

 あなたは鷹揚に頷いた。「長いかもしれないし、短いかもしれない。紀明みたいに素直だったら早く終わるかもね」

 琳美は心底面倒くさそうな顔をすると、「手洗い」と言って去って行った。あなたはその背中を見届けてから、「じゃあ、紀明ジーメイにだけ、秘密を教えてあげる」

「秘密?」

「そう。なんてことない世界の秘密。頭の中に隠して持ち続けるべきものについて」

 彼女はにこにこと笑っている。悲しみを半分、憂鬱を半分、その内側に隠しながら。



 生のことがわからないのに、どうして死のことがわかるのか。

 死のことがわからないのに、どうして生のことがわかるのか。

 都市が拒絶した死との対面。社会が規定した死後の意義。あなたはその中で生きてゆかなければならないことに絶望した。死者の軽視の果てには生きることの意味消失が待ち受けると、あなたは確信していた。

 魂を求めたのは、そんな異常な世界を壊せる可能性があったからだ。考えて考え続けて、言葉にして知らせることで打開策が見えるのではと、あなたは物語の強さに一縷の望みを託していた。けれど今の世界を維持したいシステムは、異端者の存在を容認しない。唯一の武器だった言葉を歪められ、あなたが最も嫌っていた安易な妥協と迎合を繰り返して、じりじりと、自分で自分を傷つけて行った。ボロボロになりながら、どうにか『永生都市』の構想をつくりあげて、けれどすでに限界だった意識は永遠の安らぎを欲して、美しかった肢体を傷つけた。僵尸になることも問題にはならなかった。あなたの魂は軋んでいた。でも、あなたは生き残った。

 一般生存者となり出版社との繋がりも途絶えたあなたは、一人で最後の事業に取り掛かった。結末を計画し、修正と苦悶を重ねて、その最中にきっと、魂の所在を思いついた。二十一グラムも必要ない、異常がまかり通るこの世界だからこその、未解明な領域に思い至った。そして、青春とも呼べない、けれどまだ無邪気に抗っていられた十代の季節を思い出し、私を計画に組み込むことにした。たった一人で、楽しみも幸福もなく、言葉の切っ先で自らを抉りながら、あなたはついにすべてを書き上げた。この時、物語の結末は、一切が消失した不毛の大地に覆われていた。あなたは予定通り僵尸を買いに出て、そこで偶然琳美と再会した。あなたはきっと、心の半分で喜びを、もう半分で郷愁を抱え、けれどそのほとんどを表に出さずに、琳美と短いやり取りをした。何をするのか、と尋ねられて、あなたは何となく、琳美には伝えてもいいかと考えた。返答を聞いて琳美が何かを悟った顔をすると、あなたは別れを告げて、購入した尸娃娃とともに家に帰った。

 いよいよ準備が整って、工具を手にした時、ふと、あるイメージが浮かんできた。あなたはそれに苦笑して、一度は外した小型記録装置を再び差し込むと、最後の一文を追加した。あなたはその光景に満足し、テキストを保存して、目立つ場所に記録装置を置いておく。それがどう処理されるかは不明だが、きっと蔡紀明が見つけるだろうと、拙い信頼を寄せながら。

 すべてを終えて、あなたは不動の死者の頭部に向けて、工具を振り下ろす。青褪めた擬似神経伝達液リキッドが飛散するのも構わずに、魂に届くまであなたは腕を振るい続ける。倒れた僵尸の頭からは青い脳が覗いていて、あなたは黙祷を捧げると、骨の浮いた指で、魂の在り処をそっと掬う。

 そして最後に、あなたはそれを飲み下す。

 目を閉じる。暗闇と激痛が、あなたを遠くへ誘っていく。

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永生の夢 伊島糸雨 @shiu_itoh

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