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 午後からは雨が降り始めた。曇天の鈍色は僵尸の皮膚と溶け合って、その形を捉え難いものにしている。白玉パイユーと並んで傘をさし、顔のない死体で溢れた通りを歩く。似た色が集合しているせいか天地の境界が掴み辛く、時折目眩を覚える。目頭を揉んでから、端末に表示した地図を見る。もう一つ通りを越えれば、目的地はすぐそこだ。

 一般生存区でも僵尸産業区に近い場所では、他よりも一層多くの僵尸が目に入るようになる。その多くはメンテナンスに出てきた産業区に属する個体だが、中には個人が購入できるように連れてこられたものもいて、もはや何が何だか判別がつかない。すべての僵尸の動向は肺気部フェイチーブー心神部シンシェンブーのシステムに追跡・記録されているので、一定の秩序はあるのだろうが、視覚的にはただひたすらに混沌としている。

 私が向かった先は、王雲京ワン・ユンジンという一般生存者の男が代表を務める中古僵尸の買取販売店だ。瑶月が女性型尸娃娃シーワーワーを購入した場所であり、予定していた訪問場所の最後の一つでもある。特別意義のある情報が得られるとは到底思えなかったが、それでも行かないよりはマシだと考えてのことだった。最初は翌日に回すことも考えたのだが、同じ区にいるうちに行っておいた方が楽な気がしたのも理由の一つだ。

 店頭のショーケース内部には何体もの僵尸が直立不動の姿勢で並び、ガラスの表面に投影された価格表示が一定間隔で点滅している。店は三階建ての比較的新しい造りで、規模もそれなりに大きい。背面に搬入口があるのか、数台の輸送車両が出て行くのが建物の陰からわずかに見えた。

 ショーケースは中まで続いている。安直な比喩だとは思うが、視界に映る景色は現代の墓所のそれだった。ガラスの棺が整然と並ぶ様は、他のどの場所よりも、この街の性質を端的に表している。

 従業員の姿は見えない。奥へ進むと、メンテナンス用の工房へと続く扉が見えてきた。何人かの声が断続的に聞こえたので、声を張って呼びかける。

「すみません、ちょっと……」

 ピタリと声が止み、忙しない足音を響かせて若い女が顔を出した。「いらっしゃいませ! 何かお探しでしょうか!」

「代表のワンさんにお話しがあって……」

 買い物でも何でもなくいきなりトップの名前を出したせいか、女の顔に警戒の色が浮かぶ。先に名乗るべきだったかと思いながら、身分証を端末に表示した。「脳幹府生命科学研究院の者です。ここで販売された僵尸のことでお聞きしたいことがあるんですが」

「あ、ああっ、中央っ、中央の! す、すみません、少々お待ちを!」

 半ば叫ぶように言って、こけそうになりながら引っ込んでいく。うっかり変なところをぶつけて死んでしまったらあなたもここに並ぶかもしれないのに……などと考えてみて、あまりのくだらなさに辟易する。こういう反応をされると、権力を笠に着ているようでなんとも居心地が悪いのだ。上級生存者、とりわけ官公庁区の人間が一般生存区に直接来ることはほとんどないので、いざやって来ると「何かやらかしたのではないか」と思うのは自然ではあるのだが、それでも妙な気分にはなる。私はいつからそんなに偉くなったのだろう。

 しばらく待っていると、先ほどとは違う堅実な足音して、別の人影が颯爽と姿を現した。「慌ただしくてすみません。申し訳ないのですが、王雲京は外出中でして──」

 そして、はっきりと目があった。

 思考が停止した。まさしく時が止まったのだと錯覚する。私のも、相手のも。

 見開いた目が捉えている。忘れもしない骨格だった。私は口を開けては閉じるのを繰り返し、その間に彼女は、かすれた声を放っている。

ツァイ紀明ジーメイ……」

 その姿は紛れもなく、楊琳美ヤン・リンメイのものだった。



「雲京は旦那。あたしは妻で、ここのメンテナンス担当でもある」

 工房に向かいながら琳美が言った。「結婚してたんだ」「もう五年近いよ」

 工房は研究向きではないにせよ、僵尸チァンシーの機能修復や秘面紗ヴェールの取り替えを行うには十分な設備が揃っているようだった。立ち止まってあれこれ眺めていると、苦笑交じりの声が届く。「早く、こっち」

 専用のオフィスと思しき部屋へと案内され、椅子を勧められたので素直に腰を下ろした。白玉パイユーは立たせたままにしてある。最初は外で待機させようとも思ったのだが、タイミングを逸してすぐに諦めた。

「ちょうど今秘面紗の修理中でね。もうすぐ終わるんだけど、やりながらでも?」

 私は頷いた。琳美は作業台に向かって手を動かし始める。どうやら、外装部分の破損を修復しているようだった。

 私はしばらく無言で彼女の手つきを眺めていた。質問すべきことは明らかなのに、どうやって切り出すべきか途方に暮れる。久しぶりに旧友と再会して語らうことが、もう一人の友人の死についてでしかないなんて。そんなことを思うと同時に、少し感傷的になり過ぎかもしれないとも考える。私は自覚している以上の傷を、瑶月の死によって負っているのかもしれない。

 なかなか口を開かない私に痺れを切らしたのかは定かではないが、琳美はこちらをちらと見てから、「生命科学研究院にいるんだって? 僵尸研究?」

「あ、うん。今は代替脳の改良を。琳美は?」わざわざ聞くまでもないことだったが、他に思いつかなかった。

「見ての通り、パーツの修理が多い。四肢が破損したやつに簡易義肢をつけることもあるし、客の要望に応じて尸娃娃にんぎょう化粧・・をしてやったりもする。中には死体の方が生きてるのより綺麗だっていうやつもいるんだ。あたしはイマイチ賛同しかねるけどね」

 これでよし、と声に出して道具類を机に置く。修理を終えたらしい。彼女は大きく伸びをしてから、深呼吸をして「実はね」と静かに言った。

「もしかしたら、とは思ってた。いつかあんたが来るんじゃないか、って。聞きたいことについても、わかっているつもり」反応を伺うように間を空けて、「李瑶月リー・ヤオユエ。でしょ?」

 想定してしかるべきことだった。「やっぱり、会ったんだね」私が言うと、琳美が笑う。「やっぱりあいつ、死んだんだね」

 思った通りだと、乾いた音を喉で鳴らす。その投げやりな態度に、私は懐かしさを覚えずにはいられなかった。私たち三人の中で、諦めるのが一番得意なのは琳美だった。私たちはどうしてか、妙なところばかりが変わらずにいる。もしくは、変われない部分だけが残ったのだと言うのも、間違いではないのだと思う。

「死ぬってわかってたんだ」

「わかるよ、死は匂うから。生者も死者もね。ただまぁ、今どきどっちの匂いかなんて、わかりゃしないけど」

 琳美は椅子に深く座り直し、視線を私に固定した。「瑶月は」

「なんでもいいから僵尸が欲しい、ってここに来たんだ。最初は誰だかわかんなかったよ、別人みたいでさ。それでもまぁ、お互いのことがわかって、一応は再会を喜んで──あたしが、僵尸を用立てた。廃棄予定の尸娃娃シーワーワーを格安でね。もちろん、何に使うのかって聞きはしたよ。顔を見ればどうせろくでもないことだろうっていうのはわかったし、どうしたところで止めるつもりもなかったけどさ。で、結局あいつ、なんて言ったと思う?」

 私の答えなど求めていないのは明白だったが、儀礼的に「さぁ」と口にする。琳美は言った。「『魂の在り処を見つけた』ってよ」

「魂の……」

 咄嗟に出たのは間抜けな鸚鵡返しだけ。完全に不意打ちだった。それは彼女が追い求め、私たちに投げかけた一種の課題のようなものだった。「二人は、魂ってあると思う?」私は何も言えなかった。琳美もそれは同じだったはずだ。

「瑶月は、どこにあるって?」

「わからない。教えてくれなかった」

 琳美はゆるゆると首を振った。けれど私はすでに確信していた。彼女が見出した魂の在り処を。「死因は知ってる?」「知るわけない」「その僵尸の頭を割って、代替脳を食べたんだよ」

 魂の行方は、死者の頭の奥深く。妄言でないとはとても言えない。根拠と言えるものもなければ論理すらも存在しない。それでも彼女にとって、追い詰められた瑶月にとって、それが唯一縋れるものであったというのなら、私には否定することなどできなかった。

 この事実は流石の琳美も予期していなかったようで、彼女は前髪を掻き回してから舌打ちをして、

「……馬鹿なんじゃないの……もうちょっと他に何かあったでしょ」

 死に方なんて他にもっと選べたはずじゃないのか、と琳美は言う。もっと普通の、想い描ける範囲の方法があったんじゃないか?

 私は内心で、その考えを押しのける。違うよ、琳美。あの子にはきっと、もう何もなかったんだよ。他には何も、残っていなかったんだよ。

 言葉の消えたまま時間は流れていく。部屋の外からは作業をする雑多な音がてんでバラバラに奏でられ、けれど奇妙なまとまりを持って、一つの音楽として流れていく。

「……どうして、あたしとあんたが適応できて、あいつがダメだったと思う」

真実ほんとうを求め過ぎたから」

「そう」彼女は頷いた。「言葉にしない空想があたしたちの拠り所だった。あいつが愚かだったのは、それを言葉にしようとしたことだ。あたしはずっとあいつが嫌いだったよ。自分には何かできるっていう、己の価値を信じて疑わない、あの傲岸不遜な視線がね」

 覚えてる、と琳美が言った。昔、あたしが異常災害を好んでいたの。

「よく覚えてる。あなたは誰よりも滅びの形に詳しかった」

 そう言うと彼女は相好を崩して、それから瞑目した。

「あの時のあたしにとって、異常災害は救済そのものだった。あたしの責任でなしに、このくそったれな世の中をめちゃくちゃにしてくれるんだからね。ここから脱却したいと願うたびに、終末の光景を思い描いたよ。もう一度、世界が滅ぶ光景を」

「でも、異常災害はこんな世界になった原因でもあるんだよ」

「そんなの百も承知に決まってる。でもね、こんなのは、どっちが先かなんてどうでもいいんだ。クソみたいなもんがあたしごとまるっと消えてくれるなら、それに越したことはないんだから。程度が違うだけでみんな同じだよ。あんただって、思ったことはあるはずだ」

「どうしてそう言い切れるの」

 私の問いの幼稚さに呆れたのか、彼女は鼻を鳴らして足を組み、

「終わりを求める気持ちが皆無なんてありえないでしょ」

 私は呆然と琳美を見つめた。知らなかった。考えてもみなかった。あの時の琳美に、そんな破滅の種が埋まっていたなんて。

 もしかしたら、私ばかりがのうのうと生きてきたのかもしれない。三人でいた時間を穏やかだと思っていたのは、私だけだったのだろうか。

 私たちの三年間を思い出す。瑶月との会話を、琳美とのやりとりを。瑶月のあの表情と、仕草を。時間の波に揉まれてすり減り風化してゆく記憶を辿る。彼女はどうして死ななければならなかったのか?

 彼女は僵尸を信じてはいなかった。イェレベスに蔓延る新しい死者信仰を、良いものだとは思っていなかった。死後の安穏を論じ、死者の魂を案じていた。

 死の捉え方において、彼女は明確に異端者だった。彼女がその価値基準に至ったわけ、その可能性を私は知っていた。琳美も聞いたことがあるはずだ。

 あれは確か、珍しく放課後の時間を共にした日だったと記憶している。私たちは普段は訪れることのないショッピングモールに足を運び、特に何を買うでもなくふらふらと歩き回っていた。たまにはどこか行こう、とは瑶月の提案だった。

「私、お姉ちゃんがいたんだ。六つ離れたお姉ちゃんが」

 これといった文脈もなく突如開示された情報に、私たちは戸惑った。よくあることではあったのだが、毎度律儀に同じ反応をする羽目になる。先に続く台詞を知らずに続く演劇みたいだとよく思っていた。

 沈黙を促しと捉えたのか、瑶月は至って軽い調子で言葉を続けた。

「優しかったと思うし、すごく優秀でね。官公庁入りは間違いないって皆が信じてた。でも、私が中学に上がる前に事故で死んじゃって。階段から落ちたらしいんだけど、救助も間に合わなくてそのまま。私も両親もその時はすごく悲しんだ。でもお姉ちゃんの身体は損傷が少なくて──僵尸になることが決まってからは、泣くのをやめた。死んでも役に立てるのはいいことだね、って言われて、そうなんだな、と思ったよ。たぶん、どこでも同じ言葉が使われてるんだろうね。死んでも役に立つ。ずっと鎖に繋がれっぱなし」

 そこまで言って、彼女は足を止めた。洋服店のショーウィンドウの前に立ち、身を屈めてマネキン役の僵尸を眺めている。反射した顔はにこやかで、私は時々、その輪郭を彫像のようだと思う。精緻に彫り込まれた肉体と、どこか歪に継ぎ合わされた精神に、腐れ落ちた社会性。そんなアンバランスさも、その頃には愛おしく思えるような気がしていた。

「今も悲しみはある?」

 そう口にしたのは私だった。今思うと、あまりにも無邪気で馬鹿げた質問だが、当時の私にとって瑶月は新しい視点の提供者で、未知に光を灯す先導者でもあった。知的好奇心という表現だけでは物足りないが、概ねそのような思惑があったことは否定できない。

 瑶月は姿勢を正すと、死者のマネキン達を従えるように私たちと対面し、小さく首を傾げてみせた。

「ないよ。でも、一般生存区で働いてたお姉ちゃんを買い取って、家でメイド代わりにし始めたのにはちょっとうんざりしたな。中学が寮でよかったよ。おかげで家から遠ざかれたから」

 少しだけ困ったように眉を下げた表情を覚えている。それは未だかつてほとんど見せたことのなかった、李瑶月の極小の弱みだった。

 回想すればするほど、「彼女の思考の中核は、姉への想いでできていたのではないか」「彼女の生存者への憐憫は、死者への哀悼から来ていたのでは」などと、そんな単純な論理が次から次へと生起して、収拾がつかなくなってくる。死人に口なし、蓋棺論定ガイグァン・ルンディンとはよく言ったもので、生き残った人間だけが自分たちの都合のいいように解釈を捻じ曲げるのは、現在を生きる私たちも変わらない。

 死んでも役に立つ。

 しかしこの言葉が、彼女の生をこの上なく呪うものであったというのは、あながち間違いでもないように思う。少なくとも、李瑶月という意識を形成する上での重要な結節点ではあったはずで、文筆家を目指したのも、ここに端を発していたかもしれない。

 私は慎重に言葉を選んでから、琳美に言った。

「瑶月は、穏やかな永遠を願ったのかな」

 彼女は窓から外を見て、「さぁね」と目を眇めた。

「あいつは永遠に囚われていた。でも、うんざりしたのかもね。形而上のものを求めることに」

 なりそこないのテロリストだよ。自家中毒で死んだんだ。

 そういう女だったんだ、と、聞こえるギリギリの声で彼女は言った。

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