青と月夜の永遠譚

しうしう

青と月夜の永遠譚

 真っ青な世界。

 ここはそう表すのが一番適切です。

 空は、濃紺です。ここは夜、永遠に夜明けの来ない夜なのです。曇りもなく、雨もなく、雪もなく、晴れの夜空がいつもこの世界を覆っています。

 夜空にはいつも満点の星と、蒼白い巨大な月が燃えています。その星達は巡ることはありません。いつも空の同じところで、僕を見張るように輝いています。

 眼下には、鬱蒼とした森と木々に囲まれた湖が広がっています。地平まで続く森の木々は、青緑色の葉を湛えています。その葉はいつも蒼い月光に照らされて、本来の色よりも一層青く見えるのです。

 湖は言うまでもなく青色です。光を反射して月の青をさらに様々な青色に変えて揺らめく水面、世界のどこを探しても二つと見当たらない立派な湖です。深く、とても澄んでいます。これに比べたら、サファイアもアクアマリンも、ラピスラズリも霞みます。どんな宝石も恥じ入って引っ込むのが良いところでしょう。

 視線を手前に移すと、崩れ落ちた青白い煉瓦の壁。ここは古びた城の廃墟。尖塔の僕がいる最上階の部屋は壁に無惨な大穴が開いています。そこから真っ青な空と森と湖がよく見えるのです。

 部屋の中も外に負けず劣らず青いのです。据え付けの暖炉が抱いている炎は、真っ青です。とてもとても熱い炎だから、赤色ではなく青いのです。青い金細工と青いトパーズの飾りで型どられた燭台の上で揺れている火も青、大穴と繋がってどちらが窓なのか解らなくなった窓にかかっているカーテンも青です。絨毯も、ベッドの毛布も天蓋も落ち着いた青です。腰掛けに張られているビロードも、零時で止まった時計の針も青です。

 多分青ではない色もたくさんあるのでしょうが、この世界を照らしている光は全て全てことごとく青いので、どんな色も青色か、それに準ずる色になってしまうのです。

 真っ青な世界、崩れた古城、そしてその塔のてっぺんの部屋に絡み付く真っ青な薔薇の華。

 申し遅れました。

 その薔薇が僕なのです。

 と言っても、僕はずっと薔薇だった訳ではありません。考え、景色を見ていることからわかるように人間だった事があります。今では人間だった時間よりも、薔薇として過ごした時間の方が圧倒的に長いのですが。

 この城も廃墟ではなかった時があり、今では青闇が立ち込めるだけの冷たい石の廊下を、使用人や役人がひっきりなしに行き交っていた時があったのです。そのときは、この城は立派で芸術品のようだと有名で、他の国からやって来た外交官をいつも感嘆させていたものでした。

 城を囲む果てしない青い森も、昔は違うものだったのです。木々が生い茂るそこはかつて、地平まで続く美しい町並みで、その全てが、この僕のものだったんですよ。

 そう、僕は王様だったのです。

 そうですね、昔の僕は世界中の誰よりも、裕福で、美しく、聡明で、才能に満ちた王でした。

 そして世界中の誰よりも、傲慢で愚かな王でした。

 今僕がここで薔薇として生きているのも、美しかった王国が青い世界に変わってしまったのも、全て僕が原因なのです。全てはこの国を納めていた者が、僕のような希代の悪王だったから起こった悲劇なのです。


 僕は最低の王様でした。

 僕の国は世界で一番豊かな国でしたが、僕の権威にあやかるいくらかの貴族以外は、誰しもどれだけ貧しかろうと、この国以外の国に生きたいと、きっと思っていたに違いありません。

 退屈になると、遊びの延長で戦争をしました。

 僕の国はどこにも負けたことはありません。命をばらまいて勝ってきたのです。国民はたくさんいましたし、その時の僕は僕以外の人間の命は金で買えると、本気で思っていました。実際戦争の皺寄せを食い、悲嘆の淵に浸っている多くの人達は、金さえ渡せば泣き止むだろうと思っていました。それでも僕に抗議したり、目の前で鬱陶しく泣き続けたりする人達は、きっと頭のどこかがおかしいのだろうと思って処刑しました。

 本当に僕は愚かで心ない王でした。

 この世界の全ての物を買える程の金があっても、人間の命を買い戻すことはできないというのに。山のような金塊でも、大切な人を失った心の穴は埋められる筈がないのに。

 その時の僕は、自分以外の人間が心があり、感情がある同じ人間だとは全く考えてもみなかったのです。だから国民の心も命もまるでおもちゃのように扱って、壊れたら買い換えるような気持ちでいたのです。思うように動かない機械仕掛けを廃棄するような感覚で。

 僕は国政さえもゲームのように思っていました。

 どこに建物を建てるか、農業をどのように回すか、市場をどういう風に操作するか、僕の才能を生かせば遊ぶように簡単に全て上手くいきました。

 ただ僕は他人の心への想像力が欠落しているので、僕の『政治遊び』の傍らできっと多くの人を泣かせたことでしょう。国立美術館や国営工場などを建てる時には、半ば強引に建設予定地に住む人を追い出しました。

 僕は、『そこに人がいる』という事に、全く気づいてすらいませんでした。僕の命令は僕の指定した時間までには末端の人間が遂行していて、僕の前には無人の更地があるだけなので。

 追い払いました、という言葉の表す結果は知っていました。でも、それが、どういう過程を経たものかは知りませんでした。

 そして知っていたところで、ここを去った人達がどういう人達で、どんなことを考え、どんな待遇を受けたのか知った所で、心を痛めることは無かったでしょう。僕は、現実に生きてはいませんでした。今思えば理不尽な暴力や、不当な取引に泣いたり、家を失って路頭に迷った人、その後の生活に難儀をした人達が居たのです。

 農業は効率重視。豊かな土壌の土地は徹底的に開拓しました。過酷な開墾の過程で、農夫がいくら苦しもうと気にしませんでした。過酷な労働に辛い思いをしている農民達がいるなんて想像さえしませんでした。

 だって遊び感覚でしたから。

 市場操作では、個人経営の小さな店は潰れようが構わない、国益さえ上がればというやり方をしました。僕の国では小さな店は淘汰されました。農民や個人店を経営しているような一市民は、正直頭にも置いていなかったのです。兵士の家族にはまだ非情でも経済的な支援をしましたから、生きていくことはできたでしょう。でも念頭にもない小市民には金銭的な配慮さえ忘れていました。

 一体どれだけの人が悲しみに暮れ、痛みに苦しみ、悲劇に泣いたことでしょう。いえ、泣くことすら許されず、日の当たらない場所で怨恨を飲み込んでいた人達は、どれ程いたのでしょう。

 これでもここに挙げた例は、まだおとなしい方なのですよ。

 道楽で人をいたぶったこともありますし、侵略した土地の民にはもっと非道な行いをしました。

 とにかく僕の悪行は筆舌に尽くしがたく、言うも憚る、書くも慄く所業が、いくらでもありました。

 けれども、世の中には真に正義の心と、悪を打ち滅ぼす力を持った救世主が、本当に存在するものなのですね。私が王となって十年と少し経ち、たくさんの民が苦しみました。十分過ぎるほど彼らは苦しみました。だから、いい加減彼らの願いも叶えられるべきだったのです。

 そして、ついに民達が待ち望んで止まなかった、最低最悪の王に鉄槌が下る日が来たのです。


 その人は、民達の嘆きに答えた、というよりはただ純粋に僕の行いに怒っていたのです。その人は人々を救うとか、悪事を正すとか、そんな神聖でありきたりな綺麗事は宣いませんでした。

 その人の怒りをどうにか和らげようと、僕はあらゆる金品を差し出しました。

 それでもその人の心と決意、そしてその人が決めた僕の運命が覆されることはありませんでした。ずっとこの城の中で、言葉は全て現実になる世界に生きていた僕には、このどうしようもないという事実を前に他に何もできませんでした。

 初めて権力よりも財力よりも武力よりも強いものを見たのです。それがその人だったのです。受け入れがたい現実が、僕が閉じ籠っていた殻を容赦なく砕き割って侵入してきました。

 ただ爪一つ立てられない現実を前に、僕を飾っていたあらゆるもの、王としての威厳や、権力者としての自尊心と言ったものはとっくに崩れ落ちて、剥き出しの一人以上の価値はない僕が残りました。理不尽という摂理に向かって、僕は悲鳴をあげて駄々を捏ねました。それは高潔な抗議でも、崇高な抵抗でもなく矮小で稚拙なわがままでした。

「正義を振りかざすのは楽しいか? どんな道理で余を裁く?」

 ありったけの悪意を込めて吐き出したその言葉の全て意味など持たず、その人には届きませんでした。それは当然のこと。何故ならば、僕とその人があまりに違うから。その人が返した答えが充分すぎる真理でした。

「道理? そんなことは知らないわ。私が気に入らない人間が、たまたま世間一般で悪人と言われる人間で、倒せば笑う人がいる、それだけよ」

 僕は物事も人の心も『遊び』としか捉えられず、深く考えることも想うこともしてこなかった薄っぺらで軽い男。

 その人は確固たる己の物差しで全てを計り、常に自分の考えに基づいて動く意志の人。正義だ悪だと、そんな一面的で薄っぺらいもので動いている訳ではないのです。

 僕とはまるで正反対で、その存在そのもの、行動原理に至るまで、全てずしりと重い価値があるのです。そよ風程の重さも持たない僕の言葉が、いったいどうして鋼鉄の様なその人の意志を揺るがせる事ができるのでしょう。

 その人は魔女でした。

 コバルトブルーの飾り気のないドレスを見に纏い、水色の長いベールで顔を覆った女性で、僕の眼前に浮かんで見せました。透けるベールの下から爽やかに煌めく露草色の瞳が僕を見下していました。彼女が城に侵入する際、大広間まで通した風穴から吹き込む風が、彼女のドレスとベールを揺らしました。

 僕が今まで飽きるほど眺めてきた絢爛豪華な貴婦人達に比べれば、ずいぶん粗末な服装だけれども、堂々と僕の前に立ち、あまつさえ見下す彼女は気高さに溢ていました。

 彼女は恐ろしく、そして美しかったのです。

 僕は魅了されたように、彼女の前から逃げ出せずにいました。彼女をどれだけ恐れようと、気持ちと反対に僕の足は彼女の虜にされたように固まっていたのです。

 彼女は僕に向かって手をかざしました。その手に、清水を編んだような杖が、光と共に現れました。理解を越えたあまりにも美しく、超自然的な光景に僕は声も出せませんでした。

 彼女がその青い杖を大きく振りかざした次の瞬間。

 僕は、その恐怖をいまだ忘れてはいません。

 まず、城壁の大穴から覗く薄いバター色の満月が冷たい蒼白さに染まりました。

 そして青い魔女を中心に世界が拍動するような恐ろしい揺れが何度も襲いました。

 突然私の隣に控えていた大臣が悲鳴を上げました。

 彼を見ると青緑色の光の糸が絡み付くように彼の回りを渦巻いていました。

 彼の声に伴うように広間のあちこちで悲鳴が上がりました。見ると僕以外全ての人が光の糸に巻かれて逃げ回っていました。しかし、彼らがどれだけ暴れようと振り払おうと、彼らを取り巻く光の糸は離れず、それどころか少しずつ増えていくのです。瞬く間に青緑色の繭の様なものが大広間に溢れました。頭のてっぺんから爪先まで包まれてしまった人達はもうどんなに頑張っても指一本動かせないようでした。

 魔女が杖を凪ぎ払う様に振りました。

 すると輝く繭が全て一気に豆粒位の大きさまで小さくなって、弾けました。光が消えた後には、茶色く小さな粒が現れ、床に落ちて転がりました。人が消え、茶色の粒だけが残りました。

 魔女がもう一度杖を振りました。

 呼応するように茶色の粒は割れ、消えた光と同じように青緑色のものが中からするすると伸びました。それは苗や蔦や芽でした。そう、繭から姿を変えた人間達は種になっていたのです。

 苗はすぐに大きな樹に成長し、それでも伸び続けるのです。その根はすでに僕の胴回りの倍も太くなり、大理石の床を砕いて地面にめり込んでいきました。床に亀裂が走り、それは大きな割れ目になって、恐ろしい地響きが轟きました。蔓や蔦もとにかく太く長くなり、それらは壁を壊していきます。枝が天井を突き抜けていきます。巨大な枝に大穴を開けられた天井ががらがらと落ちてきました。それでも枝は天を求めて伸びていきます。木端微塵になったシャンデリアが、キラキラと煌めく雨になって降り注ぎました。大きな青い花があちこちで咲き誇り、むせ変えるような甘い臭いが広間に溢れました。

 僕はそこまで見届けて、やっと逃げ出しました。これ以上広間に留まっていたら、人だった巨大な植物達にからめとられて、養分にされるか押し潰されてしまうと悟ったのです。そのときになってようやく生きようとする本能が、美しいものに引かれる本能に勝ったのです。

 僕は必死に逃げました。

 足が震えて何度もよろけました。

 とにかく、城門への道には魔女が立ち塞がっていますし、地面はどんどん植物に埋められていきます。いつか追い詰められる道ですが、僕には上に逃げるしか手はありません。中央階段をかけ登り、渡り廊下をひた走り、城で一番高い塔を目指しました。

 そのてっぺんには僕が幼い頃使っていた部屋がありました。小さな子は一般的に、高いところから見た開けた世界が好きなものです。

 僕もそうでした。

 塔の最上階の景色が好きでした。だから石造りの狭い部屋にわがままを言って、王族にふさわしい部屋を作らせたのです。

 廊下を駆け抜け、長らく踏み入りさえしなかった石の階段を駆け上がりました。靴底が石材を蹴る音がこだましていました。やがて目の前にクモの巣が張った戸が見えてきました。勢いよく引き開けると埃が盛大に舞い上がりました。咳き込みながら入った部屋は埃臭く、それでも懐かしい香りがしました。そのときはとんでもない事態だというのに不思議と落ち着いた気持ちになりました。

 しかし、すぐにその気持ちは城壁と共に吹き飛びました。壁が一部無くなり、ぽっかりと空の見える穴が空いていました。穴の外に青装束の魔女が浮いていました。

 彼女と、その後ろに見える景色を見て僕はへたりこみました。尻餅をついたまま情けない姿で壁際まで下がりました。幼い頃飽きるまで眺めた景色は、たった少しの間にすっかり変わってしまっていたのです。

 町並みは消え、ただ青緑の森が広がっていました。植物に変わってしまったのは城の人間だけではなかったのです。国中の、もしかしたら世界中の人間が同じように樹や花や蔦になってしまったのです。どんどん成長し続けるそれらに揺すられて世界はぐらぐら揺れていました。

 魔女は杖を僕に突きつけました。

 すると埃を被った暖炉と燭台に青い炎が燃え上がりました。

 魔女は高らかに私に宣告しました。

「汝愚かな王よ……とか、長々したのは嫌いだから短く言うけど、あんたが私にとって少しでも好ましい人間に変わるまで、私の魔法は解けないわ。せいぜい自分に欠けたものを探す努力をなさい」

 魔女が言い切るとまず僕の足が動かなくなりました。足を見ると爪先からどんどんあの青緑色に変わっていっているのです。そして更に爪先から糸巻きがほどける様に薔薇の蔦に変わって部屋の壁にはいあがっていきました。僕はどんどん蕀に変わって青い華を咲かせていく自分の体に恐れおののき、まだ自由な上半身を魔女の前に投げ出し、必死で命請いをしました。

 彼女はとても軽蔑した目で僕を眺めていました。その時の僕は自分でもとても惨めでみっともなかったことでしょう。

 やがて胸の辺りから下がすっかり無くなってしまった僕を見て、魔女は去っていきました。魔女が蒼白い月に溶けるように遠ざかると、地揺れが収まりました。そして、彼女の姿が見えなくなるのとほぼ同時に、私は完全にほどけて体の全てが薔薇に変わったのでした。


 そこから先は無限の地獄のような時でした。

 世界は全く動きませんでした。ただ時折吹き過ぎる風だけが、植物によって傷つけられた町を傷口から削っていきました。そんな気が遠くなるような乱暴なやすり掛けだけが唯一の変化でした。

 僕の体も全く動かないのです。

 不思議なことに目は無いのに景色は見えました。しかし見えるものが全く変化しないのだから、この視力の価値をまだ僕は見いだせていません。

 耳は無いけれど音も聞こえます。でも聞こえるのは時たまさらさらと樹が揺れる音だけです。これも、意味がわかりません。

 香りは感じません。どうやらこの部屋の懐かしい香りを嗅ぐことは許されなかったようです。

 青い世界の中でまず真っ先に時間の感覚が無くなりました。

 その中で来る日も来る日も考えました。この魔法を解くために必要な、僕に欠けたものとは何か、どうやって手に入れればいいのか、ありったけの時間を費やして考えました。

 でも、結局わかりませんでした。

 そもそも動かす指の一本も無い薔薇の姿で、何をどう見つけてどうしろと言うのでしょうか。というか、こんなにも完璧な僕に欠けたものなどあるはずがない。愚かにもかつての僕はそう思いました。

 考えるのに疲れては魔女を恨み、恨み疲れては助かる方法を考えました。そんなことをおそらく何年も何年も繰り返したのでしょう。

 やがて僕は反省というものを知りました。己が如何に非道な王かを自覚しました。しかし、それだけでは僕の欠けたものは埋まらなかったようです。しかし反省をすると今度は僕には欠けたものが多すぎて、どれが魔女の言うものなのかわからなくなりました。

 時間が止まり、世界が青く変色した悪夢のような一夜から、どれだけ時間が過ぎたのか、ある日世界が真っ暗になりました。部屋の中の青い炎以外は何もかも灯りというものが無くなってしまったのです。地上の灯りはとっくのとうに全て絶えてしまっていますし、天に残った灯りの青い星も光を潜めてしまいました。

 いわゆる新月です。

 空の星が全て一斉に暗くなりました。

 この部屋の外は全て真っ暗です。

 そして、全く変化のなかった世界が暗黒に堕ちると、僕にも変化が現れました。蕀が紡がれる様にまた集まり僕はもう一度人間の姿に戻りました。僕は歓喜しました。飛び上がり、舞い踊りました。

 どれだけぶりかに懐かしい部屋の香りを嗅ぎました。僕は呪いが解けたものだと思い込み、欠けたもののことを考えることは忘れてしまいました。しかし、しばらく狂ったように跳ね回り続け、一息ついた辺りで気がつきました。

 僕以外の何も元には戻っていないのです。

 魔女が灯した青い炎も未だ燃え続け、外の世界は真っ暗で、到底元の世界とは思えません。いえ、僕でさえ完全に戻った訳ではありませんでした。指先はまだ青緑色でいくつかの刺が残っていましたし、胸の真ん中には青い薔薇が咲いていました。それに気付くと途端に恐ろしくなりました。

 外は本当に真っ暗、いや、真っ黒なのです。上も下も、右も左も奥行きも、わからなくなるくらい真っ黒なのです。壁の一部のように薄い一枚のようでもあり、何処までも沈みそうな深闇でもあるのです。その黒色が今にも壁の穴から流れ込んできて、僕をとり殺してしまうような錯覚に襲われました。

 僕は恐ろしくて急いでベッドに飛び込み、青色の毛布を頭の先まで被って体を縮めていました。がたがたとそのまま震え続けていました。その時はその黒い時間が永遠のように感じられました。

 どれ程経ったでしょう。

 やがて城の外に青い光が戻って来ました。

 長い間、私を狂わせそうだった青い光がその時ばかりは天の救いのように思えました。しかし、明るさを喜ぶ暇はありませんでした。僕の体はまた棘になって、元の壁に這い上がりました。やはり薔薇人間の姿は一時的なものだったようです。それから、また変化することの無くなった青い世界で、僕はあの新月の夜のことを考え続けました。

 あれはいったいなんなのでしょう。

 欠けることも巡ることもなかった月や星達が突然全て消えてしまったのです。あれは本当の闇というものでした。どんな光も存在しない空間であり、漆黒の色そのもの。平面でも立体でもあるような、どちらにも区別できないような何か。そしてとにかく恐怖を掻き立てるようなおぞましさの権化。

 そんな不思議な時間の中で、人の形に戻った僕もだいぶ奇妙なものでした。半分と少しは人間で残りの少しは薔薇なのです。

 その時の僕の手のなんと恐ろしかったこと!

 青緑で、触れるもの皆傷付けそうな鋭い棘が付いていて、傷つけることの化身の手のようでした。でも、蕀で型どったような自分の手を思い浮かべて僕は思いました。もしかしたらあの手は今までの僕自身の投影なのかもしれません。あの手はただ何も考えずに触れるだけで、棘が刺さり触れたものを傷つけてしまうに違いありません。僕もそんな風に悪意は無くとも、ただ行動することで人々を傷つけていたのではないでしょうか。僕には元々見えない棘がたくさんあって、無自覚に動くだけで関わる人達を痛め付けていたのでしょう。

 このような薔薇の姿に変わって、見えなかった棘が見えるようになった。もしかしたらただそれだけのことなのではないでしょうか。

 薔薇の華。

 考えれば僕にぴったりの華です。美しく、飾る以外にも使い道は様々な魅力的な華。でも、花びらの下に隠した蕀は近寄る者を傷つけます。たとえ確かな悪意など無くとも、それが凶器であることは変わらない。僕のように望まずとも人を傷つける術を持つ者は、自覚と意識を持っているべきだったのです。僕は薔薇なのだから、無邪気に行動してはならない、傷つけないように細心の気配りをするべきだったのです。たとえそれが息の詰まるような生き方でも、薔薇に、そして為政者に生まれたからには、僕にはそうあるべき義務があったはずなのです。

 薔薇、あるいは闇夜の薔薇人間、それは人間あるよりも僕に似合った姿なのでしょう。僕は美しい男の姿より、半分薔薇のおぞましい化け物の姿の方がふさわしいのです。僕の内面は棘にまみれた醜いもの。どれだけ素敵な華で隠そうと、大輪の影に隠れた蕀が無かったことにはならないのです。

 黒い夜から長い時間が経って、僕はそれに気づきました。己の性質を知りました。でも、それはただ気づいただけ。既に手の中にあるものの、知らなかった側面を知っただけ。僕の中にあるものは結局何も増えていないのです。つまり、欠けたものはまだ手に入っていないということです。

 魔法は解けないまま、僕は薔薇のまま、闇夜の謎も謎のまま、時間は僕の心を責め続けます。一度は救いにさえ見えた何も変わらない青い光は、再び残酷なまで冷たく無視を決め込んでいます。

 闇夜に心まで削られて、疲れた僕は初めて恨むことも、考えることも、反省することもやめました。

 僕はこの世界に閉じ込められて、初めて世界を覆う青い森林を眺めました。魔女が作り替えた世界を見ました。それはおとぎ話の世界、そう、巨人の世界にでも生えていそうなけた外れの巨木達。国で一番高いこの塔のこの部屋の窓にさえ、先の届く木々もあります。鬱蒼と生い茂り、何百年の王国の歴史をその根で砕き押し潰して、いとも簡単にそこにあった文明の跡など掻き消してしまいました。

 それは命の象徴のようです。

 どれもこれも、一本残らず、自分は生きていると激しく主張しているように見えました。大きな幹で大地に突き刺さり、うねるような太い根で土と、僕が築き上げた王国を踏み壊し、豊かな葉で空を仰ぐ。その姿には力強く生命というものが溢れています。

 ああ、そうか、そうなのですね。

 この木々から、こんなにも強く生きているということを感じるのは、これらが僕の国民だったから。

 僕はそう思いました。

 もちろん普通の植物達だって生きています。でも、この木々を見つめて、はっとするのは、心を激しく揺さぶられるような衝撃を覚えるのは、息を飲むほど熱く燃える命を感じるのは、この木々が僕の民達が変化した姿だからなのでしょう。

 僕は薔薇となったことで自分の棘に気づきました。同じように植物に変わった国民達に僕は気づいたのです。ああ、彼らは生きているんだ、と。恥じるべきは彼らが魔女の怒りの飛び火をくらい、こんな姿になるまで、僕はそんなことにさえ、気付いていなかったということです。

 当然で単純な、一番大切な真理に。

 誰一人、僕が主人公のお話の脇役なんかじゃないのです。誰もが、操り人形の登場人物扱いされる謂れはないのです。僕がどんなに偉くても、人の心を踏みにじる権利だけは持っていないのです。それなのに僕は、持ちもしない権利を振りかざし、不当に命を蹂躙した。ならば僕は罰されて当然なのではないでしょうか。いつか心が壊れるまで、ここで過ごすことが僕の贖罪なのではないのでしょうか。欠けたものを見つければここから抜け出せると魔女は言いました。

 でも、魔女は僕を動けぬ体に変えた。それはつまり大罪を犯した罪人が罰から逃れようというのはおかしいと、暗にそう説いているのでしょう。欠けたものを見つけようとすること、それが根本的に間違っていて、この気が狂うような無限の時間の罰を受け入れることが正しいのでしょうか。

 考えることを止めたあの時から、ただぼんやりと移ろうままに、思い出だけを脳裏に浮かべては消し、浮かべては消して。パステルカラーの僕の国が、花のようなドレスの貴婦人達が、滑稽なほど胸を張って反り返っていた大臣達が、幼い頃見た風景が、王宮の色とりどりの花が満ちる庭園が、思い浮かんでは絶ち消えていきました。

 一秒でも長く僕の視界に入っていようと、激しい自己主張をしていた貴族達。

 万が一にでも僕に目を付けられないようにと、ひれ伏していた国民達。

 国民が王を恐れるなんて、こんな歪でおかしなことがあるでしょうか。王とは、統治者とは、国民に全幅の信頼を寄せられてこその存在ではないでしょうか。民がこの人ならばと思って集まってくれるからこそ、統治すべき国ができるのです。恐怖で人を固めてその上に立つ者など、王ではない。そう、醜悪で巨大な寄生虫でしょう。

 虚ろな視界が僅かに揺れました。

 澄んだ音が響いて砂を被った床の上に雫が砕けました。僕の涙は薔薇の露となって流れたようです。

 想い描くのは懐かしい、愛しい、恋しい、僕の生きていた世界。

 僕以外誰も楽しくない世界。

 思い出の中の世界では、誰も本当の笑顔でいてくれません。誰も心から笑いかけてくれない思い出はあまりにも苦過ぎる。こんなことになる前に気づければよかったのに。気づければ、変えられていれば、誰か一人でも僕に本当の笑顔で接してくれたでしょうか。この世界で思い出すのは、もっと暖かい思い出になったでしょうか。

 後悔、苦しみ、悲しみ、切なさ、心痛、焦り。全部全部ひっくるめて、そんな思いにまみれるように蹂躙されて、最後に残るのは潔さなんて建前で隠した『諦め』。

 僕は考えることにすら疲れ果てて、止めどなく流れる涙を自覚することもなく、ただ静かに薔薇である以上のことを諦めました。置かれた状況を受け入れたというよりも、全てを投げ出して残ったものを捨てる力も尽きてしまったというだけなのです。

 そして僕は足掻くことをやめました。その日から、虚ろに世界を眺め、ぱらぱら落ちる涙をそのままに、ぼんやり過ごすだけの日々がどれだけ流れたでしょう。やがて止まった時間の中に僕自身も組み込まれ、もがく者はいなくなり、全てが完全に止まってしまったのです。

 時が流れているなんてことの方がお伽噺の嘘のようで、世界は廻らないということの方が真実のようになりました。感じる時間や人に影響する時間は止まり、『経過』するだけの時間が僕とはまるで関係ないところで、青い日々を積み重ねて行きました。

 一つの絵に塗り込まれた様な世界は、あまりにもそらぞらしい永遠を紡ぎました。

 それから、そのまま。


 どれだけ過ぎたのか、僕の記憶のほとんどが、思い出すまでもなく今日と同じ昨日で埋まった頃でした。いえ、正確には昨日と今日の境さえなくなっていたのですが。

 また、新月の夜がやって来たのです。

 僕ははっとしました。この夜は定期的に巡り来るものなのでしょうか。もしそうなのだとして、これの意味はなんなのでしょう。二度の新月には何かの意味があるのでしょうか。

 僕は薔薇人間の姿で立ち上がりました。一度目の夜と何も変わらず、世界は真っ黒な闇に覆われていて、僕の背筋は冷たくなりました。でも、これが、この姿が僕に与えられたチャンスだとしたら、何もしない訳にはいきません。

 僕は燭台を掴み、部屋の戸を開きました。扉の向こうにはやはり、壁の風穴を埋める闇と寸分違わぬ黒色がぽっかり口を開けていました。喉から水気がすっと引き、からからになった口の奥からひゅっと音が鳴りました。動物としての本能か、この闇から逃げ出して灯りにすがっていたい思いに駆られました。

 でも、この狭い部屋で震えているだけでは、意味など見いだせもしないでしょう。震える足と生物の性を叱咤して、僕は暗闇の底、石の階段に足を踏み出しました。

 ゆるり、ゆらりと酷く頼りなげに燃える三つの火で、かろうじて一歩先の闇を割り、少しずつ歩を進めました。

 よく慣れたはずの城は、かつては人だった植物たちによって全く様相を変えられていました。ふと横を照らし出した時、そこに完全な形の壁があったことはほとんどありませんでした。あちこちに穴の空いた壁がぬっと迫っているか、あるいはそもそも壁が無くのっぺりと黒色が塗り込められているかのいずれかでした。

 足元も燦々たるもので、うっかり踏み出した一歩が城を貫く大樹の枝に払われて転倒したり、ふと何気なく足元を照らすと、そこには床の代わりに黒色が待ち構えていて胆が冷えたりしました。

 僕は四苦八苦しながら、瓦礫と樹皮の迷路を進みました。魔女の灯した明かりは不思議と振り回しても落としても消えることはありませんでした。よじ登ったり、飛び降りたりする僕にとって、その明かりはとても頼もしい物でした。

 やがて僕は大広間にまでどうにかたどり着きました。そこまでの道のりはお伽噺の冒険譚にも引けを取らない道中でした。

 白い大理石の中央階段とレッドカーペット。魔女の灯火でその色さえも青く青く、僕を見返しました。砕けた階段を登りながら振り向けば、明るく広々としていた筈のそこには、暗闇と大木の幹と根が、絡まりあって僕を睨んでいます。登り詰めたのは大広間で一番高く作られた僕のかつての定位置。

 僕の玉座があった場所。

 そこに鎮座していた玉座は、その隣から芽吹いた青緑の蔦に挟まれ、押し潰されてひしゃげていました。僕の腕の三倍ほど太そうな蔦は複雑に絡まり、玉座を飲み込んで、階下へと仲間を求めるように伸びています。青緑と青緑の狭間から、金色だったはずの物悲しく歪んだ脚や、背もたれのフレームが見えました。

 僕はその蔦に触れました。それは表皮の下を水分が行き来する音が聞こえそうなほどみずみずしい。あの断罪の夜、ここに立っていたのは確か大臣だったでしょうか。彼は僕をどう思っていたのでしょう。彼は貴族で、しかも僕の側近でしたから、少しは僕も優遇したような気がします。少なくとも僕にとって彼は生きた人間でした。おもちゃのように認識していた国民よりは僕に近しい生き物だと、愚かしい頭でも僕は思っていたはずです。

 それでも、そんな傲慢な物言いが彼に届いていなかったことは確かでしょう。今彼がこうして、僕がいた場所を握りつぶして、王の隣から、民達の方へその体を伸ばしているのが何よりの証拠です。僕の隣に立っていても心だけは嘆き苦しむ民達の同胞だったのですね。

 酷く冷えてしまった心のまま、僕は崩れた階段を降りました。もはや床などという物はおおよそ残ってもいない大広間に降りれば、木々が僕を拒むように立ち塞がっていました。うつ向くと、瓦礫と根に編み込まれたように王冠が転がっていました。色とりどりの宝石が金細工に囲まれて、赤いビロードの周りを型どっていた筈のそれは、青い明かりの下で、虚ろに青く輝いていました。エメラルドの浅い海のような緑も、ルビーの血のような赤も、ただ青く塗り替えられて、無機質にこの世界に同化していました。

 食堂に入れば、部屋の中心に据えられた長テーブルが真ん中から二つに叩き割られていました。その下から芽吹く大輪の花によって。おそらくあの日あの時この部屋の掃除でもしていた女中が、揺れに慌ててこの下に逃げ込み、そして花になったのでしょう。いつもぺこぺこと頭を下げていた筈の使用人は、花となって今はつんとして僕を無視します。穴の空いた最早囲いの役目を果たさない壁の外から砂が吹き込んできたのか、触れた机の残骸はざらついていました。

 ここで幾度も僕は一人の食事をしました。広い部屋と大きな机に山盛りのご馳走。それを一人で食べることを疑問に思ったこともありませんでした。思えばずっと僕の心には人らしい感情が欠如していました。寂しいも悲しいも虚しいも分からなかったのですから。

 台所、宝物庫、客室、庭園、自室、会議室、談話室、四苦八苦して僅かに原型を留めている部屋を見て回りました。細々した物は何もかも、家具さえ全て植物たちに踏み壊されていました。全部全部僕が生活していたという証拠を悉く掻き消すように。

 必死に苦労して、最後に三階のテラスに出ました。そこは僕が国民に演説をしたりするときに使った場所で、広い一つの舞台でもありました。そして、やはりガタガタに傷んだテラスに躍り出て、世界を見渡して、僕は座り込みました。口が自然とぱかりと開いて、渇いた笑い声が狂気的に溢れました。涙が流れたような気もしましたが笑い続けました。何がおかしいのかは分からないけど、でもだって他に何ができるというのです?

 この青い燭台と、遥か頭上に燃える塔の一部屋。今目の前に広がる絶望的な闇を割れるのはたったそれだけしかない。広い広い僕の国を満たす黒。それらに対してあまりにも明かりが少なすぎるのです。でもそれだけで充分なのです。この世界はもう照らすまでもなく、何処までも何処までも、僕しかいない。僕以外もう何も誰も光あるあの王国を求める者など居はしない。

 目の前の暗闇に薄ぼんやりと浮かび上がる木々の幹が、上から葉の波を見下ろすよりもずっと強く僕に絶望を突きつけました。巨木の森の遥か深闇に僕の笑い声だけが遠く遠くこだまします。それはこの世界に声をあげるものは僕しかいないという証明。答える者などいないという証拠。これが独裁者の末路。こんなにも僕は罪深く、そしてこんなにも何もかもに嫌われていた。これほどまでに孤独になるほど。

 欠けたものを探せ? この世界で? 人への思いやりでも学べと言うのですか? 人一人いないのに? 政治のやり方でも変えろと言うのですか? 政治が機能する国すら無いのに? 行動を改めろと言うのですか? それを示す相手などいないのに?

 欠けたものなど到底見つかりそうになく、例え見つけたところで何の意味もないではありませんか。最早誰の心も僕から離れているのだから。新月の夜僕と共に人の姿を取り戻してくれる者も、僕に向かって葉を伸ばしてくれる者もいないのだから。この青と黒の世界で這いずり回って、仮に魔女の指すものを見つけたとしましょう。そして世界が元に戻ったところで、そこにはあまりに空虚な王国があるだけです。

 結局、この青い世界だろうと元の国だろうと僕は、たった一人ではないですか。ならば、もう。

 何百回目かの絶望がそのうち慢性の諦めを導いて、笑い続ける僕を尻目に新月は巡っていきました。僕の涙が木々の根に落ちても、おとぎ話の様に魔法が解けたりなんてある筈もなくて。僕は清廉潔白の乙女でも、清らかな姫君でもない悪王だから、魔法も木々も涙なんかにほだされたりはしないのです。取り落とした燭台の火は消えることもなく、でも木の葉や樹皮に燃え移ることもなく、地面に這うように揺れていました。なににも燃え移らない、増えることも減ることもない光。それは僕の無力さを、僕の無意味さを嘲笑うようでもありました。

 やがてまた青い光が暗闇を裂き、気づけば一瞬のうちに僕は元の部屋に薔薇となって戻っていました。落とした筈の燭台も薄青いテーブルクロスの上に、闇夜の冒険なんて無かったかのように立っていました。

 あの新月は魔女が与えた挽回の機会? そう思った僕を鼻で笑いたいものです。あんなもの、ただこの青い世界をより絶望的にするアクセントでしかない。この世界で僕の心が壊れきらない様に、永遠に正気のまま苦しみ続けるように、少しスパイスを効かせた新手の責め苦。慈悲など、鼻からありはしなかった。

 一度はこの胸に蘇った希望の欠片を、もう一度諦めと引き換えて、僕はもう、何一つ望まないことを決めました。一刻も早くこの心すら消し果てて、この世界に溶けて、この青い世界と一つになってしまえば苦しむ必要もないでしょう。救いがないのなら、もがかないから、受け入れるから、だから人であったことも捨ててしまって良いでしょう? それくらい許してくれますよね、青く美しく残酷な人。

 思考を回せば恨み言と、この世界の残酷さへの嘆きが溢れるばかり。心のどこかで達観して、再び小難しいことを考えることを止めました。どれだけ経っただろうか、とか、いつまでこうしているのだろう、等ということを考えるのにも飽きまして、とうとう僕の中から時間の流れどころか、時間の縮尺すらも消え失せました。それはつまり、時の長さを認知することも苦しむこともなくなったということです。それで僕は幸せでも無い代わりに、不幸でもありませんでした。

 ぼうっとしている内に新月と青い夜とが幾度も幾度も廻ったような気がします。どちらが何回過ぎていったとか、どちらの時間の方が長かったのか等ということも、わからなくなりました。わかろうともしませんでした。本当に時間というものは気に止めなければ、見えないところですり抜けていってしまうものですね。それを惜しむことも無くなりました。惜しむという感情はそもそも有限の物に対して抱くものですからね。

 そういえば、時間とはどんなものでしたっけ。ある日そんなことをふと思って、考えていました。とりあえず基準として、まず一年。これは十二ヶ月。十二ヶ月はだいたい五二週で、五二週は三六五日。もう少し細かく考えてみますと、一日は二四時間。二四時間は一四四〇分。一四四〇分は八六四〇〇秒。時間の単位は秒、分、時。これらは、今は止まってしまった時計が、かつては狂い無く刻み続けていたもの。かち、こち、かち、こち、あの音が時計の歯車が止まるまで毎日代わり無く、一秒を重ねて八六四〇〇秒を繰り返し、繰り返し。それが時間というものでした。

 それは自然の風景が如く、背景のように常にあることが必然でした。だからこそ、この世の全ての時計が止まってしまったら、あっという間にわからなくなるのです。呼吸の仕方、瞬きの仕方。そんなものの様に最初からそれは当たり前だったから、かち、と、こち、の間が一体どんな物だったのか、意識して覚える理由もなく、そうして今はもう分からない。

 一秒とは何だったでしょうか。いつか、ずいぶん前の、世界が回っていたという時には世界は一秒、一分と区切るに値するものでした。その中で溢れそうな程の様々なものが目まぐるしく移り変わっていたから、一秒という言葉で区切った一つ一つが全く違うもので、美しかったのです。でも、今この世界ではどの一秒もどの一分もどの一年も、等しく同じ物で同じ価値。言い換えれば区別して愛でる必要も、細やかに配分していく必要も無くなってしまったのです。それはひどく空虚で味気ない。

 何の密度も重さもない日々は、その内過ぎ去ることさえ忘れさせました。僕にとって星明かりの消失と出現との間隔は、もはや永遠とも一夜とも刹那とも知れないものになりました。何を思ったのやら、僕は未だにわずかに記憶に残る数字で、その間隔を計ってみたことがありました。一秒とはどれ程の長さだったか朧気なので、算出されたものは酷く頼りない数値ですが、だいたい青い夜は四億九九〇万秒程、つまり約十三年でした。対して新月は二五万九千秒、これは約三日。青い夜十三年周期に一度、たった三日三晩の新月ということです。

 十三年と三日。それがとっくに幾度も流れ過ぎて行ったのです。ですが、もう僕には十三年という時間がどれ程大きな物なのかも、失った歳月の価値も分かりませんでした。それらは空費したと嘆くにはあまりにも空っぽな時間でした。後悔さえも無くなるほどにすっからかんでした。そして、それらはこれからも永遠に続くものなのです。

 こうして僕の存在していた時間は何時からか、人として生きた時間よりもずっと薔薇として生きた時間の方が長くなっていたのです。その事にも何も思わなくなりました。僕が人間だったこと、空は周り、時は流れ、世界は鮮やかであったことの方が僕にとっては嘘なのです。人に似た形になろうが薔薇であろうが、はたまた世界が青かろうが黒かろうが、それをどうこう思う心は風化しました。

 物語で英雄たちが求める不老不死、永遠のハッピーエンド。ですが、本当のところ、無限はそれそのものが不幸なのでした。終わらないものは、有限の幸せや充足を蝕み希釈させていきます。満たされる幸せは器が有限だからこそ存在するものです。底の無いグラスにワインを注ぎ続ける様な永遠は、一度囚われれば最早ただの歯車の一つに成り下がる。僕もまた、この青い世界を織り上げる糸一本に堕ちたのです。


 どれくらいでしょうか。人の世界ではあり得ないほど長い時が過ぎたのでしょう。僕がただ目の前の絵のような世界を眺めて見送った日々は、きっと数えていれば恐ろしいほどの年月だったのでしょう。

 それはもう良く慣れてしまった代わり映えしない新月の、何か決定的な変化でした。

 その夜、人らしい形に戻っても僕は特に立ち上がることもなく、塵の積もった部屋とがらんどうの黒い空洞を見ていました。いえ、目を向けていただけで、見ていたというほど立派な行為はしていませんでした。

 とにかく、その闇の向こうから、来客がありました。

 猫が鳴きました。数百とも数千とも知れぬ年月の遠い彼方に置き去りにした記憶は、それをすぐに猫とは気づかせてくれませんでしたけれど。幾星霜を越えて聞いた、木々のざわめきとも、風の物悲しい嘆きとも違う音でした。熱を持った、血の通った声帯から紡がれる音は、可愛らしい高い声でした。

 にゃあ、と。

 訪問を告げて、それから彼女は外の闇から溶け出すようにするりと部屋に入ってきました。しゅっとしなやかに細い体、ゆったりと僅かに丸くした背に、長い尾が流れるように揺れていました。軽やかにビロウドの絨毯に降り立つと、悠々と僕に歩み寄ってきました。その毛並みの美しいこと。この世を照らす青い光を全て吸い込む滑らかな黒。それは、外の闇のように、照らされないから黒いのではありません。光を受けて、堂々と照らされながら、それでもなお染まらないのです。彼女は、この世で初めて見た、青い光の影響を受けない者でした。そして、初めて巡りあった僕以外の行動するものでした。

 僕を見上げる瞳は灰色がかった金色でした。その蜜のような光の揺らめきの中には、僕の姿が写っていました。バカみたいに目を開けて、彼女を見つめる僕が写っていました。

 彼女はなう、と一声鳴いて、僕にすり寄ってきました。僕はその時になってやっと彼女が猫という物だったことを思い出しました。彼女が僕の棘で傷つかないように慌てて離れると、彼女はきょとんと僕を見つめました。なぜ逃げられるのかわからないといった顔で、それから不服そうに、にゃーと鳴いて僕に飛びかかってきました。それを避けると、彼女はソファに降り立ち、また僕を追いかけ回してきました。小さな部屋で、柔軟に動き回る彼女から逃げ続けます。体の大きさこそ違えど、軽やかに素早く迫ってくる彼女をすんでのところで避けるのですが、彼女はすぐに体制を立て直してまた襲いかかってきます。僕が彼女を傷つけないように避けていた筈なのに、むしろ突っ込んでくる彼女と衝突して怪我をしないように逃げているような体になってきました。

 永い永い時を越えて出会った自分以外の動物と過ごす時間の使い方としては、不毛極まる追いかけっこも、結局彼女の勝利で幕を閉じました。疲れてベッドに突っ伏した僕の後頭部に勢い良く彼女が張り付き、満足そうに鼻息を荒くしていました。幸い、さすがに頭部は人だった僕に限りなく近い形で、手のように棘が生えてはいないので、彼女が額を叩こうが、逃げた罰だとばかりに顔を引っ掻こうがその柔らかい前足が傷つくことはありませんでした。代わりにと言いますか、彼女の重みを受け止めた僕の首と、爪を立てられた顔には著しいダメージがありました。

 一通り僕の顔に斜線を残した彼女は満足したのか、ふふんと息をついて僕の頭から、僕の前に降りました。青白いシーツの上にその黒は眩しいくらいでした。彼女が離れていった頭はとても冷たく感じました。くすんだ金色が僕を見つめるので、僕も見返しました。彼女がするりと頬を寄せて来たので、棘の手は引っ込めて代わりに顔を近づけました。彼女の頬擦りはとても暖かかった。自分で刻んだ癖に、引っ掻き傷を舐める彼女を見て、とても暖かい気持ちになりました。やがて彼女が欠伸をして丸くなってしまったので、僕も彼女の隣に顔を伏せました。目を細めても、彼女が幻のように消えることはなく、僕は瞼が落ちるまで彼女のことを見つめていました。

 時の幾億を越えて、多分生まれてはじめて僕は隣に在る暖かさに感謝しました。新月はきっと閉じた瞼の外側で僕らを包んでいたのでしょう。冷たいくらいに静かな黒は、僕らの眠りをそっと守ってくれました。

 ぺちぺちと頬をたたく柔らかい物を感じて目を覚ましました。瞳を開くと灰色を帯びた金色が、僕の目と同じ高さで見つめ返していました。まだ体は動きます。窓の外を見てみればまだそこは黒く、新月は未だ明けないままでありました。

 みゃう、と一声僕を誘うように鳴いて彼女はベッドから飛び降りました。ぼんやりとしたままの頭で彼女を追うと、彼女はこの部屋の唯一の扉の前まで歩いていきました。それから振り返って僕をしばらく見つめていました。しばらく見つめあっていると、彼女は僕が動かないことにイラついた様ににゃーっと鳴いて扉を引っ掻き始めました。ようやく彼女の意図に気づいて戸を開けてあげると、察しが悪いわね、と咎めるようにその艶やかな尾が僕の足の棘のない部分を撫でて行きました。そして彼女は戸の隙間からするりと出ていきました。

 僕は戸の向こうにひしめく黒い闇を思い出して慌てて机の燭台に飛び付きました。多分、僕はその黒に彼女が溶けて消えてしまうことを恐れたのだと思います。ほとんど投げ出すように暗闇に青い灯火を尽き出すと、おぼろな青い光の中に彼女のシルエットが浮かび上がりました。彼女はまた一声鳴いてろうそくの炎の灯りが届かないところに進んでいきました。

 追うべきか追わないべきか、僕の足はどちらにも動きませんでした。追いたかったのです。傍にいてほしかったのです。でも彼女がそれを望んでいないなら僕は追いたくありません。彼女を厭わせる位なら追いたくなんかありません。

 しばらくの周巡のあと、暗闇から彼女の鳴き声が聞こえて僕の足はやっと動き出しました。にゃーっと、急かすようなその声を聞いてしまったら、悩みも戸惑いもさておき、とりあえず飛んでいくしかなかったのです。

 横に並べばまた、尻尾が僕をはたきました。苦笑する間もなく彼女は歩いていってしまいました。美しい身のこなしで道を塞ぐ木の枝もぽっかり空いた穴も飛び越して行く彼女の歩調に、必死に足並みを合わせて歩きました。

 僕が遅れれば暗闇から急かすことも、引き返してきて様子を伺うように見上げることもありました。どちらにするかは完全に気まぐれだったのでしょう。媚びることもなく、思いやることもなく、それなのにどこか僕を求めてくれる。置いていかないでくれる。それがどうしようもなく僕には嬉しかった。

 やがて彼女はひとつの部屋の前で止まりました。僕のかつての寝室だったところです。その扉は外れて傾いていました。扉の役目を果たさなくなった板の隙間から彼女は部屋に入っていきました。僕も外れたマホガニーの板を床の穴に落として後に続きました。

 彼女は木の枝に貫かれた僕の肖像画の前に座っていました。僕は彼女の隣に立って歪んだ額縁の中から見返す穴の空いた僕を照らしました。見下ろした彼女は細めた目で呆れたようにその絵を見ていました。一度僕を見上げて、また、絵を一瞥して、それから踵を返しました。その顔は「この絵のあなたは気に入らないわ」と言いたいように思えました。そうですね、金品で飾り立て、ふんぞり返って見返す僕は今思えば滑稽で不格好なものです。

 彼女はもう肖像画には微塵の興味も示さず、三つに折られたベッドに飛び乗り丸くなりました。僕も彼女の隣に座ってみました。彼女は嫌がることもなく静かに縮こまっているので、その背を撫でようと手を伸ばして、そして引っ込めました。彼女を傷つけないために。曲がった天蓋のだらしなく垂れ下がった布を引き寄せて、するりと撫でれば呆気なくそれは引き裂かれました。僕の棘が引き裂きました。寂しさを感じながら、その布をそっと彼女に掛けてやると鼻をひくりと動かして、片目だけ薄く開いて僕を見ました。おやすみなさい、と囁くと返事のように小さな鳴き声が返ってきました。


 いつの間にか眠っていたようですが、僕は彼女の泣き声で目を覚ましました。つんざくような金切り声で、彼女は僕に体を寄せて泣くのです。目を開けば、闇に塗られた外の世界が青く輝きだすところでした。僕の体は足先からほどけていきます。新月が終わるのです。

 棘に変わっていく僕の体に覆い被さって泣く彼女の体から、何かベットリとした暖かい物がに広がっていきました。それを感じて、とっさに僕は彼女を押し退けようとしました。しかし、棘にまみれた手のひらはもう一度彼女を傷つけただけでした。それでも構うことなく僕に寄り添おうとするように、小さな体を棘に向かって進める彼女を見て、僕は惨めで悲しくて、やるせなくて、でも一方で彼女の姿に打たれて、僕も泣きました。傷ついてしまうのに、傷ついているのに、傷つけてしまうのに、それでも彼女は薔薇に変わり行く僕の側に居てくれようとしている。

 彼女は優しくて、高潔で、僕は情けなくて、恐ろしい。溢れる涙を覆い隠せば、彼女が刻んだ爪痕を僕の棘が違う傷で隠していきました。


 気づけば僕はまた、あの小さな部屋に戻っていました。彼女の温もりが無くなった部屋はとても冷たく感じました。思い出してしまった暖かさは、知ってしまった嬉しさは、棘に残る血を風と一緒に冷やしていきました。僕は彼女を思って泣きました。

 傷はどれ程深いでしょうか。その傷から流れた血が彼女の命を脅かすような物でありませんように。

 僕が消えていったことを恐ろしく思っていますでしょうか。

 灯りも僕もなくなってしまった薄暗い青の中で寂しい思いはしていないでしょうか。

 どうかあの物悲しい泣き声が止んでいますように。

 僕との時間は楽しかったでしょうか。棘の僕をどう思ったでしょうか。

 僕は彼女との新月と今の彼女のことを繰り返し繰り返し想って、時を過ごしました。彼女を思って過ごすときはとても、とても長く感じられました。いいえ、初めて誰かのために費やされた時間は本当に長かったのです。


◻◻◻


 また巡り来た彼女のいない新月に、僕は起き上がりました。十三年です。彼女の時が動いているのなら、もうこの世にいないのかもしれない。でもあの日感じた熱をもう一度感じたくて、彼女があの日来訪してきた窓にすがり付きました。何処までも続く暗闇の中に、彼女の姿を見ようと眼を凝らしました。もちろん、何も見えない暗闇に黒い姿を探すのは到底無理なことでした。

 僕は振り向くと燭台を掴み上げました。彼女を見つけるのです。例え彼女がどこにいようと、どんな木の根の隙間で冷たくなっていようと、必ず見つけるのです。だって僕はありがとうを言っていない。あなたに感謝を伝えていない。決意を胸に僕は扉に手を掛けました。いざ、行こうとしたその時。

 にー。

 どこに行くの? と言いたげな声が僕を引き留めました。僕は振り向きました。その瞬間は、自分の体がいやにのろまで、振り向くまでの景色の変わりようがとてもとても遅く感じられました。ああ、そこにいるあなたの姿はとても簡単に思い浮かぶから、早くそれを現実と結びつけたいのに。やっと振り向いたそこには、黒を嵌めた窓を背に、ちょこんと座る彼女がいました。燭台が床に落ちる音がしましたが、そんなことに取り合う暇はありませんでした。

 駆け寄って、両手を広げて彼女の前に膝まずきました。触れる寸前で自分の形を思い出した手はだらしなく床に触れました。あなたに触れたい。あなたの熱をこの手でかき抱いて感じたい。胸いっぱいにあなたを抱き締めたい。それが叶わぬことを思えば涙が一筋頬を伝いました。でも、それは拭いました。涙よりもっとふさわしい物がありますから。僕は笑いました。彼女に微笑んで、十三年前の三日を、君との夜のありったけを君にぶつけました。

「僕の元にやって来てくれてありがとうございます。あなたの隣で眠った時間はとても心地よかった。あなたと一緒に歩いたことが楽しかった。あなたが僕の肖像画をバカにするように見詰めたことが、僕の真実になりました。僕を拒まないでくれてありがとうございます。棘になっていく僕の側にいてくれてありがとうございます。傷つきながらも、僕を一人にしないでくれたあなたの優しさがとてもとても嬉しかった。あなたのその高潔な姿勢に僕はとても憧れる。誰かのために傷つくことではなく、最後まで側に寄り添う姿勢に憧れるのです。ありがとうございます。ありがとうございます」

 笑顔は崩れないまま、拭った涙がまた溢れました。うつむいて、棘の痕も気にせずに必死で拭いましたが今度は止まりませんでした。でも良いでしょう。これはあなたに会えた喜びそのものですから。何度も泣きじゃくりながらありがとうと繰り返しましたが、やがてそれは彼女の尾にはたかれて止まりました。

 にゃーっと僕の顔を覗き込んで、それから彼女は首だけで振り向きました。僕を促す様に、窓の外へと首を向けました。僕も、彼女に従って顔を上げました。そこには。


 ああ、終に欠けたものは満ち、永遠の夜は終わります。地平線から朝日が真っ赤な光で世界を包みました。そう、青い世界はかつてはこんな色だったのです。

 やがて赤は白へと変わり、白い光は世界の青いヴェールをゆっくり取り去って行きます。ほどけるように縮んでいく木々は、そう、こんなにも優しい緑で、力強い茶色で。積み上がるように再生していく街並みの、レモンイエローとミルキーホワイトの石畳。暖かな白い壁に屋根の赤レンガ。裂け目が癒えた地に萌えるのは柔らかな黄緑と、色とりどりの花。

 赤はいっそう情熱的に、緑はいっそう穏やかに、黄色はいっそう躍動的に、白はいっそう清らかに、そして青はひたすらに美しく、世界は何処までも鮮やかでした。

 そして僕の涙を拭ってくれる君の毛皮は光の下でより艶やかに黒いのです。見上げる瞳はくすんでなどいない、眩しいほどの金だったことに今気づきました。

 空の端に残るオレンジ色の朝焼けの残滓、白と灰色のマーブル模様の雲、そして濃紺とは違う清々しい水色の天。

 こんな簡単なことに気づくのに僕は何年かかったのでしょう。玉座の上で独り占めするにはこの世界は広すぎて、美し過ぎる。

 窓の外をかぶり付くように見つめる僕の腕に、彼女のしなやかな体がすり寄ってきました。見下ろした僕の手も、白く、滑らかな物に戻っていました。僕が十三年と三日待ち望んだものです。僕は彼女を抱き寄せました。もう、傷つけることはありません。仕方ないわね、なんて鳴く彼女を腕いっぱいに感じました。その暖かさも柔らかさも可愛らしさも美しさも、僕はやっと僕の全てで感じられました。

 地平から放たれる白い光はどんどん輝きを増し、僕と彼女を包んで行きました。彼女を抱き締めて、色とりどりの世界をただただ感動の中に見つめていると、扉が開く音がしました。振り向くとそこには侍女が一人、盆を手に立っていました。彼女は、水の乗った盆を取り落とすと、目をまんまるく開いて、僕を見つめました。呆然と立っている侍女に微笑みかけると、彼女ははっとしたように、扉の向こうに走り出していきました。

 僕の目覚めを城中に告げようとする侍女の叫び声から、僕は一週間目を覚まさず眠り続けていたらしいことが分かったのです。一週間。僕の過ごした数千年はたった一週間の夢だということです。おかしくて僕は笑いました。あれが一週間だというのならあなたとの時間はどれだけ長い一瞬でしょう。そう思って彼女を見ると彼女は笑い続ける僕に呆れたように鳴きました。

 そして、彼女は僕の腕から抜け出すと、床に降り立ちました。彼女は気まぐれに僕のもとに現れ、そして今度は気まぐれに去っていくのです。

 でも、その背に一度だけ僕は猶予を求めました。待って、という声に振り向いた彼女を尻目に僕は床に横たわる火の消えた燭台を取り上げました。侍女が落とした水に濡れたそれをそっと袖口で拭って、金細工の台座に嵌まる、君の瞳と同じ色で輝く宝石を取り外しました。それから天蓋の赤い布を引き裂いて、リボンを作りました。棘ではなくなった手では力仕事でしたが、その方が良いのです。布を簡単に引き裂ける手は寂しいですから。

 リボンをトパーズの金の飾りに結びつけて彼女の首に回しました。嫌がるかとも思いましたが、彼女は受け取ってくれました。黒地に輝く三つの黄金色を僕は温かく見つめました。

 彼女は僕に背を向けて今度こそ窓の外に消えました。僕はあの時のように追うか追わぬかと迷うことはありませんでした。追わないと決めていましたから。本当はあなたを僕の飼い猫として、ずっと側に置いておきたいですけれど。でも僕は気まぐれに訪れては気まぐれにいなくなるあなたが好きだから。あなたをここに縛り付けてはおけません。

 自由にどこへでも行くと良いでしょう。僕と青い世界のことなんて忘れて構いません。でも、猫は死に目を人に見せないと言うからそんなことは無いでしょうけれど、あなたが最期の時を僕の側で迎えてくれたら。僕はあなたの体をこの王宮の庭園に、そうですね、一番綺麗な薔薇の下に弔ってあげたい。

 そう、少しだけ未練を残して僕も去っていく彼女に背を向けました。僕はここでやるべきことがたくさんあります。ここはまだ酷薄な独裁者の国。おとぎ話のように何もかもうまく変わる訳ではありません。僕が変えねばならないのです。だって僕は王様ですから。それに僕は彼女と出会った物語をハッピーエンドで終わらせたいですから。


◻◻◻


 町の赤レンガの屋根の上を、黒猫は誰の目にも止まらず駆け抜けました。その屋根のひとつに同じように人に見えない主人が待っています。

「あら、お帰りなさい。ルナ」

 青いドレスを風にたなびかせ、誰にも見えない魔法で堂々と屋根に仁王立ちする魔女に、彼女の使い魔は飛び付きました。魔女もその体を受け止めてがしがしと撫で回して応じます。

「あの王様のことだから、もっとかかるかと思ってたけど案外あっさり終わったわね。やっぱり他人のために泣くことも笑うこともできない人間は薄っぺらくて駄目ね。でもこれで少しは良くなるわ」

 黒猫も魔女の膝の上で同意の鳴き声を上げました。その声に思い出したように、魔女は鈴のついた青いリボンを取り出して黒猫を抱き寄せました。

「そうそう、首輪外したの忘れてたわ。付け直さなくちゃね」

 しかし、黒猫は青いリボンをぱしっとはたくとぷいっと顔を反らしました。魔女は一瞬固まり、それから可愛い使い魔の抵抗に目の端をつり上げました。

「ちょっと何よ、ルナ! あたしのリボンより、そんな手作り感溢れるダサい首輪の方がいいって言うの? ……ちょ、何よ。そのわかってないなー、みたいな顔は! ルナ! ルナぁ! ……あ! ちょっとあなたご主人様の手を引っ掻くとかいい度胸してるじゃない! 待ちなさい! 待て……待ってよ! ルナってば!」

 青い魔女の、使い魔に本気で泣きつく声が王国の町並みに人知れず響いていました。

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青と月夜の永遠譚 しうしう @kamefukurou

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