第十六話 蛇紋石 後編

「さすがに、これ以上見過ごすわけにはいかないか……」

 長い沈黙のあとに、槐はそう言った。

 花梨が深泥池へ向かう前のこと。アルバイト先での事件が落ち着いてから、花梨はあらためて槐の店を訪れていた。

 場所はいつもの座敷で、集まっていたのも、およそいつもの顔ぶれだ。花梨と槐のほかには、桜と――片隅では椿が本を読んでいる。

 呪いの石と、それを手に入れる方法。今ではもう、そのどちらもが間違いなく存在し、なおかつ、それが実際に用いられていたらしいことがわかっている。

 その事実を知った今、どうするべきなのか。そのことを話し合うために、花梨はここに来ていた。

 一連のできごとをあらためて確認し、その上で発せられたひとことに、花梨は――そして桜と椿も――槐へと視線を向ける。しかし、真っ先に反応したのは、この場にいた誰でもなかった。

「見過ごすわけにはいかない――から何だ? まさか、それと関わるつもりじゃないだろうな」

 忽然と姿を現したのは碧玉だ。槐の前に立ち、彼のことをものすごい形相で見下ろしている。

 ぴりっとした空気に、誰もが口を閉ざした。それを乱したのは、どこか呆れたような別の声。

「いやいや。話くらいは聞こうじゃないか。苦言を呈するのは、それからでも遅くはない」

 そう言って、今度は縁側に石英が姿を現した。苦々しい表情を浮かべる碧玉には気づかない様子で――あるいは無視しているのか――石英はどこか楽しそうにこうたずねる。

「で? 槐。君はいったい何をしようというんだい?」

 その問いかけに対する、槐の答えはこうだった。

「せっかく場所も方法も提示してくれているんだからね。直接、会いに行こうと思う。これを仕掛けただろう何者かに」

 やはり、このことは誰かの意志によるものだと、槐は考えているらしい。しかし、それを聞いた碧玉は、あからさまに顔をしかめた。

「会いに行く、だと? 何を考えているかは知らんが、おまえにそんなことをさせるわけにはいかない」

 碧玉の言葉に、やれやれといった風に肩をすくめたのは石英だ。

「そんなことをさせるわけにはいかない、か。相変わらずだねえ。碧玉くんは」

 碧玉は石英の方を見ようともしない。そんなふたりに軽く苦笑してから、槐は碧玉に意見する。

「このまま放っていては、いつまでも呪いの石が世に出続けることになる。何らかの対策を講じるべきではないかな?」

「そうやって首を突っ込んで、何もないとでも思っているのか。相手はそれが目的だ。それ以外にないだろう。これ見よがしに、石を用いた呪いなど――」

 碧玉のその言葉に、槐はすかさずこう返す。

「だったらなおさら、確かめないわけにはいかないよ。この家の問題に、他人を巻き込むわけにはいかない」

 話し合いは平行線のようだ。槐と碧玉はお互い一歩も譲ることなく、石英は呆れ顔で、桜は心配そうな表情を浮かべている。椿はひとり、見かけの上では周囲のことなど全く意に介さない様子で、本を読み続けていた。

 この場の成り行きを、おそらく誰もが固唾をのんで見守っている。花梨もまた、しばらく彼らの出方をうかがっていたが、誰も何も言わないのを見て取ると、思いきってこう声をかけた。

「あの」

 そのひとことだけで、皆の視線が花梨へと集まる。花梨は怯みそうになる心を奮い立たせながら、こう続けた。

「私がやります。その場所に行って、どんな風に呪いの石が得られるのか、それを確かめてきます。私にやらせてください」

 それまでにも沈黙していた室内が、よりいっそう、しんと静まり返った気がした。場の空気を和らげるように、花梨は軽く笑みを浮かべる。

「ずっと考えていたんです。私なら、依頼者の振りをして、そこに行くことができるんじゃないかって。何も、私の力でどうにかできるとは思っていません。でも、これで少しは何かわかるかもしれません」

 それまで泰然としていた槐の表情が、にわかに曇った。

「鷹山さんは、この件が――お姉さんがいなくなられた件と、関係しているとお思いですか」

 花梨は槐のなまなざしを真っ直ぐに受け止めた。おそらく槐は、花梨が姉のことで無理を通していると思っているのだろう。どう答えるべきか。花梨は考えた末に、こう話し始める。

「そう、ですね。姉の周囲には、確かに呪いの噂がありました。姉の目撃した友人の死。それから、失踪する前に重なったという不幸。これらが関係してないとは言い切れません。でも、それだけではなくて――」

 花梨は玄翁石の、火打ち石の被害を確かに目の当たりにしている。そうしたことを知ってしまった以上、それについて見て見ぬ振りはできない。そう思っていることも事実だ。

「バイト先でのこともあります。このことで誰かが傷つくかもしれないなら、放ってはおけない。私もそう思います」

 花梨はそこで気持ちを落ち着かせるために、ひとつ大きく息をはいた。

「これが姉のことにつながるのかどうか――今の私にはわかりません。でも、いえ……だからこそ、目の前にできることがあるなら、まずそれをどうにかしたい。そうやって、少しずつ進んでいきたいんです。ですから、お願いします。この件、私に試させてください」

 花梨がそう言い終えると、傍らに黒曜石が姿を現した。

「これについては、私も了承している。何かあればすぐに退く。危険な目には会わせない」

 その場にいる誰もが皆、黙り込んでしまった。いや、槐の答えを待っているのだろう。しかし、そこで助け船を出したのは、意外にも石英だった。

「いいんじゃないかい? これなら碧玉くんも文句はないだろう。それに、試す価値はあると思うよ」

 石英には先のことがどこまで見えているのだろうか。碧玉は難しい顔で沈黙している。そして、誰もがやはり無言のうちに、判断を求めて振り向いた――槐の方へと。

 そのときふいに、槐はかすかに笑みを浮かべた。かと思うと、花梨から黒曜石へ、順に視線を向けてから、ぽつりとこう呟く。

「……弓、か」

「何がおかしい」

 と問いただしたのは碧玉だ。槐は笑みをたたえたまま、こう答える。

「いや。今はちょうど年末。ならばこれは、追儺ついなの儀式だと思ってね」

 槐はそこであらためて姿勢を正すと、真っ直ぐに前を見据えた。そして、こう宣言する。

「鬼やらいだ。年明けを迎える前に、悪い鬼を追い出すとしよう。深泥池にある呪いの噂を広め、それを提供する者――その元凶を特定し止めさせる」

 目の前に立つ碧玉を見上げてから、槐はさらにこう続けた。

「やはり、この件を捨て置くわけにはいかないよ。碧玉。ひとりで向かうわけにはいかないというなら、何か――そう、策を考えよう」

 槐のその言葉を、碧玉は厳しい顔で受け止める。それとは対照的に、石英はいかにも楽しそうに笑った。

「それはいい。鬼は外ってことかい? まあ、これは今では節分ということになるか……」

 槐はうなずきながら、こう言った。

「追儺は中国から伝わった行事が元で、今では少し形を変えて、二月の節分に行われることも多いね。しかし、元は宮中の行事で、大晦日に行われていた。桃の弓と葦の矢を持つ儺人なじん。金色の四つの目の面に熊の毛皮を被り、右手に矛、左手に盾をもつ方相氏ほうそうし。それに従う侲子しんし。このものたちによって、目に見えない鬼を外に追いやる」

 それを聞いた石英は、ふむとうなずく。

「弓はいいとして、矛と盾ねえ。そのものではないけれど、当てはめるとすれば瑪瑙めのうくんと、透閃石くんかな? まあ、どっちもいないから、輝安鉱と赤鉄鉱辺りで手を打ってはどうだろう」

「おもしろがるんじゃない。石英」

 碧玉にそうたしなめられて、石英は軽く舌を出した。それを横目で見ながら、桜がおそるおそる声を上げる。

「えっと、とにかく僕たちは、これからその――深泥池で呪いを引き受けている人を追い出す、そのための作戦を考えるってことでいいんですよね」

 桜の念押しに、槐はうなずく。

「そうだね。そして、その呪者を特定するために、鷹山さんには、囮のようなことをさせてしまうかもしれませんが――こちらも万全を期して挑みます。ご協力願えますでしょうか」

「はい」

 花梨はうなずいた。もはやこの流れは止められないと思ったのか、渋々といった様子で碧玉が口を開く。

「しかし――黒曜石では、守りには不足ではないか」

 今度は黒曜石が注目される。黒曜石自身は表情を変えることはなかったが、槐は軽く首をかしげた。

「そんなことはないと思うけれどね。黒曜石は彼女自身が選んだ石なのだから」

 槐のその言葉に、黒曜石は首を横に振った。

「いや、槐。確かに、私の力だけでは十分ではないかもしれない。そのことは、痛感している。だからこそ、助力が欲しい」

 その申し出に槐はふむと呟くと、確かめるようにこうたずねた。

「他の石たちの、ということだね?」

 そう言って、槐はしばし考え込む。石たちの集まる例の部屋へ、無意識のうちに視線を送りながら。

「鷹山さんの身を守り、相手を追い払う力……か」

「待て」

 と唐突に、花梨には聞き覚えがない声が槐の呟きをさえぎった。ほどなくして現れたのは、どこか陰気な表情をした長身の男。その男は槐に向かってこう問いかける。

「追い払う、でいいのか? 俺の力なら、その何者かを捕らえることができるかもしれんぞ」

蛇紋石じゃもんせきさん」

 と、その名を呼んだのは桜だ。黒に緑が混じったような長めの髪を揺らして、その男――蛇紋石はこの部屋にいる面々を順に見ていった。

「この問題。呪いの石が関わっている。ならば、我々にとっては無関係ではない。それに――」

 そこで蛇紋石は、花梨へと目をとめた。

「手がかりを求めてかは知らんが、得体の知れない危険にまで関わろうとするとはな。その執念、俺は嫌いじゃない。いいだろう。力を貸してやろう」

 花梨は槐の方へ問いかけるような視線を送る。槐は心得たようにうなずいた。

「蛇紋石。単一の鉱物ではなく、類似した化学組成も持った鉱物の総称です。英語名はサーペンチン。葉状の構造がその模様に似ていることから、蛇を意味する言葉からそう名づけられました。彼の力は、蛇が獲物を捕えるように、対象を拘束すること」

 槐はそう言うと、蛇紋石へと目を向けた。

「君が表に出ることは珍しい。この件に協力してくれるんだね?」

 その問いかけに、蛇紋石はうなずく。

「他にも、この件には手を貸してもいいと言っているものはいる。石の呪いがのさばっていることを、苦々しく思っているものは多いからな」

 槐はうなずくと、あらためて考え込んだ。

「わかった。その何者かを捕える――その線で考えてみよう。確かに、逃げられただけでは意味がないからね。相手の意図を探り、それでいて手を引かせなければ……」

 そのときふいに、椿が声を上げた。

「――それで?」

 皆の視線が、片隅で本を読んでいる彼女の元へと集まる。椿はそれを見返しながら、こうたずねた。

「私にはどんな役があるの?」

 しばしの沈黙のあと、槐がこう答えた。

「そうだね。椿には留守番をお願いするよ」

 それを聞いた途端、椿は口を尖らせた。不服そうに、無言で不満をその顔いっぱいに表している。

「……椿。これも大切な役目だ」

「皆が出払うわけにはいかないからな」

 翡翠の声と碧玉の言葉。口々にそんなことを言われて、椿はよりいっそう顔をしかめた。



 冬のこの時期は、日が落ちるのも早い。話し合いを終えて外に出る頃にはもう、辺りはすっかり暗くなっていた。しんと冷える空気に、ほうと息をはきながら、花梨は真っ黒な夜空を見上げる。

 店から一歩出て振り返れば、桜が見送りのために戸口に立っていた。彼は心配そうな表情を浮かべながら、じっと花梨のことを見つめている。

「何だか、大変なことになってしまいましたね。やっぱり、僕も行った方がいいでしょうか……」

 それに答えたのは黒曜石だった。

「他の石も協力してくれている。無理をすることはない。桜石」

 その言葉には、桜はどこか悲しそうな顔で曖昧な反応を示す。彼は花梨が声をかけるより前にため息をつくと、平静に戻ってこうたずねた。

「あの、花梨さん。できれば深泥池に行く前に、なずなさんのところに行ってはもらえないでしょうか?」

 花梨が首をかしげると、桜はこう続ける。

「小松さんにも声をかけたので、このこと自体はもう知ってるんですよね。なずなさんも。それなのに何も知らせないとなると、あとでへそを曲げそうなので」

 花梨は苦笑しつつも、うなずいた。

「わかった。私もお礼を言いたいから、そうするね」

 そう答えてから、花梨は店をあとにした。桜に見送られながら、夜の通りを歩き始める。

 しばらくしてから、周囲に人がいないのを確認して、花梨はふいにこう話しかけた。

「ありがとう。黒曜石。私の無理を聞いてくれて」

「このことが、君の求める手がかりになればいいが」

 黒曜石はそう言った。

 花梨はふと、初めて彼の姿を見たときのことを思い出す。そこから、いろいろなことを考えた。今まであったこと。これから起こるかもしれないこと。

 そうして物思いに沈んでいるうちに、花梨は知らずその心の内を呟いていた。

「そうだね。お姉ちゃんのこと……はじめから、そんなにうまくいくとは思ってなかったつもりだけど――それでも、少しずつ不安になっていて。いつまでこうして、お姉ちゃんのことを探せるだろうか。いつまでこうして、探さないといけないんだろうかって。でも、もしもお姉ちゃんが見つけられなかったら、私には何も残らないから――」

 そこまで言って、花梨ははっとして口をつぐんだ。悲観的な考えを振り払うように、慌てて首を横に振る。

「ごめん。弱音だった。こんなときに――」

 とっさに出てきたその言葉に、思いのほか真剣な黒曜石の声が重なる。

「いや、たまには弱音をはいてもいい。親しい者の行く方がわからないのだから、つらく思うのは当然だろう。それを追い続けることについては、君の判断なのだから、私には何も言うことはできない。しかし――」

 黒曜石は少しだけやさしい声音になって、こう続けた。

「君のことは側で見ていた。だから――どんな結果になろうとも、何も残らないということはない。私が、そう請け負おう」

「……ありがとう。黒曜石」

 その声は澄んだ冬の空気に、染み入るように響き渡った。






 そうして――

 蛍石の道案内によって、花梨は深泥池のほとりにある祠へとたどり着いた。

 普通の方法では行くことができないという話だったので、どんなおどろおどろしい場所かと思ったのだが――そこは何の変哲もない、少し開けた空き地のようなところだった。

 藪に囲まれたなだらかな山の斜面に、石で造られたらしいこぢんまりとした祠が建てられている。その近くには、深泥池の一端だろう湿地も見えた。

 祠の付近には誰もいない。噂によると、ここには呪いたい相手などを書いたものと、お供えを置いておく――というのが本来の手順だった。この日はひとまずそれに従って、その場でしばらく待ってみる、という手はずだ。

 花梨はふと考える。いつかに聞いた話のように、この祠が行方知れずの豆塚――ということもあるのだろうか。だとすれば、ここには貴船に続く地下道があるという話で――とはいえ、貴船といえば京の奥座敷とも呼ばれている、都のはるか北に広がる山地だ。深泥池からは、かなりの距離がある。

 祠は本当に慎ましやかなもので、鬼が通る道を隠しているようには見えない。傍らには柳の木が一本、寄り添うように生えている。

 しばし呆然と辺りの景色をながめているうちに、ふいに、花梨、と黒曜石の呼ぶ声がした。

「何者かが、君のことをつけている」

 花梨もまた、そのことに気づいて背後を振り返った。誰もいないはずのその場所に、誰かが立っている。そして、それは花梨もよく知った人物だった。

 西条浅沙。呪いの噂を知らないと答えたはずの彼は、平然とした顔でこの場に姿を現す。

「驚かないね」

 花梨はこの場面を予期していたわけではないが、それでも彼の言うとおり、不思議と驚きはしなかった。ただ、思いがけないことではあったので、それについての戸惑いがないわけではない。

 そもそも、ここにたどり着くにはいろいろと手順を踏まなければならない、という決まりのはずで――だとすれば、彼が偶然ここにやって来た、ということはないだろう。これはいったい、どういうことなのか――何ひとつ確かなことがわからないこの状況で、花梨はひとまずこう返した。

「そうですね。少なくとも、あなたは呪いのことを知っているだろうとは思っていましたから」

 彼は以前、花梨の問いに対して、呪いのことは知らない、と答えている。しかし、バイト先でのことを考えると、それが言葉どおりだとは到底思えなかった。

 彼のことをどう呼ぶべきかをためらって――花梨は結局こう呼びかける。

「西条さん。あなたは――」

「ああ……それね。偽名。だから下の名前で呼んでねって言ったのに。それに、センパイ、って呼んでくれないんだ。そう呼ばれるのは、案外悪くないと思ってたんだけど」

 浅沙はあっさりとそう返す。あまりにも悪びれた様子がないので、花梨は思わず呆れた表情を浮かべてしまった。

「だとすれば、あなたはいったい、いくつ嘘をついていたんですか?」

 その問いかけに、浅沙は何を答えるわけでもなく、花梨が次に何を言うのかを待っていた。仕方なく、花梨はこう続ける。

「私はあなたにこうたずねました。呪いの噂について知っていたのか、と。あなたはそれを、もしかしたらこの――深泥池のことだと思ったのかもしれません。しかし、私がたずねたかったのは、姉についてのことです」

 けげんな顔で首をかしげている浅沙を見て、花梨は彼とのやりとりを思い出す。

 浅沙は当初、同じ大学だからと言って花梨に親しげに話しかけていた。そのときはそれほど気に止めなかったのだが、大学で不穏な噂が広まっていることを知ってから、花梨はそのことに違和感を抱くようになる。彼は姉の噂のことを、どこまで知っているのだろうか、と。

 だからこそ、久しぶりに顔を会わせたあのとき、そのことをたずねようとした。しかし、彼の答えは、そんなことに興味があるのか、だ。少なくとも、この答えは姉の噂を指してのものではないだろう。知らなかったのか、それともあえてとぼけたのか――

「大学では、姉にまつわる呪いの噂が広まっていました。それは、妹である私のことも合わせて、です。もちろん、同じ大学だからといって知っているとは限らないし、知らない振りをしてくれているのかもしれない――とも思ったんですが、そう考えると、あなたとは学内で会ったこともなくて、話していても大学のことはあまり話題に上らない。それで少し不思議に思って」

「なるほどね」

 と、浅沙はうなずきつつも、軽く肩をすくめた。

「その噂がそこまで広まっていたなら、知らない方が不自然だってわけだ。うかつだったな。そもそも、同じ大学だよ、なんて言うべきじゃなかったか」

 その言葉に、花梨は顔をしかめた。

「確信があったわけじゃありません。でも、それも嘘だったんですね」

「そうだよ」

 浅沙はすぐさま、そう答える。

「どうして、そんな嘘を?」

 彼はその問いかけにも答えなかった。その代わり、無言で祠の方へと歩き出す。花梨とは間隔を空けたまま、その周囲をぐるりと回るようにして。

 落ち葉を踏みしめる、かさかさという音だけが続く中で、浅沙は唐突にこう話し始めた。

「花梨ちゃんはさ、こんな話知ってる? 男がひとり水辺で釣りをしていると、蜘蛛が自分の足に糸をかけていることに気づいた。妙に思った男は、糸を外して近くの木に引っかける。すると、糸はその木を水中に引きずり込んでしまった――」

 話し終えると同時に、浅沙は祠の前で立ち止まった。しかし、彼の視線は何かを探しているかのように虚空をさ迷っている。いや――

「だから、ね。水辺は危ない」

 そのときふいに、花梨の目にも彼が気にしているだろうものが見えた。それは、周囲に張り巡らされた細い糸のようなもの――

 まるで蜘蛛の巣に囚われているかのように、無数の白い線が花梨たちを取り巻いていた。これは明らかに――尋常のものではない。

 花梨は思わず後ずさったが、不吉な気配のするそれはそれこそ蜘蛛の糸のように、少しでもふれると途端にふつりと切れてしまう。それを見て、花梨は槐から借り受けた石たちの存在を思い出した。

 そのことを支えにして、花梨はその糸を恐れることなく、浅沙へと詰め寄る。

「深泥池の噂は、あなたがやったことだったんですか?」

 平然としている花梨を見て、浅沙は軽く目を細めた。

「うん? 花梨ちゃん、おもしろいもの持ってるね。それは弓のとは別のやつ? だったら危険なこともなかったか。まあ、いいけど」

 黒曜石のことを言っているのだろうか。そのことを察してか、黒曜石は姿を現すとすぐさま弓を構えた。しかし、浅沙は矢先を向けられていることなど気にもとめない。

 浅沙は糸が集まっている方――ちょうど柳の木の辺りへ視線を向けている。

「花梨ちゃんは、ここの呪いが誰のせいなのか、知りたかったんでしょ? だったら、これですぐにわかるよ」

 その言葉とともに、彼が取り出したのは灰色の石。その石は、花梨も見た覚えがある。あれは確か――

「火打ち石。どうしてあなたが、それを」

 花梨のその言葉に、浅沙は得意げな表情でにやりと笑った。

「あのとき、くすねておいたんだよ。これで――呪いを返す」

 浅沙はそう言うと、手にしている火打ち石を大きく振り上げた。かと思うと、それをためらいなく近くの岩に叩きつける。高い音を立てて、火打ち石が真っ二つに割れた。その瞬間。

 周囲に巡らされた糸に小さな火が走り、無数の糸はすべて焼き切れてしまった。と同時に、祠の傍らにある柳の木の影からも火の手が上がる。

 花梨は驚いて、そちらに目を向けた。

 赤い炎が燃え上がったのは、一瞬のこと。そのあとは燃え広がることもなく、火は不自然にかき消えていく。

「さすがに防いだか」

 それを見て、浅沙はそう呟いた。

 黒い煙がわずかに残るその場所では、柳の木が静かに枯れ枝を揺らしている。そして、その傍らに立っていたのは――

 女の人だった。見覚えのある姿。しかし、それは火打ち石を持って店長のところに現れた、あの人ではない。

 彼女を見かけたのは、花梨が槐の店を訪れたときのこと。通りに立ち、店の方をじっとにらみつけていた女性だ。あのあとすぐに碧玉と初めて顔を合わせ、何者だ、とたずねられたことをよく覚えている。

 彼女は両手にそれぞれ何かを握りしめていた。そうして、無言でこちらを見つめている。左手には、模様のような割れ目に覆われた、ごつごつとした石。右手に持っているのは糸巻き――いや、よく見るとこれも石のようだ。

 花梨は戸惑った。浅沙は確かに、呪いを返すと言っていた。だとすれば、彼女こそが――

 女は浅沙の方をちらりと見やってから、次に花梨に目をとめると、ぽつりとこう呟く。

「音羽の者では、ない……」

 それを聞いて、黒曜石は庇うように花梨の前に出た。構えた弓の鏃をあらためて女の方に定めると、こう牽制する。

「動くな。何者だ」

 しかし、女はそれに対して、冷ややかなまなざしを返した。

「おまえに人は射てまい」

 そう発言するからには、彼女は黒曜石がどんな存在かを知っているのだろう――それは、浅沙にしてもそうだった。どういうことだろうか。思いがけないことが一度に起こりすぎて、花梨は困惑を隠し切れない。

 そんな中、浅沙は花梨に向かってこう話し始めた。

「さて。見てのとおり。少なくとも、この火打ち石を呪いの依り代にしたのはあの女だよ。これでいいかい? まったく君は、こんなところまで乗り込んで来て。火事のときといい、俺の言うことを聞いてくれないんだから。で、だ――」

 浅沙は女の方を振り返ると、声音をがらりと変えてこう凄んだ。

「この子は音羽の客人にすぎない。わかったら、ここにはもう二度と姿を現すな。俺も音羽と関わるつもりはない。このまま、この地を去る。それで手打ちだ」

 女はそれでも表情を変えなかった。しかし、暗いまなざしで周囲を睥睨すると、彼女は無言のまま踵を返す。

 この場から去るつもりだ。

「待ってください!」

 呼び止める花梨を浅沙が制止する。黒曜石はすぐにその間に割り込むと、浅沙を花梨から遠ざけた。

 黒曜石の行動に、浅沙は肩をすくめている。

「こっちは親切で止めてるんだけどね。ダメだよ。花梨ちゃん。あの女を追ったりしちゃあ。呪いを返したんだから、今は近づかない方がいい。悪い風が吹いているから。向こうも、これでしばらくは大人しくしているだろう。たぶん」

 それは――少なくともしばらくは、深泥池から呪いの石が世に出ることはない――ということだろうか。彼の言い分は、どこまで信じられるのだろう。今のところ、浅沙は花梨に対し、敵意はないように思えるが――

 判断に迷う花梨に対して、浅沙はもう終わったとばかりに祠から背を向ける。そして、山道の方へと歩き始めた。

「まあ、そういうことで。花梨ちゃんも、いいかげんそれと関わるのはよした方がいいよ。どうせ、ろくなことがないからね。これは忠告」

 それ――というのは黒曜石たちのことを言っているだろうか。花梨は混乱する中で、どうにかこれだけを問いかけた。

「あの女の人が、ここの呪いを引き受けていたとして、あなたはいったい。それに」

 姉のことは――

 花梨がそう続けるより先に、浅沙はこう答える。

「実のところ、ここのことはもう放っておくつもりだったんだよね。あの連中とは顔を会わせたくなかったし。でも、まさか店長が巻き込まれるとは。しかも、花梨ちゃんまで興味を持ったりして。ともかく、俺が始めたことではあるから、これで一応の始末はついたってことで。それじゃあ」

 そう言って、浅沙もまた、この場を去ろうとする。

 彼の言う――俺が始めたこと、とはどういうことだろう。まだ、何もわかってはいない。花梨は思わず、すがるように彼のあとを追った。

「何があったのか、教えてはくれないんですか!」

 浅沙はちらりと振り返ると、少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。それでも彼は花梨から目を背けると、右手を振って別れの仕草をする。

「潮時なんでね。君も何もかも忘れて、普通に暮らした方がいいよ。さもないと不幸になる。呪いに関わるっていうのは、そういうことだから」

 それを聞いて、花梨はいつかの黒曜石の言葉を思い出した。

 ――すべて夢だったとでも思い、忘れるべきものだ。

 初めて黒曜石の姿を目にしたとき、花梨は彼にもそんなことを言われた。人知を超えた、石たちの力。人の領分ではないもの。関わるべきではない。それはそうなのかもしれない。しかし――

 花梨はそれでも、それと対峙することをすでに決めていた。

 浅沙は遠ざかっていく。黒曜石の傍らに立ちながら、花梨はそれをじっと見つめていた。彼がそうして姿を消そうとする前に、残したのはこんな言葉だ。

「だから、俺はもう逃げさせてもらうよ」

 そのとき――

「そういうわけにはいかないな。蛇紋石。彼を捕らえてくれ」

 どこからか、声がした。その声に応じるように、物悲しい笛の音が聞こえてくる。

 その音に合わせて、地面から湧き出すように黒い蛇が鎌首をもたげると、それらは瞬く間に浅沙に取りつき拘束した。そこから一歩も動けなくなった彼は、驚いた表情を浮かべて肩ごしに振り返る。

「ありがとう、忍石。もういいだろう」

 声と共に、彼は姿を現した。着流しに革のトランクケースを手にして、水辺のほとりに悠然と立っていたのは――

「槐さん」

 花梨はその名を呼びかける。

外法げほう使いが。隠れていたのか……」

 浅沙が舌打ちとともに、そう呟いた。

 槐の傍らにはいつの間にか、蛇紋石の横笛を片手に持った陰気な青年が立っている。彼は柳の木を振り返ると、こうたずねた。

「いいんだな? 槐。さっきのあの女は逃がしても。まあ、これだけ離れられると、もはや俺に捕らえることは難しいだろうが。灰長石がいるならともかく」

 空を見上げた黒曜石が、槐に向かってこう告げる。

「甲矢と乙矢に追わせているが……」

 彼らの言葉に、槐は首を横に振った。

「いや。今の流れで、だいたいのことは知れた。ひとまずは事情がわかればいい。話を聞くのは、彼だけでも十分だろう。むしろ、あちらは不用意に追わない方がいいかもしれない」

 そう言って、槐もまた柳の木の方へと目を向ける。

「彼女が持っていたのは糸掛石いとかけいし、か。細い線状の石英脈が糸のように見える岩石で、水石としてそう呼ばれる。返しを防いだ――あれは何だろう。亀甲石きっこうせきかな」

 槐はそう呟くと、浅沙の方へと歩み寄った。そして、確かめるように、こうたずねる。

「石を用いた呪術。君たちはやはり、くもの縁者か」

 ――

 花梨はその言葉にはっとする。槐はさらに、こう続けた。

「くも……土蜘蛛の末、八雲やぐも家の」

 浅沙は容易には逃れられないと悟ったのか、抵抗することもなくその場に立っていた。槐をにらみつけるだけで、黙り込んだまま何も答えない。

 槐は彼の反応をうかがいつつも、どこか悲しそうな表情でこう呟く。

「だとすれば、先ほどの女性は国栖くずの葉。やはり、まだ続いていたか。音羽が残したという、あの家の――」

「そりゃあ、そうだろう。そう簡単に終わると思ったのか? お前のところだって、まだ」

 唐突に、浅沙は槐の話をさえぎった。そして、嘲笑うかのように、こう問いかける。

「天狗に憑かれているんだろう?」

 槐は何も答えなかった。その代わりに、彼は浅沙に向かってこう問い返す。

「君は何か意図があって、鷹山さんの周囲にいたようだが、彼女のお姉さんの行方を知っているのかい?」

「知らない」

 そのやりとりに、花梨は思わず息を飲んだ。

 今回のことが、すぐさま手がかりにつながるとは思っていなかった。それでも、姉の行方を求める花梨にとって、それは残酷な言葉には違いない。

 浅沙は花梨の方をちらりと見ると、軽くため息をつく。そうして、肩をすくめながら、こう言った。

「ただ、いなくなったことは知ってるし、その理由には心当たりがある。だから――俺も探していた」

「どういう、ことでしょう」

 戸惑いのまま、花梨はそう返す。答えの代わりに、彼が口にしたのはこんな話だ。

「それで――そうしているうちに、妹である君が京都にいるって話を耳にしたから、何か知ってるかと思ったんだけど。でもまあ、花梨ちゃんがお姉さんの行方を探しているのは、すぐわかったよ。それでも、何かの足がかりにはなるかと思ってね。お近づきになるために、いたずらで呪を仕掛けてみたんだ。でも――」

 花梨はすぐにそのことに思い至った。自分のことを追っていた黒い影。それをきっかけに、花梨は槐の店を知ることになった――

「君はいつの間にか、ずいぶんとおもしろいものを持っていたから」

 おもしろいもの――黒曜石のこと、だろうか。

「それで、つい興味を持ってしまって。その力を試してみたくなって――」

 それが、あの黒いツバメ。

「だけど、外から邪魔が入ったから、それなら閉じ込められないかな、と――」

 これは、祇園祭でのことだろう。

「ただ、どうやらやり過ぎたみたいでね。この辺りであいつらに感づかれた。俺が音羽と関わりを持ったとでも思ったんだろう」

 浅沙はまるでいたずらがバレた子供のように笑っている。

 花梨の身の回りで起こったことは、すべて彼が原因だったらしい。しかし、彼は姉がどこにいるかは知らないと言う――

 花梨がそのことに愕然としていると、どこからか声が聞こえてきた。

「槐。その男、今のところ嘘は言っていないようだ」

 それは花梨の知らない石の声だった。槐が持っている革のトランクケース。そこには、今回のことに協力してくれた石たちが収まっている。

「何かと思えば。くも共の内輪もめか」

 と吐き捨てたのは、おそらく碧玉の声だろう。

 槐は考え込むように浅沙の話を聞いていたが、彼が話を終えたらしいのを見てとると、こう問いかけた。

「宇治の宝蔵を荒らしたのは君かな? それから、この深泥池で行われていたことは……」

「花梨ちゃんはともかく、あんたに話す義理はないね」

 浅沙はばっさりと切り捨てる。先ほどまでとは打って変わって、不機嫌そうにそっぽを向くと固く口を閉ざした。

 槐は困ったような表情で苦笑する。

「君の知る事情を話してくれるなら、今すぐにでも解放しよう。あるいは、話すのはこの場でなくてもいい。後日店に来てくれるならば。いつまでも、ここにこうしているわけにはいかないからね。じきに日も落ちる」

「槐」

 と、碧玉がたしなめるようにその名を呼んだ。しかし、槐は気にする様子もない。

「彼は思いのほか協力的だよ。お互いの事情を知れば、協力し合えるのではないかと思う」

 碧玉はそれ以上何も言わなかったが、どことなく空気が張り詰めたのは気のせいだろうか。それには気づかず、浅沙は呆れたようにこう言う。

「甘いな。そんな約束、誰が守ると思う? おまえたちと関わるくらいなら、今すぐにでも京都からは出て行く」

「そうか。ならば、仕方がない――磁鉄鉱じてっこう

 花梨の目には何が起こったのか全くわからなかったのだが、槐がそう言ってすぐに、浅沙は急に慌てたように身をよじった。

「待て。何をした」

「これで君は、しばらく――そうだな、少なくともひと月は、京都市内から出ることができないだろう」

 それも石の力なのだろうか。槐がそう言うと同時に、蛇紋石の蛇は消え失せ、浅沙は解放される。しかし、彼は不服そうな表情で立ち尽くしていた。

「鷹山さん」

 槐にそう呼ばれて、花梨は振り向いた。気づかわしげな表情で、槐は花梨にこう話す。

「ひとまず、これでことを納めます。お姉さんの行方を知らないという、彼の言葉に嘘はない。しかし、何か事情を知ってそうだ。それについては、場をあらためた方がいいでしょう」

 嘘はない。そう断言できたのは、やはり石の力なのだろう。

 花梨は大きく息をはいた。何もわからなかったときに比べれば、これでも大きく前進しているのかもしれない。一歩ずつ。少しずつ。そう思って、花梨はうなずいた。

「わかりました」

 槐は浅沙に向かって――いつでも都合のいいときに店に来るように、とだけ言うと、あっさりこの場から背を向けた。花梨もまた、慌ててそれについて行く。そのとき――

「君のお姉さんは」

 浅沙の言葉に、花梨は思わず振り向いた。花梨にだけ聞こえるほどの小声で、彼はこう続ける。

「おそらく、呪われている」

 そう言った切り、彼は頑なに口を閉ざした。


     *   *   *


「今回の件、僕には見えたかもしれないよ」

 唐突に現れたかと思うと、石英は桜に向かってそう言った。

 槐たちが深泥池に出かけたあとのこと。店の留守を任された桜は、同じく留守番で不機嫌な椿のためにぜんざいを作っているところだった。

「何がですか?」

 と、桜は石英を適当にあしらう。槐たちのことが心配で、とてもではないが彼の相手をしたい気分ではなかった。

 しかし、石英はおざなりな桜の反応など、気にする風もない。

「年末には帰ってくるだろうし、榧と柾には、ひと仕事頼むとしよう」

 などと、桜とは無関係なところで、勝手に話を続けている。

 どうしてわざわざ桜のところに現れたりしたのだろう。同種の水晶たちとでも話していればいいものを。

「年末なら、沙羅さんも帰ってくると思いますけど?」

 と、桜は上の空で口を挟んだ。答えが返ってくるとは思っていなかったが、石英は大真面目にこう返す。

「沙羅に関しては、槐に任せるよ。僕はあの二人の間に入ることだけは、勘弁願いたいね。馬に蹴られて死んでしまう」

「何を言ってるんですか……」

 桜の呆れ顔を見ることもなく、石英はうつむき何ごとかを企んで――いや、考え込んでいる。おまけに、ぶつぶつとひとりごとまで呟き始めた。

「何にせよ、くもが関わっているなら、槐はこのまま放ってはおかないだろうな」

 くも――不穏な単語を耳にして、桜は思わず顔をしかめた。しかし、石英はそれについてくわしく語ることもなく、ひとり納得したようにうなずいている。

「なら、こちらにも考えがある」

 そう言うと、石英はそこでようやく桜の方を振り返った。不安で表情を曇らせる桜に対して、石英はいつになく真面目な顔をしている。

「僕はね。桜石。榊のときの二の舞だけはごめんだよ」

 未来を見据えたその石は、それだけ言い残して消えていった。

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