第十六話 蛇紋石 前編
どちらかというと引っ込み思案な性格で、社交的な姉にいつも手を引いてもらっていた。そのことにどれだけ助けられていたか――本当の意味でそれに気づいたのは、姉が行方知れずになってからかもしれない。
大学へ通うために姉が故郷を離れたのは二年前の春で、それから一年ほどは、はなればなれで過ごしてはいても、お互いに連絡を取り合っていた。長期の休みの際など、ときには姉の下宿先にまで赴いたこともある。
だから、寂しくはあっても心細く思うほどではなかった。姉は夢を叶えて希望の大学に進学したのだから、それを応援していようと――そう決めてもいたからだ。
風向きが変わったのは、いつも送られていた姉からのメッセージが急に途絶えたとき。しかし、そこからすぐに失踪へとつながったわけではない。体調が悪いか、あるいは忙しいのか。そう思って、そのときは簡単なメッセージだけを送っている。
しかし、それに対する応えは、いつまで経っても返って来ることはなかった。
どれだけメッセージを送っても、電話をしても、姉と連絡がとれない。それを両親に相談したときには、すでに自分の中で不安は確信へと変わっていた。しかし、それを訴えたとき、両親からはむしろ落ち着くように言われたことを、よく覚えている。
おそらく、両親にはまさかという思いがあったのだろう。実感が湧かなかったのかもしれない。二人とも、姉と毎日連絡を取り合うようなことをしていたわけではないのだから。
しかし、姉の下宿先で書き置きが見つかったときから、状況は何もかもが変わってしまった。
両親はすぐさま警察へと連絡した。しかし――
当初は事件に巻き込まれた線も考えられたようだが、それらしき痕跡が見つからなかったこと、そして、書き置きが残されていたこともあって、警察にはよくある家出だと判断されたようだ。こういうことは、それなりにあることらしい。事件性がないとなれば、なおさら捜索の手は割けないだろう――両親とともに会った警察官からは、そう説明された。
いなくなる少し前に姉の友人が亡くなっていたこと、その遺体を発見したのが姉であったことを知ったのは、このときだ。しかし、両親はその事実を知らない。それは、警察署へ事情を聞きに行った際に、たまたま自分だけが耳にしてしまったことだからだ。
何か理由があったのか、直接そのことを伝えられることはなかった。それでいて、あくまでも偶然聞いてしまったことだったので、この件は誰にも確かめることができないまま、今に至っている。ただ、そのときの印象が、姉の失踪に何か不穏なことがあるのではないか、という思いを強くしていた。
日を追うごとに焦る気持ちは強くなり――しかし、行方不明者の届けを出してからはできることも少なく、家族は皆、心配と不安の日々を過ごすことになった。そんな中で、両親は徐々に姉の話題を出さなくなっていく。
それは決して――探すことを諦めた、というわけではなかっただろう。ただ、姉も何か悩みがあって、ひとりで静かに過ごしたいのかも知れず――だとすればきっと、時間はかかっても帰ってくるだろう、と――それは、できる限りのことを尽くして最後にすがるような、そんな淡い希望だった。
見つからない影を、いつまでも追い続けることは――思っている以上に苦しいことだ。そんな中、両親が楽観的な考えを抱くようになったのは、残された娘にまでそれを負わせるわけにはいかないと思ったからかもしれない。そうして、無理にでも前を向かせようとしたのだろう。しかし、それでも。
それでも花梨は――
姉が行方不明になったその頃、花梨は高校卒業後の進路を決める大事な時期にあった。もしも姉と話ができていたなら、きっとそのことを相談していただろう。それができないことは、姉の不在をよりいっそう花梨に知らしめることになった。
いつも、自分の手を引いてくれた姉。
そのときふと、花梨の中に姉を探したいという思いが芽生える。それは、なくなった拠り所を必死に求めた結果なのかもしれない。しかし、その密かな願いは、いつまで経っても消えることはなかった。
そうして花梨は、姉を探すそのために京都の大学へ進学することを決める。両親には、少しばかりの嘘をついて。
その決定に少しの迷いもなかったかといえば、嘘になるだろう。それを決めたその日から、本当はずっと不安で仕方がなかった。
姉を見つけることができるだろうか、という不安も、もちろんある。しかし、気がかりなことはそれだけではなかった。
本当にこれでよかったのだろうか。こんな大事なことを、こんな風に決めてしまっても――それで後悔はないのだろうか。
姉が見つかったら、どうする。見つからなかったら――どうするのだろう。
心の底には、そんな不安をずっとしまい込んでいた。
もちろん、姉の存在は花梨にとってかけがえのない、大切な存在だ。そのことに嘘偽りはない。しかし、自分の将来だって、花梨が向き合わなければならない問題ではあるだろう。それをないがしろにして、自分はどうするつもりなのだろうか。
結局のところ、花梨は今もまだ、姉に手を引いてもらうことを望んでいるだけなのかもしれない。そんな、ともすれば身勝手にも思える心の内を、花梨は誰にも打ち明けられずにいた。
花梨がその家を訪れたのは、これで三度目だった。
「行くんだね? 深泥池へ」
そうたずねたのは小松だ。花梨がそれに答えるより先に、お茶と茶菓子のゆずまんじゅうを出しながら、なずながこう言う。
「あら。深泥池って私、行ったことないわ。どんなところなのかしら」
この日、花梨は田上家に来ていた。その座敷に通されて、花梨は小松と向き合っている。そのうちなずなもお盆を片づけて、小松の傍らに座った。
すすめられるまま湯のみを手に取りながら、花梨はこう答える。
「はい。ただ、私もまだ行ったことはないんです。深泥池には。どういった場所なんでしょう」
花梨の言葉に、なずなはうんうんとうなずいている。
「特に何があるわけでもないものね。何だか怖い話があることは知ってるんだけど」
その言葉に、小松は苦笑した。
「槐くんからは聞かなかったのかい? 深泥池のことは」
花梨はあいまいにうなずいた。それを見た小松は、ふむと呟いてから、こう続ける。
「あの池の存在が確認できるのは、平安時代に編纂された歴史書『
「おもしろい話、ですか」
花梨がそう言うと、小松はうなずいた。
「大蛇が棲んでいて、なんて話もあるけど、貴船と縁が深いこともあってか、鬼の話が有名かな。深泥池のほとりには貴船から続いている地下道の出入口があって――そこから鬼がやって来るので、豆を投げてその穴を塞いだ、という節分の起源とされる話がある。そうして塞いだ場所に節分の豆を捨てる習慣があったらしくて、それは豆塚と呼ばれていたけど、今ではどこにあったかわからなくなっていて、と――槐くんが話すとしたら、そんなところかな」
小松はそこで一旦話を区切ると、少しだけ顔をしかめた。
「あとは――心霊スポットだかで、よく深泥池の話題が上がるようになったのは、タクシーの怪談で有名になってしまったからかなあ。確か、昭和四十四年十月七日付だったか――掲載されたのが全国紙の新聞で。知っているかい? タクシーが女の人を乗せたけど、目的地の深泥池近くでいつの間にか消えていて――という話だ」
そんな感じの怪談を、花梨も聞いたことがある気がする。ただ、その話の中に深泥池の地名が出たかまでは覚えがない。
「でも、これ――消えるヒッチハイカーだからなあ」
小松はそう言うと、軽く肩をすくめた。
「消えるヒッチハイカー?」
首をかしげる花梨に、小松はこう説明する。
「アメリカの都市伝説だよ。ヒッチハイカーを拾った車が目的地に着くと乗せたはずの人が消えている、という話だ。一九三〇年代から語られていたらしい。怪談の型のひとつだね」
つまりは、外国の古い怪談ということだろうか。確かに先ほど聞いたタクシーの怪談にそっくりだ。
「日本だとヒッチハイクの文化はあまりないから、それでタクシーなんだと思うけど。まあ……そもそもこの手の怪談は、日本でも江戸時代の怪談集『
「江戸時代、ですか」
花梨は思わずそう呟く。ずいぶんと古い話になってしまった。
「ようするに、知らない相手と長い間一緒にいなければならない――という恐怖心が根本の話なのだと思う。タクシーの怪談も、深泥池だけじゃなく、それこそ全国に似た話がある」
だとすれば、花梨が聞いたタクシーの怪談も、似た話の方だったかもしれない。
小松は考え込むように、ふむと呟く。
「タクシーの怪談について深泥池がよく取り沙汰されるのは、新聞に書かれたことの影響が大きいだろうけど……そうでなくとも深泥池は、他にもいろいろと怪談や噂のある土地だからね。今でこそ住宅街が近いけど、昔は都の外れだし。奇妙なことが起きる土壌がそれなりにあって、怪談として語るには相応しい場所だったんだろう」
花梨は以前に、槐と怪異の起こる場所について話したことを思い出す。もしかしたら、深泥池はそういう逸話に縁の深い場所なのかもしれない。
そこまで話すと、ふいに小松は口を閉ざした。なずながとなりで、難しい顔をしていることに気づいたらしい。
「どうかしたのかい? なずな」
小松にそう声をかけられると、なずなは頬を膨らませてこう言った。
「タクシーに乗った客が、いつの間にかいなくなっているのよね? それって、乗り逃げじゃないのかしら」
小松は戸惑う様子もなく、ふむとうなずいた。
「そうだね。乗り逃げだ」
「いけないことでしょう?」
「いけないね」
何だか怪談という空気ではなくなってしまった。
そのときふと、どこからともなく白い猫がやって来る。
「あら、ダメよ。しろちゃん」
と言いながら、なずなが手を差し伸べる。しかし、白猫はその手をすり抜けて、花梨の方へとすり寄って来た。人見知りをしない、人懐こい猫だ。
「しろ、という名前なんですね」
猫の背中をなでながら、花梨はそう言った。しかし、なずなは首を横に振る。
「いいえ。
なずなはそう言いながら立ち上がると、猫を抱えて回収していった。元の位置に戻ってから、なずなはあらためてその猫をひざの上に乗せる。
すっかり場の空気が変わったところで、小松は話を切り替えた。
「まあ、ともかく――何だか怖い話ばかりがあるように言ってしまったけれど、深泥池は珍しい自然が残されているところでもある。おもしろ半分で行くような場所ではないけれど――君がそこへ行くのは、危険な呪いがこれ以上広まらないため、だったね」
小松の言葉に、花梨はうなずく。しかし、それを見たなずなは、心配そうな表情でこう言った。
「鷹山さんは、すっかりこういうことに手を貸すようになってしまったわね。ダメよ。槐の兄さまの、そういうところをマネしては……」
花梨は苦笑を浮かべながら、首を横に振る。
「自分で望んだことですから」
花梨のその答えに、なずなはそれ以上何も言えずに押し黙った。代わりに問いかけたのは小松だ。
「君がそこへ行くのは、お姉さんの手がかりのためかい?」
唐突に姉の話になったので、花梨は少し驚く。しかし、その問いへの答えは、すでに決まっていた。
「それだけではありませんが――まだ、姉と関わりがあるかまでは、わかりませんし……ただ、今はわずかな手がかりであっても、つかみたいとは思っています。今の私にとっては、姉を探すことが何より大事なことですから」
そう言った花梨を、小松はしばらく無言で見つめていた。何だろうと思って、花梨は小松の言葉を待つ。
小松はふいに、こう話し始めた。
「でも、君の年だと、他にもいろいろと、考えなければならないこともあるだろう? 君の場合は、もう少し焦りなさい、と言いたくなるような学生とは違うだろうけど……」
心の内を見透かされた気がして、花梨は少しどきりとする。しかし、小松はそれには気づかず、なぜか照れたような笑みを浮かべた。
「すまないね。知ったようなことを言ってしまって。いろいろな学生と接しているから、どうしてもそういうことが気になってしまって」
小松はさらに、こう続ける。
「お姉さんのこと、本当に心配だろうね。しかし、自分のことをかえりみることだって、今の君には大事なことだ。もっと、他に目を向ける余裕を持ってもいいんじゃないかな。そうすれば、別の道が開けてくるかもしれない。それは決して、君のお姉さんをないがしろにすることにはならないと思うよ」
小松の指摘は、花梨がずっと心の底に閉じ込めていたことでもあった。しかし、今の花梨に迷いはない。
「ありがとうございます。それでも、今の私はそうすることで、同時に自分自身を探してもいるのだと――そんな気もするんです。うまく言葉にできませんが、それが今の私の素直な気持ちで……だから、もう少しがんばりたい、と――そう思っています。浅はかに思われるかもしれませんが」
それを聞いた小松は、ゆるゆると首を横に振った。
「そんなことはないよ。むしろ、余計なお世話だったね」
「そうねえ。小松さんったら、何だか先生みたい」
ころころと笑いながら、なずなはそう言う。小松はなずなの方を向くと、戸惑う様子もなく、ふむとうなずいた。
「そうだね。なずな。実は僕、先生なんだ」
それを聞いた途端、なずなはきょとんとした顔で目をしばたたかせた。
「……そうだったわ」
と、まるでたった今そのことに気づいたかのように、なずなはぽつりと呟いた。
「それでもあたしは心配だなあ」
茴香は浮かない顔でそう言った。
場所は大学の談話室。その片隅で、花梨は呪いの噂と、その発端と思われる場所のことを話していた。
茴香は姉の捜索のことをずっと気にしていたし、実際に協力もしてもらっている。だからこそ、深泥池に行くことを、あらかじめ話しておこうと思っていた。
しかし、茴香はその話にあまりいい顔はしないようだ。確かに、このことを調べたところで姉のことが進展するかどうかはわからない。それでいて危険がないとも言えないのだから、心配するなという方が無理な話かもしれなかった。
案の定、茴香はあからさまに難色を示す。
「だって、その場所には、そういう、危ないものを渡すような――何だろ、悪者がいるかもしれないんでしょ? やっぱり危険なんじゃ……」
悪者という言葉に、花梨は苦笑した。しかし、確かにそのとおりだろう。玄能石と火打ち石のことを思うと、求める者にこれらを与えた何者かは、少なくとも人が傷つくことについては、何とも思っていないのではないだろうか。
茴香は口をとがらせながら、こう続ける。
「あたしも一緒に行ければいいんだけど。深泥池――」
と、そこまで言って、茴香は慌てて口を押さえた。周りで誰が聞いているとも思えないが、呪いに関することを大学で話すのは、何となくはばかられるのだろう。
とはいえ、大学内で広まっていた花梨に関する噂については、いつの間にか下火になっていた。人の噂も何とやら――ではないが、実際に何が起こったわけでもないのだから、長続きするはずもなかったようだ。
反応をうかがっている様子の茴香に、大丈夫という意味でうなずくと、花梨は安心させるようにこう言った。
「でも、ひとりで行かないと、その場所にはたどり着けないみたいだし。黒曜石も一緒だから」
もしも、ひとりで、という条件がなければ、茴香はその場所について来たかもしれない。だからこそ、花梨はその条件があって、むしろよかった、と思っていた。協力しようとしてくれることはうれしいが、やはり茴香をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
もしも、姉を見つけることができたなら――いや、この件が無事に終わったなら、茴香とはもっと、友人らしい普通の会話もしようと思う。
深泥池の件について、茴香はまだ納得がいかない風ではあったが、どうしようもないことは理解してくれたのか、渋々ながらこう言った。
「無理しないでね」
花梨はその言葉に深くうなずく。
決行は明日。花梨は噂の真相を確かめにいく。何があるのか、わからない。何もないかもしれない。しかし、真実を知ろうとするならば、まずは自分の目で確かめなければ始まらないだろう。
さて、鬼が出るか、蛇が出るか――
* * *
荒涼とした風景に、物悲しい笛の音が鳴り響いている。
周辺に人影は見えない。しかし、この旋律が聞こえるということは――誰かがこの近くにいるということだろう。そのことは、自分にとってひどく不都合な事実でしかなかった。
あの祠へ行くには、ひとりでないといけないのに。早くどこかへ行ってくれないだろうか。何としても、自分はあの場所にもう一度行かなければならない――
京都盆地の北にある深泥池のほとり。一応、天然記念物が生息する景勝地だそうだが――今は周囲を冬枯れの植物に覆われているためか、どうにも白茶けて見える。そのせいで、目の前の風景には色褪せたような印象を抱いた。
以前に訪れたときは、これほど寂れた場所ではなかった気がする。秋の始まりの頃で、まだあざやかな緑が残っていた。しかし、冬のこの時期は、京都の底冷えする寒さも相まってか、鈍色の空を映す池の水面はどこかうら寂しい。さらには不気味なことに、空にはカラスが二羽ほど飛んでいる。
とはいえ、住宅街にも近い場所なので、取り巻く道路には人通りもそれなりにあった。奇妙な噂があるわりに、そこにあるのは何の変哲もない小さな池だ。
そんなことを考えながら、池の縁に沿って道を歩いて行く。住宅街からは離れて、池のほとりの小高い山――丘だろうか――の方へ。そうしていくうちに、人の気配は薄れていったが、笛の音は相変わらず聞こえていた。
誰にも会いませんように、という願いも虚しく、音は徐々に大きく――近づいているようだ。案の定、藪の中に入ってしばらくすると、誰かが木にもたれかかっているところに出くわした。
そこにいたのは背の高い、見るからに陰気なそうな男。どうやら、笛の音は彼が奏でていたらしい。
そのときふと、演奏が鳴り止んだ。足音のせいか、隠れる間もなく気づかれたらしい。男は構えていた笛を下ろすと、その鋭い視線をこちらに向けた。
「子どもか。こんなところで何をしている」
聞きたいのはこっちの方だ。この男は、こんなところで何をしているのだろう。隠れて笛の練習でもしていたのだろうか。
この辺りは立ち入り禁止のはず。そんなところへ入り込むなんて――と、自分のことは棚に上げて、心の中で苛立ちを並べ立てる。直接言葉にする勇気はないけれど、子どもと言われたことが、この男への反発心を生んでいた。
しかし、そうして無言でにらみ返しているうちに、はたと気づく。男の持つ横笛。黒っぽく縞模様のようなものが混じっているその笛は、よく見ると石で出来ているようだった。
石。まさかこの人も――
呆然としているうちに、男は再び口を開く。
「用がないなら、早々に立ち去れ。この辺りは、しばらくさわがしくなる」
「さわがしくなる? どうして?」
思わずそう問い返すと、男はふんと一笑した。そして、視線を逸らしたかと思うと、何もない宙を――あるいは、どこか遠くの方を見やる。
「ここから、鬼を追い出さなければならないからな」
言っていることはよくわからないが、この調子では例の祠へ行くことは難しいだろう。今日のところは出直した方がいいかもしれない。そう思って無言で踵を返す。
得体の知れない――それも少し不気味な雰囲気の男と、いつまでも話していたい気分ではなかった。足早に立ち去り、もうそろそろ男の視界からも逃げられたかと思ったところで――今度は行く手に現れた何かに、勢いよくぶつかってしまう。
わ、と声を上げて、思わずたたらを踏むと、誰かに声をかけられた。
「ごめんなさい。えっと……この辺りの子かな? どうしたの? こんなところで……」
ぶつかったのは、自分より少し年上くらいの女の人。
しかし、それに気づいたときにはすでに、それどころではなくなっていた。別のことで頭がいっぱいだったからだ。
手にしていた石を、落としてしまった――
目をこらし、必死になって地面を探すが、見つからなかった。枯れ葉に埋もれてしまったのか、どこにあるのかすら、ひと目見ただけではわからない。
焦って周囲を見回しているうちに、自分より先にそれを見つけてしまったのか、目の前の女の人がふいに足元に手を伸ばした――
「さわらないで!」
そう叫んだが、遅かった。女の人は落ちていた石をつかんだ格好で固まっている。手にしているのは、黒っぽく長細い形をした石。あの石だ。
慌てて、その手から石を引ったくった。女の人は驚いた表情を浮かべていたが、そんなことには構っていられない。今さら、もう手遅れかもしれないが――それでも、その石を隠すように、急いでそれを抱え込む。
頭の中が真っ白になった。とにかくこの場から去らなければ。そう考えて、無我夢中で逃げ出した。
取り戻した石の感触を確かめながら強く握りしめていると、少しずつ自分の置かれた状況が飲み込めてくる。そして激しく後悔した。
どうして今さら、ここを訪れたりしたのだろう。この場所に来るべきではなかった。もう取り返しがつかない――
両の目にじわりとにじんだ涙で、行き先はもはや、ぼんやりとしか見えなくなっていた。
* * *
「今の、あの石――」
花梨は思わずそう呟いたが、その先の言葉を飲み込んだ。振り返った先では、少女の後ろ姿が徐々に遠ざかっていく。
花梨の言葉を継ぐように、黒曜石がこう問いかけた。
「あの石はまさか、呪いの依り代、か?」
ぶつかったときに彼女が落とした石。花梨はその感触を思い出すように、それを拾った左の手のひらに目を向けた。
冷やりとして固く、すべすべした触りこごち。あれは確かに石だった。とはいえ。
「どうだろう。呪いに関係しているかまでは、わからないけど。でも――」
彼女もまた、呪いを求めてここまでやってきたのだろうか。それとも。
呪いを求めなければならない理由とは何だろう。きっとそれぞれに事情があるのだろうが、玄能石のときといい、火打ち石のときといい、それが誰かを傷つけるものならば、やはり何とかしなければならない、とも思う。
花梨は大きく息をはいた。
「もしそうなら、なおさら――こんなこと終わらせなきゃ」
花梨は深泥池のほとりにある、冬枯れた山に目を向けた。そこに目的の場所があったからだ。
そのことを確かめてから、右手に持っていた覚え書きをあらためて読んだ。そこには、呪いを依頼する際の注意点がこと細かに書かれている。
とにかく、まずは祠と呼ばれている場所に行くことだ。そこに行くためには、いくつかの条件と手順があった。それをひとつも間違うことなく――と言われると難しく思えるが、それでもどうにか達成できそうな――それくらいの条件が設定されている。それについては、ひとりでなければならない、という制限と合わせて、本気で呪いを求めている者を選別するためだろう、という話だ。
そして、こういった手続きは、呪術の一種でもあるらしい。だとすれば、花梨もやはり、これに従わなければならないのだろう。その祠とやらに行くためには。
そう考えて、花梨がひとまず、その覚え書きにあるとおり行動しようとした、そのとき――ふいに姿なき声がした。
「見えざるところへの道案内が必要でしたら、私が力をお貸ししましょう。そのようなことをなさらずとも、私にはその道が見えていますよ」
蛍石はそう言った。
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