第十五話 頑火輝石 後編
この日もまた、花梨は朝からアルバイト先へと向かっていた。
まだシャッターが下りている店の前を通り過ぎ、従業員用の扉から中へと入る。入ってすぐ、焼け焦げた立て看板が花梨のことを出迎えた。この様子だと、少なくともこの看板がまた燃えるようなことはなかったようだ。
ほっとしながら通路を進んで行くと、ふいに花梨の行く手をさえぎるものがあった。妙になれなれしく声をかけてくる、その人は――
「おはよう。花梨ちゃん。しばらくは、またここに来ることになったから。よろしくね」
「……おはようございます。センパイ」
花梨はおざなりにそう返す。
そういえば――以前よく会っていたときには、どうも苦手だ、と感じていたことを思い出した。その思いは、今でもあまり変わっていない。
朝のシフトは店長と彼と花梨の三人だった。店長はすでに仕事を始めていて、看板のことがあったからか、電気系統の点検をいつもより念入りに行っている。
しばらくは皆、開店までの準備にかかり切りだったが、その途中、ふいに店長がこう言った。
「浅沙くんがあまり来なくなったのは、他にもバイト始めたからだと思ってたんだけど」
突然の応援を頼んだにもかかわらず、思いのほか真面目に働いている彼に、何か思うところがあったらしい。ただ、たずねられた方は、肩をすくめている。
「そういうわけじゃないですけどね。まあ、いろいろ事情があって」
軽い調子で答える彼に、店長は同じく軽い調子で、そっか、と返した。
「怒らないんですか」
「何で? 事情があるんでしょ? まあ、年末年始は忙しいだろうし、来てくれた方がもちろんありがたいんだけど」
店長はそう言って笑っている。それを聞いた彼の返答は、考えておきます、だった。店長は素直に、よろしく頼むよ、と返す。
そのやりとりのあと、なぜか呆れたような表情を浮かべて、彼はこう言った。
「店長って、人がいいんですかね。俺みたいなのは、適当に答えているだけかも、とか思いませんか」
店長は作業の手を止めると、かすかに笑みを浮かべながら、遠くを見るような視線を外の方へと向ける。
「浅沙くんと言えば、ツバメの印象が強くて」
ツバメ。六月頃のことだっただろうか。確か、店の軒下にツバメが巣を作っていたのを、花梨も一緒に見た記憶がある。
「親鳥が来なくなったとき、すごく怒ったり、心配したりしてたでしょ。だから、そんな適当なことは言わないかな、と」
「どうですかね。それとこれとは、関係ないような……まあ、あのときは、まさか店長がヒナのエサやり始めるとは思いませんでしたけど」
そんなことがあったのか。それは、花梨の知らない話だった。
「ツバメを世話したのは、僕も初めてだったけどね。捨てられた猫や、怪我したスズメを保護したことはあるから。そういったことは任せて」
「何者なんです店長……」
端で話を聞いていただけだが、花梨は思わず笑ってしまった。店長がきょとんとした顔でこちらを見たので、花梨は慌ててごまかすように話題を変える。
「そういえば……事務所に置いてある植木鉢も、店長がどこからか拾って来られて、世話してましたよね」
店長はうなずいた。
「ゴミ捨て場に置いてあったんだけど、よく見ると芽が出てたんだよね。何だかかわいそうで、つい」
その芽が何の植物だったのか花梨は知らないが、成長して夏頃には花を咲かせていたはず。そして、今も青々とした葉をしげらせていた。
「何やってるんですか。店長。ただの雑草だったらどうするんです」
呆れたような彼の言葉に、店長は苦笑する。
「そういうの、どうしても放ってはおけないんだ」
話をしているうちに、いつの間にか開店時間になっていた。表のシャッターを開けてからしばらくは、何だかんだと忙しい時間を過ごす。落ち着いたのは、昼を過ぎた頃だ。
ふいに嫌な感じがして、花梨は店内を見回した。花梨はちょうど客を見送ったところで、店長はカウンターで接客をしている。客の姿はそれほどでもないが、数人がまとまって訪れている場合が多く、それぞれ談笑しながら商品を見て回っていた。
おかしなところは何もない。少なくとも、目に見える限りでは。しかし――
「花梨。気をつけた方がいい。この気配は――」
黒曜石がそう言った途端、花梨の視線の先で、ふいに火の手があがった。誰の姿もない、店の隅の方。突然燃え上がった炎に、どこからともなく悲鳴が上がる。
あまりに唐突なことに、花梨は思わず呆然と立ち尽くした。確かにあの場所にはお香や香立てなどが並べられていたが、火をつけたりはしていないはず。この火はいったい、どこから――
背後から腕をつかまれて、強く後ろに引っ張られた。花梨はたたらを踏みつつも、驚いて振り返る。
「何してんの。花梨ちゃん。危ないよ。下がって」
「センパイ……」
姿が見えないと思っていたら、どうやらバックヤードの方にいたらしい。騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう。彼は状況を把握すると、店長に向かってこう叫んだ。
「店長! 消防に連絡! それから、消火器!」
店長はすでに店内にいた客を避難させた後で、ちょうど電話をしているところだった。火は赤々と燃えている。花梨はしまい込んでいた石を探り当て、慌てて呼びかけた。
「が、頑火輝石さん!」
「安心しな。これくらいの火なら問題ない」
頑火輝石の力だろうか。目の前の火の勢いが徐々に弱まっていく。ほっとして周囲を見回したとき、花梨はさっきまでそこにいた人の姿が、いつの間にか消えていることに気づいた。
――センパイは、どこに?
周囲は騒然としている。逃げる人と、それとは逆に、何ごとか、と集まってくる人々。電話を終えた店長が、慌てて対応し始めた。それらをながめているうちに、花梨はようやく見失っていたその姿を見つける。
彼は店の前の通りで、何かを探しているようだった。
頑火輝石の力で火が消し止められたことを確認してから、花梨は彼の元へ向かう。そのとき――
彼は突然、物影にいたひとりの女性の腕をつかんだ。つかまれた女性は短く声を上げて、後ずさる。怯える彼女に向かって、彼は確かにこう詰め寄った。
「その石、どこで手に入れた?」
――石?
女性はそれに答えることなく彼の手を必死で振り払うと、群衆を押し退けて瞬く間に走り去って行った。飛び交う怒声にも、振り返ることなく。
浅沙はそれを追わずに、ただ遠ざかっていく後ろ姿をにらみつけている。その横顔を、花梨はそっと盗み見ていた。
「花梨」
「わかってる」
黒曜石の呼びかけに、花梨は短く答えた。
そして、考える。目の前で起こったできごとを。石という言葉。彼はいったい、何を知っているのだろう。
「あの人は、少なくともふたつ、嘘をついている気がする」
火事で騒然とする中、花梨は小さくそう呟いた。
* * *
後始末を終えて、ようやく家路につくことができたのは、夜も遅い時間になってからだ。
この日、店で再び起こったボヤ騒ぎは、営業中だったこともあって、看板のときより大事になってしまった。
原因については今のところ何もわかっていない。確かに、あのとき自分が目にした限りでも、火の気のないところから突然、出火したようにしか見えなかった。
それでも、火が燃え広がることなく、怪我人もいなかったのは幸いだろう。とはいえ、店内の壁は焼け焦げ、いくつかの商品と什器が燃えている。煙もひどく、消防もかけつけたので、周辺にも迷惑をかけてしまった。
店はしばらく休業することが決まっていて、明日は警察と消防の立ち会いの元、あらためて店の中を見て回る予定だ。
暗い夜道をとぼとぼと歩く。たとえ何が起こっているのかわからなくとも、店長という立場上、店の状況には責任を感じずにはいられない。そのせいで、ひどく気分が落ち込んでいた。
そのとき、ふと小さな稲荷の社が目にとまる。幼い頃からよくお参りに来ていた神社。それを見た途端、まるで神様にすがるように、その場所に吸い寄せられた。
社殿の前に立ち、手を合わせて静かに祈る。
参拝を終え、鳥居をくぐって帰り道に戻ると、ちょうど老夫婦が歩いているところと行き合った。よく見ると、家のおとなりさんだ。仲の良い夫婦だから、夜の散歩でもしていたのだろう。いつもどおりに、軽く挨拶を交わす。
老婦人は穏やかに笑いながら、こう言った。
「何や、今日はずいぶんと帰りが遅いんやねえ」
そう言われて、苦笑いを浮かべた。
「ええ。ちょっといろいろありまして」
ひとことで説明できる状況ではないので、そう答えを濁した。しかし、落ち込んだ気分が、知らず顔に出てしまっていたのかもしれない。夫婦はお互いに顔を見合わせると、何かを言いたげな視線をこちらに向ける。
「……どうかしましたか?」
その問いかけに対して、夫婦は少しだけためらった末に、こう言った。
「近所で、けったいな女の人がうろついとってね。どうも、あんたのこと探しとったみたいで」
「まあ、声かけたらおらへんようになったし、大丈夫やと思うけど、最近は物騒やし気いつけて」
変な女の人。全く覚えがないのだが――
しかし、わざわざ心配して忠告してくれたのだから、よほどのことなのだろう。老夫婦には、気をつけます、と言ってから、その場で別れた。
* * *
ボヤ騒ぎから一夜明けた今日。花梨はこの日もまた、アルバイト先へと向かっていた。
昨日のことを受けて、店はしばらく休業することが決まっている。出火の原因については警察や消防が調べたようだが、何もわからなかったらしい。しかし、この件に怪異が――あるいは呪いの石が――関わっているとしたら、それも当然のことだろう。
いずれにしても、この不審火が何か意図があるものだとすれば、狙われているのはあの店だと思われた。ならば、頑火輝石の力が必要なのは店――ひいては、休業の今日も店にいるはずの店長だ。そう考えて従業員用の扉の前に立った花梨は、そこにあるインターホンを押した。
ほどなくして、店長が顔を出す。花梨を見るなり、彼は大きく目を見開いた。
「どうしたの? 鷹山さん」
「その、火事のことが心配で……」
花梨がそう答えると、店長はけげんな顔でこう言った。
「それでわざわざ、来てくれたのかい? 鷹山さんも?」
「――も?」
ひとまず中に招き入れられ、一緒に事務所へと向かう。何となくそうではないかとは思っていたが、そこにいた人物を目にした途端、花梨は思わず顔をしかめた。
「あれ? どうしたの。花梨ちゃん」
彼は花梨のことに気づくと、いつもの軽い調子でそう言った。
「センパイこそ。どうして……」
店の休業が決まったことで、アルバイトは皆、暇を出されているはず。しかし、浅沙はこの日もなぜか店に現れていた。
「ちょっと気になってね」
答えを濁す彼の代わりに、説明してくれたのは店長だった。
「何かあったときには、人手があった方がいいって、浅沙くんの方から。用心棒だって。僕ひとりでは頼りないらしいよ」
店長は苦笑する。
「消防とかの立ち会いの時間には、本社からも人が来るから、大丈夫だと思うけど――」
店長がそう言い終えた、そのとき。突然、けたたましく警報の音が鳴り始めた。
その場にいた皆が、はっとして顔を上げる。もしやまた火が――と花梨は身構えたが、店長は意外にも落ち着いていた。
「おかしいな。セキュリティは切ってあるはず……」
どうやら、火事を知らせるものではないらしい。
それでも、花梨は鳴り響く音に不安をつのらせた。偶然に不具合があった、というわけではないような気がする。この音は何かを知らせているような――
思わず周囲を見回したとき、花梨は店長の視線がある一点で止まっていることに気づいた。店長が見ているのは、事務所の入り口の方。
その場所に、いつの間にか女の人が立っていた。よく見ると、その人はその手に灰色の石を握っている。
彼女は花梨たちの注目を集めると、おもむろに口を開いた。
「約束したのに。どうして、ですか――?」
彼女は――おそらく――店長に向かってそう言った。店長はぽかんと口を開けたまま、不思議そうな顔をしている。
入り口から室内へ、その人はゆっくりとその一歩踏み出す。花梨たちのことなど気にもとめずに、じっと店長を見据えたまま、ふらふらと歩いていた。
この人は、昨日のボヤのときに店の前にいた――
ふいに誰かに腕をつかまれて、花梨は後ろに引き寄せられる。浅沙だ。彼は女の人の動きをじっと見つめながらも、花梨を庇うように前に出た。
その女性は徐々に店長へとにじり寄っていく。
「あれは――あの約束は、嘘だったんですか。商店街であなたといっしょにいた方は、誰なんです」
その言葉に浅沙は顔をしかめると、呆れたようにこう言った。
「店長……まさか、その手のいざこざとか、そういうのですか? 勘弁してくださいよ」
しかし、店長はどちらの問いかけにも答えずに、ただ呆然としている。状況がよくわかっていないようだ。
「しっかりしてくださいよ、店長。で、誰なんです? この人」
「えっと。常連のお客様、だと」
「はあ? お客様?」
その答えに、浅沙は戸惑いの表情を浮かべた。花梨もまた、困惑の視線をその女性へと向ける。しかし、その人自身は、やはり店長のことしか見えていないようだった。
「それで? 約束って?」
それを聞いて、その人は初めて浅沙の方をちらりと一瞥した。しかし、それもほんのわずかな間。すぐに店長の方へ向き直って、こう話す。
「おっしゃって、くださいましたよね? 春になったら、一緒に桜を見に行きませんか、って」
「桜? そんなこと言ったんですか。店長」
「言った……」
店長はようやく、ぽつりとそう呟いた。それを聞いた彼女の表情が、苦しげに歪む。
「約束したのに。私はそれを――ずっと、その日を待っていたのに。なのに。あれは、心にもない言葉だったんですか?」
彼女がそう口にした、そのとき――
その人が手にしている石から、大きく炎が燃え上がった。
花梨は頑火輝石を探って強く握る。しかし、彼の力でどこまでこの炎に対抗できるかわからない。頑火輝石は、この場にいる他の二人のことも守ることはできるのだろうか――
炎を手にしている女性は、涼しい顔でそこに立っている。しかし、渦巻く赤色も、焦げつくような熱気も、間違いなく本物だ。今度こそ、火災を検知したらしい警告の音が、部屋中に鳴り響いた。
状況を察して、すぐに行動を始めたのは浅沙だ。彼は近くにあったパイプ椅子を持ち上げたかと思うと、それを思い切りなげつけた。椅子は女の人を直撃し、彼女は悲鳴を上げてうずくまる。その隙に浅沙は花梨と店長の手を取ると、半ば引きずるように廊下まで腕を引いていった。
浅沙は扉を閉めると、扉脇にあったスチールラックを渾身の力を込めて動かし始める。それは少しずれただけだったが、扉の端にかかる位置で止められた。これなら、部屋から出ることは難しいだろう。
「あの女が持ってるの……俺の見間違いでなければ、火打ち石かと」
肩で息をしながら、浅沙はそう言った。
――火打ち、石?
花梨は浅沙の表情をうかがった。店長はいぶかしげな表情を浮かべながらも、こう問い返す。
「じゃあ、今までの火も、彼女が?」
花梨はそのやりとりに違和感を覚えた。
確かにあれは火打ち石なのかもしれない。しかし、火打ち石では、そう簡単にあれほど大きな火は出せないだろう。単純に、それで火をつけたとは思えない。だとすれば、やはり――
事務所の扉が沈黙しているのを確認すると、浅沙は出入口の方を指差して、こう言った。
「とりあえず、外に出ましょう。それから警察に」
その言葉に、花梨たちはうなずき合う。廊下を早足で行く途中、浅沙は店長に問いかけた。
「で? 何で桜を見に行く約束をしただけで、こんなことになるんです?」
店長は口ごもる。答えたくない、というよりは、本当にわからず戸惑っているような表情だ。花梨は思わず、こうたずねた。
「待ってください。その……そもそも、彼女はお客様なんですよね? お知り合いではなく」
「え? うん。そうだよ……」
店長からは、頼りなげな答えが返ってくる。
「それなら、どうして彼女にそんなことを言ったんです」
店長はためらいながらも、こう言った。
「桜の時期って仕事でなかなか見に行けないから、今年こそ、みんなで行けたらいいな、と思って。その人も、円山公園の桜は見たことないって言ってたし」
それを聞いて、花梨は思わず困惑の表情を浮かべた。浅沙もまた、呆れたような顔をしている。
「うわ。店長、天然ですか。それ……」
「店長……それは」
「え? 何。どうしたの。鷹山さんまで。何だって、そんな目で僕を見るんだい?」
店長は情けない顔になってうろたえている。それを見て、浅沙は大きくため息をついた。
「ようするに、あの女の思い違いってことですよね。店長も気を持たせ過ぎだとは思いますけど。まあ、店員と客なんだから、少し考えればわかるでしょうに」
「思い違い……」
店長が呆然として呟く。浅沙は肩をすくめた。
「どうせ、あの人の名前だって、知らないんでしょ。店長」
従業員用の出入口までたどり着き、花梨たちはそこから外へ出ようと試みた。しかし、その寸前、傍らにあった資材置き場が唐突に火を吹く。花梨たちは思わず立ち止まった。
瞬く間に燃え上がった火の勢いは強く、扉に近づくことすら困難だ。
「店長。表のシャッター開けられますよね?」
すぐに切り替えて、浅沙が店長に問いかける。店長は、はっとしてどこからか鍵を取り出した。
「そうだね。二人はそこから外へ」
「……店長は?」
店長は鍵を花梨に託すと、すぐに事務所の方へと引き返していった。止める間もなく。
「燃えてるんだから、やっぱりあの人を閉じ込めたままにはしておけないよ」
そう言い残してかけていく店長を、浅沙は呆気にとられた表情で見送った。
「あらら。行っちゃった」
浅沙はあっさりと振り返り、花梨に向かって店の方を指差す。
「花梨ちゃんは、外に逃げてから警察に連絡してくれる? 危ないから。それまで店長が無事だといいけど……」
浅沙が花梨の背を押し、店の方へと向かわせようとする。花梨は慌てて振り返った。
「センパイは……?」
「消火器であれを消せるかやってみるよ。店長、行っちゃったし。大丈夫。危なくなったら逃げるから」
資材置き場の火。確かにあれが広がってしまえば、店長たちの逃げ場がなくなってしまう。
花梨はためらったが、とにかく電話か、あるいは交番まで知らせに行くのが先だ。そう思い、彼の指示に従うことにした。
浅沙と別れて、バックヤードから店内への扉を開ける。そのとき、花梨の進む先、カウンターの近くから再び火の手が上がった。
目の前に突然、見知らぬ青年が現れる。火消し装束を身にまとった彼は、おそらく――
「頑火輝石さん」
彼は
「できる限り火は抑えてやる。ただ、限度はあるぞ」
この火は、あの女性がどこにいようとおかまいなしに生じているようだ。やはりこれは、玄能石のときと同じく、尋常のことではない。
「火打ち石――あれがこの力の依り代だろうか。ならば、あれをどうにかしないことには……」
黒曜石もまた、姿を現しバックヤードの方を振り返る。頑火輝石はこう言った。
「黒曜石。次に機会があるなら、とにかく、あの石を討て。俺の力では、あれを祓うことはできん」
花梨は石を持った女性のことを思い出す。彼女は、店長に何をするつもりなのだろう。どうすれば、これを止められるのか。
とにかく、行動するなら周囲に火の気のない今しかない。花梨は急いで店のシャッターを開け、逃げ道を確保しながら、連絡のための端末を取り出した――
* * *
いったい、何がいけなかったのだろう。
みんなにやさしくすれば、それは自分に返ってくる。だからこそ、嬉しいことがあるたびに――これはきっと、誰かにやさしくできたからだろう――そう思えていた。
しかし、だとすれば、今の状況は何だろう。
自分はただ、みんなにやさしくしたかっただけ。そして、みんなと喜びを分かち合いたかっただけだ。桜をみんなで見る、その光景を、そのときはきっと、本気で思い描いていた。その考えは、浅はかなものだったのだろうか。
やさしくしたつもりなのに、嬉しいことが返ってこない。返ってこないなら、やはり、自分がしたことは間違っていたのだろう。だからきっと、こんな悲しいことが起こってしまったに違いない。
自分は、あの人から逃げるべきではない、と思う。そして、この件にアルバイトの二人を巻き込むわけにはいかなかった。この状況は、おそらく自分のせいなのだから。
それでも――と思う。自分は本当に、みんなにやさしくしたかっただけなのだ。この思いが間違いだとすれば、今までそうしてきたことは、いったい何だったのだろうか。やさしくする、とはどういうことなのか。もう、どうしたらいいのか、自分にはわからない――
祈るような気持ちで彼女の元へ向かう。どうすればいいのかはわからないが、どうにかしなければならない。その思いだけが、自分を突き動かしていた。
事務所まで来たが、扉の前に動かした棚はそのままになっていた。彼女はまだここに閉じ込められているのだろう。
どうにか動かして扉を開ける。その途端、何か大きなものがぶつかってきて、背後にある廊下の壁まで吹き飛ばされた。
灰色の石を突きつけて、詰め寄る彼女はこう言う。
「わ、私のこと、からかっていたんですね。勝手に舞い上がって。そんな姿を、心の中では、笑っていたんでしょう」
目の前に、炎が燃え上がった。
その火を呆然としながら、見上げる。彼女の言うようなことなど、一度も思ったことはない。すれ違っている。致命的なほどに。自分が考えたやさしさなど、ひとつも伝わっていなかった――
結局、自分は本当の意味でやさしくなどできていなかったのだろう。それは個々のことを考えない、上辺だけのやさしさだった。その愚かさを、きっと神様はわかっていたに違いない。
稲荷の社殿で手を合わせた、その日々を思い出す。
――ああ、神様。
ふいに、誰かに手を引かれる感覚がした。目の前の女性ではない。それは後ろから――廊下の壁の向こうから差し伸べられたものだった。
「え?」
そのまま、引きずり込まれるように後ろに倒れ込む。しかし、そこにあるのは、何もないただのコンクリートの壁のはず。いったい何が――
振り向いた視線の先にあった光景に、思わず驚きの声を上げる。自分が倒れ込んだのは、見知らぬ部屋――いや、通路だった。
壁をすり抜けたのか。いや、前を向けば、炎を手にした女性が、突然のことに驚いた顔をしている。何もないはずの壁にぽっかりと――なぜかはわからないが――穴が空いて、そこからこの場所に入り込んでしまったらしい。
通路をよく見ると、誰かがいた。暗がりに目をこらし、徐々に見えてきたのは、あでやかな着物をまとった女性。一幅の絵として描かれていてもおかしくない豪奢なその着物は、ここではひどく場違いなものに見えた。
「な、何なんです。その人は」
戸惑ったように炎を手にした女性がそう言った、そのとき。ふいに足元から鳥が飛び立った。鳥――数羽のスズメが。それに驚いた女性は後ずさり、彼女を廊下に残したまま、通路に続く穴は閉じてしまう。
何が起こっているのだろう。
着物の女性とふたり、この場所に取り残された。
何をたずねればいいかもわからず、着物の女性に問いかけるような視線を送ってみる。しかし、彼女は何も言うことなく、ただ通路の奥を指し示した。
その先は闇。どこに続いているかもわからない。どうやら地下道のようで、その洞窟のような岩壁は植物の蔓によって覆われているようだ。
進むことをためらっていると、ふいに足下の近くを何かが通った。驚いて目を向けると、その何かは通路の奥へ――暗がりへと進んで行く。そして、それは少し先の方で立ち止まると、光る両の目をこちらに向けた
猫だ。しかも、よく見ると、その猫には見覚えがあった。学生の頃だっただろうか。道端に捨てられていたところを拾って、しばらく世話をした。その猫にそっくりだ。
思わず猫を追って行く。一歩進むと、猫もその先へと歩き出した。つかず離れず、まるで導くように、その猫は振り返っては前へと進んで行く。
そうして――
気づけば、横断歩道の真ん中に立ち尽くしていた。
目の前に、人ひとりが立てるほどの空間が四角く柵に囲われている。そこだけコンクリートでは舗装されておらず、その中心には、地面に埋もれているようにして石の一部が見えていた。
「
道路の中にこんなものがある場所は、そうそうないだろう。だとすれば――
「ここ、
知恩院。八坂神社の北東にある、浄土宗の総本山。瓜生石はその知恩院にある、道の真ん中に埋まっている大きな石だ。その名の由来は、植えてもいないのに瓜の蔓が伸び花を咲かせ実をつけたからだとか――その他にも、石の下には二条城まで続く抜け道があるとか、さまざまな話が言い伝えられていた。
どうしてこんな場所にいるのだろう。隠された地下の道は、二条城ではなく店につながっていたのだろうか。突然のことに、そんな突拍子もないことを考えてしまう。
呆然と瓜生石をながめていると、ふと誰かが近づいてきた。着物姿の女性だ。店に現れて、自分をここに逃がしてくれた――
「えっと。どなたかわかりませんが、助けていただいて、ありがとうございます」
彼女に向かって、そう言って頭を下げた。しかし、目の前の女性は何も言わない。ただ、じっとこちらを見つめている。
そもそも、どうして突然こんな場所に出てきたのだろう。なぜ、目の前の女性が自分を助けてくれるのか。何もわからない。彼女はいったい、何を思ってこんなことをしたのだろう。
――何を思って、か。
やさしくしたい――そう思って行動したのに、すれ違いによって、自分はあの人のことを傷つけてしまったらしい。
喜んでもらえることをしているつもりだった。しかし、それは自分本位の考えでもあったのだろう。自分はただ、みんなにやさしくしたかっただけだ。でもそれは、みんなに、であって、彼女に、ではない。
目を閉じ、大きく息を吐き出す。そして、ひとりごとのようにこう言った。
「でも、帰らないと。鷹山さんと浅沙くんが心配だし。それに――」
そこで目を開けると、けげんな顔をした女性と目が合った。彼女はおそらく、自分のことを助けようとしてくれたのだろう。だとすれば、こんなことを自分が言うのは、不思議に思うに違いない。
それでも、自分は――
「あの人とも、ちゃんと話さないといけないので」
そう言って瓜生石に背を向け一歩踏み出すと、そこはまた――地下道だった。ここを戻れば、店に戻れるのだろうか。とにかく、急がなくては。
振り返ると、やはりそこには着物の女性がいた。感謝の気持ちを込めて、再び頭を下げる。彼女には不義理かもしれないが、それでも助けてくれたこと自体は、本当に嬉しく思っていた。
やさしくしてくれるのは、嬉しい。しかし、そのやさしさにすがってばかりもいられない。あの人に向き合わなくては。そう決意して、救いの手に背を向けると、その道をただひたすらかけて行った。
* * *
警察と消防に連絡を取ってから、花梨は急いでバックヤードへと戻っていった。従業員出入口まで来ると、消火器を持った浅沙と火打ち石を持った女性が、ちょうどにらみ合っているところに行き合う。
ちらちらと燃える石を握りしめながら、女はこう問いかけた。
「あの人は、どこ――?」
確かに、店長の姿が見えない。どこに消えたのだろうか。
浅沙は軽く肩をすくめる。
「さあね。どこかに隠れちゃったんじゃない。あんたが怖いから。いいかげん諦めたら?」
「……あなたには、関係ないでしょう」
女性は怒気を含んだ声で、そう凄んだ。浅沙はそれを見て、せせら笑う。
「人のバイト先、燃やしておいて、何を言ってるんだか。あんたこそ、店長の何なの?」
「私は――」
その言葉をさえぎって、浅沙はまくし立てる。
「あの店長に何を期待したか知らないけど、ちょっとやさしくされて勘違いしただけだろ? あんたにとっては特別だったかもしれないけど、あの店長は誰にでもあんな感じなんだよ。思い違いで自分の都合ばかり主張して、馬鹿馬鹿しい」
「センパイ!」
花梨は慌ててかけ寄った。花梨のことに気づくと、浅沙は少しむっとしたような表情になる。
「どうしてここにいるの。花梨ちゃん。危ないんだから、逃げてって言ったでしょ」
「いくらなんでも、言い過ぎです」
「だって、本当のことだし」
目の前の女性は、みるみる顔を赤くしていく。その表情は泣いているような、怒っているような――とにかく、ない交ぜになった感情で、彼女は返す言葉を失ってしまったようだった。
しかし、浅沙の皮肉は止まらない。
「自分の狭い世界のくだらないことで、これ以上ないほどの悲劇みたいに振るまって。はっきり言って滑稽だし、こっちはいい迷惑だよ」
「浅沙くん。もう、それ以上は――」
彼の発言を止めたのは、バックヤードの奥から現れたのは店長だった。浅沙はそれを確かめて、軽く目を見開く。
「何で戻って来たんですか。店長。せっかく逃げられたんでしょうに」
「ちゃんと話をしないといけないと思って」
店長は苦笑しながら、そう答える。
石を持った女性が、ゆっくりと振り返った。彼女と真っ直ぐに向き合うときを待って、店長は深々と頭を下げる。
「あのとき言ったことは、嘘じゃなくて、本当で。本当に、そうしたいって思ったんです。でも、言葉が足らなくて、伝わらなかったみたいだ。ごめんなさい」
そう言い切ってから、店長は顔を上げた。彼女の表情は見えなかったが、それを見た店長の顔が明らかに悲しげなものになる。
店長はさらにこう続けた。
「僕はただ、みんなと一緒に――」
「みん、なと」
女性は歯がみするようにそう呟くと、よろよろと一歩後ずさった。うつむいて、手にしていた火打ち石を抱え込む。
その瞬間、火の手が上がった。燃える炎は彼女の全身を飲み込んでいく。彼女は――自分を焼くつもりなのだろうか。
あれでは黒曜石も矢で射つことができない。頑火輝石の力で火を消して、それから――
花梨が焦っていると、炎の向こう、廊下のさらに奥から、ふいに何者かが近づいてくる気配を感じた。かと思うと、店長の背後から、あでやかな着物をまとった女性が歩み出てくる。
皆の視線が、着物の女性へと集まった。その人は、混乱したその場にいても妙に落ち着いている。しかも、そこに置かれていた傘立てから古めかしい赤い和傘を手に取ると――なぜかその場で、その傘をそっと開いた。
室内なのに、雨が降る。そして、その雨は燃え広がろうとしていた火を、瞬く間に消し去ってしまった。
店長は驚き、ぽかんと口を開けている。
「あ。その傘。もしかして……忘れ物を、取りに来られたんですか?」
店長は突然のできごとに動転したのか、着物の女性と、彼女が手にした傘を見て、そんな場違いなことを問いかけた。相手はかすかにうなずくと、傘を差したまま廊下の奥へと消えて行く。
突然の不可解なできごとに、その場にいた誰もが言葉を失った。
雨はいつの間にか止んでいて、周囲には火の気どころか、水の跡すらない。ただ、火打ち石を抱えていた女性だけは、ひとり水を被ったようにずぶ濡れだった。力が抜けたのか、座り込んだ女性の手から灰色の石が、からんと落ちる。
頬を伝うのは、涙か。それとも――
しばらくして彼女はふいに立ち上がると、何も言わずにその場を逃げ出した。誰も彼女を追わない。店長もまた、悲しげな表情でそれを見送った。
その姿が見えなくなってからも、店長はじっとその場で立ち尽くしている。
「店長……?」
花梨がおそるおそる声をかけると、そこでようやく店長は弱々しい笑いを浮かべた。
「みんなにやさしくって、難しいなあ」
そう言って、彼は静かに目を閉じた。
「それはおそらく
花梨は槐の元を訪れていた。話していたのは、例の女性が持っていた石についてだ。
しかし、その石自体はここにはない。バイト先のボヤ騒ぎは放火事件として警察が捜査することになり、彼女の残していった火打ち石も押収されてしまったものと思われた。
あの場にいた花梨たちも、やって来た警察にくわしい状況を聞かれている。こうして槐の店に来たのは、それから解放されたあとのことだった。
例の女性は、立ち去ったまま行方が知れない。その火打ち石についても、花梨にはくわしく調べることができなかったのだが――
「いくら火打ち石でも、あんな火は出せやしないだろうし、当然、あれが呪いの依り代だったんだろうな」
頑火輝石の言葉に、花梨はうなずく。
気がかりなのは、あの火打ち石が火元だとして、この事件がどう決着するのか、ということだ。とはいえ、あれは呪いの石です、などと警察に話したところで、おそらく信じてはもらえないだろう。
そうでなくとも、あの場に現れた着物の女性が傘を差した途端、石は力を失っていたように見えた。それについては、黒曜石が言及する。
「しかし、あの石の呪いを祓った――あれは何者だろうか。明らかに人ではなかったが」
人ではないもの。店長のことを助けようとしたことは確かだが、助けられた店長の方は彼女のことを知らないようだった。
花梨はそのときのことを思い出す。
「あの人が手にしたのは、置き忘れられていた傘でした。お客様のものだろう、ということで私が片づけたので、覚えています」
「忘れられた傘……」
花梨の言葉に、槐は考え込むようにうつむき呟く。そして、こう話し始めた。
「ここから北東の方にある寺院、知恩院には、七不思議と呼ばれているものがあります」
そう言うと、槐はそのひとつひとつを語り始めた。
三門楼上にある二つの白木の棺。
歩くと鶯の鳴き声に似た音が出る鴬張りの廊下。
生命が宿り襖絵から飛び去ったという抜け雀。
杉戸に描かれた、どちらから見ても見る人の方を見つめてくる三方正面真向の猫。
黒門への登り口にある瓜生石。
廊下の梁に置かれた大杓子。
そして――
「御影堂正面の軒裏にある忘れ傘」
「忘れ傘、ですか」
花梨がそう問い返すと、槐はうなずいた。
「骨だけになった傘ですが。今でも軒裏にある傘の先端を見ることができます。これは、当時の名工が魔除けのために置いていったという説がひとつ。もうひとつは、知恩院の上人が御影堂を建立するときに、その辺りに住んでいた狐が代わりに新しい住まいを作って欲しいと現れたので、それを叶えたところ、お礼にこの傘を置いて知恩院を火災から守ることを約束した、という説が伝えられています」
火災から守る。それなら、店に置き忘れられた傘は、あの店を守るためのものだったのだろうか。
「狐、ねえ」
と、含みを持たせて呟いたのは、頑火輝石だ。彼はさらにこう続けた。
「あの男、何かに守られていたようだった。どこぞでそういうものに好かれでもしたのか、それとも、よほどの功徳を積んだのか……」
ならば、あの傘は店ではなく店長を守るためのものだったのかもしれない。
花梨は苦笑する。お人好しなところのある店長だ。きっと彼のやさしさが、そういう形で返って来たのだろう。それとも、彼は狐に好かれるようなことをしたのだろうか。
どちらであっても、あの店長らしい気もする。彼の言っていた、みんなにやさしく、という言葉を思い出して、花梨はそんな風にも思った。
* * *
家の近くに小さな稲荷の社があって、幼い頃はよく祖母と一緒にお参りした。
住宅街の一角に埋もれるようにしてある神社だ。敷地は狭いが、つつましい社殿の前には赤い鳥居がずらりと並んでいて、わりと目を引く。無人ではあるが、知らない間に誰かが世話をしているのか、荒れているところを見たことはない。
祖母が亡くなった今でもここへはよくやって来ていて、たまに周辺を掃除したりしていた。家の周りをきれいにするついでだから、と言い訳して。
みんなにやさしくすれば、きっとそれは自分に返ってくる。みんなにやさしくすれば、みんな嬉しい。自分はそれを信じていた。
それでも、ときにはその思いが揺らぐことがある。そんなとき、自分は決まってここにお参りにくるのだ。そうして周辺を掃除していると、自分の気持ちのもやもやが晴れるような気がする。
みんなにやさしくしても、みんなが喜ぶわけではないのかもしれない。それでも自分は――
そのとき、ふいに雨粒が頬を打った。見上げてみると、ところどころ雲は見えるが、空は晴れている。天気雨か。
そう思って振り返った視線の先、石灯籠のところに、いつの間にか傘が立てかけられていた。置かれていたのは、古めかしい赤い和傘。ついさっき、あの辺りを箒で掃いたばかりだが、そのときはなかったはず――
連なる赤い鳥居の奥。社殿の方へ目を向ける。周辺には、誰もいない。
もしかして、自分のための傘だろうか。そう思うと、自然と嬉しい気持ちになった。
傘を手に取り、社殿の前へと向かう。
「貸してくれるのかい? ありがとう」
そう言って、感謝の気持ちと共に手を合わせた。
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