第一七話 鶏冠石

 きっかけが何だったか、実はもう、あまりよく覚えていない。ただ、おそらく自分の発したひとことだった、ということだけは自覚している。

 でも、たわいもないおしゃべりの、ちょっとした失言だ。だから、次の日にはみんな忘れてしまうだろうと、そう思っていた――少なくとも、そのときは。

 次の日のこと。昨日まで一緒に話していた子たちにずっと無視された。何を言っても、返事をしてくれない。それでも、まさかこんなことがいつまでも続くとは思っていなかった。

 しかし、時が経つにつれて、それはさらにひどくなる。クラス中から無視されて、おまけに自分が何かをするたびに――別におかしなことでない、ペンを落としたりだとか、そんなどうでもいいこと――みんな、クスクスと笑うようになった。

 一度だけ、どうしてそんなことするの、と問いかけたことがある。そしたら、軽蔑したような目で、彼女たちはあの日のひとことをなじった。だから、悪いのはおまえだ、と。

 そのことは、すぐにその場で謝っている。しかし、それが許されることはなかった。いつまでも、あの日の失言を持ち出されて、無意味にからかわれ続ける毎日――

 そのうち、もういいか、と思った。何を言っても無意味で、もう言葉も通じないなら――どうなってもいいや、と。

 だから、半ばやけくそになって深泥池へと行った。呪いを引き受けてくれるという噂の、その場所に。

 そうして手に入れたのは、憎い者たちを呪うためのもの。黒くて細長い――少し変わった石だった。


     *   *   *


 小正月こしょうがつも過ぎて、音羽家には日常が戻って来ていた。あるいは、どちらかというと嵐が過ぎ去った、と言った方が正しいだろうか。

 年末年始はとにかく大変だった――と桜は思い返す。

 いつもは遠方に出ている者たちも帰って来るし、準備も後片づけもとにかく忙しかった。それを思えば、今は穏やかなものだ。

 ただ、今日は久々に来客がある予定だった。大晦日と正月を実家で過ごすとのことで、しばらくこちらに来ていなかった花梨が、京都に戻り次第、時間があれば話をしたいと連絡があったのだ。

 深泥池でのことでひとまず一段落したところもあったので、少しはゆっくりできただろうか。そんなことを思っていると、ふいに碧玉が桜を呼んだ。

 呼んだ、というか何と言うか――声や言葉ではないが、何か感覚的なもので、桜にそれを知らせたのだ。来客があったとき、碧玉は大抵そうしている。

 桜は槐に向かってこう言った。

「誰か来ました。花梨さんかな。出ますね」

 桜は通り庭へと急いだ。そこから表の戸を開けると、さっそくこう声をかける。

「明けましておめでとうござ――」

 しかし、それを言い終える前に、桜はぎょっとして目を見開いた。口にしかけた言葉も、そのままどこかへ消えていく。

 しかし、それも仕方がないだろう。なぜなら視線の先にいたのは、花梨ではなく、黒曜石だったからだ。

 ただ、黒曜石は戸口に立ち塞がっているだけで、そのうしろにはちゃんと花梨の姿もある。周囲には、それを見とがめるような人影もなかった。

 それにしても、何もないのに黒曜石が姿を現すのは珍しい。まさか、新年の挨拶ではないだろう。桜を除く石のほとんどは、そういったことに無関心だ。

 桜は少し口を尖らせながらも、こう言った。

「びっくりした。どうしたんです。黒曜石さん。せっかく花梨さんに新年のご挨拶を――」

「そんなことはどうでもいい。槐はどこにいる。花梨のことを見てもらいたい」

「はい? 見るって、いったい何を……」

 桜は戸惑った。いきなり何を言い出すのだろう。

 どうも、何かしら問題が起こっているらしい。新年の挨拶をどうでもいい、と言われたことに少しむっとしながらも、桜はひとまず黒曜石たちに道を譲った。

 花梨の方は――おめでとうございます、と返しながらも、困ったような表情で桜のことを見返している。

 どうにもわからない。何かあるらしい当の本人は平然としているし、黒曜石が勝手に焦っているだけだろうか。

 桜は首をかしげながらも、座敷へ向かうふたりのあとを追って行く。その先では、槐が彼らを出迎えた。

「明けましておめでとうございます。本年も――」

「槐」

 黒曜石は難しい顔で槐に詰め寄った。そのただならぬ様子に、槐も虚をつかれたように目をしばたたかせている。

 ひとまず座敷に落ち着いてから、あらためて話を聞くことになった。いつもどおり桜は槐の近くに控えて、それに向き合って座った花梨の横には、黒曜石が並んでいる。

 さて、いったい何があったのか――と思っているうちに、黒曜石の目配せに応じて、花梨が左の手のひらを差し出した。包帯が巻かれているようだ。ゆっくりとそれをほどいていき、そこに現れたのは――

 すぐ目についたのは、あざやかな赤。絵の具か何かがついているのか、とも思ったが、そんなわけはない。これは、まさか――

「血じゃないですか。どうしたんですか? その傷!」

 桜は驚いて身を乗り出す。

 花梨の手のひらの中心にあったのは、つい今しがた負ったかのような、生々しい傷跡だった。しかも、その傷は今も赤い血をにじませている。

 花梨は流れていく血を止めようと、そっと傷口を押さえた。その傷について、彼女はこう話し始める。

「気づいたときは、小さな傷だったの。でも、全然治らないし、どんどん広がってるみたいで――血も止まらなくて。隠すのが大変だったかな」

 隠す、とはどういうことだろう。桜がいぶかしく思っていると、槐は差し出された手のひらを見つめながら、こう言った。

「これは――普通の傷ではありませんね」

 その言葉に、桜は思わずはっとする。花梨は深々とうなずいた。

「はい。おそらく」

 桜はあらためて彼女の手のひらに目を向けた。

 一見すると普通の傷だが、負ったばかりでもないのに血が流れ続けているというなら、それは確かに異常だろう。だとすれば、隠していた、というのは――

 花梨は年末年始には実家に帰っていたはず。この傷がいつからあるかは知らないが――普通の傷ではないなら、医者に見せることもできなかったのだろう。

 ということは、両親に気づかれないように、今まで誰にも告げずにいた、と言うことだろうか。

 桜はおそるおそる、こう問いかけた。

「もしかして、ずっとがまんしてたんですか?」

 案の定、花梨はこう答える。

「親に心配はかけられないから……」

 苦々しい表情を浮かべながら、黒曜石がため息をついた。

「早く槐の元へ行くように忠告したのだが」

 黒曜石が慌てるわけだ――と、桜は思った。花梨は涼しい顔をしているが、これは単にやせがまんだろう。親に心配をかけまいとするうちに、そのことに慣れてしまったのかもしれない。だとすれば、なおのこと痛々しい。

 槐もまた、表情を曇らせながらこう尋ねる。

「この傷に、心当たりはありますか?」

 花梨はうなずいた。

「ひとつだけ。深泥池でのことです。あのとき、私たち以外にも人が――女の子がいて。彼女が落とした石を拾いました。もしかしたら、それが」

 その話に、桜は思わず顔をしかめる。

「まさか。それも、呪いの石だったんですか?」

 深泥池の件は解決したと思っていたのだが――

 とはいえ、あのときより以前に、呪いを願った者がまだ他にもいたのだとしたら――その者の手に、呪いの石が渡っていた可能性はあるだろう。この傷は、それが原因ということだろうか。

 花梨が傷を押さえている間にも、みるみるうちに包帯は赤く染まっていく。

 桜は慌てて槐を振り返った。

「とにかく傷ですよ! 透閃石さん――はいないし、沙羅さんもいないし……だったら、えーと……どうすれば――」

 混乱する桜に、黒曜石は呆れたようにため息をつく。

「どちらにせよ、透閃石や沙羅ではどうにもならない。これは呪いによるものだ。それを行った者を特定しない限りは――」

 桜はむう、とうなって黙り込んだ。だとしても、他にできることはないのだろうか。例えば――

「そうだ。槐さん。それなら、辰砂しんしゃさんを」

 桜のその言葉に、槐はすぐに反応した。例の部屋へ向かい、そこから持ち出してきたのは――血のように赤い石。

 槐は花梨に向かって、こう話す。

「辰砂は硫化水銀の鉱物です。彼の力は精神を安定させ、痛みをやわらげること。傷を治すことはできませんが」

 いつもより簡潔な槐の話が終わるや否や、赤の髪を揺らしながら辰砂が姿を現した。悠々とした、落ち着いた物腰の青年だ。彼は慣れた様子で花梨の手を取ると、傷の具合を確かめている。

「これはいけない。つらかったろう。私の力で、少しでもやわらげばいいが」

 そう言って、辰砂は槐に向かってうなずいた。槐はそのまま、手にした石を花梨へと渡す。

 それにふれた途端、ほっとしたように彼女の表情がゆるんだ気がした。平静を装ってはいたが、やはり気を張っていたのだろう。

「ありがとうございます。辰砂さん」

 花梨はそう言うと、包帯をきつく巻き直した。傷が治ったわけではないから、そうしないと血が流れてしまうようだ。とはいえ、今は痛みだけでも抑えられたなら、それでよしとする他ない。

 桜は思わずため息をついた。

「それにしても、深泥池の件、まだ続いてたんですね。続いてた、というか残っていた、というか」

 それを聞いて、黒曜石も重々しくうなずく。

「そのようだ。しかし、その少女が持っていた石が呪いの石だとして、どうやってその者を探せばいいのか――」

 黒曜石はその先を言い淀むと、黙り込んでしまった。それについては、どうすればいいのか、桜もとっさには思いつかない。この場にいた皆の視線は、自然と――何やら考え込んでいるらしい槐の方へと集まる。

 そのとき。

「槐」

 その場にいた誰でもない声が、その名を呼んだ。かと思うと、そこに忽然と姿を現したのは――碧玉だった。

「うわ。碧玉さん。どうしたんですか?」

 桜が思わずそう声を上げると、碧玉に思い切りにらまれた。しかし、碧玉は桜を一瞥しただけで、すぐに槐へと向き直る。

「例の男が来た」

 碧玉は槐に向かってそう告げた。わざわざ碧玉が姿を現したということは、普通の客ではないのだろう。だとすれば――

 桜は思いつくままに、こう問いかける。

「例のって――噂をすれば、じゃないですけど、もしかして深泥池にいたっていう、くもの人のことですか?」

 碧玉はどこか忌々しげにうなずいた。

「しかも、そいつだけではない。どうも、厄介ごとを持ち込んで来たようだ。石英は通せと言うが。何でも――」

 碧玉はそこでなぜか、鋭い視線を花梨へと向けた。そして、こう続ける。

「今、必要な人物、だそうだ」

 花梨はわけがわからずに呆気にとられているようだ。桜も思わず首をかしげていた。


     *   *   *


 碧玉が姿を消し、桜が来客の応対に行っている間、ふいに黒曜石がこう言った。

「痛みを抑えるのに、君の力が有効だったな。辰砂。失念していた」

 辰砂は軽く肩をすくめている。

「私たちは人の感覚には疎いからな。とはいえ――皆、度を失いすぎだ」

 辰砂は苦笑を浮かべつつも、穏やかにそう言うと、次に花梨へと視線を向けた。

「それに、君も――ご両親に心配をかけたくないという気持ちはわかるが、必要なときが来たなら、痛いことは痛いと言葉にしなければ。でないと、余計に心配させてしまうよ」

 花梨は思わず黒曜石や槐を見返した。ふたりとも黙ってうなずいている。親のことを気づかうあまり、黒曜石の気持ちを汲んではいなかったことに気づいて、花梨は辰砂の言葉に深くうなずいた。

「そう、ですね。ごめんなさい。黒曜石。槐さんも。すみませんでした」

 槐は首を横に振っている。ずっと気を揉ませていた黒曜石も、今は平静に戻ったようだ。

 あらためて槐がこう言う。

「何か不調があれば、遠慮せず言ってください。こちらも、できる限りのことをしましょう」

 その言葉に花梨がうなずき返した、そのとき――座敷へ向かう人影が、縁側の方からちらりと見えた。

 真っ先に目に入ったのは浅沙だ。彼は花梨たちのことには気づいていないらしく、どこか不服そうな表情で、今は坪庭の石灯篭に気をとられている。

 そんな彼の前を行くのは――三十代後半か四十代にかかるくらいだろうか、がっしりした印象の男性だった。それから、もうひとり。彼らのうしろにつき従っているのは、中学生くらいの少女――

 客人がこちらに近づいて来るのを見て、黒曜石と辰砂は姿を消した。

 ほどなくして座敷の襖が開く。真っ先に顔を出したのは、先ほど目にした見知らぬ男性だ。彼は室内を見渡してから槐に視線を定めると、軽く頭を下げてこう名乗った。

「失礼する。俺は片桐かたぎり鉄線てっせんという者だ。不本意ながら、こいつの保護者としてここにいる。不本意ながらな!」

 そうして引きずり出されたのは浅沙だった。最後の言葉は彼に向けたものだったようだか、言われた本人は涼しい顔をしている。それどころか、花梨のことに気づくと、真っ先にそちらに反応した。

「あ。花梨ちゃんがいる」

 深泥池でのことがあったというのに――バイト先でもそうだったように――彼は軽い調子で手を振っている。花梨はどう対応していいかわからずに、とりあえず会釈を返した。

「おまえなあ……」

 と低い声で呟きながら、片桐は浅沙に対して呆れとも怒りとも取れる視線を向けた。自ら保護者と名乗っているが――いったい何者なのだろう。

 突然のことに戸惑いを覚えているのは、花梨だけではなかったらしい。やりとりに驚きながらも、槐はこう問い返した。

「保護者の方、ですか」

 片桐はため息をつきつつも、こう説明する。

「その言葉が適切かどうかはわからんが――こいつが深泥池で馬鹿やってるときに、それを見つけて咎めたのが縁でな。どういうわけだか、面倒を見る羽目になってしまった……」

 片桐はそこで一瞬うろんな目をしたが、すぐに気を取り直すと、ふいに右腕を差し出した。

「俺自身については、こいつを見て理解してもらうのが、一番手っ取り早いんだが――」

 そう言って、彼は服の右袖を捲し上げる。そうしてあらわになった腕には、何か模様のようなものが見えた――刺青だ。どうやら植物を象ったものらしい。

 それを見た槐は、ああ、と納得したような声を上げた。

古木守こぼくもりの方でしたか」

「……さすがに知っていたか」

 片桐はそう言って、服の袖を元に戻す。槐はそんな彼に向かって、あらためてこう名乗った。

「私は音羽槐と申します。彼女は――」

 槐が目線を送ったので、皆の注目が花梨へと集まった。

「うちの客人です」

 片桐は花梨にも軽く頭を下げると、すぐに槐に向き直る。

「この店の噂は聞いている。とはいえ、俺たちは呪いなんてものは専門外だからな。本来ならこの手のことに首は突っ込まないんだが――こいつのことを保護している以上、このまま放っておくわけにもいかない。そう思って、今後のことについて話し合うために、ここまで来た――と、言いたいところだが、おそらくこちらの方が火急の用だろう」

 片桐はそう言うと、うしろを振り返って、そこにいた人物に前へ進むように促した。片桐が身を引いたことで姿を現したのは、暗い表情を浮かべたひとりの少女。

 うつむいていたその子が、おそるおそる顔を上げる。彼女はゆっくりと室内を見渡すと、花梨に目をとめた途端、あ、と声を上げた。

「あのときの」

 そのひとことで、やはり――と花梨は思う。間違いない。深泥池で会った、石を持っていた子だった。

 しばしの間、花梨は彼女と無言で視線を交わす。そんな中、心得たように声を上げたのは槐だ。

「お話、おうかがいしましょう」

 花梨とその少女へ順に目を向けてから、槐は片桐に向かって、そう言った。



 槐と向き合う形で片桐が、そのとなりには少女が並んで座っている。浅沙は部屋の隅――普段はよく椿がいる辺りにいた。

 桜は皆にお茶を振る舞ったあと、いつもの位置に控えていて、花梨は槐の傍らへと移動している。そのため、今は少女と向き合う位置にいた。

 話を切り出したのは片桐だ。

「深泥池周辺を見回っていたときに――」

 片桐はそこで、ちらりと少女の方を見やる。

「この子を見つけてな。様子がおかしいので事情を聞いてみると、呪いを引き受けた者を探していると言う。何やら切羽詰まっていたようだから、とりあえずこちらに連れて来たという次第だ」

 片桐はそこで少女に向き直ると、いくらかやさしい声音になって、こう言った。

「呪いに関することなら、この御仁の方がくわしい。何か困ったことがあるなら、話してみるといい。力になってくれる」

 事情を話してくれることを期待して、誰もが彼女のことを注視した――が、少女はかたくなに口を開かない。花梨を見るなり声を上げてから、彼女は一切の言葉を失ってしまったかのようだった。

 槐もまた、考え込むように少女のことをじっと見つめている。しかし、その沈黙も長くは続かなかった。

 少女に向かって、槐はこうたずねる。

「石を、お持ちですね?」

 少女は小さく肩を震わせると、はい――と消え入りそうな声でうなずいた。そのことを確認した槐は、花梨に向かって軽く目配せしながらこう続ける。

「彼女のことを覚えていますか。あなたが落とした石を、拾ったことがあるそうです」

 少女はうつむいたまま、目線だけを花梨へと向けた。少しだけためらったあとにまた、はい――とうなずく。

 槐はそれにうなずき返すと、さらにこう問いかけた。

「あなたの持つ石を、見せてはいただけないでしょうか」

 少女はしばらく動かなかった――が、彼女はふいに、ずっと握りしめていたらしいそれを、目線の高さまで差し出した。

 少し大きめのセーターを着ているせいか、長い袖に隠れて彼女の手元はよく見えない。そのせいで、石の全容も隠れてしまっていたが、ちらりと見えるそれは、確かに花梨が深泥池で拾った石のように思えた。

 少女はどうやら、その石を見せることに――あるいは、手放すことに――まだ抵抗があるようだ。しかし、槐が辛抱強く待っていると、無言の圧に耐えかねたように、少女はそれをそっと座卓の上へと置いた。

 黒っぽく細長い石だ。表面はなめらかだが、黒曜石と違って光沢はない。形状は珍しいが、その辺りの道端に落ちていても違和感のない、ごく普通の石だった。

 槐が軽く身じろぎしただけで、少女はすかさずこう叫ぶ。

「さわらないで!」

 少女はその石を引っ込めようと、手を伸ばした。それを制すように、槐が力強く首を横に振る。

「ええ。さわりません。さわれば――よくないことが起こる?」

 槐がそう言うと、少女は、はっと目を見開いて、うなだれた。そして、ぽつりとこう呟く。

「ごめんなさい……」

 その言葉を聞いた槐は、彼女を安心させるように、軽く笑みを浮かべた。

「大丈夫ですよ。あなたを責めるつもりはありません。この石は――かんかんいしですね」

「かんかん、石……?」

 変わった名前が気になったのか、少女はおそるおそる顔を上げると、呆然とした表情で槐を見返した。

讃岐岩さぬきがん。英語名はサヌカイト。火山岩である安山岩の一種。叩くと高く澄んだ音を出すことから、かんかん石とも呼ばれています。明治時代に香川県で発見したものをドイツの学者が調べたことから、その名がつきました。日本では磬石けいせきとも呼ばれていて、石器としても出土しています」

 場違いにも思える内容を、少女は呆気にとられたような表情で聞いていた。しかし、槐が話し終えた途端、彼女は思わずほうと息をはく。

「そんな名前なんだ。知らなかった。だから音が――聞こえるのかな」

 そう言ったことで、彼女はようやく、かたくなに閉じていた口を開くことにしたようだ。ぽつぽつと、目の前の石についてこう話し始める。

「私……呪ってやりたいと――思った人たちがいて。それで深泥池にお願いに行ったんです。そこでこの石をもらって。それで」

 少女はじっと、かんかん石を見つめている。

「その願いが成就するには百日にかかる、って。毎夜、音がする。それが聞こえて百日目に、それまでこの石にふれた者を」

 少女は、そこでわずかに声を震わせた。

「呪い殺すって」

「そんな。傷を負わせるだけじゃないんですか? だって、花梨さんはその石を――」

 思わず、といった調子で、声を上げたのは桜だった。皆の視線が――それまで無関心だった浅沙も含めて――花梨の方へと向けられる。

 居たたまれなくなったように、少女は深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 その言葉に真っ先に反応したのは、浅沙だった。

「何それ。花梨ちゃん、その石を拾ったの? しかも呪い殺す? そんな不相応な力を求めて、何になるんだか。馬鹿じゃないの」

「浅沙さん」

 花梨は慌てて、その名を呼んだ――と同時に思い出す。火打ち石を持った女性にも、浅沙はこんな風に辛辣な言葉を投げかけていた。これ以上、彼に話をさせてはいけない。

 しかし、花梨がそれを制止する前に、少女はせきを切ったように話し始めた。

「私だって、こんなことしたくなかった。でも、もう……何を言っても相手にされないし、無視されるし、笑い者にされるし。だから――!」

 それを聞いた浅沙は、ああ、と納得したような声を上げる。

「何? もしかして、いじめってやつ? だとしても、何でまた深泥池に戻って来たのさ。そいつらだけ呪っていればよかったのに。あんなところ、うろちょろしてたせいで、花梨ちゃんまで巻き込んじゃって。おまけに、このおっさんにまで見つかってるし」

「おま」

 と何かを言いかけた片桐だが、彼が絶句している間に、少女はすかさず言い返した。

「それは……! 受け取ってすぐのときには、石をさわらせることに必死で、深く考えてなかったけど、呪い殺すのはさすがに、って思って。毎日、音は聞こえるし。どうすればいいか、わかんなくて。それで――」

 槐は顔をしかめながらも、黙ってそのやりとりを聞いている。桜は呆気にとられたように、ぽかんと口を開けていた。

 涙目になっている少女に向かって、最後に浅沙が言い放ったのは、こんな言葉だ。

「後悔するくらいなら、そもそもやらなきゃいいのに」

 そこでようやく、片桐が動き出した。

「おまえ、ちょっとこっち来い。話がややこしくなる……」

  そう言って、片桐は浅沙を無理やり立たせると、襖を開けて廊下へと押し出した。浅沙は特に抵抗する様子もない。あとのことを託すように無言で槐へ視線を送ったかと思うと、片桐もまた、座敷を出て行った。

 襖が閉まると同時に、室内はしんと静まり返る。ひとり震える少女に向かって、槐は気づかうようにやさしく声をかけた。

「あなたは、この呪いを止めたいと思っている――ということで、よろしいでしょうか」

 少女は嗚咽を飲み込むと、力なくこう答えた。

「わからないんです。止めてしまったら……この先、何も変わらない。だったら」

 いっそ――と、少女は思い詰めた表情で呟く。槐は軽く顔をしかめた。

「あなたは、その呪いを止めることを――迷っている?」

「ごめんなさい……」

 彼女のその言葉に、室内は再びしんと静まり返った。

 少女にとって、この呪いはそれだけ切実なものなのだろう。今もまだ、諦めきれないほどに。

 しかし、だからといって、この件を容認するわけにはいかない。花梨がその対象であるということを抜きにしても――呪いが成就することは、阻止しなければならなかった。少女がどれだけの人に石をふれさせたかはわからないが、彼女の言うことが本当なら、これは命を奪う呪いなのだから。

 花梨は思わず槐の横顔に目を向けた。槐はそのことには気づかずに、淡々と少女に向かって問いかける。

「その百日目まで、あと何日か教えていただけますか?」

「……明後日です」

 少女は思いのほかあっさりと、それを打ち明けた。彼女自身にも、迷いがあるからかもしれない。

 槐はその答えにうなずくと、こう話し始めた。

「あなたのお気持ちはわかりました。しかし、このことを知ってしまったからには、こちらとしても、止めるように動かないわけにはいきません。あなたもご存知のとおり、彼女も――その石にふれてしまったようですから」

 槐はそこで、花梨のことをちらりと見やる。しかし、すぐに少女の方へと向き直った。

「ただ、強引に呪いを返せば、あなた自身に害が及ぶ可能性があります。そうならないように、どうかご協力いただけませんか」

 少女は沈黙している。槐は話を続けた。

「あなたにとって、これは決死の思いでのことだったのかもしれません。しかし、誰かを傷つけてしまったあとでは、取り返しがつかない。たとえそこに、自分にとっての正当な理由があろうと、不慮のことであろうと――」

 取り返しがつかない、という言葉に、少女は花梨の方をちらりと見やる。花梨は彼女のまなざしを、ただ真っ直ぐに受け止めた。

 黙していた少女が、そのときふいに口を開く。

「私は」

 そこで軽く息をはいてから、彼女は意を決したように――こう言った。

「この呪いを止めたいです。無関係の人まで巻き込むのは……違うと思うから」

 少女がそう口にした瞬間、張り詰めた空気がほっとゆるんだように思えた。とはいえ。

 桜は難しい顔をしながら、槐にそっと耳打ちする。

「でも、人を殺すほどの呪いですよ。それを、何の影響もなく返すことなんて、できますか?」

「そうだね。この呪いの条件……百日、となるとやはり――」

 槐がそう呟きながら考え込んだ、そのとき。

「その石、どうも獣くさいなあ」

 不遜にも――床の間に腰かけるようにして、唐突に見知らぬ青年が姿を現した。髪色は赤く逆立って、目の色は赤色にわずかに黄色が混じっている。

 彼はにやにやと笑いながら、そこに置かれていた水石に――横柄にも肘をかけていた。その姿を見て、槐は彼のことをこう呼ぶ。

鶏冠石けいかんせき……」

「げ。何しに出て来たんです。鶏冠石さん」

 桜は心底嫌そうにそう言った。少女は突然のことに驚き、目を見開いたまま固まっている。

「ああ? 俺が出て来ちゃ悪いかよ。桜石」

 鶏冠石はそう言って桜に凄んでから、槐に向き直ると軽い調子でこう言った。

「その呪い、俺ならうまく返せるぜ。なあ、槐」

 槐はしばし無言で鶏冠石を見返した。意味深に笑う鶏冠石に、槐はこう問いかける。

「君に、この件を任せられるのかな?」

「もちろん」

 どこか楽しげに、鶏冠石はそう答えた。

「ええ?!」

 と、やりとりに口を挟んだのは桜だ。

「やめた方がいいのでは……」

 桜はそう言って、槐のことをうかがっている。しかし、槐が取り合う様子がないのを見て取ると、今度は鶏冠石の方へと詰め寄った。

「そもそも、深泥池の件だって協力しなかったくせに、何だって急に出てきたんです?」

「あ? 何で俺がそんなもんに協力しなけりゃならねえんだよ。関係ないだろ。それとこれとは」

 桜と鶏冠石がにらみ合う。槐は苦笑しながら席を立つと、ひとり座敷を出て行った。しばらくして戻って来た彼の手にあったのは――目の覚めるような赤い石。

「鶏冠石。その名の由来は、ニワトリのとさかのように赤いことから。英語名はリアルガー。こちらはアラビア語で、鉱山の粉を意味する言葉が由来です。ヒ素の硫化鉱物で赤い柱状に結晶しますが、光に弱く、長くさらされると変化し、黄色い粉となって砕けてしまいます」

 白っぽい石の上に、あざやかな赤の結晶が見える。その名のとおり、ニワトリのような色彩だ。

 その赤は花梨が受け取った辰砂の色とも似ていたが、鶏冠石の方は少し橙色がかっているだろうか。そして、その化身となると、同じ赤なのに性質は全く異なっているようだ。辰砂が落ち着いた様子だったのに対して、鶏冠石は見るからに粗野な印象を受ける。

 ただ、鶏冠石が言った――呪いを返せる、という言葉は確からしい。でなければ、槐がこの石を持ち出すことはないだろう。

 槐は手にした鶏冠石を少女に差し出すと、こう言った。

「こちらをお持ちください。彼の力なら、その呪いを終わらせることができるでしょう」

 少女はその石に向かって、おそるおそる手を伸ばす。鶏冠石は床の間で、それをにやにやと笑いながら見つめていた。



「大丈夫でしょうかね……」

 少女と、それにつき添った片桐を見送ったあと、桜は心配そうにそう言った。槐は例の――石たちの部屋に行ってしまったので、通り庭に立っているのは花梨と桜だけだ。

 桜の呟きに、花梨はこう問いかける。

「それって、もしかして鶏冠石さんのこと?」

 桜は曖昧な答えを返す。とはいえ――

 花梨にも、桜が危惧する理由はわかる気がした。花梨は鶏冠石と初めて会ったが、今まで会った石たちとは、ずいぶん雰囲気が違っている。思わず――任せても大丈夫だろうか、と思ったほどには。

 しかし、桜は花梨に心配をかけまいと思ったのか、慌てたようにこう言い直した。

「すみません。不安にさせてしまいますよね。この呪いには、花梨さんも関わっているんですから……でも、槐さんもああ言ってますし、石英さんも何も言ってこないんですから、きっと大丈夫ですよ。そうですよね。黒曜石さん。辰砂さん」

 そうして桜は、今は姿を見せていない石たちに、そう話を振ったのだが――

「そう、だな……」

「私からは何も言えない」

 と、黒曜石からは歯切れの悪い答えが、辰砂からはそんな言葉が返ってくる。桜は思わず顔を引きつらせた。

「信用されてないですね……鶏冠石さん」

 桜はこの場の空気を変えようと――ともかく、と話を切り替えた。

「この件が解決したら、きっと花梨さんの傷も治りますよね。それまでは、お願いしますよ。辰砂さん」

 承知しているよ、と答える辰砂に、花梨は感謝の意を込めてうなずき返す。

 鶏冠石のことは心配ではあるが――それでも、花梨はこの呪いをあまり怖いとは思っていなかった。なぜかはわからない。それよりはむしろ、人を殺せるほどの呪いがある、という点が気になっている。

 深泥池の件で、花梨の身に起こったことのほとんどは浅沙によるものだとわかっていた。そのことで、姉の行方に関する手がかりは、ついえたようにも思ったのだが――

 浅沙が残した言葉もある。そして、周囲にあった噂と不審な死のことを考えると、姉はやはり、呪いに関する何らかのできごとに巻き込まれた可能性があるのではないだろうか。

 浅沙には、よりくわしい話を聞かなければならない。この日に思わず彼に会ったことで、花梨はその必要性をあらためて強く感じていた。

 当の浅沙は座敷を出されたあと、早々にひとり帰されていたらしい。彼については、後日にあらためて、必ずこの店まで連れて来る、と片桐は言っていたが――

「そういえば、片桐さんって何者だろう。古木守……だっけ?」

 ああ、と声を上げてから、桜はこう答えた。

「古い木は化けることがあるんです。古木守は日本中にあるそんな木を管理してる集団で。元は山を放浪する民の末裔――とか。今は違うのかな?」

 化ける木ということは、彼も怪異に関わる人物、ということなのだろう。土蜘蛛の末裔らしい浅沙と彼とは、どんな関係なのだろうか。

 花梨が考え込んでいると、桜は肩をすくめてこう続けた。

「まあ、あのひと個人のことはよくわかりませんけど。ある程度、怪異のことにはくわしいと思うので、浅沙とかいう、くもの人よりは信頼できると思いますよ」

 浅沙から、ちゃんとした話が聞けるかどうか、心配していたところではあったが――あの様子からすると、そう不安になることもないのかもしれない。わずかながら光明が見えてきた気がして、花梨はひとまずほっとしていた。


     *   *   *


 深泥池で手に入れた石と、奇妙な店で借りた石。そのふたつを自室の机の上に並べて、しばらくじっと見つめていた。

 今では、わからなかった石の名前もわかっている。かんかん石と――そして、もうひとつの方は鶏冠石だ。どちらも変な名前だ、と思う。

 もしかしたら、かんかん石の方はあの店に預けることになるかもしれないと思っていたのだが――これもこの場にそろっていないと呪いがきちんと返せないかもしれない――と石を貸してくれた人は言う。だから、相反する二つの石がここに並べられていた。

 呪う石と呪いを止めるという石――

 そのとき、ふいに誰かがこう言った。

「あんた、嘘をついただろう」

 その言葉に、どきりとする。

 周囲を見回すと、部屋の窓に寄りかかるようにして赤い髪の青年が現れていた。一応、説明してもらっていたので驚きはしない。彼は――今ここにある赤い石――自身なのだと言う。

 信じがたい話だが、実際に何もないところから姿を現すところを見てしまっては、信じないわけにはいかなかった。それに、この石が呪いを止めてくれるというのだから、邪険にするわけにもいかない。

「……何のこと?」

 と、とぼけると、その青年――鶏冠石はせせら笑った。

「本当は止めたくなんてないんだろう。その呪いを。だけど、あの場所であんなやつらに囲まれてちゃ、そう言わないわけにはいかないよなあ」

 その言葉に、思わず顔をしかめる。確かに――そうだ。あの場では、ああ言うしかなかった。他に、どんな選択肢があっただろうか。

 しかし、本当の気持ちは――

「どうしてそんなことを言うの? 呪いを止めてくれるんでしょう?」

 そう問い詰めたが、相手はにやにやと笑うばかり。

「いいや? 別にかまわないぜ。止めなくても」

「な」

 何を言うのだろう。自分が何を言っているのか、わかっているのだろうか――

 言い返せないでいると、鶏冠石はこう続ける。

「止めないって言ってるんだよ。あんたが本当にそれを望むなら」

 おそるおそる、こうたずねた。

「でも……あの店にいた、あの人が――死んでしまうかもしれないのに?」

 鶏冠石は肩をすくめるだけだ。

「そんなこと、かまいやしないさ。どうでもいいね。俺にとっては」

 その答えに、思わず言葉を失った。彼はとんでもないことを言っている。しかし――

 それでも、すぐに否定することはできなかった。そうして黙り込んでいると、鶏冠石はさらに大それたことを言い始める。

「それに、止めなくたって、槐は別にあんたを責めたりはしないさ。現に、あのときもそうだっただろう? かわいそうなあんたのことなら、おやさしいあいつらのことだ――ちゃんと同情してくれるって」

「で、でも――」

 思わずそう言ったことで、自分の気持ちがかたむきかけていることに気づいた。本当のところは、どちらを望んでいるのだろうか。どちらを選んだとしても、ここには自分を止める人はいない――

 鶏冠石は、なおもこう言う。

「あそこには記憶を消す、なんてことができる石もあるぜ。これで罪悪感に悩まされることもない。安心しただろう? なあ?」

 何も答えられなかった。どうすればいいのか、わからない。

 そうして戸惑う様子を、鶏冠石はしばらくながめていたが、彼はふいに――ふんと軽く一笑した。

「まあ、そういうことだ。どうしても呪いを止めたいって言うなら――そう言ってくれ。俺はどちらでもかまわない」

 それだけを言い残して、鶏冠石はその姿を消してしまう。

 呆然と立ち尽くしていると、やがて夜がやって来た。どこからか、かん、かん、かんと音がする――




 そうして、百日目はやって来た。鶏冠石には、何の答えも告げられないままに。

 呪いを止めることができなかったあの日から、怯えながら時を過ごしていた。どうして呪いを止めなかったのか、とあの店の人たちや、深泥池で会った男の人に責められるのではないか、と不安になりながら。

 でも、誰も来なかった。店の人も深泥池の人も、女の人も――誰も。そうして何もかもをひとりで抱え込んだまま、この日を迎えることになってしまった。

 ぐるぐると、いろいろなことを考える。

 真っ先に思い出したのは、学校でのことだ。こんなことになったのは、そもそもあいつらが悪いんじゃないか。

 本当に、こんなに苦しまなければならないほどのことを、自分はしたのだろうか――いや、悪かったと思ったことは謝ったし、あれから気をつけるようにもした。なのに。

 ――悪いのは、そっちでしょ。

 かつての友人たちの、声がする。違う。違う――自分は悪くない。これで少しは、思い知ればいい……

 でも――思い知る、だろうか。呪いのことを知ったら、彼女たちはどう思うのだろう。何も思わないかもしれない。自分たちが悪いなんて、思っていないのだから。それに。

 ――だったら、あの人は、もっと悪くないじゃないか。

 深泥池で石を拾ってくれた人。ただ拾っただけなのに、巻き込んでしまった。このままでは、あの人まで道連れにしてしまう。

 そうして夜も更けた頃、かん、かん、かん――と音がし始めた。

 はっとして、思わず耳をふさぐ。音が鳴って、百日目。呪いが成就するのは、音が止んだそのときか。それとも、もう手遅れなのか。

 あの人が死んでしまう――

「ね、ねえ……止めてよ。私、嫌だよ。だから、この音を止めて!」

 赤い石に向かって、悲鳴のようにそう叫んだ。目の前に、赤い髪の青年が現れる。

「それで、いいんだな?」

 鶏冠石は笑っていない。ただ冷ややかなまなざしでこちらを見ていた。

「うん。ど、どうするの?」

 うなずいてそうたずねると、鶏冠石は黙って背を向けた。そして、こう話し始める。

「……ニワトリは昼と夜のあわいの生きもの。だから、鶏鳴は――魔を払う」

 そのとき、かん、かん、かんと鳴る音をかき消すように、長く力強い声が辺りに響き渡った。これは――ニワトリの鳴き声。

 やがて鳴き声が止むと、辺りはしんと静まり返った。かん、かん、かんという音も――もう、しない。

「止まっ……た?」

 その呟きを聞いて、こちらを振り向いた鶏冠石は、にやにやと笑っていた。そして、こんなことを言い出す。

「はん。こりゃ、俺の見立てどおり、タヌキの仕業だったな」

「……タヌキ?」

 思わずそう問い返すと、鶏冠石はうなずく。

「俺はキツネやタヌキには嫌われているからな。まあ、百日経てば呪い殺せるなんて、嘘だよ。嘘。あんたはタヌキに化かされたんだ。この程度の呪いで、人が殺せるもんか」

 嘘。だとしたら、誰も死ななかったということか。たとえ、あの音を止めなかったとしても。

 鶏冠石は笑う。

「まあ、槐も気づいていただろうけどな。あれでけっこう、たぬきだぞ。あいつは」

「でも、呪いは」

 そう言うと、鶏冠石は肩をすくめた。

「傷を負うだけでも、十分だろう?」

 その言葉に、思わず両の手を握りしめる。

 何だか力が抜けてしまった。何だったのだろう。結局、何をしたとしても、変わらなかったのか。だったら――だとしても。

 鶏冠石は問いかける。

「ほっとしたか? それとも、残念だった?」

「残念に思ってるって、言ったら?」

 すかさず言い返すと、鶏冠石はにやりと笑った。

「いいんじゃねえの? 別に。自分を傷つける奴らに、どうしてそんなに気兼ねするかね。俺にはそこんところがわかんないんだよなあ」

 鶏冠石は軽くふんと一笑した。そして、こう続ける。

「まあ、俺はあくまでも、あんたの意志で鳴いたんだ。そこんとこを、忘れないでくれよな。勝手に鳴いた、なんて言われて、責められるなんてのは嫌なんでね」

「言わないよ。そんなこと。いじわるだね」

 そう言うと、鶏冠石は笑い飛ばすようにこう言った。

「何言ってんだ。あの店には、毒砂どくしゃなんて別名を持つ、もっとえげつないのがいるぞ。俺はせいぜい――動物よけだよ」


     *   *   *


 百日目の夜が明けた次の日に、かんかん石と鶏冠石を持って、少女は店に現れた。槐や桜はもちろん、花梨も一緒に彼女のことを出迎える。彼女は初めて来たときとは違って、ひとりでここへ訪れていた。

 顔を合わせてすぐ、桜がこんな風に声をかける。

「無事に呪いが返せて、よかったです」

 しかし、座敷に通された少女は、ふたつの石を座卓の上に並べるなり、ばつが悪そうにこう言った。

「ごめんなさい。その、鶏冠石が――あのときは、ひとりで考えることはできなかったから、あらためて自分で決めた方がいいって。それで、少し迷ってしまって」

 鶏冠石を渡されてから、すぐには呪いが返せなかったことを責められると思ったのかもしれない。しかし、それを聞いた桜はむしろ呆れたようにこう言った。

「そんなこと言ったんですか。相変わらず性格悪いですね」

「ああ? 何だと桜石」

 鶏冠石が姿を現して、すぐにそう言い返した。少女はそのやりとりを複雑そうな表情で見つめている。それに気づいて、桜はあらためてこう言った。

「いいんですよ。謝らなくて。どうせ、鶏冠石さんが意地の悪いことをしただけでしょうから」

 鶏冠石が、けっ、と悪態をつく。花梨はそれに苦笑しつつも、少女に向かってこう言った。

「とにかく、よかった。傷も、早く治るといいね。だって、ずっと――痛かったでしょう?」

 その言葉に、少女は花梨のことを見返すと、大きく目を見開いた。

「どうして……」

 少女のその呟きに、桜は首をかしげ、鶏冠石は顔をしかめている。槐はただ静かに見守るだけだ。

 花梨が手を差し伸べると、少女は黙って自分の両手を差し出した。長いセーターの袖に隠れていたのは――包帯が巻かれた手のひら。

 少女を見返しながら、花梨はこう続ける。

「深泥池でかんかん石を落としたのは、何でかなって思って。大事に持っていたなら、少し驚いたくらいでは手放さないでしょう? だから、もしかしてって」

 桜が思わず声を上げる。

「え? まさか、石をふれた者をって――でも、それじゃあ……」

 呪いの条件。ふれたものに害を為す。それは呪いを願った少女自身も対象なのではないか、と花梨は思っていた。

 それに気づいたのは、花梨もまた同じように――ずっとその傷を隠すように振るまっていたからだ。だからこそ、彼女が自分の手のひらを見せようとしないことに気づいた。

 呪いの石にふれてから今このときまで、彼女はひとり、その傷を抱えていたのだろう。治らない傷を、ずっと痛みに耐えながら。

 少女は自分の両手に視線を落としながら、静かに涙をこぼした。

「本当は、この石を誰かにさわらせるなんて……できなくて。学校にも行けてないし。顔を合わせるのも、怖かったから。でも、手にこんな傷ができるし。これが呪いなら、いっそこのまま――って。それでもいいと思ってた」

 涙まじりの声で、少女はそう話した。花梨は彼女の手のひらに、そっと自分の手のひらを重ねる。

「ずっと痛いのをがまんしてたんだね。そうしたら、それ以外のことについて、気が回らなくなってしまうでしょう? 私も、そうだったから。だから、今はとにかく、傷を治さなきゃ。ね?」

 その言葉に、少女はゆっくりと顔を上げる。そして、こう呟いた。

「うん。ずっと、痛かった……」

 少女は流れる涙を拭うと、大きく息をはいてから、花梨の手――包帯の巻かれた左手に目を向けた。

「ごめんなさい。ありがとう。誰も――死ななくて、よかった……」

 しんみりとした空気の中で、桜がこそっと鶏冠石にたずねる。

「……もしも止めなかったら、どうしてたんです? 鶏冠石さん」

「知らねえよ。まあ、何にせよ――あとひとつってところで止まるのが、お約束ってもんだろう?」

「何ですか、それ……」

 鶏冠石の答えに、桜は大きくため息をついた。

 きょとんとしている少女に、槐は苦笑しながらこう話す。

「よくある民話で、例えば――一晩のうちに百の石段を作ることができなければ、今後は村で暴れない、という約束を鬼と交わしたところ、九十九積み上がったときニワトリが鳴いたことで、鬼はそれを諦めて現れなくなった――というような話があるんです。ただ、それと同じような型で、祈願のために一晩で百の石垣を築こうとしたが、九十九出来上がったところでニワトリが鳴いてしまったので、成就できなかった――というような伝承もあります。その場合は、ニワトリを飼うことを禁忌にしている地域もあるんですよ」

 それを聞いた少女は、じっと鶏冠石のことを見つめている。しかし、鶏冠石は肩をすくめると、視線を避けるように黙って姿を消してしまった。

 その素っ気なさに、少女は少し寂しそうな表情を浮かべている。

 少女は鶏冠石を返すと同時に、かんかん石を槐に託した。今はもう、呪いの力は残っていないのだろう。槐は何ごともなく、その石を受け取る。

 ほっとしたところで、少女はふいにこう声を上げた。

「あの、私」

 少女はしばらく、その先を口にすることをためらったようだが――皆が見守る中で、彼女は意を決したようにこう言った。

「私は河内かわち百合ゆりです。またここに……遊びに来てもいいですか?」

 少女は花梨の方を見ながら、じっとその答えを待っている。

 そういえば、以前に彼女が訪れたとき、花梨は名乗ってはいなかっただろうか。だから、あらためて向き直ると、花梨は少女にこう言った。

「私は鷹山花梨。よろしくね。百合ちゃん」

 差し出した右手で、彼女の右手をそっと握った。そうして、手のひらの傷をいたわるように、花梨は少女と軽く握手を交わす。

 それまで表情の晴れなかった百合は――そこでようやく、心からの笑みを浮かべた。

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