第六話 黄鉄鉱 前編

 笹谷ささたに茴香ういかは自分のことをばかだと思っていた。

 別にだからどうという訳ではない。ただ、常日頃からそう思っていれば、ふとしたときに誰かにそう言われても、腹は立たない。誰かにそう思われたとしても、それもそうだな、と流せる。その程度の認識だ。

 もともと、他人の言葉はそれほど気にならない方だった。言葉はその人の価値観。価値観が違うことなんて、往々にしてあることだろう。

 大学で友人と話をしているときだった。たまたま知り合いが通りかかるのを見て、茴香は席を立つ。

 昨日の講義で借りたノートを返すためだ。返してから、すぐに戻った。しかし、それだけのことで、色めき立った友人たちに取り囲まれてしまう。

「ちょっと、茴香。何やってんの」

「何が?」

 わけがわからずに茴香がそう返すと、相手はあからさまに顔をしかめた。

「何が、じゃないでしょ。あんた、この前話してたこと、聞いてた?」

 茴香は内心で肩をすくめる。

 もちろん聞いていたし、ばっちり覚えてもいた。しかし、それを聞いてなお問題はないと思ったのだ。少なくとも、茴香自身は。

 ああ、と思い出した風に呟いて、茴香はとぼけた調子でこう返した。

「悪い噂があるんだっけ。でも変な子じゃないよ。借りたノートも、丁寧で見やすかったし」

「そういうことじゃないでしょ」

 呆れたようにそう言われて、茴香は少しだけ殊勝な顔をする。言い返したりはしない。きっと、わかってはもらえないだろうから。

 ばかだけど、いや、ばかだからこそ、世を渡る術は心得ていた。

「だって、他にあの講義とってる知り合い、いないし」

 そうして拗ねてみせると、何となくその場に仕方がないという空気が生まれる。そこで茴香はいつもの言葉を口にした。

「仕方ないよ。あたし、バカだから」

 そう言えば丸く収まる。丸く収まるなら、それでいいのではないだろうか。茴香はずっと、そう思っている。


     *   *   *


 七月になると、この辺りは特にさわがしくなる。

 この時期の京都の行事といえば、やはり祇園祭だろう。京都の三大祭のひとつに数えられるこの祭りは、祇園にある八坂神社の祭礼。平安時代、疫神や怨霊などを鎮めるために行われた御霊会ごりょうえが起源であるとされている。

 祇園祭といえば、街中を回る山鉾やまほこ巡行が有名だ。しかし、実際には七月一日から三十一日まで、さまざまな行事が行われているらしい。その中でも、京都の人々が特に楽しみにしているのは、おそらく巡行の三日前から行われる宵山よいやまだろう。

 道の傍らに山鉾が建てられ始めると、街には一気に祭りの空気が流れ出す。巡行の日に街を一巡りするこの山鉾は三日前から飾りつけされることになっていて、それを目当てに人々は夜の京都へとくり出した。その日は夕方から夜にかけて交通が規制され、一部区間は車も通らない。

 それぞれの山鉾の近くでは、御札やお守りの厄除けちまきが買える。一部の山鉾には乗ることもできた。

 それだけでなく、各町では伝統行事が行われることもあるようだ。屏風などの家宝を展示している家もあるらしい。普通のお祭りのように路上には屋台も並ぶ。

 そんな様子を聞かされたのは、姉が行方不明になる少し前のこと。初めて見た祇園祭のことを、電話で楽しげに話してくれたことを花梨は覚えている。

 そのことを思い出して、花梨は気もそぞろだった。アルバイト中にも、せっかくだから少しだけ見てみようか、とあれこれ考えたりする。

 そんな風に、心ここにあらずであることを見透かされたのだろうか。同僚のとある人物から、花梨はふいに声をかけられた。

「神社からは、みこしが出るらしいよ。巡行の日らしいけど」

「おみこし? 祇園祭って山鉾だけじゃないんですね」

 思わず、そう返してしまう。すると、その人――西条浅沙は、なぜか得意げに、にやりと笑った。勝ち誇ったような相手の顔を見て、花梨は自分のうかつさにため息をつく。

 ――バイト中は、あまり話さないようにしていたのに。

「花梨ちゃんは宵山行くの?」

 そうたずねられたが、花梨はどうにも返答に困った。行きたい気持ちはあったが、この相手には何となくそれを知られたくはなかったからだ。

「……行きません」

 とっさにそう答えると、彼はあからさまに残念そうな顔をする。

「え? そうなの? これで上がりだよね? 宵山は十一時までだって。近いし、少しだけでも見に行かない?」

 見に行くのが当然、とでも言いたげに、彼は矢継ぎ早にそう言った。しかし、この人が相手の場合、そう言われれば言われるほど、どうにも反発したくなる。

「行きません」

 その返答に、彼は軽く肩をすくめた。

「そう? 空が少しずつ暗くなっていく中で、提灯の明かりが並んでさ。祇園囃子ぎおんばやしっていうの? あれが聞こえてくる。大通りもいいけど、俺は細い道を歩くのが好きだったな。人の流れにのって、まぎれてさ。外れた小路から、雑踏を見るのもいい。そうして見て回るだけでも、けっこうおもしろいよ。本当に行かない?」

 気になることを言ってくれる。しかし、花梨はかたくなに首を横に振った。

「――そう。残念」

 最後にそれだけ言って、彼は笑いながら去っていった。



 アルバイトを終えた花梨は、そのまま槐の店を訪れた。

 座敷にいたのは椿と桜。椿の方はいつもの定位置で、やはり本を読んでいる。祭りの日ではあっても、この店は特に変わったところはないらしい。

「椿ちゃんは、宵山には行く?」

「誰が行くの。あんな恐ろしく人の多いところ」

 花梨の問いかけには、そんな答えが返ってくる。

「沙羅なら喜んで行くんでしょうけど」

 続けてそう言った椿に、花梨は首をかしげた。知らない名だ。いや、聞いたことはある気もする。

 応えたのは桜だった。

「そう言えば、今年は祭りに合わせて帰っては来られなかったですね。沙羅さん」

「ヒマラヤ山脈の頂にでも行って、帰って来られないんじゃない」

 と椿は言う。

「沙羅さんでもさすがに、それは……ないですよね?」

 軽く笑っていた桜だが、話しているうちに不安になったらしい。とはいえ、それをたずねられても花梨には返答のしようがない。そもそも――

「その、沙羅さん、って名前、前にも聞いた気がするけど……」

「なんだ。知らなかったの」

 花梨が言い淀むと、桜が口を開くより先に椿が答えた。視線は本の文章を追ったまま、気のない風にこう続ける。

「音羽家の人間」

 そうだろうとは思った。しかし、その答えだとあまりにも漠然としている。

 とはいえ、この家にいるのはほとんどが石なのだから、人であると知れただけでもよしとするべきか。当然のことながら、どんな人かはほとんどわからないが。

「どうせ、そのうち会うことになるでしょ。あなたとも」

 椿の言葉に、桜は苦笑しながら肩をすくめている。

「――お待たせしました。鷹山さん。どうぞ」

 そう言って、顔を出したのは槐だ。室内には入らずに、花梨がうなずいたのを確認すると、そのまま背を向けた。残る桜たちに見送られて、花梨はそのあとを追う。

 特に用もなくこの店を訪れるようになった花梨だが、今日に限ってはあらかじめ約束をしていた。かつて見た石を、もう一度見せてもらうという約束を。

「最近、少し勉強しているんです。石、というか鉱物のこと。柚子さんの話を聞いているときに、何も知らないことがわかりましたから」

 花梨の言葉に、槐はうなずく。

「そうでしたか。石は同じ鉱物でもひとつひとつ姿形が違うものです。いろいろな標本をご覧になられるといいですよ」

「なるほど……。でも、いくつか鉱物に関する本を読んでいるのですが、黒曜石のことは、あまりくわしく載っていなくて。桜石も」

 槐はふむ、と呟きながら、軽く考え込む。

「黒曜石は鉱物の定義には当てはまらないですからね。準鉱物とも言われますが、分類としては岩石です。桜石の方は仮晶。これもやはり、特殊な扱いでしょう」

 花梨は槐の話を興味深く聞いた。やはり、まだまだ理解できていないことばかりのようだ。

 そうして話を聞いているうちに、例の部屋の前にたどり着く。槐は扉を開けて、花梨を室内へと促した。

「ごゆっくり、どうぞ」

 そうひとこと言い残して、槐はそのまま去っていく。扉は開いたまま。のぞき込んだ室内は、わずかな明かりだけしかなく薄暗い。

 もうすでに日が落ちた時間ではあるが、そもそもこの部屋のカーテンはずっと閉めきられている。そのため、ほとんど日光が入らないようになっていた。

 鉱物の中には、光に弱いものもあるらしい。そうでなくとも、例えば湿度など、鉱物の保管には注意しなければならないことがあると知ったのは、花梨が石のことを調べ始めてからだ。

 とはいえ、それがこの部屋にある石に当てはまるかはわからない。槐が柚子に針鉄鉱を渡したときには、そう簡単に損なわれるものではない、とも言っていた。ならば、普通の石と同じ条件ではないのかもしれなかった。

 何にせよ、たとえ本で得た知識だとしても、知る前と知った後では印象は変わるものだ。花梨は何も知らずに訪れたときとは違う心境で、目の前の部屋へ足を踏み入れた。そのとき――

「やあ」

 ――やあ?

 思いがけず部屋の中から声がかかったので、花梨は立ち止まった。

 室内の中央に置かれたサイドテーブルに、誰かが寄りかかっている。やがて暗がりに慣れたその目が捉えたのは――初めて姿を見る青年だった。

 氷のように透き通る白。それが、彼に対して最初に抱いた印象だ。

 青年は驚く花梨に向かって、こう話し始める。

「お初にお目にかかる。まあ、僕自身は、君のことを何度も見かけてはいるのだけれど。僕はここにある石のひとつだ。君の認識としては、中でも特別な石、ということになるかな。音羽家の守り石だからね。何にせよ――」

 流れるような話が急に止まったのは、黒曜石が姿を現したからだ。珍しくどこか不安げな表情で、白い青年との間に割って入る。そして、こう問いかけた。

石英せきえい……なぜ姿を現した?」

「おや、黒曜石くん。無粋だな。せっかく挨拶をしているのだから、こちらから名乗らせて欲しいものだが?」

 真剣に問い詰める黒曜石を、白い青年は軽くあしらう。そんなちぐはぐなやりとりに、花梨はどうしていいかわからずに、ただ呆然としていた。

 黒曜石は、なおも食い下がる。

「しかし、あなたが出てきたとなると――」

「君が心配するようなことは、何もないよ。まったく。相変わらず頭が固いな。さて」

 白い青年はそう言うと、黒曜石を押し退けてまで花梨の前に立った。

「あらためて、僕は石英。そもそも石英という鉱物は、結晶を成した透明のものを水晶、そうでないものを石英と呼び分けるのだそうだ。ゆえに、僕はどちらかというと水晶なのだが、似た名を持つものがこの部屋にはいるのでね。そのため僕は石英で通っている。ちなみに、僕自身はそこの机の上にある桐箱の中だ。開けてくれてもかまわないよ」

「えっと、その……よろしくお願いします」

 勢いに押されて、花梨はそれだけ返した。思わず彼の示した先――サイドテーブルの上に目を向ける。

 思えばそこは、花梨が黒曜石を見いだした場所でもあった。卓上にあるのは、平たい寄せ木細工の箱と立方体の桐箱。桐箱の方はあざやかな紐が結ばれて、封がされている。

 開けるべきだろうか。花梨がためらっていると、黒曜石が首を横に振った。

「彼はいわゆる水晶玉だ。確かに、その箱に収まっている」

 黒曜石がそう話すと、石英は不満げに口を尖らせた。

「何だい。せっかく、初の対面をしようというのに」

「あなたが出てくるなど、ただごとではない。槐は知っているのか? 碧玉へきぎょくは何と?」

 黒曜石はさらにそう問い詰めた。しかし、石英は取り合うことなく、ただ呆れたように肩をすくめている。

「心配するようなことは、何もないと言っているじゃないか。そんな風に僕のことを、出てくれば不幸が起こる災厄のように言うのはやめてもらおうか」

「そのようなつもりは……」

 黒曜石が戸惑っている隙に、石英は花梨へと向き直った。

「君が槐と話しているのを聞いたものだからね。鉱物について知りたいのだと。ならば僕が助力しようと思って、こうして姿を現したわけだ」

「――あなたが?」

 疑わしげに問い返したのは花梨ではなく、黒曜石だ。花梨はまだ話の流れについていけていない。

「僕にそんなことはできないとでも? いいだろう。ご清聴願おうか」

 石英はそう言うと、わざとらしく咳払いをした。黒曜石はもはや何も言わない。勢いに飲まれて言葉を失ってしまったようだ。

「では、先ほどの話の続きをしよう。水晶の名を持つものが他にもいると言ったが、そもそも石英を成す物質、酸素とケイ素はこの地表ではありふれている。それゆえに、石英に属するものは多い。紫水晶や煙水晶は、水晶に含まれる成分に天然の放射線が作用した結果、色づいたものだ。瑪瑙めのうなどは微細な石英の結晶の塊。それに不純物が混じると碧玉になる。君に身近な話をするなら、実は黒曜石の主成分も二酸化ケイ素だよ――いかがかな?」

 石英は得意げにそう結んだが、花梨も黒曜石も呆気にとられて何も言い返せない。石英は反応が薄いことが不服なのか少しだけ顔をしかめた――が、すぐさま切り替えた。

「――と、まあ。このまま僕が話し続けてもいいんだけどね。実は僕が出てきたのは、こんなことを言うためじゃない」

 石英はそう言った。

「先ほどは、花梨の助力するために出てきた、ということだったが」

 黒曜石は戸惑った様子で、そう返す。石英は肩をすくめた。

「彼女に僕たちのことを教えることは、やぶさかではないよ。しかし、だ。何せ、今日は宵山だろう?」

「それが、何か?」

 そろって首をかしげている花梨と黒曜石に、石英はやれやれといった風にため息をつく。

「京都にいて、この祭りを見に行かないなんて損だと、僕は言っているのだよ」

 それは意外な答えだった。まさかこの場でまで、祭りに行くことをすすめられるとは。

 花梨は言葉を選びつつ、こう答える。

「宵山のことは、姉からいろいろと聞いていました。だから、見たいという気持ちがないわけではないんです。でも、だからこそ、姉が見つかったときに一緒に見ることができたら、とも思うんです。それに、また何か妙なことが起こるかもしれませんし。人の多いところで、誰かを巻き込みでもしたら……」

 花梨がそこで言い淀むと、石英は嬉々としてこう引き取った。

「つまり、それが気がかりで行かないわけだ。ならば今回に関しては、君の安全について、僕が問題ない、と請け合おう。それでいかがかな?」

 石英の言う意味がよくわからずに、花梨は戸惑った。そもそも姉のくだりが無視されているような気もするが、そうでなくてもよくわからない理屈だ。この状況で、彼が一体何を請け負うというのだろう。

 その疑問に答えたのは、黒曜石だった。

「花梨。彼は……石英は、私のように悪しきものを討つ力はない。しかし、未来などを垣間見る力がある」

 未来が見える――

 花梨は目を見開いた。一条の戻橋で、花梨も先を占うことを考えた。姉の行方について。そのときは叶わなかったが、彼が特別な石だというのなら、あるいは――

 しかし、黒曜石のその言葉に、石英は軽く肩をすくめてみせた。

「見えるといっても、そうはっきりしたものじゃない。残念ながらね。しかし、今回に限っては、大丈夫だと断言できるよ」

「あなたがそう言うならば、そうなのだろうが……」

 黒曜石は花梨と顔を見合わせた。思いがけない話に、花梨自身もどう答えたものか図りかねている。その沈黙をどう捉えたものか。石英はさらにこんなことを言い出した。

「それでもまだ、不安だ、と。それなら――黄鉄鉱おうてっこう。黄鉄鉱!」

「――は?」

 焦ったような声が、どこからかした。石英が呆れたようにため息をつく。

「君。今、気を抜いていただろう。間抜けな声が出たぞ」

「そりゃあ、この流れで俺が呼ばれるなんて思わないでしょうよ。相変わらずよくわからない石だな、あなたは」

 声はすれども姿は見えない。しかし、おそらくは棚に並べられた石のひとつが話しているのだろう。

「君。彼女と一緒に行きたまえ。今回は君の力が必要なようだ」

 石英がそう言った瞬間、黒曜石が気色ばむ。

「待て。石英。それはどういう意味だ? やはり、何かが起こると?」

「黒曜石くん。君はつい先ほど――あなたがそう言うならばそうなのだろう、と納得したばかりじゃないか」

「いや。前言を撤回する。あなたがそういうことを提案して、何も起こらなかったためしがない」

「起こる起こらない、が問題ではないよ。厄介ごとを避けて、そうすれば万事うまくいくだなんて、思わない方がいい。それをかんがみても、僕がぜひ行くべきだ、と言っている。そして、それを決めるのは君じゃない。彼女だ」

 黒曜石はやり込められたように黙り込んだ。そうして、困惑した視線を花梨に向ける。

 戸惑いの表情のまま、黒曜石が口を開いた。

「彼は……少なくとも悪意のある嘘をつくような者ではない。その点は、保証しよう」

 その言葉で、どうやらすべては自分の決断に委ねられたらしい、と花梨は察した。祭りに行くだけで、どうしてこんなおおごとになってしまったのだろう。とはいえ――

 この状況で、行かない、と断るのも難しい。それだけでなく、未来を見る石がそれを提案している、という事実も気になった。

 周囲を意思ある鉱物たちに取り囲まれたその場所で、花梨は意を決してこう告げる――


「あれ? 花梨さん、今から宵山に行くんですか?」

「何。結局行くの。行くなら、ベビーカステラ買ってきて」

 驚く桜に、あくまでも淡々としている椿。黄鉄鉱を手にして座敷に戻った花梨を迎えたのは、そんなふたりだった。

 花梨は桜に軽く事情を説明する。それを聞いて、桜は顔をしかめた。

「石英さんがそんなことを……でも、わざわざ黄鉄鉱さんまで連れ出しておいて、何もない、なんてことはないと思いますけど」

 今はもう姿を消した黒曜石が、それに応える。

「それはわかっている。しかし、彼があれほどまでにすすめるからには、おそらく何かしら意味があるのだろうと――」

「なるほど。そうやって押し切られたんですね」

 桜にそう言われて、黒曜石は黙った。実際にやり込められている場面を見ているので、花梨は軽く苦笑する。

 それにしても、これほどまでに心配されるとなると、自分が下した判断はこれでよかったのだろうかと、どうにも不安になってくる。それが表情に出ていたのか、桜が取り成すように口を開いた。

「まあ、石英さんが大丈夫、というからには、大丈夫だとは思いますけど。問題は、それを言ったのが石英さんだってことです。だって石英さんですよ」

 やはり、そういうことになるらしい。不合理なことを言っている気もするが、言わんとしていることはわかる気もする。

 そんな風に話しているうちに、その場に槐がやって来た。黄鉄鉱を持って、突然宵山に行くと言い出した花梨に、槐は驚くこともなく穏やかにほほ笑む。

「そうですか。これから宵山に。ぜひ楽しんできてください」

 唐突な心変わりを、いぶかしむ様子もない。花梨は槐のことが何となく底知れない気もしたが、実のところ深い意味はないような気もした。

 椿とはお土産の約束をして、桜には見送られつつ、花梨は槐とともに通り庭へと向かう。そうして表へと続く戸から出る直前、槐は花梨を呼び止めた。

「お帰りのときにお渡ししようと思っていたのですが……」

 槐はそう言うと、手にしていたものを花梨に手渡した。和紙に包まれたそれを、花梨は軽く開く。中に入っていたのは、白いのっぺりとした石。

「今日、こちらに届いたものです。もともと店にあったものではないので、特別な石ではありません。しかし、伝手を当たって、こちらに簡単な術を施してもらいました」

 花梨が驚いて目を見開くと、槐は苦笑した。

「そんなたいそうなものではありませんよ。ご祈祷をしてもらった、くらいに考えてください」

 槐は白い石を指して、こう話す。

「これは、こぶりいし。ほとけいし菩薩石ぼさついしとも呼ばれます。珪乳石けいにゅうせき――メニライトという不純物を含む蛋白石――オパールの一種です」

 その説明を聞いて、花梨はあらためてこぶり石を見た。受け取った石は丸っこく、簡単な人の形――頭と体だけの単純なものだが――をしている。

「それを、今回は人形ひとがたとして見立てました。ちゃんと作用するかわかりませんが、これもひとつのお守りとしてお待ちください」

 黄鉄鉱に、こぶり石。そして当然、黒曜石も伴って、ちょっとそこまで行くのに、ずいぶんと重装備になってしまった。

 しかし、ここまで来ると、花梨も覚悟ができてくる。そうでなくとも、今から見る光景に少しだけ期待を抱き始めていることに、花梨も自覚せずにはいられなかった。



 祇園の四条通りは、すでに人でごった返していた。

 今日に限っては人の流れのほとんどは山鉾町がある方、四条大橋へと集中している。その流れに乗って歩きながら、花梨は手にした石に話しかけた。

「何だかつき合わせてしまったみたいで、すみません。黄鉄鉱さん」

 黄鉄鉱。その鉱物の存在は、すでに本で見て知っていた。鉄と硫黄から成る鉱物。何よりも、その見た目が印象に残っている石だ。測ったように均整のとれた立方体はどこか作りものめいていて、何も知らなければ自然に産出したものだとは思わないだろう。

 槐から借りた黄鉄鉱も、いくつかの立方体が寄り固まったような形だった。金色の光沢も相まって、まるで誰かが細工でもしたかのように思われる。

 花梨の呼びかけに、黄鉄鉱は苦笑まじりに応えた。

「お互い災難だ。あの石に目をつけられたんだから。まあ、そう気負わずに、気楽に行こうじゃないか」

 慣れたものなのか、それともこの石の気質か。何にせよ、黄鉄鉱の言葉に花梨は少しほっとした。あの場所にある石たちは、おそらくはすべてが花梨に友好的なわけではない。しかし、少なくともこの石は力を貸してくれるようだ。

 雑踏の音にまぎれて、次に声を上げたのは黒曜石だった。

「花梨。石英がすまなかった。他には見えないものが見えるせいか、たまに突飛なことを言い出す。勝手な言動は、碧玉に戒められているはずだが……」

 石英のことはともかくとして、花梨は碧玉という名が気になった。石英と会話していたときにも、耳にした気がする。

「そうは言うがね。音羽の者ほどではないが、石英には甘い方だよ。あの石は」

 これは黄鉄鉱の言葉だ。その石の人となり――と言っていいのか――を知らない花梨は、内心で首をかしげている。そのことを察したのか、黒曜石はこう言った。

「碧玉は、君の前に姿を現すことはないかもしれない。彼は、音羽家の者以外には……少々厳しいところがある」

 黒曜石は濁すようにそう言った。黄鉄鉱も同調する。

「そうそう。まあ、別に音羽の者に特別甘いというわけでもないが。槐すら頭が上がらないようだし。怒るとものすごく怖い。あまり関わらない方がいい」

 いつかのとき、特別な石についての問いに、槐と桜が言葉を濁した理由がわかった気がする。石英と碧玉。前者は言わずもがな、後者もまた、話を聞いているだけでも厄介そうだ。ともかく。

 しばらく人波にまぎれて歩いて行くと、いよいよ祭りの空気が近づいてきた。

 宵山のこの時間、四条大橋から西側の堀川通りと交わるところまで、四条通は歩行者だけの通れる道となる。橋を渡り終える頃には人も格段に多くなり、祇園の辺りを歩いていたときの比ではなくなっていた。

 いつもは車が通っているところにもすでに人が満ちていて、皆笑いさざめきながら道端にある山鉾を渡り歩いている。両端の建物の中からも、思い思いに祭りの光景を楽しんでいる姿が見えた。

 山鉾を飾っている提灯の光が、日も落ちて夕闇に沈みゆく空に煌々と浮かぶ。その山鉾からは、独特な調子のお囃子の音が聞こえていた。

 もちろん、人の声も止むことはない。山鉾に近づいて行くにつれて、それは徐々に大きくなり、花梨がそれらのただ中に入り込む頃には、人の多さで自由に身動きできないほどになっていた。

 初めての祇園祭に圧倒されて、花梨は言葉を失う。唐突に来ることを決めたせいで、どこに向かっていいかもわからないが、それでも祭りの雰囲気に浮かされて、花梨は流されるままに四条通りから北への通りに曲がっていった。ここはどこの通りだろう。四条通りより狭い通りだが、山鉾が建っていせいか、やはり人は多い。

 非日常の空気。確かに、これは入り込むだけでも特別な何かを体験している気になってくる。しかし、こんなことなら、ここに来る前に少しは祭りについて調べておくべきだった、と花梨は軽く後悔した。

 空がすっかり暗くなり、提灯の明かりがよりいっそう輝く頃。ぼんやりと歩いていた花梨はふと、人のあふれた通りとは別の道を横目に見た。山鉾がないためか、こちらには人影が全くない。暗い夜道に、ただ街灯だけがぽつぽつと一部を照らしている。

 ――誰もいない道?

「あれ? 鷹山さん?」

 そのときふいに、誰かに声をかけられた。振り返った先に、人をかき分けながら現れたのは、同じ大学の同回生。

「笹谷さん」

 講義を受けているとき、ノートを貸して欲しいと頼まれた相手だ。それ自体は変わったことではないが、大学では人に避けられるのが常だったので、花梨は彼女にどう接するべきかを決めかねていた。

 そんな戸惑いを知ることもなく、彼女の方はいつも気兼ねなく話しかけてくる。

「友だちと来たんだけど、はぐれちゃって。こんなに人、多いんだね。祇園祭って。びっくりしちゃった。鷹山さんはひとり?」

 答えに迷っているうちに彼女が目を向けたのは、花梨も気にしていた誰もいない通り。

「あ。ここの道、人が少ないね。あたし、人波で疲れちゃって。ちょっとひと休み……」

 花梨は、はっとした。行かせてはいけない。直感に従い、手を伸ばし引き止めようとする。

「待って、笹谷さん」

 しかし、伸ばした手が彼女をつかむことはなかった。それどころか、花梨はとっさにその手に持っていたもの――黄鉄鉱を手放してしまう。まるで、何かの意志に従うように。

 そして、彼女は――笹谷茴香は姿を消した。黄鉄鉱とともに。跡形もなく。

 花梨は慌てて誰もいない通りに入る。しかし、そこはもう普通の道だ。人通りは少ないとはいえ、人影がないわけではなく、背後からは変わらず祭りの喧騒が聞こえてくる。

 黒曜石が姿を現した。彼もまた、この事態に焦っている様子だ。

「花梨。呪いの依り代は、おそらくこの辺りに隠されているだろう。しかし、この暗がりでそれを見つけることは、私の得手ではない。槐に助けを求めるべきかもしれない」

 黒曜石はそう言った。やはり、何かが――おそらく花梨のことを狙っていたはずの呪いが――関係のないはずの茴香に作用してしまったのだろうか。

 花梨は考える。黒曜石の言うように、槐の店に帰った方がいいのかもしれない。しかし――

「石英さんが問題ない、と言っていたのが気になるの。それも、黄鉄鉱さんまで持たせて」

 花梨は石英の言葉を思い返す。こうなることを、彼は知っていたのだろうか。それなら、あの提案には何の意味があったのだろう。

 ――もしかして、試されているのだろうか。

 祭りからは少し外れたその道で、自分の為すべきことについて、花梨は必死で考えを巡らせた。

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