第五話 針鉄鉱 後編
夜中にふと目が覚める。
自室に戻ってからは準備に追われ、気づいたときには真夜中を過ぎていた。そのせいで、ほとんどそのまま寝入ってしまったらしい。
部屋の中はしんとして静かで、ぼうっとしていると時計の針が回る音だけがかすかに聞こえてくる。しばらくはそうしてまどろんでいたが、ふと喉の渇きを感じて、柚子はベッドから起き上がろうとした。
そこで初めて、部屋の中に人影があることに気づく。
一瞬で体がこわばった。何者だろう。何かの影の見間違いならいいが。そう思いつつも、柚子は祈るような気持ちで暗がりに目をこらす。その正体を見定めるために。
やがて闇に慣れた、その目が捉えたのは――
男だ。見知らぬ男が、本を読んでいる。手にしている本は、部屋の本棚に並んでいるうちの一冊だ。
なぜ見知らぬ男が、この部屋で落ち着いて本など読んでいるのだろう。暗すぎて、その表情ははっきりとはわからない。しかし、その堂々たる様は、人の部屋に入り込んでいることなど何とも思ってなさそうだ。
呆気にとられた柚子だが、しばらくしてから、はっとして身構えた。のん気に本を読んでいるからといって、警戒しない要素は何もない。むしろ、はっきりと姿を捉えたのだから、危機は明らかなものになったと言っていい。どうすればこの場を切り抜けられるのか、柚子は目まぐるしく考えを巡らせる。
そのときふと、男は読んでいた本から顔を上げた。柚子が目覚めたことに気づいたのか、ちらりとこちらに視線を送ると、おもむろにその口を開く。
「えじきをもとめさまよふキツネ。ししむらくはへてカラスは木の上」
その言葉には聞き覚えがあった。橋で聞いた声の言っていた内容と、全く同じ。
しかし、声自体は橋で聞いたものとは明らかに違っていた。橋の声はもっと明るく澄んだ声だ。こちらはどちらかというと低く、錆びついたような渋みのある声。
何にせよ、ただの侵入者がその内容を知っているはずがない。ならば、これはきっと夢だ。そうに違いない。柚子はそう納得した。
夢ならどんなにおかしなことが起こっても、不思議ではないだろう。とはいえ、できることなら、もっといい夢が見たいものだが――
「この声を読み解くことはできたか?」
男は柚子に問いかけた。
柚子はどう答えたものかと悩む。そもそも、答える必要があるだろうか。こちらは疲れているのだ。夢ならば、こんな奇妙な状況は、さっさと終わらせてしまいたい。
「読み解くも何も……子供の歌か何かじゃないの」
男はため息をつく。
「声は聞けども話を聴かず、話は聞けども、意味を解せず、か。嘆かわしいことだ」
「は?」
柚子は、ぽかんと口を開けた。男はかわいそうなものでも見るかのような目で、柚子を見つめている。そんな目で見られなくてはならない理由がわからない。柚子は困惑し、あからさまに顔をしかめた。
――何だ、この人。
「そもそも君は声を聞こうとしているか? もう少し、よく考えてみるといい」
男が言う。
柚子は、むっとした。夢の中に現れた見知らぬ男が、声の意味がわからないのは柚子のせいだと責め始める。どうしてこんな夢を見るのだろう。夢なら早く覚めて欲しい。
「そんなこと言われても……わからないものはわからないんだから、仕方ないでしょ」
柚子がそう言うと、男は残念そうに首を横に振った。
「わからないことを、わからないと自覚することは結構だが、その帰結が、仕方がない、ではな……そもそも、知識の問題ではない。己の心の問題だ。人は往々にして、己の聞きたいことだけを聞くものだ。それを自覚しなくてはならない」
柚子は言い返そうとした。しかし、その前に男はこう続ける。
「君は少し視野が狭いようだ。己に自信があることは結構だが、だからと言って、それ以外をないがしろにするのは違う。あからさまに態度に出すのもよくない。人の話は、もう少し身を入れて聞くべきだ。君は、槐の言っていた戻橋の予言の逸話が、何を由来にしていたかなど、覚えてはいないだろう?」
そんなことを、一気に捲し立てられる。なぜそんなことを言われなくてはならないのか。
そもそも、話ならちゃんと聞いていた。確かに興味のないことには、若干上の空だったことは否定しないが。その由来だかも、たぶん覚えているはず。『平家物語』だったか、『源氏物語』だったか――
「ちなみに、橋占の例で槐が名を上げたのは、『源平盛衰記』だ」
男はそう言った。ぐうの音も出ない。いや、違う。そもそも、その由来を知っていたから何だというのだ。やはり、自分には関係ないではないか。
「その――偉い人の予言ならともかく、たまたま聞こえた声に、意味なんかあるわけないじゃない」
どうにかそう反論すると、男は眉間にしわを寄せて柚子をにらみつけた。
「意味のない言葉などない。意味がないと思うのは、それを君が理解できていないだけだ。理解できない言葉はすべて遠ざけるつもりか?」
何だか、泣きたくなってきた。どうしてここまで言われなくてはならないのか。柚子は情けない気持ちで、こう言い返す。
「それの何が悪いの。周りの言葉ばかり気にしてたら、何もできない。私はただ……私が信じたようにやりたいだけ」
柚子はふと、自分が作家として活動し始めた頃のことを思い出した。少なくとも親はいい顔をしなかった。むしろ否定的なことばかり言われる。それは今もそうだ。始めから応援し、今までずっと意味のある言葉をくれたのは――
柚子に少しは同情したのか、男は少しだけ視線をやわらげて、こう言った。
「時の流れは止まることなく、すべては変化していく。目を閉じ、耳を塞ぎ、背を向けるならば、その変化に取り残されるだろう。受け入れた上で捨て去るならそれもいい。しかし、初めてから拒絶するものではない。それでは世界は広がらない」
柚子は反論する気力もなくして、男の話を黙って聞いていた。
もう、何が何だかわからない。変な声が聞こえるというだけのことだったのに、どうしてこんなにみじめな気持ちにされなくてはならないのか。
柚子が押し黙ったままでいると、男はふいに、手にしていた本を元にあった場所に収めた。そうして、柚子にこう声をかける。
「真意を読み解くがいい。声を聞く、とはそういうこと。カラスが鳴いてしまった後では、もう遅いのだから」
その言葉を最後に、男は姿を消した。忽然と、跡形もなく。
やはり、夢だったようだ。そう思って、ほっとした途端、柚子はどっと疲れを感じた。そうして、そのまま眠りにつく――
次に目を開けたとき、柚子は妙に悲しい気持ちで目が覚めた。
嫌な夢を見た。そのことを真っ先に思い起こす。変な男によくわからない説教をされる、という夢。
お祓いにでも行った方がいいのだろうか。ふと、そんなことを思う。
橋占だか何だか知らないが、占いなど正直言うと内心では馬鹿馬鹿しいと思っていた。しかし、それとお祓いでは、何が違うというのだろう。たとえ信じてはいなくとも、時にはそういうことにすがらなければならないこともあるのかもしれない。
時間はもう昼前だった。午前中には終わらせておきたい作業があったのに。そう思いながら、身を起こす。そうして、いつものように端末のメッセージを確認した。
新しいメッセージは何もない。ほとんど何も考えないまま、柚子はメッセージを入力すると、それをすぐに送り出した。
変な夢見た……
ただそれだけ。しかし、すぐに返事が来る。簡潔な文章だが、こんなことは珍しい。
相手は幼なじみの親友だった。小学校の頃からの友人で、たまにアクセサリーのデザイン画を見てもらい、アドバイスをもらっている。身近にいる中では、柚子の数少ない理解者のひとりだ。
今の時間なら、会社でお勤めのはずだが――
新しいデザインどうだった?
その問いに対して賛辞の言葉が送られてきたので、柚子は、ほっとした。と同時に、その感情の中にかすかな陰りがあることを感じる。
――人は往々にして、己の聞きたいことだけを聞くものだ。
心地よい評価だけを受け入れて、浮かれているとでも言いたいのだろうか。自分が、否定の言葉を遠ざけているだけだと。
ならば余計に、がんばらなければならない。夢の中でご高説を垂れてくれたあの男を――そして、自分の夢を否定するすべての声を見返すためにも。
* * *
槐の店にやって来た花梨は、座卓に置かれたものに気づいて、あ、と声を上げた。
そこにあったのは、いつの日か槐が柚子に渡した針鉄鉱だ。橋で声が聞こえたのか、それとも、また別の理由か。何にせよ、彼女はこの店に再び訪れたらしい。
花梨の方は、すっかり槐の店に通い詰めるようになっていた。姉のことが行き詰まっているせいもあるが、それを言い訳にしてここへやって来るのは、結局のところ、この場所を居心地よく感じているからだろう。そんな事情で今日もまた、花梨は甘味をお土産に店に来ている。
部屋の隅では、椿が本を読んでいた。桜はいつものようにお茶を用意してくれたところだ。珍しく槐の姿はない。
「柚子さん、店に来たんだね」
花梨は桜に向かって、そう言った。桜はお茶を淹れた湯のみをふたつ置くと――石たちは飲み食いはしないらしい――こう答える。
「来られましたよ。針鉄鉱さんから話を聞いた槐さんが、橋占のことを話されていました」
「私、あの人苦手」
菓子に飛びつきながら、椿が呟く。
柚子が再来したときには、どうやら椿が居合わせたらしい。おそらく、あのときと同じように自分の店のことを宣伝したのだろう。
「柚子さん、大丈夫だったのかな。その、橋占の結果は――」
そこまで言って、花梨はそれ以上たずねていいものかを迷った。占いなのだから、個人的なことに関わることもあるだろう。あまり人に知られたくないことだとしたら、聞かない方がいいかもしれない。
そう考えた花梨が話題を変えるより先に、どこからかそれに答える声があった。
「生命の危険があるわけではない、と判断した。であるからには、こちらが何かをすることはない。我々は、外の者と必要以上に関わるつもりはないのだから」
いつもは槐のいるその場所に、男が姿を現した。暗褐色の髪色に同じ色の目。なぜか眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな表情をしている。
「針鉄鉱さん」
桜がそう呼んだ。ならば、彼がこの――今、座卓に乗っている針のような鉱物、針鉄鉱の化身なのだろう。
「初めまして」
と、花梨は声をかける。
とはいえ、相手の方は、花梨のことを認識したのはこれが初めてではないかもしれない。しかし、そう言う以外にないだろう。針鉄鉱が無言でうなずくのを見て、花梨はこう続ける。
「特に危険がないなら、よかったです。槐さんに聞いた逸話では、最期を予言した、ということでしたから」
針鉄鉱は花梨のことを一瞥してから、軽く肩をすくめた。
「その点について危惧する必要はない。これは本人の問題だ。私の方からも一応、忠告はしたが」
針鉄鉱のその言葉に、桜は驚き眉をひそめている。
「忠告はしたって。まさか、本人にですか?」
針鉄鉱は落ち着き払った表情で、こう返す。
「そうだが。何か? もっとも、どうやら私の存在を、夢か何かだと思っていたようだがな」
桜はその答えに、呆れたようにため息をつく。
「まあ、いいですけど。どうせまた、迂遠な言い回しで煙に巻いたんでしょうし」
「私の言葉を迂遠だと捉えるなら、それはそのようにしか聞くつもりがないからだ」
「はいはい」
桜におざなりな反応を返されても、針鉄鉱は特に気にする様子もない。
「あとは、本人が聞く耳を持つかどうかだろう」
それだけ言い残して、針鉄鉱は姿を消してしまった。呆気にとられたまま、花梨はそれを見送る。
桜は針鉄鉱に――今は沈黙している鉱物の方に、ちらりと視線を向けた。
「気にしないでくださいね、花梨さん。針鉄鉱さんのあれは、いつものことですから。気難しいというか、何というか」
桜は取り成すようにそう言う。
「それにしても柚子さん、でしたか。ちょっと同情しますね。針鉄鉱さん、ああいう感じですし」
姿を現さないまま、黒曜石が異を挟む。
「しかし、彼は不誠実なことを言うような石ではないだろう」
「それはそうですけど。耳の痛いことを理論責めでちくちくと説教されるのは、それがどれだけ正しくても、つらいものですよ」
「覚えがあるのか、桜石」
と、黒曜石。その言葉には何も言わずに、桜は空とぼけている。
そのときちょうど槐が帰ってきた。座敷に顔を出すと、花梨にこう声をかける。
「おや。鷹山さん。いらっしゃい」
「お邪魔しています」
花梨がそう言うと、槐はうずいた。そして、いつもの定位置に――先ほど針鉄鉱が姿を現した場所に収まる。
そのとき、桜が思い出したように、どこからか紙片を取り出した。
「そういえば、その、柚子さんなんですけど。あのとき言っていた、お店のチラシを持って来られましたよ」
そう言って、桜はその一枚の紙を花梨に差し出した。そんなやりとりを見て、槐は椿にこう提案する。
「そうだったね。行ってきたらどうだい? 椿。もし良ければ、鷹山さんと一緒に」
花梨はうなずいたが、椿は明らかに乗り気ではなさそうだ。桜は苦笑している。
「そのお店の隣だかにある喫茶店のサービス券も、一緒に置いていかれましたよ。今流行りのレトロな限定スイーツがどうのと、力説されてましたし」
桜がそう言ってその紙切れを差し出すと、椿はそれを素直に受け取った。表情は変わらない。しかし、その心の内には、少し変化があったようだ。花梨にも、それはわかった。
平日の午前中。天気はあいにくの曇り空だが、夏も本番となるこの時期だと、日差しがやわらぐこと自体はむしろありがたい。まだ梅雨が明けていないので雨は心配なところだが、今日一日くらいは持ちそうだった。
柚子が主催するショップのプレオープンに招かれた花梨は、椿とともにその場所へと向かっていた。その途中には、橋がある。例の橋――戻橋が。
せっかく近くに行くのだからと思って、花梨はあえてその道を選んでいた。椿もそれは了承している。かといって興味があるわけでもないようだが。
実際に橋のたもとに着いても、椿は立て札には目もくれず、何の感動もなさそうに佇んでいた。かといって、花梨の方でも戻橋に特別な何かを――たとえば橋占をしようとか――そういう考えがあったわけでもない。
ひとしきり周囲を見回してから、花梨は橋を渡り始める。少し遅れて椿も続いた。特別な思いはないつもりだったが、いざ橋を渡るとなると、やはり無意識のうちに耳を澄ませてしまう。しかし――
残念なことに、そのときは何も聞こえなかった。声も、歌も、何も。
花梨は、がっかりしている自分に気づいた。占いに頼るつもりはなく、今までも気にしたことはないが、それでもあの話を聞いたあとでは、もしかして、という期待を抱いてしまっていたのだろう。
もしも、この先に起こることがわかったなら――
とはいえ、たとえ何かしらが聞こえたとしても、花梨にはその声を読み解ける自信はない。あのあと戻橋の逸話を調べてみたが、橋占を行ったものたちは安徳天皇の即位の予言だけを取り上げて喜び、その最期に関する予言については読み解けなかったようだ。
それに、こうも思う。もし、見たくない未来を見てしまったとして、自分はそれを受け入れられるだろうか。ありのままを、冷静に受け止められることができるだろうか――
「花梨」
戻橋を渡り切る一歩手前。黒曜石の呼び止める声で、花梨は、はっとして振り返った。気づけば椿の姿がない。慌てて周囲を見回し、視線を橋の半ばまで視線を向けたところで、花梨はようやく佇んでいる彼女の姿を見つける。
椿はしっかりしているようで、どこか危うい。ちゃんと気にかけてあげるべきだったと思いながら、花梨は慌ててかけ寄った。
椿の事情については、花梨はまだ何も知らない。平日のこの時間に自由に行動できる理由も、なぜ従兄だという槐のところへ身を寄せているのかも。
一緒に行動すること自体を嫌がっているようではなさそうだが、それでも椿と接する際にはいまだに壁を感じていた。店で合流してからここへ来るまでも、残念ながらほとんど言葉を交わしていない。道を歩くとき、椿がかたくなに花梨の近くを歩こうとしないせいもある。いったい、何を考えているのか――
そのとき、花梨はふと思った。椿はもしかして、この橋で何かの声を聞いたのではないだろうか。
花梨は来た道を戻り、椿の近くで立ち止まった。しかし、心配をよそに、椿は橋の下のささやかな水の流れをただじっとのぞいているだけ。
「ごめんね。気づかなくって。大丈夫? 椿ちゃん」
「何が?」
即座にそう返ってくる。変わったところは何もない。本当にいつもの椿だった。
「気分でも悪くなったのかと思って。気づかないで、先に行っちゃったから」
「別に。そうしてって言ったんだから、それでいい。私はついて行くから」
椿はそう言うと、無言で花梨が前を行くように促す。花梨は仕方なく、再び橋を渡り始めた。椿が問題なくついて来ることを、振り返っては確認しながら。
そのとき、どんよりとした空にどこからか声が響き渡った。花梨は思わずその音に意識を集中する。
機械を通した声だ。何かを知らせる、地域の人たちへ向けた放送のような――
明日は大雨の予報のため、予定していたイベントは中止となりました……
空の雲はさっきよりも厚く、黒々としている。何か、嫌な予感がした。そんな漠然とした不安を抱きながら、花梨は戻橋を渡りきる。それ自体は、何ごともなく。
重い空気のまましばらく道を行くと、花梨たちはやがて目的の場所へとたどり着いた。古屋を改装したような、趣のある家屋だ。となりには確かに喫茶店があり、どうやら行列ができるほどに盛況らしい。
しかし、当のショップに華々しい雰囲気はなかった。むしろ何かトラブルがあったらしく、数人が店を遠巻きにしながら、ひそひそと話をしている。
「何がって……見てないの? 柚子のデザインを模倣だって告発するアカウントが……いたずらかもしれないけど、野次馬が抗議の電話をするって、ネットではちょっとしたさわぎになってるよ」
「それで、オーナーがずいぶん怒ってるらしくて……」
そのとき、花梨たちのことに気づいたらしい柚子が店の中から出てきた。途端に周囲の話し声は消え、辺りはしんとする。
花梨が何かを言うより前に、柚子はこう言った。
「ちょっと問題があってね。急に中止になっちゃった。わざわざ来てもらったのに、申し訳ない」
そう言って、柚子は花梨たちを少し離れたところまでつれて行く。話をしていた人たちが気になって、花梨は柚子にこう言った。
「でも、あの人たちもお客さんでは……」
「いいのいいの。他は作家仲間ばっかだし。ちゃんと把握してるから。誘いを受けてくれたのに、ごめんね。こんなことになって。埋め合わせは後日必ず」
そう言って、柚子はこっそりと花梨に何かを握らせた。そうして、喫茶店を指さすと、小声でこう続ける。
「となりの喫茶店はやってるから、何か食べていって。お姉さんがもらった割引き券もあげちゃう。気にしないで、楽しんでいってね」
柚子はそれだけ言うと、足早に戻っていった。椿は早々に喫茶店の方へと並びに行ってしまう。
しかし、花梨はそう簡単に切り替えられなかった。呆然としたまま振り返ると、ショップに入る直前、柚子が寂しそうに呟くのが聞こえる。
「がんばったんだけどなあ……」
彼女の胸元に揺れるトルコ石が目に入る。あざやかな空色だったはずのその石は、以前見かけたときよりもどこか色褪せて見えた。
天気は雨。どこからか入り込んだじめじめとした空気によって、室内は陰鬱な雰囲気に沈んでいる。ただ、外の暗がりも相まってか、煌々と照る灯りのもとで雨音を聞いているのは不思議と心地よくもあった。
あの一件から一週間ほど後のこと。自身が埋め合わせをすると言ったとおりに、柚子は花梨と椿をひいきにしているという喫茶店につれて来てくれていた。その場所で、花梨たちは柚子から粛々と事情を聞いていた――わけではなく。
「だってさあ。親友だと思ってたんだよ。小学校から一緒なんだよ? まあ、こっちがそう思ってただけみたいだけど!」
そんな調子で、花梨たちは柚子の一方的な話につき合っていた。
「デザイン画が勝手に公開されてたとか。こんなのできるの、ひとりしかいないっての」
テーブルの上に所狭しと並べられた注文の品を恐ろしい早さで平らげながら、今回のできごとについて、柚子は絶えず話をしている。どうやら、そうやって吐き出せる程度には、この件については彼女の中で折り合いがついているらしい。
とはいえ、深い関わりがあるわけでもない花梨は相槌を打つこともできず、ただ呆然とその話を聞いていた。
「オーナーには事情を説明して、わかってもらえたからよかったけど――」
「待って。よかったって、どういうこと。その人のこと、許すの」
唐突に口を挟んだのは、つい今しがたまで淡々とパンケーキを食べていた椿だった。思いのほか感情的な声に、柚子は気圧されたようにぽかんと口を開ける。さっきまでは本当に気のない素振りだったので、花梨もその変化に驚いた。
柚子は衝撃から立ち直ると、なだめるようにこう返す。
「えーと、落ち着いて? これは椿ちゃんが怒ることじゃないって。それとも、やっぱり白黒つけないといけないお年頃かな」
「茶化さないで」
椿に強くそう返されて、柚子はしゅんとする。そうして次に口を開いたときには、さっきまでの勢いはなくなっていた。
「まあ、何て言うか……その、わからないんだよね」
「何が」
と、椿に詰め寄られ、柚子は軽く肩をすくめる。
「だから、わからないの。ずっと親友だったのに、どうしてこんなことしたのか。それでね、気づいた」
柚子は少しだけ調子を取り戻したように、こう続けた。
「私はずっと、話をちゃんと聞いてなかったなって。会社勤めの苦労とか、私にはわかんないよって、へらへら笑って流して。だから、わかんないんだよ。相手が何を思って、こんなことしたのか。本当に、何も」
「だからって、こんなことしていい理由にはならない」
「わかってるよ。私だって、やられたことは許せない。絶対に。でもね、私、本当に親友だって思ってた。小学生のときから、ずっと変わらず。そう思ってたなら、もう少し何とかできたんじゃないかって」
「相手が言わなかったんなら、仕方がないじゃない。何も言わないくせに、一足飛びにこんなことをされちゃ、どうしようもないでしょ」
柚子は椿の言い分に、たじろいだように顔をしかめた。
「まあ、ね。椿ちゃんの言うことも一理ある。ほら、橋占だっけ。結局、あれもそういうことだったんだろうし。教えてくれるなら、もう少しわかりやすく言って欲しいよね」
「あれはむしろ、わかりやすく言ったつもりなんじゃないの。あのとき槐があなたに話してたの、イソップ物語でしょ。カラスとキツネ。キツネが上手いこと言って、カラスが咥えたエサを、横取りするやつ」
思いがけずそう言い返されて、柚子は複雑な表情で椿を見つめ返した。椿の方は、どこ吹く風だ。それにしても――
口も挟めずにいた花梨は、初めて知る話に首をかしげた。イソップ物語のカラスとキツネ。それが、戻橋で柚子が聞いた声の内容。どうして、イソップ物語なのだろう。
柚子は力なく肩を落としている。
「相手のことを許しはしないけどさ。結局、自分も、やらかしたな、って思うから、こんなもやもやするんだよね。過ぎちゃったことは、取り返せない。あの変な夢も、一度きりだし……今ならたぶん、もう少しましに言い返せるのにな――あ、ごめん。これはこっちの話」
柚子はうつむくと、軽くため息をつく。
「ずっと、応援してくれてたんだ。その子。それも全部、嘘だったのかな。今となっては、たぶん、もう二度とわからないけど。でも――」
ひと呼吸を置いて、柚子は苦笑した。
「あのときの言葉のおかげで、今の私はあるから。だから、始まりは嘘なんかじゃなかったって、本当の言葉だったんだって。起こったことを全部受け止めて、その上でなら、少しくらいは……そう信じてもいいよね」
そのとき、テーブルに運ばれて来たのは、その店の名物らしい、あざやかな水色のゼリーだった。柚子の身につけているトルコ石と同じ色。あらためて見るとその色は確かに晴れた日の空の色で、もう色褪せたようには見えない。
いつの間にか雨もやんでいる。ふと視線を向けた窓の外に見えたのは、雲の切れ間からわずかにのぞいた青空だった。
「柚子さん、大丈夫そうでした。少し落ち込まれてはいたみたいですが」
椿とともに帰ってきた花梨は、槐たちにそう報告した。柚子との会話では少し苛立っていた様子の椿は、今は平静に戻り、部屋の隅で本を読んでいる。
「そうですか。何にせよ、中止は残念でしたね」
槐の言葉に、花梨はうなずく。そして、座卓に乗った鉱物に目を向けてこう続けた。
「それで、その……これはたぶん針鉄鉱さんに、だと思うのですが」
その言葉に反応して、針鉄鉱が姿を現した。不機嫌そうな表情で、それでも花梨の言葉を待ち構える。
「今なら、もう少しましに言い返せるのに、とおっしゃっていましたよ」
それを聞いた針鉄鉱はほんの少し笑った。わずかに、口を歪める程度だが。
花梨は思いきって、針鉄鉱にたずねることにする。
「ひとつ気になっていることがあるのですが」
「何かな」
針鉄鉱に促され、花梨はこう問いかける。
「どうして戻橋で聞こえたのが、イソップ物語だったんでしょう」
針鉄鉱はうなずくと、淡々と語り始めた。
「イソップ物語。古代ギリシアで奴隷だったと伝わるイソップ――アイソーポスが創作したとされる寓話。ただし、今ある寓話をすべてアイソーポスが創作したわけではなく、時代を経るにつれ様々な寓話が集積された結果、今の寓話集があるとされる。日本では
「そんなこと聞いてないですよ。針鉄鉱さん」
呆れたようにそう言ったのは、桜だ。
「知識というものは、あって困るものではないぞ。桜石」
針鉄鉱にそう言い返されて、桜は閉口する。針鉄鉱は気にする様子もなく続けた。
「イソップ物語といえば、教訓的な内容で広く親しまれた寓話だ。子どもの教育にもよく引用される。伝えるべき相手を見て、伝えようとしたものが相応しいと思い選択したのだろう」
「……何気に酷いこと言ってません?」
桜がぼそりと呟く。花梨は針鉄鉱の言葉に引っかかりを覚えて、首をかしげた。
「その、伝えようとしたもの、っていうのは……?」
針鉄鉱はこう答える。
「何の心構えもない者に、戻橋が個人的な問題を伝える道理などない。あれは予言ではなく、苦言だろう。彼女の身近にあり、それでいて寓話を知るものからの」
桜はきょとんとしているが、花梨にはそれに当てはまる存在で思い浮かぶものがあった。
イソップ物語はヨーロッパで親しまれていた寓話。その同じ地で、今の名を与えられただろう、それは――
「……もしかして、トルコ石、ですか?」
針鉄鉱は花梨の答えにうなずいた。
「そうだな。あの石は、我らのように明確な意思も言葉も持ってはいない。それでもトルコ石は、持ち主に危機を伝えるという逸話がある。だからこそ戻橋の声を借りて、語りかけていたのだろう」
柚子が持っていた、トルコ石のペンダント。愛着があると語った言葉どおりに、彼女はいつもそれを身につけていた。
「あの者も、己を気にかけるものたちのことを、かえりみることを覚えたなら――今回のことも、意味のないことではなかったな」
針鉄鉱はそれだけ言うと、満足そうな顔で姿を消してしまった。視線は自然と座卓の上――そこにある鉱物、針鉄鉱へと集まる。
槐は針鉄鉱を手に取り、思い出したようにこう言った。
「針鉄鉱。英語名はゲーサイト。その名の由来は、自然科学者として鉱物の分野でも功績のあった、ドイツの文豪ゲーテから」
* * *
橋を渡っていた。
何ということはない橋だ。石の欄干にアスファルトの道が敷かれていて、橋の下には申し訳程度の細い川が流れている。そんな、ごく普通の橋。
しかし、何かいわれの書かれた立て札があるとおり、そこにはいくつかの奇妙な物語が残されている。つい最近まで、その不思議を体験していた柚子にとって、その橋――戻橋は、すでにただの橋ではなくなっていた。
しかし、声はもう聞こえない。すべて終わってしまったことだからだろうか。それとも、話しても意味はないと思ったのか。聞こえなくなってしまうと、それはそれで寂しく感じてしまう。
橋の上で立ち止まり、往来に耳を澄ませてみる。そのとき、たまたま風に乗って聞こえてきたのは、がんばっている誰かを応援するような、やさしい流行歌だった。
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