第三話 翡翠輝石

 花梨が雑貨屋のアルバイトに来ていたときのことだ。

 ふいに、とある人物の姿が目に入る。それだけならどうということもないのだが、気になったのは、その人がなぜか店の軒下の方を見上げていたからだ。

 その人物とは――同じ大学に通っているらしいが構内で会ったことはなく、それでいて花梨より遅く雇われたせいで面倒な絡み方をしてくる同僚の青年だった。

「お、できてる。できてる」

 などと言いながら、これ見よがしに腕を組んで立っている辺り、どうやら彼に仕事をする気はないらしい。忙しい時間ならば、遅かれ早かれ店長に注意されるだろうから見過ごすところだったのだが――今日はたまたま、店頭には花梨を含む二人だけしかいなかった。

 花梨はそれでも無視しようかと考える。しかし、それはそれで、どうにも釈然としない。仕方なく、花梨は近くにある棚で品出しするついでに、こう声をかけた。

「……何してるんです」

 彼はその声に振り返ると、ほら、と無邪気に指差してみせた。よく見ると、少し見えにくい位置にツバメの巣ができている。

 そのときちょうど、どこからか一羽のツバメが飛んで来た。ツバメはそのまま、その巣へと帰っていく。いつの間にあんなところに――

 花梨が思わずそれを見つめていると、彼は無遠慮に顔をのぞき込んできた。その表情は、なぜか得意げだ。

「今気づいた? ちょっと前からあそこに巣を作り始めてさ。ずっと観察してたんだよね。そろそろヒナも孵る頃かな」

 そんなことを楽しそうに話す。ツバメの巣でこれだけはしゃげるなんて、少し意外だ。それにしても。

「ずっと観察してたんですか? 一人で?」

「そうだよ。巣を作り始めたばかりで店長に報告なんてしたら、壊せって言われるかもしれないでしょ」

 確かに、通りがかりに見かけるくらいならばともかく、店先にツバメの巣があっては面倒も多いだろう。清掃の手間もあれば、鳴き声が気に障ることもある。

 しかし、すでに卵があるならば、今さら巣を壊せと言われることはないかもしれない。それまであえて黙っていたなら、人がいいのか悪いのか。

「ツバメって人の多いところに巣を作るんだってね。人を天敵避けだと思ってるとか。いいね。たくましい」

「……ツバメ、好きなんですか?」

 花梨がたずねると、彼はきょとんとした顔になる。どうやら自覚はなかったらしい。

「いや? こんなところに巣を作るなんて、反骨精神があっていいなと思って。それで応援してたってだけ」

 それは、やはりツバメが好きだということだろうか。よくわからない。

「ところで、花梨ちゃん。俺の名前は覚えてくれた?」

 唐突にそう詰め寄られて、花梨は顔をしかめた。しかし、話しかけてしまった時点でそう来るだろうということは、花梨も覚悟していたことだ。

 花梨がとっさに思い描いたのは、バックヤードに貼られたシフト表。確か、そこに名前が記載されていたはず――

西条さいじょうセンパイ、ですよね」

 花梨はそれを思い出し、いかにも知っていた風にそう答えた。しかし、その答えでは、彼には不服だったらしい。軽く口を尖らせたかと思うと、すぐにどこか威圧的な笑顔に切り替えて、こう言い返す。

「俺の名前は浅沙あさざだよ。覚えてね。花梨ちゃん」

 そのやりとりを経て、花梨はあらためて――この人のことはやはり苦手だ、と密かに考えていた。


 いつもより早くにバイトを上がって、花梨は四条通りを歩いていた。

 祇園と言うと定番の観光地ではあるが、少なくともこの通りはけっこう雑然としている。観光客はもちろん、地元の人が行き交っていることもあってか、まず人通りが絶えることはない。古い店と新しい店が混在しているのもまた、雑多な印象を与えていた。

 その大通りから外れて、花梨は南の小路へと入っていく。にぎわいがないわけではないが、それでも雰囲気はがらりと変わった。

「今日は、槐のところへ?」

 しばらく歩いていると、ふいにどこからか問いかける声が聞こえてくる。

 声は聞こえても姿は見えないが――それが誰の声なのか、花梨には当然わかっていた。お守りとして借り受けた黒曜石の鏃――その化身である青年の声だ。

 周囲には、この声を聞きとがめるような人影はいない。花梨は小さく首を横に振りながら、こう答えた。

「特に用もないのに、あまり何度も行くのも悪いかなって……行きたい気持ちはあるんだけど。あの店は居心地がいいから、長居してしまいそうで」

「では、どこへ?」

 通行人とすれ違ったところを見計らって、花梨はぼそりと呟いた。

「お姉ちゃんの下宿先……だったところ。近所の人に話を聞くために、ね」

 行方不明の姉を探す。それが、今の花梨にとってもっとも重要なことだった。わざわざ京都の大学に進学したのも、そのためだ。

 とはいえ、ただの大学生ができることなど、たかが知れている。それでも、できることをしようと考えて、まず行ったことがそれだった。

「表向きはフィールドワークってことにしてるんだけど。でも、たいしたことは聞けてないの。慣れないことだし……なかなか難しくって」

 近所の人に話を聞くと言っても、姉のことを直接聞いて回ったわけではない。失踪した前後で周辺に何か異変がなかったか、それとなく聞く程度だ。そうした聞き込みの中では、いまだにわずかな手がかりも得られてはいなかった。

 書き置きだけを残して姿を消した姉。下宿先では何か問題があった様子もなく、近所の人にたずねてみても、姉のことを覚えている人はほとんどいなかった。京都は学生が多い。何の関わりもない人からすれば、姉もまた、取るに足らない学生のひとりに過ぎなかったということだろう。

 花梨がそんなことを考え込んでいると、ふいに黒曜石がこう言った。

「もう少し、自分の身も気にかけた方がいい。何者かが花梨のことを狙っているのだとして、どういう意図を持ってそうしたのか。それがまだ、わかっていない」

 黒曜石の声は、どことなく呆れているようにも聞こえる。あの奇妙な黒いもやのことがあっても、花梨がそれを警戒した様子もないことが、黒曜石には不思議に思えるらしい。

 確かに黒曜石の言う通り、それを行った者の意図はわからない。しかし、だからこそ――もしも、もう一度自分が狙われる状況になれば、何らかの手がかりが得られるのではないか――と花梨は密かに考えていた。そんなことを伝えれば、怒られてしまいそうだが。

 とにかく、どんな意図にせよ、呪いなんてことを行える者など、そうはいないだろう。それとも、そうでもないのだろうか。花梨が知らないだけで。

 花梨はひとまず、黒曜石こう答えた。

「わかった。気をつけるよ。それでも……お姉ちゃんを探すためには、隠れているわけにはいかないから。今は少しでも、手がかりが欲しいの」

 今のところ、得られた手がかりはないに等しい。

 姉とは毎日メッセージなどでやりとりしていた――とはいえ、花梨はその行動をこと細かに知っているわけではない。かといって、例えば日々の何気ない生活の中で姉が立ち寄っていた場所など、知っていたとしても、いくら回ったところで切りがないだろう。失踪に関する手がかりとなる可能性も低い。

 それ以外となると――

「そういえば、あなたが初めて姿を現したとき、待ち合わせをしていたでしょう? そのときも、相手からはお姉ちゃんの話を聞くはずだったの。でもまあ、それも今はちょっと……難しいかな」

 姉の下宿先を当たると同時に、花梨は姉の友人や知り合いを探していた。もちろん、話を聞くために。しかし、それも今ではあまり現実的な手段ではなくなってしまっている。少なくとも――ほとぼりが冷めるまでは。

 それというのも、あの一件以来、大学で妙な噂が立ってしまったためだ。噂というか事実だが、例の得体の知れないものを、待ち合わせの相手が見てしまったのがいけなかった。

 おかげで今、大学内で花梨に声をかけるような学生はいない。

 学業は別としても、姉を探すことが第一だと思っていた花梨は、そもそも友人を作るつもりもあまりなかった。しかし、そうはいっても遠巻きにされ、露骨に避けられるようになったのは、さすがに堪えてもいる。

 花梨は思わず肩をすくめた。

「大学では、しばらく学業に専念しなさい、ってことかもね。卒業できないなんてことになったら、目も当てられないし」

「本業をおろそかにしないことは、いいことなのだろうが……君はもっと、姉の捜索に固執しているかと思っていた」

 黒曜石の言葉に、花梨は苦笑する。

「親にはね、姉を探していることは秘密なの。京都の大学に入るって決めたときも、ものすごく反対されたし。姉がこんなことになったから、仕方がないんだけど」

 両親には、危ないことはしないと誓った上で、地元から離れることを許してもらっている。だからこそ、学業をないがしろにはできなかった。

「親との約束もあるし、それが条件でもあったから。だから、姉を探していることを隠している代わりに、そこだけはちゃんとしておきたいの」

「君にとっては、そうまでして求めるほどに、大事な人物ということか」

 花梨はその言葉に思わず押し黙った。

 それは確かに、黒曜石の言うとおりだろう。しかし、そもそもこうして京都まで来ても、本当に姉のことを見つけられるとは、花梨自身も信じてはいなかった気がする。それでも――

「そうだね。自分にできることを尽くして、それでもダメだと思えないと、諦めがつかなかった。そうじゃないと私は前に進めない。だから、全力を尽くしたかった。ただ、それだけ」

 その気持ちも今では少し変わっている。もしかしたら姉を見つけられるかもしれない、という淡い期待という形に。

 しかし、それはまだ、言葉にするにはあまりにも儚い希望だ。そのことは、花梨も十分に理解していた。

 黒曜石は納得したのか、それ以上は何も言わなくなる。花梨はしばらく無言で道を歩いて行った。

 いつの間にか槐の店からも遠ざかり、有名な神社がある辺りにたどり着く。少し前に参拝客らしき人を見かけたが、そこから離れるとほとんど人影はない。

 ふいに、花梨の目の前を一羽のツバメが横切って行った。アルバイト先でも見かけたばかりだ。そろそろ子育ての時期なのだろうか。そんなことを考えながら、花梨はツバメの行き先に視線を向けた。そのとき――

「花梨」

 突然、黒曜石がそう呼んだ。その声音にただならないものを感じて、花梨は思わず立ち止まる。しかし、周囲を見回してみても特に異変は感じられない。

 いや、違う。花梨は、はっとして思い直した。

 この感覚は何かに追われていたあのときと同じだ。知らないうちに周囲の人影もなくなると、いつの間にか奇妙な空間に囚われている――

 花梨は勘のいい方だ、と自覚していたが、自分に狙いを定めたものまでを避けることは、さすがに難しいのかもしれない。

 ――槐さんのところまで戻るべきだろうか。

 花梨はそう考える。しかし、その判断も迫り来る災厄から逃れるには遅すぎた。

 唐突に花梨の目の前に飛び込んで来たのは黒い影。手のひらほどに小さいが、その動きは恐ろしく素早い。花梨はとっさに、自分の身を庇うように両腕を上げた。

 影は花梨の腕をかすめて、上空へと飛び上がる。細い体と二股に分かれた尾羽――姿形からすると、それは一羽のツバメのように見えた。しかし、それは明らかに普通のツバメではない。

 柳の下で会った黒いもの。それと同じだ。ただ、あのときはもっと漠然としたものだった。しかし、たった今現れた影は、少し違和感はあるものの、ツバメであること自体は間違えようがない。花梨は戸惑いながらも、それを目で追っていく。

 そうしているうちに、いつの間にか黒曜石が青年の姿を現していた。彼の視線は飛び回るツバメの動きを捉え、追っているようだ。そのまま、彼はいつかのときと同じように弓を構え矢をつがえる。

 影の動きは早い。しかし、黒曜石は焦る様子もなく狙いを定めると、流れるような動作で矢を放った。黒曜石の矢は見事に影を射抜き、ツバメはその身を矢に貫かれたまま、まっ逆さまに落ちていく――

 それは、べしゃりと嫌な音を立てて地面に激突した。普通のツバメとは違って体が脆いのか、影はその衝撃によって黒い泥のように辺りへ飛び散っていく。

 柳の下の影と同じように、それもまたすぐに霧散するものだと、花梨は思っていた。しかし、どうも様子がおかしい。黒曜石は花梨を背後へと庇うと、無言でその残滓を注視している。

 しかして、彼の危惧したとおり、今回はこれで終わりとはならなかった。

 飛び散った黒い泥が動き出す。それはみるみるうちに地面に広がったかと思うと、やがて大きな泥だまりになった。それは逃れる間もなく、徐々に花梨の足元にまで及んでくる――

 花梨が戸惑っているうちに、泥の中からふいに何かが飛び出した。上空へと舞い上がったそれは、一度は射抜かれて地面に落ちたはずのツバメの影。

 しかも飛び立ったその一羽を追うように、泥の中から二羽、三羽、四羽……と、同じような影が次々と飛び出してくる。そうして、瞬く間に数を増やしていった。

 気づけば周囲を取り巻くように、無数のツバメたちが旋回している。いつの間にか、花梨はその黒い渦に囚われてしまっていた。

 花梨は黒曜石の方を振り返る。彼は再び弓を構えてはいたものの、次に狙うべき影を決めかねているようだ。飛び回るツバメを追うばかりで、その視線は定まらない。

 ――数が多過ぎるんだ。

 それだけではない。一度射ち落としても消えなかったのだから、同じことをしても、きっとまたこの状況をくり返すだけだろう。これでは、どれだけ射抜いたところで意味がない。

 何もできずにいる間にも、ツバメの一群は距離を狭めてくる。

 ふいに、その渦から数羽のツバメが離れた。かと思うと、それらは花梨へと襲いかかってくる。

 殺到してくるツバメの影。黒曜石が花梨を庇う。

 ツバメは花梨たちにぶつかっては、また地面の泥へと帰っていった。しかも、それらもまた、しばらくすると泥の中から飛び立って、上空の渦に飲み込まれていく。これでは本当に切りがない。

 間段なく黒い影が迫り来る。この状況では思うように身動きもできなかった。

 ただ、幸いなことに――と言っていいかはわからないが――この黒いツバメは、たとえ体に当たったとしても、それほどの痛みは感じないようだ。実体がないからだろうか。降り注ぐ雨に打たれている、といった感覚に近い。

 とはいえ、いつまでもこうしてはいられないだろう。

 ふいに黒曜石が動いた。弓は下ろし、何かを探すように頭上を見回している。やがて求めるものを見つけたのか、黒曜石は右手をかかげて口を開いた。

「行け。甲矢はや! 乙矢おとや!」

 その呼びかけに応じて、彼の手元から姿を現したのは二羽のカラス。

 周囲のツバメたちは、自分よりも大きなその姿を見て、怯んだように乱れ飛ぶ。それでも、ツバメはすぐに持ち直して、新たに現れたものたちに敵意を向けた。しかし、それが形になる頃には、二羽のカラスは包囲の間隙を縫って遠くへと飛び去ってしまっている。どうやら、囲いの薄いところを見定めた上で、黒曜石はあのカラスを解き放ったらしい。とはいえ――

「……黒曜石?」

 花梨は思わず彼に呼びかけた。ちらりと見えた黒曜石の表情はまだ厳しい。

「これで助けが来ればいいが」

 この場を去った二羽のカラス。向かった先は、槐のところだろうか。ここからなら、店からはそれほど遠くもない。誰かに危機を知らせることができるなら、確かにこの状況をどうにかできるのかもしれなかった。

 それでも、安心するにはまだ早いだろう。

 花梨はうつむいた。こんなことになる前、花梨は黒曜石の力があればどうにかなると思っていた。しかし、それは浅はかな考えだったのだろう。

「ごめんなさい。あれだけ言われていたのに、それでも私はまだ、このことを甘く考えていたみたい」

 花梨は黒曜石にそう言った。己の力の及ばない領分に手を出そうとしている――そのことへの自覚が足りていなかった。だからこそ、彼も一度は止めたのだろう。

 しかし、黒曜石はその言葉に首を横に振る。

「これほどのことは、槐も想定していない。甘く見ていたというのなら、こちらも同じだ」

 黒曜石がそう言った、そのとき――ふいに空気の動きが変わる。それは、今まで取り巻いていた淀んだ渦とは違う、吹き抜けていくような強い風だった。

 異変を察知したのか、その風が吹き始めたと同時にツバメの攻勢もぴたりと止まる。その上、風に道を譲るようにして、包囲に綻びが生じていた。

 そうして開かれた場所を通り、現れたのは一人の少女。

「何してるの」

 現れるなり、呆れたようにそう言ったのは椿だった。彼女は周囲の異様な光景など気にもとめず、花梨の元へ歩いて来る。

 手には小さな包みを持っていて――どうやら食べものらしい――椿はその中身をただ口に運んでいた。周囲の災厄など、まるで意に介していないように。

 あまりに緊張感のない姿に、花梨はしばらくの間、呆然とする。しかし、彼女が目の前までやってくると、花梨はようやく今の状況を思い出した。

「ダメだよ、椿ちゃん。ここに来ちゃ……」

 花梨は慌ててそう言ったが、椿は軽く一笑するばかり。

「あのさわがしいカラスを寄越しておいて、何を今さら」

 よく見ると、ツバメの囲いの外でカラスが一羽飛んでいる。どうやら椿は、あのカラスの呼びかけに応じて、ここへ現れたらしい。しかし――

 無関係である彼女を、この危険に巻き込んでしまった。そう思って戸惑う花梨に、声をかけたのは黒曜石だ。

「花梨。椿が近くにいたことは幸いだ。彼の力を借りることができる」

 ――彼?

 椿は上空のツバメを一瞥すると、どこからか根付けのようなものを取り出した。紐の先にあるのは磨かれた淡い緑の石。三日月のように湾曲した楕円に穴が空けられているその形は――勾玉だ。

 その勾玉に、椿はこう呼びかける。

翡翠ひすい

 風は椿を中心に渦巻き、徐々に強くなっていく。その風に流されて、ツバメたちは乱れ飛んだ。

 やがてその風が一点へと収束していくと、その中心には淡い緑の髪と瞳の青年が姿を現した。

 青年は現れたと同時に周囲のツバメたちをちらりと見やると、無言で右手をかざす。途端に、今までで最も激しい風が起こった。

 突風のあおりで形を保てなくなったらしいツバメたちが、次々に黒い泥へと変わり、地面へと落ちていく――

 その中で、一羽だけ取り残されたツバメが、遥か上空へと舞い上がった。強い風から逃れようとするかのように。

 黒曜石はすかさず弓を構えると、鏃をそのツバメへと向ける。

 次の瞬間、放たれた矢に射抜かれて、ツバメは落下した。しかし、それは地面に当たる寸前、何かに受け止められたように動きを止める。ツバメはそのまま飛び立つこともできず、泥になることもなく、まるで押さえつけられているように、ただもがき続けた。

「終わった?」

 特に感慨もなさそうに、椿が言った。緑の青年は彼女の前に立つと、力なく震えるツバメを無言で見下ろしている。どうやら、このツバメは彼の力で取り押さえられているようだ。

 花梨は彼らの元へとかけ寄った。

「椿ちゃん、と――」

 花梨が初めて会う青年を前に言い淀んでいると、椿が少し投げやりに、その名を口にする。

「翡翠」

「――翡翠さん、ありがとうごさいます」

 花梨がそう言うと、椿は肩をすくめ、翡翠は無言でうなずいた。

 翡翠が椿の方へと振り向く。

「……椿。これで終わりではない。おそらく、呪の依り代になるものが近くにある」

「探せって? 面倒ね」

 翡翠の言葉に、椿はあからさまに顔をしかめた。

 花梨は、まだ消えずにいる黒いツバメを見やる。どうやら、その依り代を見つけない限り、これは消えてはくれないらしい。放っておくことはできないだろう。しかし、どこを探せばいいのか――

「おそらく、ここからそう遠くはない場所にあるはずだ」

 花梨の考えを察したかのように、黒曜石がそう言った。いつの間にか、彼の肩にはカラスが一羽とまっている。もう一羽はどこに行ったのだろうか。花梨は疑問に思ったが、とにかくこの呪いをどうにかするのが先だろう。

「依り代……って、この前のお札みたいなものってこと?」

「いや。形状はわからない。むしろ、見た目にとらわれない方がいい」

 花梨の問いかけに、黒曜石はそう答える。探すものが何かわからないというのは難しい注文だ。しかし、文句を言ってもいられないだろう。花梨はとにかく、周囲を見て回ることにした。

 翡翠はツバメの影を見張っている。椿は乗り気ではなさそうだったが、黒曜石がちらりと視線を向けると、ため息をつきながらも動き出した。

「はいはい。探せばいいんでしょ」

 花梨たちは囚われたツバメを中心に、周辺を探していった。少し古びた家が建ち並ぶ一画の、いたって普通の町中だ。呪いのための道具などありそうにないが、その中で、それを見つけたのは椿だった。

「これじゃないの」

 椿はそう言いながら、とあるところを指差す。そうして示された道端の草むらの中にあったのは――奇妙な形の石だった。

 両端が尖り、表面に筋がある。あまり道端では見かけない形状だ。

石燕いしつばめ……」

 それを見た黒曜石が、そう呟いた。

 ――ツバメ?

 いぶかしむ花梨に、黒曜石はこう続ける。

「形が翼を広げたツバメに似ていることから、その化石であるとされ、そう呼ばれていた。しかし、本来は腕足貝わんそくがいという貝殻を持つ軟体生物の化石だ」

 化石。確かに表面の筋は貝殻にはよくある形状に見えなくもない。それにしても――

「広範囲に分布するものではあるが、こんなところに無造作に転がっているものでもない。おそらく、これが依り代だろう」

 黒曜石は、そう言った。

 これがあの、黒いツバメを産み出したもの。花梨は少し意外に思う。以前に会った黒いもやを産み出したのは、奇妙な記号の書かれた紙切れだった。それと比べると、呪いのイメージにはほど遠い。

 それでも、あの黒曜石が苦戦したからには、これはあの黒いもやより強力な呪いだったのだろう。それがこんな道端にあるということは――

 花梨は思わず考え込む。

 椿はしばらく黙って様子を見守っていたが、動きがないことに痺れを切らしたのか、唐突に目の前の石燕を持ち上げた。大胆な行動にもぎょっとするが、そこにあらわになったものに、花梨は驚き目を見開く。

 石燕の下にあったもの。それは、ツバメの亡骸だった。

 まだそれほど時は経っていないのだろう。体はそれほど朽ちてはいない。それでも、触れることにためらわれるものには違いなかった。しかし、椿は臆することなくそれを手のひらにのせる。

 それを見て、口を開いたのは黒曜石だ。

「石燕を依り代に、このツバメの残滓を使役したのだろう」

 椿はツバメの亡骸をそっと持ち上げると、きょろきょろと辺りを見回した。近くに土の地面を見つけて、その場所を掘り起こし始める。花梨はその行動に、はっとすると、彼女の作業に手を貸した。

 椿は不服そうにこう呟く。

「ツバメの幽霊だなんて。そんなもの従えたとしても、たいした呪いにはならないでしょうに」

 椿はツバメの亡骸を丁寧に埋めながらも、どこか呆れたようにそう言った。そんな椿に向かって、黒曜石はこう答える。

「あるいはそのツバメは親鳥で、雛鳥か卵を残したまま死んだのかもしれない。その心残りを利用されたのだろう。力は弱くとも、執着は強い」

 その言葉を聞いて、椿はしばらく動きを止めた。しかし、それも長いことではない。すぐに彼女は作業を再開し、いつもの取り澄ました表情になる。

 ツバメの亡骸を埋め終えると、花梨たちは石燕を手に、翡翠の元へと戻っていった。依り代と亡骸を離したのがよかったのか、それともきちんと埋葬したためか、黒いツバメは静かに霧散しようとしている。

 花梨たちは黙ってそれを見送った。それが完全に消え去ったことを確認してから、花梨は、ほっと胸を撫で下ろす。

「あらためて、ありがとう。椿ちゃん。翡翠さん。それに、黒曜石も」

 その言葉に、椿は肩をすくめた。

「別にいいけど。それにしても、ずいぶん嫌われたものね。あなた」

 花梨は苦笑する。確かに、一度目があったのだから二度目があることは覚悟していたが、これほど追い詰められるとは思っていなかった。ただ、そうはっきり言われてしまうと、返す言葉もない。

 その反応に肩をすくめながら、椿はさらにこう続ける。

「お祓いした方がいいんじゃない。ちょうど縁切りできる場所が近くにあるけど」

 彼女が言っているのは、安井金比羅宮やすいこんぴらぐうのことだろう。崇徳天皇すとくてんのうなどを主祭神とする、縁切り神社として有名な場所だった。

「椿ちゃんは、よく行くの?」

「行くわけがない。あそこけっこう人多いもの」

 椿はそう答えた。ひとりで自由気ままに行動している印象だが、人の多い場所は苦手なのだろうか。彼女は冷笑しながら、こう続ける。

「神頼みなんてしなくても、縁くらい切れる――」

 そのとき椿はふと、自分の持っていた包みを見下ろした。それを見て不愉快そうに顔をしかめたかと思うと、次の瞬間、椿は花梨にそれを押しつける。

「あげる。もういらないから」

 受け取った包みの中身は、どうやら飴のようだ。

 花梨がそちらに気を取られているうちに、それじゃあ、とだけ言って、椿はその場を去って行く。それと同時に、翡翠の姿もまた、いつの間にかなくなっていた。


 残された花梨は椿から渡された包みと石燕を手に、道の真ん中に立ち尽くしていた。黒曜石は姿を消していたが、鏃はもちろん花梨の手元にある。

 黒いツバメが消えた今、周囲には何の異変もなかった。

「槐さんのところへ、行かないとね」

 花梨は誰にともなく、そう呟いた。当初の目的とは違うが、この件を槐に報告しないわけにはいかないだろう。

 そうして来た道を引き返し始めてすぐ、花梨は黒曜石に問いかけた。

「椿ちゃんって甘いもの好き?」

「……なぜ、そんなことを?」

 黒曜石の戸惑った声に、花梨は苦笑する。椿から受け取った包みをちらりと見て、花梨はこう答えた。

「今回のことのお礼に、何かお菓子でも買っていこうかと思って」

 危機を脱することができたのは、彼女のおかげだ。椿はどうということはないような態度だったが、それでも呼びかけに応じてくれたのは、彼女が見た目どおり無愛想なだけではないからだろう。

 そうでなくとも、椿を巻き込んでしまったことを、花梨は申し訳なく思っていた。せめてものお礼として、菓子折りくらいは持って行かなくては。

 花梨は槐の店へ向かう前に、祇園の商店街へと足を向けた。そうして、そこにある和菓子屋をのぞいてみる。

 椿が甘いものを好きなことはおそらく間違いないだろう。が、細かい味の好みとなると花梨にはわからない。黒曜石も、さすがにそこまでは知らないようだ。

 何がいいだろうか。花梨は店頭に並べられた菓子をながめながら迷う。

 そのとき、花梨の背後から別の客が近づいて来た。

「お。水ようかんかー。夏だねえ」

 その男性は並べられた菓子をながめながら、そう呟いた。まだ決めかねていた花梨は、その人に注文を譲る。彼もまた、何を買うのかを悩んではいたようだが、すぐに決心したようにうなずくと、こんなひとりごとを口にした。

「よし。エリカさんの分も、買って帰ろう」

 花梨は目を見開く。

 エリカ。それは花梨が探し求めてやまない人の名だ。偶然? それとも――

「……花梨?」

 小さく自分を呼ぶ声がした。黒曜石だろう。花梨は、はっとして、物思いを振り払うように軽く首を振る。

「何でもない」

 珍しい名前ではない。ならば偶然、耳にすることもあるだろう。こんなことをいちいち気にしていては、身が持たない――

 花梨が戸惑っている間にも、男性は水ようかんを数個求めると、すぐにその場を去って行った。


「大丈夫でしたか? 花梨さん」

 そう言って、真っ先に出迎えたのは桜だった。その様子がひどく心配そうだったので、花梨は少し驚く。

 そうして桜とともに坪庭まで来ると、ふいに黒曜石がその姿を現した。よく見ると、庭の石灯籠の上に一羽のカラスがとまっている。

 カラスは黒曜石の姿を認めると、翼を広げて彼の元まで飛んできた。そして、そのまま黒曜石と一緒に消えてしまう。

 花梨が不思議に思っていると、黒曜石がこう言った。

「これは私の一部であり、眷族でもある」

 とのこと。よくわからないが、桜に話が伝わっていたのは、このカラスのおかげなのだろう。

 ふいに、桜が花梨の持っているものを見て、こう言った。

「花梨さんが持ってるその飴。椿ちゃんがよく買ってるやつですね。幽霊の飴。近くに椿ちゃんがいて、よかったです」

「幽霊……?」

 そう問い返した花梨に、答えたのは槐だった。

「飴買い幽霊ですね。子を残して亡くなった母親が、子供のために飴を買い求める……という話で、日本の各地に似たような話が伝えられています。その飴が、今でも売られているのですよ」

 縁側に立った槐はそう言って、にこりと笑うと、こう続けた。

「無事で何よりでした。黒曜石の便りで心配していましたよ。問題ないとは、聞いていましたが」

 問題ないと聞いた、ということは、すでに椿は帰っているのだろうか。少なくとも、近くに姿はなかった。

 花梨は槐を前にして、深々と頭を下げる。

「すみません。槐さん。椿ちゃんを巻き込んでしまいました」

 その言葉に、桜はあわてたように口を開く。

「そんな。花梨さんのせいじゃないですよ。それに、黒曜石さんと翡翠さんがそろえば、大抵のことはどうにかなりますから」

「ええ。皆が無事で、何よりです」

 槐も同意するようにうなずく。

 あらためて座敷に招かれて、花梨は槐たちに一部始終を話した。呪いの依り代となったという化石――石燕も槐に託す。

「それにしても、椿ちゃんも石を持っていたんですね。驚きました」

 花梨がそう言うと、槐と桜は顔を見合わせた。

「そういえば、この前話していたとき、椿ちゃんがいたんだから、翡翠さんもいましたね……」

「あのとき紹介していればよかったかな」

 そんなことを話し始める。桜は自分がうっかりしていたことは棚に上げて、ため息をついた。

「椿ちゃんも、ひとこと言ってくれればいいんですけど。絶対に気づいてましたよ。まあ、この場合は、翡翠さんがもっと自己主張するべきなのかな。翡翠さん無口だから。というか、黒曜石さんも、気づいていたなら言ってくださいよ」

「……私が口出しすることではないと思ったのだが」

 と、黒曜石の声。彼は続けてこう言った。

「そもそも、ここにいる、というだけなら、まだまだ石はいる。まさか全員、引き合わせるつもりではないだろう?」

「まあ、切りがないですからね」

 そんなやりとりを聞いて、槐は苦笑していた。

「では、あらためて……彼のことを話しておきましょうか。彼は翡翠輝石。翡翠の勾玉です」

「本人、いないですけど」

 と、つけ加えたのは桜だ。

「翡翠、というのはいろいろと意味のある言葉で、鳥のカワセミの異称でもあり、緑の宝石の総称でもあります。これはジェイドとも言いますね。鉱物名としては翡翠輝石。ジェダイトです」

「翡翠と翡翠輝石は違うのですね」

 花梨の問いかけに、槐はうなずいた。

「ええ、厳密には。翡翠輝石はそれだけで結晶を成すことはほとんどない。ですから、彼も翡翠輝石の微細な結晶を含む岩石です。形状は見てのとおり勾玉。古代日本の装身具で、牙や魂、あるいは胎児を表しているなど、いろいろな説があります」

 花梨は椿の持っていた翡翠の勾玉を思い浮かべた。なぜかなじみのある形だが、確かに何を模しているか、というと何とも言いがたい。

「翡翠という言葉が幅広く捉えられているその原因は、これがもともと中国の言葉であるためで、古代の中国では緑の宝石を総じて翡翠と呼び、珍重していたからです。しかし、当時は同じような特徴を持つ石として、翡翠輝石を主とする翡翠輝石岩と、軟玉――ネフライトと呼ばれる宝石とが混同されていました。この二つは見た目ではほとんど区別がつきません。ただ、翡翠輝石岩は軟玉に比べて硬い、ということで硬玉とも呼ばれています」

 槐はそう言うと、花梨に向き直った。

「彼も強い力を持っている。椿も無謀な行動をしたわけではないでしょう。そうであれば、翡翠も止めます。ご心配には及びません」

 花梨が気に病んでいるのを、安心させるための言葉だろう。花梨はひとまずうなずいた。

「とはいえ、このようなことに会われて、鷹山さんも不安でしょう。ただ、これだけ大がかりなことは、そう何度もできることだとは思えません。こちらでも対策を考えてみましょう」

 槐の言う通り、今回のことは黒いもやとはわけが違った。花梨の道行く先に、あの呪いがあったということは、花梨の行動が知られ、先回りされているということだ。

 不安は尽きない。しかし、花梨は槐に、ただうなずくことしかできなかった。

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