第二話 菫青石仮晶

 あの一件からしばらく経ち、落ち着いた頃になってようやく、花梨は槐の店を訪れることを決めた。

 昼下がりの日曜日。記憶を頼りに、花梨は見覚えのある小路をひとり行く。いや、ひとりではないかもしれない。あの日に出会った彼が、花梨の考えているとおりの存在なら――

 奇妙なことが起こったあのとき以来、花梨は黒曜石の鏃を常に持ち歩くようにしていた。

 現れた青年は、この石に由来するものだろう――とは思うのだが、確かなことは何もわかっていなかった。それは当の本人が、多くを語らないまま姿を見せなくなってしまったからだ。

 彼はただ、槐を頼るように、と花梨に言い残したきり、話しかけてもほとんど何も答えてはくれなかった。自らが討ち倒したものの正体も、意味深なことを言った割には、くわしく語ろうともしない。

 花梨の目の前に現れた、黒いもや――あれは一体何だったのだろう。ともすれば、あのときのことは本当に全部夢だったのではないかと思ってしまうほどに、その記憶は薄れつつあった。

 ただ、弓引く青年が正体の知れないものを退けた――その光景だけは、今でも心に強く残っている。自分が手にしている石が、それほどの力を秘めているのだと目の当たりにした、その瞬間だけは。

 だからこそ、花梨は悪意を恐れることなく日々を過ごせたのだろう。彼の言葉にすぐ従わなかったことは心苦しいが、それだけこの石の力を信頼しているからでもあった。

 今のところ、あのときのような奇妙な現象に出くわす気配はない。黒いもやを生んだらしい紙片は処分せずに保管していたが、それも何か悪さをする様子はなかった。そうなると、それはもはや、よくわからないただの紙切れだ。

 紙片に書いてあることを調べようにも取っかかりがなく、花梨にはその正体を知るすべがなかった。槐なら何かわかるのではないかと考えて、今日はとりあえず持ち出している。

 本当は、もっと早くに訪れるべきだったのだろう。しかし、大学の講義とアルバイトで忙しく、しばらく考える余裕を持てずにいた。自分がこれから、どうするべきなのかを。

 もしも、何らかの異変があったとしたら、すぐにでも店にかけ込んでいただろう。しかし、実際には何も起こらなかった。その結果、すべてが後回しになってしまっている。

 とはいえ、起こったことをいつまでも棚に上げておくわけにもいかない。そして、くわしい話を聞ける相手は、たったひとり――あの店の主である槐だけ。

 できることなら、訪れることを事前に連絡しておきたかったのだが、それも叶っていない。名前がわからないとはいえ、調べれば店の情報くらいは得られると思っていたのだが――それについては当てが外れていた。そのことで、本当にあの店が実在しているのか不安になったくらいだ。

 しかし、そんな気がかりをよそに、花梨はやがて、記憶にあるとおりの場所にたどり着いた。店の存在が幻ではなかったことを確かめられて、花梨は思わずほっとする。

 突然の訪問ということで不在も覚悟したが、戸はすんなりと動いた。それどころか、その戸は花梨の手を離れ、ひとりでに開いていく――

 驚いているところに顔を出したのは、この店で最初に出会った青年、桜だ。

「そろそろ来る頃だと思ってました」

 彼はにこりと笑ってそう言うと、花梨を招き入れた。ほんの少し得意げに見えるのは、偶然でも花梨が訪れるときに、ちょうど行き合ったからだろうか。

 そうでなくても、まるで花梨が訪れることがわかっていたかのような口振りだった。予想していたのか、何かの勘が働いたのか、それとも――これも不思議な力が働いたためなのだろうか。

「黒曜石さんも一緒ですね」

 花梨を先に通し、戸を閉めるときになって、桜はそう言った。どうしてわかったのだろうか。それにしても――

 例の彼は、そう呼ばれているのか。本人が名乗りもしないから、花梨はどう呼べばいいかも知らなかった。どうやら、そのものの名で問題ないようだ。

 桜より先に土間の通路を進み――これは通り庭というらしい――やがて坪庭へと至る。日の傾き具合が変わっているせいか、以前に訪れたときとは印象も違って見えるが、それでもよく手入れされた庭だという感想は変わらなかった。向かいの縁側には誰もいない。しかし――

 奥に続く座敷に人影があった。

 中学生くらいの、小柄で華奢な女の子だ。槐の親族――娘さんだろうか? 部屋の片隅にある座椅子にくつろいで、ひとり本を読んでいる。

「あ、椿つばきちゃん。こちら、話していた花梨さんですよ」

 桜は少女に向かって、そう声をかけた。椿と呼ばれた少女はこちらをちらりと見やったようだが、何も言わないまま本に戻ってしまう。花梨がどう返していいかわからずに戸惑っていると、桜は乾いた笑いを浮かべた。

「あちらは、椿ちゃんです。姫川ひめかわ椿つばき

 姫川。槐とは違う名字だ。どういう関係なのだろう。不思議に思いはしたが、わざわざここで確かめるようなことでもない。そう思って、花梨はただうなずいた。

 縁側を通り過ぎて、奥の入り口へと向かう。靴を脱いで座敷に上がる頃には、そこに槐の姿があった。

「よくいらっしゃいました」

 部屋に入ってすぐのところに立って、彼は深々と頭を下げた。その丁寧な所作に、花梨も思わず深く頭を垂れる。

 すすめられるままに中に入り、花梨は座卓を挟んで槐と向き合う位置に座った。いつのまにか桜の姿がなくなっていることに気づくが、きっとまたお茶汲みにでも行ったのだろう。縁側越しに見た少女は、同じ位置で変わらず本を読んでいる。

 ひとまず落ち着くと、槐は椿に問いかけた。

「椿。ここで少しお話をするが、かまわないかな?」

 その問いに、彼女はただ肩をすくめるだけ。ひとこともなく、すぐに目の前の本に戻ってしまった。ずいぶんと素っ気ない子だ。

 槐は苦笑するが、それ以上、強く何かを言うことはない。

「鷹山さんも。よろしいでしょうか」

 それを聞いた花梨は思わず少女へ――椿へと目を向けた。彼女はそれでも、素知らぬ顔を通している。

 これから話すことを思って、花梨はしばし考え込んだ。槐が同席を許しているからには、彼女もある程度のことは知っているのだろう。ただ――

 当然のことだが、こちらの事情も彼女の耳に入ることになる。今のところ、何もかもを話すかどうかは決めていない。しかし、もし話したとして、彼女に聞かせてよいものかどうか――

 とはいえ、まずは槐の話を聞いてみないことには始まらないだろう。そう思って、花梨は承諾の意を示した。椿は無反応のまま。槐はゆっくりとうなずき返す。

 そのとき、お盆を持った桜が部屋に入ってきた。お茶の淹れられた湯のみが三つに、素朴なおまんじゅうが同じ数。

「花梨さんが来られるということで用意したんですよ。前回は急だったんで、粗茶だけでしたからね。お口に合うといいですけど」

 桜がそう言ったか言わないかのうちに、本を読んでいたはずの椿が奪うようにおまんじゅうに手を伸ばした。座椅子に戻ると、そのままひとり食べ始める。

「なるほど。椿ちゃんは、これが目当てでしたか」

 桜がそう言うと、椿はむっとして彼のことをにらみつけた。なかなかに迫力のある視線だったが、桜の方は全く動じていない。槐はただ苦笑している。

 花梨は呆気にとられていた。素っ気ないと思ったが、そういう人見知りなところも含めて、椿は年相応の子なのかもしれない。少し甘やかしてそうなきらいはあるが。

 そんなことを思っていると、槐は花梨にも菓子をすすめてくる。

「鷹山さんも、どうぞ」

 遠慮がちに、花梨は湯のみを手に取った。なごやかな雰囲気の中で、話を切り出したのは――槐だ。

「さて」

 居住まいを正した槐は、真っ直ぐに花梨へと向き直る。

「ここに来られたということは石を返しに来られたか、あなたの周りで何か奇妙なことが起こったか。あるいは――姿を見られましたか」

 本題に入るのが、思いのほか早い。花梨は手持ちの鞄から黒曜石の鏃を取り出すと、そっと座卓の上に置いた。

「はい。はっきりと姿を見ましたし、言葉も交わしました。彼はいったい何者なのでしょうか。意思の疎通は可能なようですが、私には何も語ってはくれません」

 槐は苦笑する。

「そうですね。まずは、彼らのことをお話ししましょうか。私たちは彼らを――例えるなら陰陽道における式神のようなもの、と理解しています」

「式神、のようなもの……」

 花梨はそれだけ呟くと、しばし考え込んだ。

 式神。言葉としては知っているが、いざどういうものかと問われると、きちんと説明できる自信はない。使役される霊――といった理解でいいのだろうか。

 とはいえ、少なくとも現代社会にはおいて、式神はせいぜい物語だけの存在だ。花梨も当然、お目にかかったことはない。実際に見たものがそれだと言われても、はいそうですか、と単純に受け入れられるものではなかった。

 そんな花梨の考えも、槐は察しているのだろう。言葉を選ぶようにして、こう続ける。

「超常的な存在ですから、そう簡単に信じられないのも無理はありません。しかし、あなたは現に彼の姿を見た、とのこと。その事実を持ってして、そうご理解いただけないでしょうか。実際のところ私たちも、彼らに関しては、そのような理解しかできていないのが現状なのです」

 槐もどこか自信なさげな表情だ。本当に、そのようなものだ、としか言いようがないのだろう。

「とにかく何らかの超常的な存在。そう理解していらっしゃる、と。ひとまず、その点は理解しました」

 花梨がそう言うと、槐は、ほっとしたようにうなずいた。

「そうですね。石を依り代にした霊的な存在、とでも申しましょうか。彼らとは言葉を交わすことができ、必要に応じて力を貸してくれる。おそらく、これは呪術などと呼ばれるたぐいのものなのでしょう。しかし、陰陽道や修験道のように、一般にもある程度知られているものとは少し違うらしいのです。まあ、多少なりとも影響は受けているかもしれませんが――」

 その先を、槐は少しだけ言い淀む。

「何でも――聞くところによると、この術はうちの家系にのみに代々受け継がれていた、のだとか」

 はあ、と花梨は間の抜けた相槌を打った。思わず、じっと槐の顔を見返してしまう。

 代々受け継がれていたという怪しげな術と目の前の男性。それがどうにも結びつかなかった。もちろん、こちらをだまそうなどと考えているのであれば、そうあからさまなこともないだろうが、それでも彼は呪いなどとは縁のなさそうな人物だ。

 花梨の視線をどう受け止めたのか、槐はやはり苦笑する。

「ずいぶんと曖昧な、と思われるかもしれませんが、そもそも私は分家筋の末でして。もともとその術とやらを伝えていた本家は江戸の時代にはすでに途絶えていた、とのことなのです。これも亡き父――あるいは石たちから伝え聞いたか、曾祖父の手記から知ったことなのですが」

 ――石たちから伝え聞いた。

 そう言うからには、人の姿を取り言葉を交わせる石は、黒曜石だけに限らないのだろう。花梨の目は自然と、かつて訪れたあの場所――石の並べられたあの部屋の方へと向かった。

「あの部屋にある石は、すべて私の曾祖父が集めたものです。そして、あれらは皆、力を持っている。この黒曜石と同じように」

 その言葉に、花梨は槐へと視線を戻す。槐は少し照れたように笑っていた。

「それが特別なことなのは私もわかっているのですが……幼い頃から見知っているものですから、何も知らない方に言葉で伝えるのは、どうにも難しい。とにかく、こんなところで納得いただけるでしょうか」

 花梨は黒曜石の鏃が黒いもやを射抜いた光景を思い出した。確かに俄には信じがたい話だが、その力自体は本物だ。

「しかし、槐さんは確か、あれらの石を譲ってもいい、とおっしゃっていたと思いますが」

 花梨のその問いに、槐は困ったような表情を浮かべる。

「ええ。本当に彼らの力が必要な方になら――今もそう考えています。それに、商いをしていますから、当然、石としてあれらを欲しいという方はいらっしゃいました。しかし、そもそも彼らの姿は、見える方と見えない方がおられるようなのです。そうでなくとも、あの石を迎えると奇妙なことが身の回りに起こる。そうして、大抵の方が気味悪がって、返しに来られます」

 初めてこの店に来たとき交わした会話を、花梨はぼんやりと思い出す。怪異を知る、と言っていた。あのときの槐は、何も知らない花梨相手に、そう言うよりほかなかったのだろう。石が不要なら返しに来るように、と言ったのも、この石が大事だという理由のほかに、こうなることをある程度予想していたからかもしれない。

 どちらにしろこんな話、人に語ったところで、ただの怪談だと思われるのがせいぜいか。人によっては姿を見ることもできないというなら、なおさら。

 そうでなくとも、得体の知れない何かの意思の宿る石を、理由もなく手元に置いておきたいと思う人はそういないだろう。槐はともかく、普通の人であれば、やはり気味が悪いと感じるに違いなかった。

「とにかく――あの部屋にあった石はすべて特別な石、ということですね。石が特別だったのでしょうか。それとも、術によって特別になった?」

 花梨の問いに答えたのは、槐でも、黙って会話を見守っていた桜でもなく――ましてや、読書を続けている椿でもなかった。

「私を目覚めさせたのは、槐の曾祖父に当たる人物。しかし、その術がどういったものか、ということに関しては、私たちはその答えを持ってはいない」

 花梨は思わず室内を見回した。しかし、目の届く範囲には、始めからこの部屋にいた四人以外には誰の姿もない。

 ただ、花梨は発言の主を察してもいた。この声には聞き覚えがある。記憶が確かなら、それは黒曜石のもの。

 声は心に直接話しかけてくるような、そんな不思議な感覚を伴って響いていた。しかし、それは花梨だけに聞こえる、というわけではないようだ。

「どうやら、本人たちも自分たちがどういう存在か、ということに、はっきりとした自覚があるわけではないようなのです」

 槐がそう補足した。続けてまた黒曜石の声がする。

「強いて言えば、それは石の記憶。私は石として長い間眠っていた。いや、もっと曖昧な存在だった、といった方がいいか。自我を得る前の意識は判然としない」

 姿を見せないまま、彼はそう語る。

 今は声だけではあるが、あのときの花梨は確かに彼の姿が見えていた。そのおかげで、その実在をどうにか受け入れられている。

 だが、もしそうでなかったとしたら、すべてが違っていたのかもしれない。もしも、姿も何も見えていなかったとしたら、彼のことを正体の知れないものとして恐れ、逃げ出した可能性もあっただろう。しかし――

 実際には、そうならなかった。そして、花梨はもはや知ってしまっていた――石の力を。知ってしまったからには、自分はあとには退けない。花梨はあらためてそう思う。

 花梨は居住まいを正すと、大きく息をはいた。そして、本題に入る。

「事情はわかりました。今回、私がここに来たのは、この黒曜石の鏃を――彼をお返しするためではありません。むしろ力を貸していただきたいと思ったからです」

 彼の正体は、いまだあやふやなままだった。しかし、式神のようなものであれば、使役している間は、少なくとも益する存在ということになるだろう。ならば、自分の力になってくれるかもしれない。花梨はそう結論づけた。

「理由を、お聞きしても?」

 槐の問いに、花梨はうなずく。とはいえ、どこから話すべきか――

「私は、行方不明になった姉を探すために、この街に来ました」

 花梨がそう切り出すと、槐と桜、双方の表情が険しいものになった。椿は相変わらず本に視線を落としたまま。聞いているのかいないのか、よくわからない。

 花梨は続ける。

「姉は家を離れて、京都の大学に通っていました。私は姉と仲が良かったので、離れていても毎日のように、やりとりをしていたのです。そうしているうちは、特におかしなこともありませんでした。それが――」

 そのときのことを思い出して、花梨は無意識のうちにうつむいた。落ち着いてから、再び口を開く。

「ある日、姉は――しばらくひとりになりたいから、と。どうか探さないで欲しい、とだけ残して、行方知れずになってしまったんです」

「自らの意志で、いなくなられた?」

 その言葉に、花梨は首を横に振る。

「わかりません。警察にも届けましたが、事件性はないだろうと判断されました。いまだに――見つかったという連絡も、見かけたという情報もありません。ですが……私は、信じられないんです。姉は、そんな風にいなくなってしまうような人じゃなかった。だからきっと、何かもっと重大なことが――例えば、私の身に起こったようなことが、姉にもあったのではないかと思ったんです」

「ひとつ、おうかがいしてもよろしいでしょうか」

 槐がそう問いかける。

「……どうぞ」

「自身に起こったできごとと、お姉さんの行方不明を結びつくものだと、あなたはそう考えていらっしゃる。しかし、そう考えたのは、なぜでしょう。行方不明というだけでは、結びつけるには、いささか早計なように思い出ますが」

 花梨は言い淀んだ。思わず、ちらりと少女の方に――まだ年若い椿の方に視線が向かう。そのとき――

 唐突に、彼女は本を閉じて立ち上がった。かと思えば、何も言わないまま部屋から出て行こうとする。

「どこへ行くんですか。椿ちゃん」

 驚いて声をかけたのは、桜だ。

「どこだっていいでしょう」

 と言い残し、声をかける間もなく、椿は早々に去ってしまった。

「申し訳ありません。お気を悪くなさらないでください」

 槐の言葉に、花梨は首を横に振った。桜は呆れたように肩をすくめている。

「まあ、お菓子はちゃっかり食べ終わっていますし。槐さんの話が長かったですから」

「……あの年頃の子は難しいな」

 桜の言葉に、槐は重々しくため息をついている。

 しかし、花梨はむしろ、椿に気をつかわせたのではないか、と思っていた。自分の存在のせいで花梨がその先を話すことをためらったことに、彼女はおそらく気づいていた。そういう風に思えたからだ。

 表向きは周囲のことなど気にしていないようにも見える。しかし、まだ出会って間もない彼女の心の内――その本当のところはわかるはずもなかった。

「すみません。あまり楽しい話題ではありませんでしたから」

 花梨がそう言うと、槐は、とんでもない、と言って首を横に振った。

「いいえ。話を聞くと言ったのは、あの子ですから。こちらこそ、水を差してしまいました」

 花梨はてっきり、椿がたまたま居合わせただけかと思っていた。彼女はおそらく石のことについては知っているのだろう。花梨の話を聞こうとしたのは、何か理由があるのか。それとも――

 とはいえ、考えたところで答えが出ることでもない。花梨は気持ちを切り替えると、言い淀んでいたその先を話し始めた。

「それで、姉がいなくなる少し前なのですが――」

 槐はあらためて花梨の方へと向き直る。

「姉の周りで事件があったらしいんです。一応、事故、ということになっているそうなのですが。それが関係しているのではないかと、私は思っています」

「事故ですか。どのような?」

「亡くなったそうなんです。姉の同期の友人が。しかも、姉が最初に見つけたらしく――」

「……見つけた?」

 桜は首をかしげて、問い返した。今まで会話に入る様子がなかったのに、思わず声を上げてしまったものらしい。それに気づくと、慌てたように口をつぐんだ。

「この話は、おそらく世間には公表されていません。あまりにも奇妙なことだったので、伏せられたんだと思います。ただ、私は聞いてしまったんです。姉が行方不明になり、家族で警察に話を聞きに行ったときに――もしかしたら、それが精神的に追いつめられた原因なのではないか、と」

「その、奇妙な亡くなり方、とは?」

「木に……」

 そこまで言って、花梨は言葉に詰まった。

 花梨はその現場を見たわけではない。話に聞いただけだ。それでも話すことをためらった。それだけ、花梨自身が信じられないような状況だったからだ。

 とはいえ、ここまで言って後戻りはできなかった。

「――串刺しになっていた、そうです。体を貫かれて。まるで、木の真上から落とされたように。ただ、周囲にはその木より高い建物はないらしく……ですから、空から落とされでもしない限り、こんな死に方はあり得ない――と。そんな話を」

 部屋の中が、しんと静まり返る。しばらくは誰も身じろぎひとつしなかった。その張り詰めた空気をやわらげるように、花梨はそっとため息をつく。

「すべて、私がたまたま聞いたことです。どこまで本当のことかもわかりません。しかし、私にとっては、これが姉につながるかもしれない、唯一の情報なんです」

 そう言って、花梨は話を締めくくる。これが、今の花梨に話せるすべてだった。

 こんな不確かな話、たとえ一笑に付されたとしても仕方がないだろうと思う。しかし、槐なら頭から否定したりはしないのではないか、そして、もしかしたら理解を得られるのではないか、と花梨はほのかな期待を抱いてもいた。

 花梨はうかがいを立てるような視線を槐に向ける。話を聞き終えた彼は、過剰に驚くことも、嫌悪を示すこともなく、ただ静かにうなずいた。

「なるほど。それであなたは、お姉さんの失踪に怪異が関わっているかもしれない、と思っていらっしゃるのですね。だから黒曜石の力を借りたい、と」

 槐は確かめるように呟くと、続けてこう言った。

「そうですね……あなたが初めて黒曜石の力を目の当たりにしたという、そのときのことを、くわしくお話しいただけますでしょうか」

 花梨はうなずくと、順を追って話し始めた。これまでのことを思い起こしながら、この店に来るきっかけになった気配のことから。

 思えば、初めてこの店を訪れてからこの日まで、十日も経っていない。花梨が京都に移り住み、大学に通い始めてからは一か月と少し。その間は、たとえ両親でさえも、これほどくわしく自分の心情を語ったことはなかった。それを思うと、今ここですべてを打ち明けていることは、不思議な縁だと花梨はあらためて思う。

 やがて話を終えた花梨に、槐はたずねた。

「そのときの紙片を、持っていらっしゃいますか?」

 花梨はうなずく。黒曜石は、それこそが得体の知れない気配の――黒いもやを生み出した原因だと言っていた。

 花梨は鞄の中からそれを取り出した。元より折れ曲がり、端もすでにぼろぼろになっている。何かが書いてあることは明白だが、何が書かれているかはわからない。こんなものを知らず持たされていたと考えれば、やはり気味は悪かった。

 紙片を受け取った槐は、それを見てしばし考え込む。長い沈黙の末に、槐はようやく口を開いた。

「意図せず行き合ったり、禁忌を侵したりために害を被ったり。そういったことで怪異に巻き込まれた、という話でしたら、私もいくらか知ってはいます。しかし、これは――」

 槐は真っ直ぐに花梨を見つめる。

「明らかに、あなた自身に悪意のある者の仕業でしょう。確かにこれは人を呪うもののようです。黒曜石が、これ以上関わらないように、と警告したのは、決してあなたを困らせようとして言ったことではありません。それはきっと、あなたのためでもある」

 槐に呼応するように、黒曜石が言葉を発する。

「私たちは決して万能ではない。危うきに近寄ろうとするなら、止める。それだけのこと」

 花梨はうつむいた。

 彼らは花梨の話を否定しているわけではない。しかし、だからこそ手を引けと言う。それは正しいのかもしれなかった。それでも――

 押し黙った花梨に、槐は気づかうように声をかける。

「もっともらしいことを話しはしましたが、私自身も、そういったたぐいのものにくわしいわけではありません。あるのはせいぜい、聞きかじった知識だけ。ですが、だからこそあなたが自ら渦中に飛び込もうとすること、私としても、おすすめはできません。たとえ、この黒曜石の力があったとしても。とはいえ――」

 槐はそこで軽く咳払いをした。花梨はいぶかしく思いながらも、顔を上げる。

「ここで黒曜石の鏃を返していただくように頼んだところで、あなたがお姉さんを追うことをやめることはないでしょう。ならば、私たちにも協力させていただけませんか。黒曜石をあなたに託す――それが条件です」

「それは――」

 花梨は思わず声を上げ、そして、その先の言葉を失った。

 槐は条件と言ったが、これは決して相手に利のあることではない。結局のところ、花梨の事情に巻き込むことに他ならなかった。そのことを思って、花梨は戸惑う。

 確かにわからないことだらけで、槐から話を聞かなければ花梨には何も判断できなかっただろう。だからこそ、ここに来た。しかしそれは、決してそれ以上の助力を期待したからではない。

 気づかいはありがたかった。しかし、花梨は首を横に振る。

「いろいろとお話を聞かせていただいたことには感謝しています。しかし、姉のことは、そもそも私ひとりで探すつもりでした。両親にすら、そのことは隠して来たんです。無謀なことはわかっています。でも、だからこそ誰にも迷惑はかけたくは……」

 花梨がその先を口にする前に、槐は片手を上げ、それをさえぎった。そして、諭すようにほほ笑む。

「あなたの覚悟はわかりました。しかし、現にあなたは石の力を求めていらっしゃる。そうなると、もはや私も無関係ではありませんよ。気に病むことはありません。これは、そういう縁だったのです」

 そういう縁。

 花梨は黒曜石の鏃に目を向けた。座卓の上に置かれたそれは、今は人の姿をしていないが、じっと成り行きを見守っているように思える。

 それでも迷う花梨に、さらに声をかけたのは桜だった。

「僕も力になりますよ。手伝えることは、それほどないかもしれませんが。ね? 黒曜石さん」

「……槐がそう決めたのなら」

 桜の問いかけに、黒曜石の声は渋々といった風に応じた。しかし、桜はそんなことなど気にもとめず笑っている。

 花梨はあらためて彼らの顔を見返した。

 あのとき、石の力を目の当たりにしたときから――いや、ここを訪れて槐に黒曜石の鏃を手渡されたときから、この縁は始まっていたのだろうか。

 彼らには、できれば迷惑も、心配もかけたくはない。花梨はそう思う。しかし、結ばれてしまった縁をなかったことにすることはできないのも確かだ。

 考えた末に、花梨は彼らの好意を受けることを決意する。

「ありがとうございます」

 花梨があらためて視線を向けると、安心したような表情の槐と目が合った。手にした紙片を示しながら、彼はさらにこう申し出る。

「こちらはお預かりしてもよろしいでしょうか。できる限り調べてみます」

「よろしくお願いします」

 花梨がそう言って頭を下げると、槐はうなずき返した。そしてふと、壁にかけてある古びた振り子時計に目を向ける。

「ずいぶん長々と話をしてしまいましたね。お疲れになったでしょう」

 そう言って、槐は花梨の方に向き直った。

「あなたがされようとしていることは困難なことです。当てがないなら、なおさら。焦ってはいけませんよ」

 花梨はその言葉に深くうなずいた。そして、再びそれを手に取る――黒曜石の鏃を。

「ところで、また近いうちに、こちらに来られることは可能ですか?」

 花梨がいとまを告げようというときになって、槐は突然そうたずねた。いぶかしく思いながらも花梨がそれに答えると、槐はこう提案する。

「人探しとなると、私も確かな当てがあるわけではありませんが……ただ、それに関連して、ひとつ、おつかいを頼まれていただきたいのですが」

 力になってくれるという人の頼みを、断る道理などない。槐のその提案を、花梨は快く引き受けた。




「こちらのお宅にお届けすればいいんですね」

 花梨がそう確認すると、槐はうなずいた。

 場所は町屋の通り庭。花梨はあの日に約束したとおり、もう一度、槐の店を訪れていた。

 おつかいに行くことになった花梨が槐から渡されたのは、いかにも手土産といった風の包みが入った紙袋と、簡単な手書きの地図。地図は店の近辺を描いたもののようで、目的地まではそれほど遠くもなさそうだった。

 槐の話によれば、印のされたところへ手土産と、そして同梱された手紙を届けて欲しいとのこと。

 本当に簡単なおつかいだ。これが協力の見返りだというのなら、たやすいことだろう。もちろん、これだけで恩を返せるとは思っていないが、それでも少しは役に立てるのならば断る理由もなかった。

 店を出るときになって、桜が言う。

「僕もいっしょに行きますね」

 花梨が驚いた顔になると、桜は苦笑した。

「僕が行きたいんです。つれていっては、もらえませんか」

 土地勘のない花梨を気づかってのことであったなら断っているところだが、桜はあくまでもそう言い張る。結局、二人で外出することになった。

「時間はいつでもいいそうです。少しなら、寄り道してもかまいませんよ」

 槐はそう言ったが、子どものおつかいではあるまいし――いや、子どものおつかいならむしろ、寄り道しないように、と注意されるところだ。花梨は戸惑ったが、槐も桜も気にする様子はない。

「気晴らしに近くを見て回られるといいでしょう。いってらっしゃい」

 そう言って、槐は花梨たちを見送った。

 しばらくは桜と二人、並んで歩いて行く。しかし、そのうちどうにも気になって、花梨は桜に問いかけた。

「槐さんはあんなことを言っていたけど、桜くんはどこか寄りたいところがあるの?」

「花梨さんはないですか?」

 問い返す桜に、花梨は首を横に振る。

「でしたら……そうだ。あそこに行きましょう」

 そう言って、桜は行く先を指差した。

 京都の中心を東西に貫く、四条通りの東の突き当たり。その先は石段に続いていて、あざやかな朱色の立派な門が建っている。

 八坂神社やさかじんじゃ素戔嗚尊すさのおなどを主祭神とする、平安時代から続くと言われる神社だ。元々は祇園社とも呼ばれ、京都三大祭のひとつ祇園祭ではこの神社で祭礼が行われる。

 神社へのお参りか。ちょうど通り道にあるのだし、それなら、それほど時間もとられないだろう。

 そう考えて、花梨はうなずいた。二人そろって、西楼門へと続く二十段ほどの石段を登る。

 門をくぐっても本殿はまだ見えない。末社などを横目に見ながら、花梨たちは木立に囲まれた石畳の道を進んで行った。

「そういえば、桜くんは、あのお店にはどうして? もしかして、アルバイトだったり?」

 そんなことはないだろうな、と薄々思いながらも、花梨はそうたずねた。桜は苦笑する。

「お店というか、僕も一緒に住んでいますよ。何と言うか……いろいろなことの、お手伝いって感じでしょうか」

 住み込みで働いている、といったところだろうか。書生、という言葉が思い浮かんだが、さすがにこの時代、今までそんな立場の人には出会ったことがない。槐の親類縁者かとも思ったが、その辺りのことはどうにもはぐらかされて、答えてはくれなかった。

 仕方がないので、花梨は話題を変える。

「えっと、椿ちゃん。あの子は……」

「椿ちゃんは、槐さんの従妹ですね。娘ほどに年が離れているから、槐さんは思春期の子どもに手を焼く親みたいなことを言ってますけど」

 従妹。確かにずいぶんと年が離れているが、それなら名字が違うことも納得できる。あの様子だと彼女もあの町屋に住んでいるようだが、どういった事情なのだろうか。

 疑問には思うが、本人がいないところで話をするのも気が引ける。いずれ、たずねる機会もあるだろう。そう思って、花梨はそれ以上追求しないことにした。

 代わりに、桜からこうたずねられる。

「花梨さんの方は、どうですか? 黒曜石さん。何か話してくれました?」

 その問いかけに、花梨は思わず顔をしかめた。

 あの日、槐から話を聞いたことで、これからは彼も何か語ってくれるものだと思っていたのだが――どうしたことか、黒曜石は花梨の前ではいまだに沈黙していた。いまいち、どう接すればいいかもわからない。特に何か異変があったわけではないので、構わないと言えばそうなのだが、存在を知っているのに何の反応もないという状況は少し寂しくはある。

「それが……私にはあまり話をしてはくれなくて」

 そう言うと、桜はけげんな顔で花梨を見返した。そして、ちらりと花梨の手元を――おそらく黒曜石のある方を見やる。それから、ふいに訳知り顔になると、どこか楽しそうに笑った。

「もしかして、以前、お小言がうるさいって椿ちゃんに突き返されたこと、気にしてるんじゃないですか? 黒曜石さん」

 今度は花梨が驚く番だ。

 ――突き返された?

 思いがけない言葉だが、あの素っ気ない椿の態度を思い起こすと、そんなこともあったのかもしれないと思えてくる。その場面がありありと想像できて、花梨は思わず笑ってしまった。

 そんなたわいもない話をしているうちに、花梨たちはやがて、開けたところまでたどり着く。まず姿を現したのは舞殿。ほどなくして、左手に本殿も見えてくる。

 ふと、なつかしさが込み上げてきて――花梨は思わず立ち止まった。始めは不思議そうにしていた桜だが、何かを察したのだろう。こうたずねる。

「ここには、来たことがあるんですか?」

 花梨はうなずいた。

「姉といっしょに……下宿先に泊まらせてもらって、一緒に京都を見て回ったことがあって。そのときに」

「お姉さんと、本当に仲がよかったんですね」

 そんな風に言われると、どうしても姉のことを思い出してしまう。昔から京都に憧れがあり、希望の大学に通えることになって喜んでいた姉。その姉に連れられて、いろいろなところを見て回った。八坂神社も、そのひとつだ。

 あのときは、本当に楽しかった。まさか、こんなことになるなんて――

「お名前、お聞きしていましたっけ? お姉さんの」

 桜の問いかけに、花梨は上の空でこう答えた。

「エリカ」

 本殿の正面に立って、手を合わせた。鈴を鳴らして賽銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼。心の中で姉が見つかるように祈る。

 ――どうか。お姉ちゃんが、無事で過ごしていますように。

 参拝を終えたあとは社務所へと向かう。何気なくお守りなどをながめていると、ふいに三方の上に並べられた小さな石が目に入った。

 青い、小石といったくらいの大きさの石。不揃いだが、磨かれているのかつるりとしていて何となく涼しげだ。よく見ると、貼り紙に青龍石せいりゅうせきと書かれている。

 以前に来たときは気がつかなかった。今は、石、と思うと、自然と意識が向くようになったらしい。それは当然、近頃に出会った不思議な力を持った石のせいだろう。

「あ。これが噂の青龍石ですね」

 桜もそれを見つけたらしく、そう呟く。その言い方に引っかかりを覚えて、花梨はたずねた。

「桜くんは、ここに来たことはないの?」

 桜はその問いを、笑ってごまかした。店からも近いのに、信心がないのか、それとも近いと逆に来ないものなのか。

 花梨は気になりつつも、再び青龍石の方へと目を向けた。そこには、この石の由来が書かれた紙が掲示されている。

 八坂神社は平安京の東に位置することから、四神の青龍に守護された土地であるらしい。本殿下には龍穴と呼ばれる池があり、その水で清めたのがこの石だ、とある。

 そうして何となくながめていると、ふいに青龍石から何かが飛び跳ねて、宙に消えていくのを目にした。何か。そう――小さな龍のような幻。

 花梨は思わずまぶたをこすり、目をしばたたかせた。錯覚だろうか。

「どうかしました?」

 花梨の様子に気づいて、桜がたずねる。戸惑いつつも、今見たものを話すと、桜は、ふむ、とうなずいた。

「この石も特別な何かがあるのかもしれませんね。それが見えたのは、花梨さんが黒曜石さんと縁を結んだからでしょう。でも僕は、花梨さんって始めから見える人だと思ってました」

「見える?」

 花梨が問い返すと、桜は苦笑する。

「幽霊とか、そういうものです」

 人には見えないものが見える。花梨はそんなことを考えたこともなかった。せいぜい、他人より勘が働く程度。そう思っていたからだ。

 しかし、ここ最近のできごとを思い返すと、知らないうちに自分にも変化があったのかもしれない、とも思う。

 花梨は青龍石を手に取った。先ほど見た幻はもう見えない。しかし、これも何かの縁だ。そう思い、初穂料を納めて、花梨はその小さな石をひとつ受け取った。


 八坂神社を正門の方から出て、坂道を少し上がった先――槐から受け取った地図の示す場所は、ごく普通の民家だった。

 呼び鈴を押すと、ほどなくして応じる声が返ってくる。引き戸を開けて出てきたのは、槐と同じくらいの年の着物の女性。

「なずなさん、お久しぶりです」

 玄関まで招き入れられてすぐ、桜はそう言った。

「しばらく連絡もしていないので、槐さんが気にしてました」

沙羅さらさん、まだ帰国されてないのね。今回はずいぶん長いようだけど」

 女性はそう言うと、花梨へと視線を向けた。親しげに言葉が交わされるのを桜の後ろで聞いていた花梨は、それに気づいて軽く会釈する。

 女性はそれを見て、こう名乗った。

田上たがみなずなです。あなたが、例のお客様ね。お話は聞いていますよ」

 その言葉とともに、彼女は花梨のことをじっと見つめてくる。まるで何かを見透かすように。その真っ直ぐな瞳に悪意は感じなかったが、花梨はどことなく落ち着かない心持ちになった。

 花梨は彼女が何者かを知らない。しかし、桜とのやりとりを聞く限り、あの店に近しい人物であることはわかった。だとしたら、彼女にも何か不思議な縁があるのだろうか。

 花梨はとりあえず、なずなに倣って簡単に名乗ってから、紙袋から包みと手紙を取り出した。槐に頼まれていたとおり、それを彼女に手渡す。

「お手紙、確かに受け取りました」

 そのときふと、花梨は紙袋に何か別のものが入っていることに気づく。渡し忘れたものがあるのだろうか。そう思って、花梨はその場でそれを取り出した。

 ごく普通の、その辺りの道端に落ちていても違和感のない濃い茶色の石だ。しかし、よくよく見てみると、その表面にはピンク色の小さな花のような模様がある。

 花梨は思わず、まじまじとそれをながめた。

「あら、桜石。そんなところにあったのね」

 なずなは花梨の手にした石を見て、そう言った。

 ――桜、石。

 花梨はとっさに傍らに立っていた桜の方へ目を向けた。彼はどこかいたずらめいた笑みを浮かべながら、成り行きを見守っている。

「あなたまさか、知らなかったの?」

 驚いた声を上げたのは、なずなだ。彼女は桜の方を見て苦笑する。

「何も知らない方を、あまりからかってはダメよ」

 その言葉に、桜は照れたように肩をすくめた。

 花梨はまだ呆然としている。

「それじゃあ、帰りましょうか」

 桜の呼びかけに、花梨はともかくうなずいた。

 去り際に、桜は思い出したように口を開く。

「あの、なずなさん――」

 なずなはいぶかしげに首をかしげたが、すぐに何かを察したように口を引き結んだ。

「また、遊びに来てくださいね。きっと……待ってますから」

 なずなはどこか悲しげな表情を浮かべている。そのことが花梨の心に強く、彼女の印象として残った。しかし、何も知らない花梨には、かける言葉がない。

 なずなに見送られ、花梨たちはその場をあとにした。



「驚きました?」

 店へと戻る道すがら、桜は花梨にそう言った。

「すみません。気づかれていないだろうな、とは思ってたんですが、何だか言い出しにくくて。槐さんも悪気はないんですよ。たぶん、僕たちはお互い慣れ過ぎているんです」

 その言葉を聞き、花梨は、やはりそうか、と心の中で呟く。そして、桜はこう続けた。

「僕も、実は黒曜石さんと似たようなものなんです」

 似たようなもの。石を依り代にした霊的な存在――花梨が手にした、この桜石の。

「もしかして、他の人には姿も見えない?」

 花梨がそうたずねると、桜は苦笑する。

「少なくとも花梨さんが初めて店に訪れたときは、そうです。花梨さんって、そういうことには鈍かったんですね。最初は慣れているからかな、と思ったんですが」

 初めてあの店に行ったとき、桜は確かに花梨が声をかけたことを驚いていた。あれは、自分のことが見えているものだと思わなかったからだろう。

 とはいえ、目の前にいる彼の姿はとてもそんな不確かな存在のようには見えなかった。明らかに黒曜石とは違っている――少なくとも花梨はそう思う。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか槐の店に着いていた。通り庭を過ぎて坪庭のところまで来ると、ふいに佇む人影に行き合う。

 一瞬、花梨は槐が自分たちのことを待っていたのかと思った。しかし、それが別人だということは、すぐにわかる。

 淡い、透き通る黄色の髪色をした青年だった。顔立ちも槐よりは若く見える。そして、その立ち姿に何か違和感があった。

 ――隻腕?

 着物の袖、その片方が不自然な形になっている。肩掛けのようにしているのかとも思ったが、そうでもない。その青年にはやはり左の腕がなかった。

 青年は花梨たちに気づくと、何かを探すようにこちらをじっと見つめたが、そのうちため息をついたかと思うと、かき消えてしまった。それまでは、変わってはいても普通の人のように見えていたので、花梨は少し驚く。

「黙って消えるのはなしですよ。黄玉おうぎょくさん」

 桜は何もいなくなった虚空に向かって、そう声をかけた。

 黄玉。ならば彼もきっと石なのだろう。

 そのまま桜につき従って、花梨は座敷へ上がらせてもらった。縁側の方から、ちらりと見えてはいたが、前回と同じ位置――部屋の隅の座椅子では椿が本を読んでいるようだ。どうやら定位置らしい。

 こんにちは、と椿に声をかけ、桜にすすめられるままに花梨は座卓の前に座る。そのうち、槐もこの場に姿を現した。

「おかえりなさい」

 そう声をかける槐に、花梨は無事におつかいを終えたことを報告する。そして、手にしていた桜石を座卓の上に置いた。

「では、あらためまして――」

 そう言ったのは、桜だ。槐のとなりに座ると、花梨を真正面に見据えてから、再び口を開いた。

「僕は桜石です。今日は外に連れ出していただき、ありがとうございました。花梨さん。いろいろと見られて楽しかったです」

 花梨は、あらためて――目の前の石と青年とを見比べた。しかし、いくらそう言われても、どうにも現実感がない。黒曜石が姿を現したときの方が、まだ受け入れられていたくらいだ。

 戸惑う花梨に、槐がこう問いかける。

「桜石をご覧になられるのは、初めてですか?」

 その問いは当然、石のことを言っているのだろう。花梨はうなずいた。

「鉱物名としては、菫青石仮晶きんせいせきかしょうと言います。通称、桜石」

 初めて聞く名前だった。しかし、桜石、と言うのは、この石に似合いの名だと花梨は思う。

「元は菫青石――コーディエライト、あるいは、宝石名のアイオライトの方が知られているかもしれません。桜石は、その仮晶――仮晶とは、鉱物の結晶形が保たれたまま中身が別の鉱物に置き換わること。桜石は菫青石が熱水の作用などで雲母などに変化した鉱物です。色は白や淡いピンク色で、風化によって六角柱状の石の断面が六枚の花びらが咲いたように見えるため、桜石と呼ばれています」

 座卓の上にある石には、槐の言うとおり小さな花の模様がいくつか散っている。

 花梨は思わず大きく息をはいた。いろいろと驚くことがあって、どうにも言葉が出てこない。呆然としている花梨を気づかうように、桜が口を開く。

「式神のようなものだって、話をしていたでしょう? 確か、陰陽師として有名な安倍晴明あべのせいめいも、式神に雑用とかを任せていたって話があるんですよ。僕はまあ、そんな感じです」

「『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』ですね。安倍晴明の邸宅では、人もいないのに門が開け閉めされるといった現象が起こる。それは式神によるものだとされています」

 槐がそう言う。次に口を挟んだのは、意外にも椿だった。

「その式神と違って、うちのは橋の下に住む殊勝さはないみたいだけど」

 そんなことをぽつりと呟く。槐は苦笑した。

「安倍晴明の式神は、妻がその姿を恐れたために普段は橋の下に隠されていたという逸話もありますね」

「音羽家はその点、大丈夫でしょうけど」

 と桜。椿は顔をしかめた。

「おかげで、とんだ幽霊屋敷じゃない」

 花梨はその言葉で、先ほど庭で見かけた人影のことを思い出した。この店には、一体どれだけの意思を持つ石があるというのだろう。最初に通された部屋の、壁一面の棚に置かれた石。その、すべてがそうだとしたら――

 椿の言葉に、桜は呆れたように肩をすくめている。

「みなさん、僕ほど活動的ではないと思いますけどね。少なくとも、椿ちゃんの部屋に入ったりはしませんよ」

「当たり前でしょ。入ったら叩き割ってやる」

 花梨はそのやりとりに思わず吹き出した。桜と椿が、けげんな顔で花梨を振り返る。

「ごめんね。でも、本当に……あなたが人ではないだなんて、思えなくて。今のもまるで、兄妹のやりとりみたい」

 そう言うと、椿は思い切り顔をしかめた。よほど不服だったらしい。桜は苦笑する。

「僕は石の中でも変わり者なんです。そのせいで、人らしい振る舞いにはだいぶ慣れましたよ。まあ、槐さんの手伝いをしているのも、本来は罪ほろぼし、とか……つぐない、なんですけど……」

 その言葉に花梨が首をかしげると、桜は、何でもありません、と首を横に振る。

 花梨はふと、考え込んだ。

 不思議な力を持った石たち。しかし、彼らは決して心無い存在ではない――式神のように、ただ使役されるだけの存在ではないようだ。そのことに今さら気づいて、花梨は少し心苦しく思う。

「花梨さん?」

 桜に呼びかけられて、花梨はふと物思いから覚めた。

「ごめんなさい。何て言えばいいのか……あなたたちはずいぶんと、人間らしい心を持っているみたい。私、そのことに気づいてなかった。それで、その……黒曜石、さん、にあのとき、お礼も言ってなかったなって……」

 そう言って、花梨は黒曜石の鏃を取り出した。今はもう、花梨はこの石と言葉が交わせることを知っている。それでも彼のことをどこか普通ではない、特別な何かだと思っていた。そんな風に接していた。

 しかし、だからといって、ないがしろにしてはいけないこともあるだろう。

「あらためて――あのとき助けてくれて、ありがとう」

 花梨はそう言った。遅すぎるかもしれない。しかし、花梨はその言葉を伝えなくてはならなかった。たとえ、それが受け入れられないとしても。

 そのときふいに、黒髪の青年が目の前に姿を現した。あのとき弓矢を放った青年――黒曜石が。

 ようやく姿を見せてくれたことにほっとして、花梨は彼に笑い返す。それに応えるように、しかし、厳しい表情のまま、黒曜石は重々しくうなずいた。

「協力は了解した。しかし、少しはこちらの忠告も聞くように」

 思えば、黒曜石の鏃を借り受ける了承を得たときも、花梨の勢いに根負けして、槐が一方的に決めてしまったようなものだ。店を再び訪れるときでさえ、花梨は彼の忠告には従わずに、こちらの都合で間を空けてしまっている。確かに、花梨は彼の言葉をずいぶんとないがしろにしてきたようだ。

 これはあらためなければならないと、花梨は心から反省した。つかみ取った細い糸。それは、自分しか見えていないようでは、いずれ切れてしまうものなのだから。

 花梨は苦笑しながら、彼の言葉にうなずいた。

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