第四話 蛍石

 目の前に横たわる道路を車が走っている。

 右に左に。車は白線を境にして、それぞれの流れに乗りながらすれ違っていく。とてもではないが、この激流を突っ切って向こうへ渡ることなどできはしないだろう。危険を冒さない限りは――

 しかし、ふいにその流れが止まった。

 目の前には横断歩道。そして、その先にある信号機が今は青に光っている。その光は立ち尽くす歩行者に、目の前の道路を渡るように促していた。

 ――でも、私は……

 渡れない。どうしても渡ることができない。

 なぜだろう。さっきまで走っていた車の勢いが恐ろしいからだろうか。最近あった、嫌なことを思い出すからだろうか。それとも――

「大丈夫ですか?」

 青信号を前にいつまでも呆けていたものだから、通行人に声をかけられた。声をかけたのは大学生くらいの女の子だ。青い光を見つめながら、渡る素振りも見せない人物を、奇妙にでも思ったのだろう。

 そんな風に、はっきりと状況は理解できているのだが、自分がなぜこんなところに立ち尽くしているのか、それだけは頭にもやがかかったかのように判然としなかった。どうして、目の前の何でもない横断歩道を、自分は渡ることができないのか。そんなことすら、わからない。

 呆然としている間に信号は点滅し始め、やがて赤へと変わる。その瞬間、妙にほっとしている自分に気づいた。

 止まっていた時間が、ようやく動き出す。

 目の前の道路からは顔を背けて、声をかけてくれた女の子の方を見た。何ごともなかったかのような顔で。

「大丈夫です。少し立ちくらみがしただけですから」

 そう言って苦笑する。相手は少し心配そうな表情を浮かべてはいたが、はっきりした受け答えに安心したのか、それ以上何かを言うこともない。そうですか、と言って、会釈をしながら立ち去っていく。

 いなくなってから、さっきの彼女のことを、ふと、どこかで見た気のする顔だ、と思った。しかし、どこで見たのかは思い出せない。知っているような気もしたし、知らないような気もする。少なくとも名前を知っているような相手ではなかった。

 どちらにせよ、それを確かめるために追いかける必要もないだろう。そう思って、それ以上は考えないことにした。

 そうして、また前方をぼうっとながめ始める。目の前に横たわる道路を絶え間なく走る車の流れの、その先を――


      *   *   *


 次に信号が青に変わったときには、その人は問題なく横断歩道を渡って行った。

 振り返ったとき、そのことを確かめた花梨は内心でほっとする。声をかけただけで通り過ぎてしまったが、どうにも心配だったので、こっそりと彼女の行動を気にしていた。しかし、それもどうやら杞憂だったようだ。

「そろそろ暑くなってきたかな……」

 日差しの強さにふと気づいて、花梨は何気なくそう呟いた。いつの間にか、季節は夏らしくなりつつある。暑さに慣れない体には、太陽の熱はことさら厳しく感じられるだろう。

「先ほど声をかけた者のことを言っているのか」

 花梨の言葉を聞いて、黒曜石がそう問いかけた。花梨は首を横に振る。

「それもあるけど、単純に京都の夏は暑いって聞くから」

 故郷はどちらかというと涼しい土地で、そのうえ寒い季節の生まれだからか、花梨は暑さが苦手だった。そうでなくとも、体調を崩しやすい時期ではある。

 とはいえ、さっきの人がそのせいで立ちくらみをしたかどうかはわからない。もしかしたら本当に暑さにやられただけかもしれないが、それだけが理由ではないような、そんな漠然とした勘が働いていた。だからこそ、花梨は不安になって声をかけたのだ。

 彼女が見ていたのは、目の前の信号機でもなければ、すぐそこを横切る車道でも、その向こうの歩道でもなかった。もっと遠くの方。あるいは、ここではないどこか。そんな風に、花梨には思えてならない。

 あの人はなぜ、道も渡らずにその場で立ち尽くしていたのだろう――


 あれこれと考え込んでいるうちに、花梨は槐の店まで来ていた。もはや勝手知ったる、といった具合に、花梨は格子戸を開けて、軽くおとないだけを告げて入って行く。

 通り庭を歩いて行った先、坪庭に入る少し前に、話し声が聞こえてきた。意図せず耳に入ったそれに、花梨は思わず立ち止まる。

「石を依り代にした術だ。どう考えても、これは音羽に由来するものだろう」

 その言葉に、花梨は真っ先に黒曜石や桜のことを思い浮かべた。しかし、彼らのことを話しているわりには、妙に深刻そうな声音だ。そもそも、これは誰の声だろうか。

「でも、それを知ってる人なんて、限られてますよね」

 そう呟いたのは桜だ。それに応えるように、槐の声が続く。

か、か」

 ――雨か雲?

「雨、ね。ふざけた連中だ」

 正体のわからない誰かは、そう言って一笑する。

「何にせよ、この店に突然やって来て、音羽の呪術を扱う者に狙われている、なんて出来すぎている。あの女、信用ならないんじゃないか」

 その言葉で、花梨は今の話が自分に関することだと気づいた。石を依り代にした呪いというのも、ついこの間にあった黒いツバメのことを言っていたのだろう。

 ならば、あの女、というのは当然、自分のことだ。誰かの言う、信用ならない、という言葉に、思わず足がすくむ。

 こんなとき、どんな顔をして槐たちの前に出て行けばいいのだろう。

 こちらの事情はすべて包み隠さず話していた。呪いについても、花梨はあくまでも自分の姉の失踪に関わることだとしか思っていなかった。しかし、そうではなかったのだろうか。

 彼らの言う、音羽の術とは――?

「もう少し警戒した方がいい。姉が行方不明だというのも、本当のことだか――」

「そこまでだ」

 そのとき、黒曜石が姿を現した。彼は花梨をかばうように前へ出ると、そのまま話し声のする方へと進んで行く。

 花梨も慌てて、それに続いた。坪庭に入り、黒曜石の背中越しに縁側の向こうに見えたのは、槐と桜と――

 ぎらりとした銀色の鋭い目が、花梨に向けられていた。初めて見る顔の青年だ。しかし、およそ現実離れした鈍い銀色の髪は、彼が人ではないだろうことを示していた。

 おそらくは、彼も何らかの石の化身なのだろう。

「聞いていたのか。加工品」

 花梨を一瞥してから、銀色の青年は黒曜石に向かってそう言った。

 ――加工品?

 思わぬ単語に、花梨は内心で首をかしげる。

 黒曜石は無言のまま、しばし相手とにらみ合った。しかし、それも長くは続かない。銀色の青年はふいに根負けしたように目を逸らすと、そのまま音もなく消えてしまった。

「あ。待ってください。輝安鉱きあんこうさん。話はまだ……」

 桜が呼び止めたが、当然のように答えはない。

 その様子に、槐は苦笑を浮かべている。それから槐は、おもむろに立ち上がると、縁側に出てから花梨にこう呼びかけた。

「おさわがせしました。鷹山さん。どうぞ、お上がりください」

 唐突な展開に呆気にとられていた花梨だが、その声にようやく、はっと我に返る。

 槐に軽くうなずいてから――それよりもまず、姿が消えてしまう前に――と、花梨は慌てて目の前にある黒曜石の背にふれた。指先に伝わってきたのは、実体があるような、ないような――そんな曖昧な感覚だ。

 それでも、花梨はその手に力を込めて、感謝の言葉を口にする。

「ありがとう。黒曜石」

 黒曜石は振り返ると、ばつの悪そうな表情でこう言った。

「礼を言うことなどない。むしろ、こちらが礼を失した」

 花梨は無言で首を横に振る。

 偶然とは言え、立ち聞きしてしまったのはこちらの方だ。むしろ、こんな風に剣呑な空気にしてしまったことを、申し訳ないとすら思う。

 それにしても――

「ところで……加工品って?」

 何となくはばかられて、花梨はこそっと問いかけた。

 銀色の青年が黒曜石を差してそう呼んだことが気になっていたからだ。もしかして、蔑称なのだろうか。しかし、黒曜石は特に気分を害した様子もない。

「たわごとだ。気にすることはない」

 そう言って、姿を消してしまう。

 座敷へと向かうと、花梨は心配した表情の槐と桜に迎えられた。

「お気を悪くなさらないでください。彼も悪気があるわけではないのです。私としましては、鷹山さんの話を疑う必要はないと思っているのですが」

「そうですよ。僕だって、あんなことは心にも思ってませんからね」

 花梨は二人の言葉に笑ってうなずいた。

「私は大丈夫ですから」

 言葉だけでなく、実際に、話を聞いてしまったときのような不安はなくなっていた。きっとこれは、黒曜石が前に立ってくれたおかげだろう。

 あらためて、花梨たちは座敷に腰を下ろした。いつもの場所に椿の姿は見えない。

 花梨は先ほど立ち聞きしてしまった内容を思い出しながら、槐を前にこう切り出した。

「それに、その……すみません。それだけじゃなくて、石を依り代にした音羽の術、という話も聞いてしまったのですが」

 槐はその言葉にうなずくと、何かを探すように傍らに手を伸ばした。そうして手探りのまま、こう話し始める。

「以前、呪符と思われるものをお預かりしたと思います。由来くらいはわからないか、と調べていたのですが……そもそも、符を使った呪いはよくある――と言うと語弊があるかもしれませんが、比較的よくある形のまじないなのです。例えば、神社で授与しているお札。あれも一種の呪術ですから。しかし――」

 槐が取り出したのは、鳥が翼を広げたような形の化石だった。

「石燕……」

 花梨はそれを見て、そう呟く。槐はうなずいた。

「術というのは、信仰と不可分なところがありまして、基本的にそれぞれが信仰する対象の力を借りるものなのです。もちろん、長い歴史の中で習合し、分離し、複雑になっているものもありますが――何にせよ、その背景には必ず思想がある」

 槐はそう言うと、石燕を座卓の上に置いた。こと、と軽く音がする。

「音羽の術の根底には、霊体や気――俗に言う幽霊などの目に見えないものを、波だとする思想があります」

「波……?」

 花梨はそう聞き返したが、いまいち具体的なイメージを持てないでいた。かといって、他に何を問えばいいかもわからない。

 槐はただ、うなずく。

「そうです。時空を越えて伝わる波。ですから、海洋の古生物の化石。こういったものとは相性が良い。化石を依り代に魂を使役する術などは、音羽の本家に伝わっていたものとしては初歩でしょう」

 花梨は今度こそ何も言えずに押し黙った。槐の言葉が真実であるかどうかも――そして、それをどう理解すればいいかもわからずに、ただ戸惑う。

 そんな感情が顔に出ていたのだろうか。槐は苦笑した。

「とはいえ、これも曾祖父の残した手記の受け売りです。確かなことは、わかりません。行われた術が本当にうちに伝わっていたものと同じなのかどうか……判断するほどの知識を、私は持っていませんから」

 槐はそう言うと、あさっての方へ視線を向けた――いや、違う。彼が気にしているのは、石のある部屋の方だろう。

 槐はしばしそちらの方を見ていたが、ふいに困ったような表情になると、花梨の方へと向き直った。

「しかし、とにかくそういった理屈で、音羽家に縁がある、という可能性はあります。仮にそうだったとして、それなら曾祖父が残した石が役立てるかもしれません。そう思い、彼らに力を借りられないかと、話をしていたのですが……」

 その結果が、あの銀色の青年の反応か。花梨が察したことを感じ取り、桜は慌てて取り成した。

「もちろん、僕は花梨さんの力になりたいと思っています。他にも、力を貸してもいいという石はいるんですよ。けど……」

 勢い込んで話し始めた桜だったが、その声は徐々に力を失っていった。

「正直、そうは言っても、僕たちなんかより……それこそ、黒曜石さんの力の方が強いと思うんですよね。たとえ、そういう勘は鈍い方の黒曜石さんだとしても。その黒曜石さんが感知できないものを、僕たちができるか、というと――」

「……鈍い?」

 不服そうな声は黒曜石のものだ。しかし、姿を現すこともなく、それ以上は何も言わない。

 そういえば、桜は以前、自分には黒曜石のような力はない、というようなことを言っていた。先ほどの石がわざわざ、加工品、と呼んでいたことも気になる。

 確かに、黒曜石は鏃なのだから、加工品と言えば加工品だ。そういう意味では、翡翠もそうなのだろう。

 桜石は――確かに変わった鉱物だが、あくまでも自然のものとして珍しいだけに見えた。それに、少なくとも花梨には、特別に手を加えたようには思えない。

 鏃と勾玉。物は違えど、彼らはやはり特別なのだろう。

 花梨はふと疑問に思って、こうたずねた。

「黒曜石と翡翠さんの他は、その――」

 加工品、とはさすがに言いづらい。

「特別な力を持った石は、もうないのでしょうか」

 花梨の問いかけに、槐と桜はなぜか固まった。間を置いてから、お互いに顔を見合わせている。

「え? いや……まあ、その。いらっしゃらなくは、ないですけど……」

 なぜか、しどろもどろになる桜。返答も、明らかに歯切れが悪い。槐の方に戸惑った様子はないが、それでも、そのことについて言及することをためらっているようだった。

「石たちにも、いろいろな考えを持っているものがいますから」

 とだけ言って、槐はお茶を濁す。

 何にせよ、この様子ではそういった石たちに力を借りることは難しいということなのだろう。花梨とて、すでに黒曜石の力を借りている身だ。それ以上、無理強いするつもりはない。

 少し気まずい空気の中、声を上げたのは黒曜石だった。

「そもそも、他の石に助力を求めることはない。想定外の事態に不覚をとったが、私も同じ過ちをくり返すつもりはない」

 花梨はうなずいた。彼の言葉は何より心強い。しかし、同時に不安に思うこともある。

 このことが姉の失踪と関わりがあるのだとすれば、姉は今、どのような状況に置かれているのだろう。姿を消したのも、この厄災から逃れるためなら、まだいいが――

 花梨には、自分は勘のいい方だ、という自覚があったが、それに対して姉の方は、どちらかというと、そういうことには鈍かった。呪いや怪異などとは、およそ縁のない人だ。だからこそ、なおさら心配に思う。

 意図せずに、何か厄介なことに巻き込まれたのだとしたら――

 花梨はふと、店へ来る前に見かけた人のことを思い出した。意気消沈した姿が、想像の中の姉の姿と重なる。

「そういえば、ここに来る前に会った人が、妙な感じだったので、少し気になっているんです。嫌な感じ、というか、その人のまとう空気が、呪いと似ていた気がして」

 唐突な話題だったが、黒曜石はすぐに反応した。

「先ほどの女性のことか」

 花梨は槐たちにそのときのことを話す。しかし、黒曜石は彼女のことを、さして気にしていないようだった。

「あれは、それほど危険なものではない。呪符や石燕の呪いとは、全く別のものだ。少なくとも、他に害の及ぶものではない」

 その言い方だと、呪いではなくとも、彼女にはやはり、何かしらあるようにも思える。しかし、例の呪いと関係がないのであれば、黒曜石は花梨が関わりを持つことを良しとはしないだろう。

 花梨はひとまずうなずいたが、それでも釈然としない何かが残った。

「……そう。でもなぜか、どうしても気になって」

 以前の自分なら、あやしい物事は避けていたかもしれない。しかし、だからこそ花梨は、この直感で得たものに捨て置けない何かを感じていた。

 花梨の話を聞いて考え込んでいた槐が、そのときふいに口を開く。

「その方がいたのは、六道珍皇寺ろくどうちんのうじの辺り、と。でしたら、あの場所は――」


      *   *   *


「あの」

 という呼びかけに、はっとして意識を取り戻す。ぼんやりしていた焦点が結ばれると、視線の先にあった信号は青から赤に変わるところだった。

 自分はまた、道も渡らずに横断歩道の前でぼんやりとしていたのか。すぐにそのことを理解して、苦笑した。もはやこの流れにも、慣れたものになっている。

 視線を転じると、いつか見た顔がそこにあった。少し前、同じような状況だったときも声をかけてくれた女の子。今も心配そうな表情で、こちらの顔をのぞき込んでいる。

「あなた、この前も声をかけてくれた子ね」

 そう言うと、彼女は黙ってうなずいた。その子が何かを言うより先に、すぐに言い訳めいたものが口をついて出る。

「大丈夫。本当に。ただ……最近、嫌なことがあってね。それでどうしても、ぼうっとしてしまって」

 この間のときも、そんなことをすげなく答えて、彼女とはすぐに別れたはず。しかし、今度はそうならなかった。彼女は立ち去ることなく、何かを言いたげな様子でこちらをじっと見つめてくる。

 なぜだろう。さすがにいぶかしく思って、顔をしかめた。その変化を鋭く感じ取ったのか、彼女は思いきったように口を開く。

「すみません。でも、どうしても気になって。もし、よろしければ、その理由を教えてはもらえないでしょうか」

 理由。そんなものはない。というより、自分でもわかっていないものを、説明などできはしない。

 それに、たとえ自分を心配してくれている相手であったとしても、そうやすやすと自分の身の上を話す気にはなれなかった。そもそも、なぜそんなことをたずねるのだろう。

「申し訳ないけど、見ず知らずの他人に話すようなことは何もないの」

 少し厳しい言い方になったかもしれないが、こちらも興味本位で詮索されたくはない。これで諦めるだろう、と思ったのだが、彼女はそれでも引き下がらなかった。

「ご迷惑なら、本当に申し訳ありません。あなたを困らせたい訳じゃないんです」

 彼女は少し言い淀む。それでも、その先を話した。

「私も、自分だけの力で何とかなると思っていました。ひとりでも、平気だと。でも、助けてくれる人が現れて、それでわかったんです。自分だけだったらきっと、どうにもならなくなっていた。それはきっと、今までだってそうだったと……」

 話を聞いていてふと、既視感を覚えた。彼女とは、もっと以前に言葉を交わしたことはないだろうか。しかし、いくら思い返しても、おぼろげな記憶は確かなものにはならなかった。

 彼女は苦笑する。

「すみません。勝手に自分のことを話してしまって。不快に思われたかもしれません。でも、もし私に何か、できることがあるのなら……」

 横断歩道の信号が赤から青に変わる。どうすべきかためらったが、そのときは自らの意志で渡らなかった。

「そう……ごめんなさいね。突き放すようなこと言って。私もどうしてこんな風になるのか、本当はわかっていないの。ただ、こうなった理由には、思い当たることがあるのだけれど……」

 いつの間にか、頑なだった心は多少やわらいでいた。既視感からか、それとも彼女の言葉が信じられると思ったからか。

 そもそも、彼女の立場からしてみれば、毎回のように茫然自失の状態で道に立っている人がいては、心配するなという方が無理なのだろう。もちろん、他人のことなど気にしない人だっている。しかし、少なくとも彼女はそうではなかった。

 ためらいつつも、こう切り出す。

「こんな話、何も知らない人に聞かせていいか、わからないんだけど」

 話してみようかという気になった。しかし、同時に話してもどうにもならないという諦めもある。たとえそれを話したとして、無意味に彼女を消沈させるだけだ。それなら、この心の内だけにしまっていた方がいい――

 そう迷ったが、結局は話すことにした。考えた結果ではない。流れに身を任せただけ。それだけ、自分は意志を欠いた状態なのだと、ふいに自覚する。

「最近、事故で……知り合いを――亡くして」

 目の前の道を車が走り抜けていく。

 特別な光景ではない。しかし、たとえばほんの一歩、ここから車道に出てしまったら。あるいは、車が道をそれてしまったら。

 あの人も、こんなことになるなんて思ってもいなかっただろう。不慮の事故だった。突然のことで、連絡を受けたときには、もう言葉を交わすこともできなかった――

 そのことを聞いても、彼女は驚いてはいないようだった。むしろ、知っていた、とでも言うかのように落ち着いている。少しだけ不思議に思った。

 とはいえ、ここまで口にしてしまえば、もうこれ以上明らかにすることはない。思っていることを、すべて話してしまう。

「交通事故だったの。車にひかれて。だからかな。こういう道を渡るのが怖いのは。無意識のうちに、怖がっているのかも――」

 怖がっている。そうなのだろうか。自分の口から出た言葉なのに、それにはあまり実感がこもっていなかった。それでも。

 ――確かに私は怖がっている。

 そう思った。しかし同時に、車が走っているだけでそんな風に思うだろうか、という疑問も抱く。子どもじゃあるまいし。毎日通っている道だ。不幸がないとは限らないが、それでも、そんなことをいちいち怖がっていては、まともに生活できないだろう。

 だからこそ、こうして心配されているわけではあるけれど。

「怖い……それはもしかしたら、この場所に関係があるのかもしれません。ここは、あの世とこの世の境、だそうですから」

 女の子はそう言った。思いがけないその言葉に、こちらはどうにも返答に困る。

 どうしてそんなことを言うのか。呆気にとられた表情をしていたのだろう。目の前の彼女は慌てたように、こう続けた。

「あ、いえ……その。そういうことにくわしい人に、そんな話を聞いて」

 どうやら、誰かの受け売りらしい。本気で言っているなら軽く正気を疑うところだが、この焦りようからいって、本人も奇妙なことを言っている自覚はあるようだ。

 あの世とこの世の境――

 その言葉の意味を深く考える間もなく、ふいに現実的な問題を思い出した。どれだけの時間、ここでこうして立ち話をしていただろう。いくつの青信号を、やり過ごしてしまったのか。

 ――そろそろ行かないと遅れてしまう。

 信号がちょうど青に変わるときだったので、そのまま一歩を踏み出した。

「ごめんなさい。私、そろそろ行かなくちゃ」

 そうして、小走りでその場を去った。最後に、声をかけてくれた彼女に向かって、話を聞いてくれてありがとう、とだけ言い残して。




 ふと気づけば、その場に立ち尽くしていた。

 もうこれで何度目だろう。さすがに苦笑すら浮かばず、この現象に気味の悪さを感じ始めていた。

 視線は足元にある。今の信号は何色だろうか。内心でため息をつきつつも、そんなことを思いながら顔を上げると――

 そこにあったのは思いがけない光景だった。

 横断歩道の代わりに橋がある。真っ直ぐに続く橋板に、両端は赤く塗られた欄干。金具は金。それは間違いなく豪奢で立派な橋だった。

 驚いて、思わず後ずさる。ためしに首を振ってみたり、頬を手のひらで叩いてみたりしたが、間違いようのない確かな感覚があった。これが夢であるとは思えない。

 橋の向こう側は霧にかすんでいる。しかし、橋であるからには何かを渡すためのものだろう。そう考えて、欄干に近づきおそるおそる下をのぞいてみた。

 そこにあったのは、たゆたう水面だ。大きな川か、それとも――

 水の動きはゆったりとしていて、流れているのか、そうでないのか判然としない。よく見ると、そこには蓮の花が咲いていた。花弁の先端から徐々にピンクに染まった可憐な花が、緑の葉に囲まれて、水面からいくつも茎を伸ばしている。

 幻想的な風景だ。しかし、その様子からは、ここがどこなのかという答えを得ることはできなかった。むしろ、こんな光景が近場にあった覚えもなく、自分の知識ではどこにいるのか全く見当もつかない。

 視線を転じて後方へと目を向けてみると、そこにあったのは、意外にも普通の街並みだった。

 ふと、誰かに見られている気がして、辺りを見回す。目の前に並んだ建物は背の低いありきたりなビルで、特におかしなところはない。しかし、あることに気づいて、ぞっとした。

 窓という窓に人影がある。そして、皆そろってこちらを見ていた。表情は、はっきりとはわからない。しかし、どの人影も身じろぎもせずに、こちらの方をじっと見続けている。

 思わず顔を背けた。しかし、そうしたらそうしたで追ってくる視線を幻視してしまい、どうにも居たたまれなくなってくる。それを避けるように歩き出すと、自然と橋のたもとへとたどり着いた。

 伸びた橋の向こう――その先の霧が少しずつ晴れていく。橋が尽きるところは砂州になっているようで、白く煌めいて見えた。おだやかな風に霧を払われて、やがて姿を現したのはきらびやかな御殿だ。

 輝く岸に建てられたそれは、透明な水の上に夢のように浮かんでいる。赤や黄、紫に緑と色あざやかな装飾が施されていて、およそ現実のものには思われなかった。

 呆気にとられて、ぼんやりとながめていると、ふとそこに人影があることに気づく。それが誰なのかがわかった途端、思わず息をのんだ。

 命を落としたはずのあの人が、生きていた頃の姿でそこにいる。

 こんなことが、あるはずがない。そう思うと同時に、間違いなくあの人であることを確信していた。

 向こうにいるあの人は、こちらに気づいてはいないようだ。しかし、あそこに行けば、もう一度あの人に会える。そんな考えが、呆然とした頭に浮かぶ。それでも――

 でも、まだ。

 ――渡れない。

「私はまだ、渡れない」

 確かめるように呟いて、橋から離れた。あの人の姿に背を向けて、振り切るように歩き出す。

 建物の間に伸びた道を進んで、街の中へと入っていった。窓という窓から、自分の行動を見られていることを感じる。しかし、それらの視線はあえて無視した。後ろを振り返ることもしない。ただ一心に歩いて行く。

 あの場所には、まだ行けない。その決意が揺らぐことが、何より怖かった。

 しばらくは足早に歩いていたが、はたと気づいて立ち止まる。自分は一体、どこへ向かえばいいのだろう。元の場所には、どうすれば戻れるのか。

 そのとき、道の先に人影が現れた。着物姿の青年。ごく普通の人のように思えたが、彼の髪色は淡い青か、あるいは緑にも見える不思議な色だった。よく見ると、瞳も同じ色をしている。

 人ではない、のだろうか。

 彼はこちらに目を向けて、まるで自分のことを待っているかのようにその場に佇んでいた。手にしているのは細長い棒の先にぶら下がった形の提灯。炎の明かりではない。それは、どこかで見た覚えがあるような、強い光を発していた。

「お帰りになられるなら、こちらです。僭越ながら、私が道案内をいたしましょう」

 目の前の彼は、そう言った。信用してもいいのだろうか。戸惑っているうちに、青年はこう続ける。

「あなたのことを、心配されている方がおられます。ですから、私がお迎えに参りました」

「心配? 私のことを? 一体、誰が……」

「うちのお客様です」

 何のことかわからずに首をかしげる。しかし、彼はそれ以上何も言わずに、ただほほ笑んだ。

「どうぞ、こちらへ。ついて来てください」

 そう言って、こちらの答えを待たずに歩き始める。ついて行くべきか、しばし迷った。しかし、見失ってしまうことも怖くて、少し遅れて歩いて行く。

 進む先には、やはりどこかで見たような、それでいて初めて訪れた場所のような、そんな曖昧な街並みが続いていた。相変わらず窓には人影。それがあまりに不気味で、自然と早足になる。

 先行く彼が、前を向いたままこう言った。

「ご安心ください。あれらは橋を渡ることが叶わず、さりとて戻ることもできない哀れな魂。あそこに囚われたまま、どうすることもできません」

 横断歩道の前で呆然と佇んでいたことを思い出す。自分もまた、いずれあれと同じものになっていたのではないだろうか。そんなことを考える。

「……あれらは、ずっとあそこに?」

 先行く彼が軽く振り返った。そして、窓にある人影をちらりと見やる。

「そうですね。時が来るまでは。今は無害ですので、お気になさらず。どちらかというと、足元を注意された方がいいでしょう」

「足元?」

 彼は立ち止まると、手にした明かりをこちらに向けて足元を照らし出した。

 その光の輪から逃れるように、近づいていたものが、さっと離れる。何だろう。何かの生きもの。猫だろうか。いや、どちらかというと小さな猿のような――

 違う。ただの動物じゃない。

 物影でこちらをうかがっているそれを目にして、思わずぎょっとした。そこにいたのは、痩せぎすで角の生えた見たこともない生きものだったからだ。

 ――鬼?

 そんな言葉が頭に浮かぶ。

「あなたに取り入ろうとしているようですが、それほど力のあるものではありません。あなたなら、問題ありますまい」

 彼はそう言って、また歩き始める。慌ててついて行くと、小鬼も動き出した。よく見ると、ぞろぞろとたくさんついて来る。しかし、提灯の光を恐れているのか、それ以上はこちらに近づいてくる気配はない。

「私の光がそれらを遠ざけます。滅することはできずとも、近づかぬように道先を照らすくらいはできますので。ただ、少々惑わしてくるかもしれません。そんなときはこの明かりを頼りに」

 惑わすとは、どういうことなのか。たずねる前に、ふいに背後から自分を呼ぶ声がした。

 懐かしい声。死んでしまったあの人の。思わず振り返りそうになるが、応えてはいけない気がして思いとどまる。

 着物の青年は黙ってうなずくと、また先導し始めた。今度は離れないよう、彼のすぐ後ろを歩いて行く。

 周囲の街並みが、はっきりと見知った場所になっていることに気づいた。

 あの人と出会った場所。初めて訪れたところ。二人のお気に入りの店。懐かしい景色が歩く度に後方へ流れていく。

 捨てがたい幸福だった日々。その幻が涙でにじんだ。あの橋を渡れば、それを取り戻せるのだろうか。自分は、それを捨て去ろうとしているのか。それでも。

 ――それでも、私はあの橋を渡れない。まだ。

 青年の持つ提灯の明かりから、ひとつ、またひとつと小さな光が分かれいく。その光が周囲を飛び交うと、取り巻く幻がおぼろになって遠ざかった。

 そうか、これは蛍の光だ。幼い頃、故郷の小川へ見に行ったことがある。

 目を閉じて、あふれる涙を振り落とす。それでも、蛍の光はほのかに感じられた。そのまま、しばらく歩いて行くと――

「もう大丈夫。着きましたよ」

 ふいに、前方からそんな声が聞こえてくる。その言葉に従って、立ち止まった。目を見開いて、ぼやけていた焦点が結ぶと同時に、まずは騒々しい音が戻ってくる。

 そうして――


 気がつくと、横断歩道の前に立っていた。

 信号は赤。それを確認して、すぐ辺りを見回す。先導してくれた人はどこにいったのだろう。そう思って、その姿を探した。

 そこにあったのは、いつも通っている道。見慣れた街並み。

 すぐそばに誰かが立っていた。何度か声をかけてくれた子だ。驚いて目を見開くと、彼女はその反応に、ほっとしたように、よかった、と呟いた。

 よく見ると、彼女は両手で包み込むように何かを持っている。何だろう。それが妙に気になって、さそわれるようにのぞき込む。

 そこにあったもの。それは淡い青のような緑のような、優しい色の石だった。


      *   *   *


「力を貸していただいて、ありがとうございました。蛍石さんも、ありがとう」

 花梨はそう言って、槐に蛍石を手渡した。それを受け取りながら、槐は軽くうなずく。

「お役に立ったようで、何よりです」

 槐はその蛍石を、壁に作られた棚の、空いているところにそっと置いた。棚には、他にもたくさんの石がずらりと並んでいる。

 花梨は思わずそれらを見回した。初めて訪れたときも圧倒されたものだが、これらに隠された秘密をすでに知った今となると、また違った印象を抱く。

 蛍石を前にして、花梨はあらためてこうたずねた。

「その、私はよくわからなかったのですが、あの人はこの世とあの世の境にいたのでしょうか」

 これに答えたのは蛍石だ。

「そうですね。心が。彼女は死に惹かれていた。その感情が場と呼応して、つかのまの幻を見ていたのでしょう」

 姿を現さず、声だけでそう答える。

「場、ですか」

 花梨の呟きには、槐がこう応えた。

「北の蓮台野れんだいの、西の化野あだしの、そして東の鳥辺野とりべの。あの辺りは平安時代には都の外であり、そして葬地のひとつでした。かつては東山西麓から鴨川にかけての一帯が、そう呼ばれていたそうです」

「葬地……あの辺りは、遠い昔はお墓だったんですね」

 花梨がそう言うと、槐はうなずいた。

「六道珍皇寺というお寺があります。小野篁おののたかむらが地獄へ通ったという冥府通いの井戸があることで有名ですね。そして、あの辺りは六道の辻とも呼ばれている。六道――すなわち、衆生が輪廻転生する六つの世界。それが交わるその道を通り、遺骸は鳥辺野の地に葬送されるのです」

 今となればあの辺りは街中となっているが、かつてはもっと寂しい土地だったのだろう。現代の姿を知っていると、あまり想像できない。

「当時、高い身分の者であれば火葬を行うこともあったようでしたが、庶民などほとんどは簡易な土葬でした。遺骸に軽く土を被せただけで、朽ちるに任せるだけだったとも――」

 荒涼とした地に、亡骸だけが横たわる。当時の人にしてみれば、その風景は現実にあるあの世そのものだったに違いない。

「だから、あの人はその場所に囚われてしまった?」

 花梨のその言葉には、蛍石が答える。

「しかし、彼女はずっと、渡れない、と言っていた。その意志は固かったのでしょう。きっと、私がいなくても、悪いようにはならなかったと思います。私はただ、彼女の手助けをしただけ」

 確かに。彼女は最初から、渡ることを望まなかった。ただ垣間見た景色から離れがたかっただけ。それもおそらく、いずれは時間が解決したに違いない。

「それでも、ありがとうございます。私では、彼女に声を届けることはできませんでしたから」

 花梨が再びあの人が立ち尽くしているところに行き合ったとき、彼女は声をかけても何の反応も示さなくなっていた。それを確かめた花梨は、慌てて槐に助けを求めたのだ。

「私は目がいいのです。見えざるところへの道案内が必要でしたら、いつでもお呼びください」

 蛍石はそう言った。そんな場面に、再び出くわすとは思えないが――それでも花梨はうなずく。

 蛍石は淡い青を主体に、少し緑が混じったような、そんな優しい色あいの石だ。正八面体が寄り集まったような不思議な形をしている。

 槐がふいに口を開いた。

「蛍石はフッ化カルシウムが主成分の鉱物です。加熱すると発光し、割れて弾け飛ぶ様が飛び交う蛍のように見えることから、蛍石と名づけられました」

「加熱するのですか? 石を?」

 槐はうなずく。

「蛍石は融剤――金属などを溶かしやすくするために添加される物質として利用されてきました。英語名のフローライトは流れる、という意味の言葉が由来です」

「なるほど」

 石にはそういう使い方もあるのか。しかし、このきれいな石を溶かしてしまうのは、少し惜しいとも思う。

「天然のものが顕微鏡などのレンズとして使われていたこともありますが、現在では人工の結晶が高性能な望遠鏡やカメラのレンズとして利用されていますね。長く人々の生活に役立ってきた石です」

 槐はそう締めくくる。目の前の淡い色合いの石は、その言葉に、不思議と誇らしげに見えた。




 花梨は姉の下宿先だったところを訪れていた。

 姉が住んでいたはずの学生向けのアパートには、もうすでに別の住人が入っているようだ。花梨はその場所を複雑な思いで見つめていた。

 一度だけ、長期の休みを利用して遊びに来たとき、花梨はここに滞在している。今もそこに姉がいるような気がして、思わず呼び鈴を押したくなった。もちろん、そんなことはできないけれども。

「――あれ? あなた、あのときの」

 ふいに声がして振り向くと、そこには横断歩道の前でよく会う、例のあの人の姿があった。何度か行き合ってはいたが、ここで会うのは初めてだ。どうやら向かいのマンションに住んでいたらしい。

「あのときは、ありがとう。何だかよくわからないけれど、助けてもらったようだから。ごめんなさいね。あんなに邪険にしたのに」

 花梨は首を横に振る。彼女は何かを言おうとして、少しためらってから、思い直したようにまた口を開いた。

「えっと……私ね、故郷に帰ることにしたの。一旦、仕切り直し。京都からは、しばらく離れるつもり」

 よく見ると、彼女はちょっとそこまで出かけるには、大きすぎる荷物を抱えている。

「こんなこと言われても、困っちゃうかもしれないけど」

「いいえ。その……月並みですが、がんばってください」

 その言葉に、彼女はあらためて花梨と真正面から向き合った。そのとき、彼女は何かを思い出したように、はっとする。

「そうか。どこかで見たことがあると思っていたのだけれど、あなた、もしかしてここに住んでいた子の姉妹? 雰囲気は違うけど、顔立ちはよく似てる」

 その言葉に、どきりとする。この人は姉のことを知っているのだろうか。逸る気持ちを抑えつつ、くわしい事情をたずねた。

「名前も知らないのだけれど、よく話をしたの。仕事に行くときは、だいたい同じような時間に家を出るでしょ。道も途中まで同じだったから、そのときに」

 彼女はそこで少し苦笑する。

「何だか、人懐こい子で、また会いましたね、なんて、自然に会話するようになって。彼女、私の仕事に興味を持ってくれたみたい。でも、あらためて名乗ったり、他の場所で会うほどにはならなくて」

 確かに、姉はそういう人だった。すぐに話しかけて、誰とでも仲良くなれて。

 花梨は確信する。これは間違いなく姉のことだ。

 しかし、名前も知らないなら、本当にたまたま会って話すだけの知り合いだったのだろう。交遊関係の広い姉のことだから誰と親しくなっていてもおかしくはないが、少なくともこの人とは、そうなる前に姉は姿を消してしまったのだ。

 花梨は、彼女に姉が行方不明になっていることを告げた。そして、今も探していることを。

「そうだったの。全然知らなかった」

 彼女は心底驚いているようだった。途端に、花梨を気づかうような表情になる。

 そのときふと、彼女の顔が曇った。何かを思い出すように視線が宙をさ迷う。

「でも、それじゃあ。もしかして――」

 彼女はおそるおそるといった風に、その続きを話す。

「私、見かけたの。大きな荷物を持って、慌てて出て行くところ。どこか、旅行にでも行くのかと思って。確かに、あれ以来かな。彼女のことを見なくなったのは。それから――」

 彼女はさらに思い出そうとするように、姉が住んでいたアパートの方を見やった。

「男の人が一緒だった。若そうに見えたけど……でも、学生って感じじゃなかったかな。彼女をどこかへ連れて行くのかなって思ったの。別に無理やりという感じではなかったけど……」

 初めて聞く話だった。こんな形で、姉に関する情報が聞けるなんて。突然のことに、花梨は言葉もない。

「ごめんなさい。それ以上のことは……もっと、何か気のきいたことを覚えていればよかったのだけれど」

 彼女のその言葉に、花梨は、はっとする。申し訳なさそうな表情に、とんでもない、と言って深々と頭を下げた。

「十分です。ありがとうございます」

 花梨がそう言うと、彼女は安心したように去って行った。

 彼女と別れて、花梨は考える。この情報は、どこへつながっているのだろうか、と。

 道先の案内もないままに、花梨はこの先を歩いていかなければならなかった。

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