Last Track

 ☆




 李智がΦalファイアル・天馬亜央としての活動を再開してから、そろそろ1週間が経つ。

 7月が迫ってきて、背中の汗ばみを感じた李智は焦り始めていた。


 あと1週間で、李智が通っているはずの中学校の期末試験がある。

 その前に亜央と元に戻らなければ、勉強嫌いの亜央が試験を受ける羽目になるのだ。

 中学校はあくまで義務教育なので、留年の心配はない。だけど正直、内申点が不安だ。ここでガクンと成績が落ちたら、家族と高久が勧める芸能高校にすら合格できない可能性が高まってしまう。

 ……と、先輩のIQの低さを本気で心配する李智である。


 一方、亜央も同じ理由で焦っていた。

 そろそろ李智と元通りにならなければ、自分が期末試験を受ける羽目になる。

 あくまで真面目にしていたのは板書と提出物だけなのだ。写せば良いものばかりで、内容は1ミリも頭に入っていないと言っていい。中学時代なら復習になるはずだろ、と思うかもしれないが、算数が数学になり、国語に古文と漢文が加わった時点でもう亜央の処理能力は大幅に超えている。復習も何も、はじめから学んでいないに等しい。


 しかし、ΦalとNext Gleamingが顔を合わせる機会はほぼなかった。

 両ユニットの休みはなかなか合わないし、Φalはツアーを終えたばかりで、Next Gleamingがバックについて行う仕事も今はない。会わずにどうやって入れ替わりを解除するのだ、という話である。




 ☆




「次は李智だぞ、おい」


 例のスパルタスキンヘッドの振付師が、李智の顔をした亜央を呼んだ。

 未地が「大丈夫だ」と小声で励ましてくれるが、足の震えが止まらない。そこに、振付師の横で壁に寄りかかっている伴南が「Ur BroZersは全員できたのよ」と追い討ちをかける。


(Φalは、りと兄以外できませんからっ! それでもデビューできましたからっ!)


 心の中で反論するが、言葉には出さない。伴南は明らかにΦalと異なる個性をNext Gleamingに付けさせようとしている。まぁ、当然っちゃ当然なんだけど。


 目の前に広がるのは緑のマット。その上に、断面が横になるように倒して置かれた、黄色の円柱型のマット。

 亜央は円柱型マットの近くまで歩いて、背を向ける。運動神経抜群の紗空さくが「何かあったら俺が支えるから」と右手で言ってくれるが、左手のキラは仏頂面なので何ともやりづらい。


「怖がるな。万歳して、腕の向きと背中の反りに注意して飛び上がるんだ。気づけば床に手がついて、体がくるっと回ってるから。できなくても骨折くらいで済むし、絶対に死なせはしないから怯えるな」


 振付師の言葉も、励ましてるんだか脅してるんだか分からない。だけどそろそろ挑戦しないとまずいぞ、振付師が怒るぞ、と亜央の本能が訴え出す。亜央は目を固く瞑って、膝を曲げた。


 床を蹴る。腕を振り上げ、背中を反らす。円柱型マットに腰まで乗っかって、くるんと両手が緑のマットについた。一瞬倒立の形になって、膝を柔らかく曲げて床を突き放した。


 あ、できた……?

 できた! できたっ!


「亜央、お前すげぇじゃん! Φalで二人目?」


「りと兄が見込んで教えた甲斐があったね」


 拍手しながら駆け寄ってきたのは、長髪を束ねた男に、目の覚めるような金髪で長身の男……。


我来がく!? 星衣せい!?」


「え、なんで俺らの名前呼んでびっくりしてんの?」


 互いにキョトンとしている3人をよそに、りと兄と慕われる相楽さがら莉都が亜央の頭をくしゃっと撫でた。


「活動再開してから、何か武器を身につけたいって言ってたもんなぁ。こんな短期間でバク転できるようになったとかすごいよ亜央」


「え、あー、いや、でもこれはマットの補助付きだし……」


「今までマットと俺らの手が必要だったのに、マットだけでできたんだ。それだけですっごい進歩だよ。次のライブでは亜央と俺でバク転が披露できそうだな」


「あ、ねえ、りと兄」


 口を挟んできたのは、Φalの圧倒的センター・理玖だ。


「俺のシンメ取らないでよ」


「あれ、りっくん嫉妬してる……?」


 最年少の星衣に指摘されると、理玖は「そんなんじゃねぇしっ!」とどこかへ逃げていく。


 あぁ、そうか。バク転した瞬間にまた入れ替わったんだ、俺。

 突然のことだったけれど、またΦalに戻ってこれたんだ。理玖もちゃんと俺のこと、唯一のシンメだって認めてくれてるんだ。


 よく見れば、ここは事務所のほど近くにある体育館だ。さっきまで、事務所内のトレーニングセンターにいたはずなのに。

 一部に張られた鏡へ近づいてみると、そこには大きな猫目が映っていた。やっぱり今、自分は天馬亜央に戻ったんだ。


 その瞬間、涙が止まらなくなってしまった。

 やっと、やっと戻れたんだ。自分の体と心が一致したんだ。


「亜央!? お前泣いてんの!?」


 人数分のスポーツドリンクを抱えて帰ってきた理玖に見つかった。理玖は慌てて飲み物を床に置き、亜央の肩を抱いて顔を覗き込んでくる。


「いや……バク転が進歩して……嬉しい、だけだ」


「そんなに涙脆かったっけ?」


「いいじゃねぇかよ」


 亜央は理玖の顔を覗き返す。懐かしい、優しい二重が見えた。そう、俺はこいつのシンメなんだ。

 亜央は手でゴシゴシと目を擦って、スポーツドリンクを受け取った。




 ☆




 目の前に広がるのは緑のマット。その上に、断面が横になるように倒して置かれた、黄色の円柱型のマット。


 ハジンにお願いし、自主トレ用に借りた事務所のジムより3倍ほど広い体育館で、李智は莉都に見守られながらバク転の練習をしていた。

 自分だけが楽するのを、もう辞めるために。自分にしかできないことを、見つけるために。

 活動再開してすぐ、李智は莉都にバク転のレクチャーをお願いしたのだった。


 気が遠くなるくらいに練習した。

 教えるのは実質莉都だけなのに、理玖も我来も星衣も全員残って連日付き合ってくれた。我来は「俺、亜央がバク転してる間に野菜ジュース飲むから。100%の」と言って、苦手なはずの野菜ジュースを克服してみせた。それを見て、李智の心に新たな火がついた。


 そしてやっと、手足がしっかりと緑のマットについた感覚がして——。


「できたじゃないか、李智」


「……おわっ!?」


 顔を上げた先にいたのは優しい莉都ではなくて、スパルタスキンヘッドの振付師だった。

 拍手しながら駆け寄ってくるのは、シンメの未地だ。


「な? できるっつったろ」


「おせぇよできんの」とキラがぶっきらぼうに言うのを「そういうのやーめ」と止めるのは紗空だ。


 え、つまり……。

 僕は李智に戻れたってこと!?

 亜央くんもちゃんとΦalに戻れたのかな。


「李智。センターとしてまた一つ、武器ができたな」


 振付師が珍しく李智を褒めたので、曖昧なニヤつきを見せてしまう。だが「次はバク宙な」と真顔で続ける振付師を見て、あぁこの人は相変わらずだ、と悟った。


 相変わらず。

 そんな言葉にさえありがたみを感じる。

 約1ヶ月は長かった。でも思えば、あっという間でもあった。


 Φalお試し期間は終了だ。

 これからNext Gleamingとして、自分に何ができるのか。


 ふと頭を撫でられたと思えば、未地が三白眼を細めて頷いている。

 李智も深く頷いた。

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