一章(15)砂漠の大蜘蛛

 壁の向こうには広い空間があった。

 四方を壁でぐるりと囲まれているおかげで、強風から守られているのだろう。砂嵐が止んでいる。

 視界も向こう側の壁が見えるほどクリアだ。

 時よりハラハラと落ちてくる少量の砂が気になり視線を上げると、天井は吹き抜けになっていた。

 壁の上では、相変わらず砂が混じった風が吹き荒れ黄色く濁っている。

 そんな空の忙しなさに対し、リュトの立つこの場所は、まるで別世界であるかのように静まり返っていた。


 「静かなところね」

 ポツリと呟いたスファラの声が、やけに大きく聞こえた。

 スファラも同じように感じたのか、先ほどより声量を下げて話す。

 「ここに皆がいるの?これだけ声が通るところなのに、誰の声も聞こえ無いなんておかしいわ」

 リュトは、右へ左へと首を振りながら、辺り一帯を見渡した。

 しかし、誰も見当たらない。

 広い空間だと言っても、向こう側の壁が見える程度だ。

 遮るものも無いこの場所で、何かあればすぐに見つけられそうなものだった。

 それに、スファラの指摘通り誰の声もしない。

 それどころか、上空で唸る風の音が微かに聞こえるだけで、他の物音は一切聞こえてこないのだ。

 リュトの体がざわりと波立つ。

 得体の得体のしれない恐怖に、本能が警告している。

 ここは危険だ、すぐに立ち去れ、と。


 「もう少し奥に行ってみましょう」

 スファラは警戒しながらも、先ほどまでと変わらない様子で、中央へと向かって足を進めた。

 進むたびに、リュトが感じる不快感は増していく。

 脈が速くなり、そのせいで呼吸が乱れる。

 歩いているだけなのに、汗が流れ落ち、進む足は小刻みに震えている。

 これは一体何なんだ。

 恐ろしいものを目にしたわけでもないのに、恐ろし目にあったわけでもないのに、どうしてこんなにも恐怖を感じているのだろうか。

 こんなことは、生まれて初めてだった。

 親族が処刑台に立ったあの日でさえ、ここまでの恐怖心は抱かなかったというのに。

 リュトは、スファラに余計な不安を抱かせないようにと、症状を隠しながら進んだ。


 中央に辿り着き、四方を見渡す。

 端にいた時よりも、全体がよく見えた。

 「やっぱり誰もいないわね」

 依然として誰も見つからない。本当にここにいるのだろうか。

 障害物が一つも無い砂地に、リュトとスファラだけが立っている。

 「彼、案内する場所を間違えたのかしら」

 スファラが冗談混じりに乾いた笑いを漏らした。

 目的地にたどり着いたのに、何の進展もないのが不安なのだろう。予想では壁の向こう側で、すぐに仲間の状態を確認できると思っていたに違いない。

 「こんな場所がいくつもあるとは思えないが」

 いくら世界が変わってしまったと言えど、この地形は珍しい。

 同じような場所が近くに何個もあるとは考えにくかった。


 リュトは警戒心は緩めずに、張り詰めた肩の力を少し抜く。

 ここに来るまでの間、目的地に着いた途端に異形との戦闘が始まると思い、覚悟を決めてきた。

 だが、いざその場に着いてみれば、異形どころかヴォルガン達さえいないとは。せめて骨の一つでもあれば、諦めがついたというのに。

 いくら見渡しても、砂の上には何も見当たらないままで、完全に行き詰まった状態だ。

 それなのに、先ほどから感じる恐怖心の理由もまだ分からないままで、不安が焦燥を煽る。

 今は何も無いこの場所に、見えずとも確かに何かがいることを、リュトは肌で感じ取っていた。

 そして、それは段々近づいてきてーー。

 「下だ!」

 リュトは叫ぶと同時に、スファラを抱え斜め後方へと跳躍した。

 「えっ、何!?」

 突然で慌てるスファラを歯牙にもかけず、リュトは先ほどまで自分たちがいた場所をじっと見つめていた。

 そのことに気が付いたスファラが、リュトと同じ場所へと視線を向ける。

 丁度その時、砂の下から黒く大きな塊が地上へと飛び出した。


 黄色い砂の上にはっきりと見える巨体。

 見た目は数日前、ヴォルガンと出会った時に対峙した異形とよく似ている。

 丸い胴体に、大きな二つの鎌。数珠繋ぎになった尾の先端には、大きな球が付いている。よく似ているが違うところもあった。一つはその大きさで、あの時の異形より五倍は大きい。そして、一本だった尾が八つもある。尾の先の球の中に、揺れ動く何かが見えた。スファラが叫ぶ。

 「みんなっ!?」

 大きく膨れた尾の先に、行方不明になった仲間たちが捉えられていた。

 尾の先のその部分だけ薄く透けていて、中の様子が薄っすらと見える。中は液体で満たさ手ているのか、球体の中で彼らの息が泡になるのが見えた。

 息があるということは、まだ生きているのだろうか。薄っすらとしか見えないが、人としての形は保っているように見える。

 完全に望みが潰えた訳ではなさそうだ。

 リュトは腰から剣を抜き、目の前の巨体を見上げる。

 あまりの大きさに、足がすくんだ。すぐにでも倒して、エルのいる村へ帰らないといけないのに、体が動かない。

 敵の正体が分かったからといって、とても安心できるものではなかった。その巨体に、かえって一層と恐怖が増す。

 隣に立つスファラも同じ様子だ。仲間を助けたい気持ちも強いだろうが、目の前の異形への恐怖心がそれを上回ってしまっている。

 スファラは剣も抜けずに、立っているのがやっとのようだ。

 リュトの方は、剣は抜いたがそれ以上の行動がとれずにいた。

 これほどまでに大きい獲物を相手にしたことが無いため、どこから攻めればいいのか分からないのだ。

 そうこうしている間に、異形の方から攻撃を仕掛けてきた。

 大きな鎌が二人に向かって振り下ろされる。

 リュトはそれを後方に下がりかわし、スファラも右へ飛んでかわした。

 異形が鎌を振り下ろした衝撃で、砂が津波のように波打ちながら広がる。

 二人は避けた先で、遅れてやってきた砂の波に呑まれ、全身が砂まみれになった。


 砂を払い除け上を見上げれば、悠然と立ちはだかる異形の姿が嫌と言うほどよく見える。

 「こんな大きな異形を相手に戦わないといけないの……?」

 弱々しく呟くスファラの視線は、依然として捕らえられた仲間に向かっていた。このような絶望的状況にあっても、仲間の無事を案じているようだ。自分が生き残らなければ、何の意味もなさないというのに。

 ――そうだ。生き残らなければ、この先誰がエルを守るのか。

 リュトの中から異形に対する恐怖心が一切消えた。それ以上の恐怖が、それ以外の恐れをすべて搔き消していく。

 「やる気がないなら下がっていろ。邪魔だ」

 リュトはしっかりと剣を構え、異形を睨みつけた。

 「戦うわよ!すぐ目の前で仲間が囚われているのに、見捨てて逃げるなんてできすはずないわ」

 スファラも剣を構え、異形を見据えている。剣を握る手はまだ少し震えているようだ。

 「だったら弱音を吐くな。死なないように前だけ見てろ」

 薄く残っていた砂埃も完全に晴れた頃、異形が視覚的にリュト達を認識したのか。巨体の割に小さな頭が二人を見下ろす。赤い複数の目がそれぞれ違う強さで点滅を繰り返し、こちらの様子を窺ってるようだ。

 リュトは繰り返し異形の全身を見返すが、その巨体からは一切の隙も見いだせないまま、硬直状態が続いた。

 異形が再度鎌を振り上げ、足元の砂地へと勢いよく振り下ろす。先ほどと同じように砂の波が生まれ、リュト達へと迫った。

 「下がれ!」

 異形との距離は最初よりも近づいている上に、視覚的にも位置を知られてしまった。この状況でこちらが視界を失うのは危険だ。

 リュトはスファラに叫びつつ、自らも後方へと跳躍し波の本流を交わした。

 指示を聞いてから少し遅れて右へと避けたスファラも、なんとか波に呑み込まれずに済んだようだ。少し砂を被ったものの、すぐに身動きの取れる状態は確保できている。


 「こんな攻撃、何回も耐えられないわよ!」

 お互い別の方向に避けたせいか、少し距離の離れた場所でスファラが叫ぶ。

 「お前はここの人間だろう。あの手の異形とは何度も交戦しているんじゃないのか」

 「確かにそうだけど、あんなに大きいのは初めて見たわ。さっきの攻撃だって、あの大きさだからできるものじゃない」

 「まったく役に立たない奴だ」

 「それは貴方も同じでしょ」

 リュトたちが言い合いをしているところに、異形が次の攻撃を仕掛けてきた。

 リュトは左に、スファラは右に避ける。

 ――この異形、俺たちを分断させようとしているのか?

 先ほどから異形は二人を孤立させようと、左右に分けて攻撃をしている、どうやらここまで大型になると、異形にも多少の知性がつくようだ。

 しかし、あの大きさでたかが二人の人間相手に、数で押されることを危惧しているとは。利口なのか、臆病なのか。とにかく、二人が手を取り合うことを阻止しているのは明らかだった。

 ――さて、どうする?

 リュトはスファラとの共闘が初めてのうえに、距離も離れていて意思の疎通もしづらい状況だ。せめて互いの動きを読めればよいのだが、そこまでの理解を期待できる程、戦闘を共にしてはいない。精々、道中の数回ほどだ。

 改めて考えても最悪な状況に、リュトは舌打ちをした。


 「なんにせよ、やる以外の選択肢はないか」

 リュトは前へと駆け出す。すかさず異形が鎌を構え、今度は水平に振った。地と鎌のわずかな間を、リュトは体を横にし砂を滑りながら潜り抜ける。

 頭上のギリギリを鎌が通り過ぎたことを察すると上体を起こし、そのまま異形の懐へと走った。腹の下に潜り込み、一番に地との距離が近い中央部分を、リュトは力を籠め切りつける。

 キンッ、と金属同士がぶつかりあうのに似た音が鳴り、切りつけた部分と剣との間で火花が散った。

 思わずリュトは舌打ちを漏らす。異形の体は想像よりも、ずっと難かったのだ。

 傷ぐらいつけられるだろうと高を括っていたせいもあって、予想外の反動にリュトの方が打撃を受けてしまう。

 手の感覚が麻痺し、剣を握る手に上手く力が入らない。

 だが、それでも戦闘中に武器を失うわけにはいかないと、リュトは意識的に剣を握る手に力を籠め続けた。

 その甲斐あってか、かろうじて剣を持てているが、追撃を繰り出せる状況ではない。異形の攻撃を捌けるかも怪しいところだ。

 異形の動きを注視し、現状維持に努める。緊張状態がそのまましばらく続いたが、徐々に手の痺れはとれていく。

 感覚も殆ど回復したところで、リュトは次の一手が出せずにいた。

 先ほどのように力を込めて剣を打ち付けても、自身の手の方がやられてしまう。異形にダメージを与えるには、ただ剣を振るうだけではダメだ。弱点を暴かなければならない。

 リュトは今いる異形の真下の位置から探った。平坦なボディーが弧を描き、大きな円形の体を形成している。傷も無く、剣の入り込みそうな隙間もない。

 であれば魔法しかないか。幸い腹の下を攻撃する手段はないようだし、十分な準備時間がとれる。

 この位置で魔力を練り、魔法陣を完成させたと同時にここから離れ、最後に魔法を発動させる。簡単でもっとも勝率のある作戦だ。


 ここまで考え、リュトの思考は別のことを考え始めた。

 ーー場合によっては、ヴォルガン達が犠牲になるかもしれないな。

 現在ヴォルガン達は異形の尾の中にいる。そんななか魔法で異形を攻撃すれば、彼らも巻き込まれかねない。

 例えば無形魔法を使用した場合、魔法がヴォルガン達にも当たってしまう可能性があるのだ。これは有形魔法で攻撃箇所を絞れば解決するが、座標を正確に指定し尚且つ、相手の相手の動きを止めておく必要もあるため簡単でない。

 結局、手元が狂えば前者も後者も同じ結果になる。

 リュトたちがここまできたのは、ヴォルガン達の救助のためだ。助けにきて自らが殺してしまっては、わざわざ無駄な労力を使って罪人になるようなものだ。

 となれば、まずはヴォルガン達を助けるのが先だろう。

 そうと決め改めて異形を見上げると、リュトはあることを思い出した。

 先日の同型の異形を討伐した時のことだ。あの時は、魔法による身体や剣の強化で切ることができたが、異形の体は固かった。

 だが今思えば、例外があった。関節だ。胴体と足の付け根は、簡単に切ることができていた。

 今回もそれが当てはまるかもしれない。


 ーー試してみる価値はありそうだな。

 リュトは魔力を練り、身体と剣に強化魔法をかける。赤い髪が光輝き、刀身は赤い光を纏った。

 準備が整い走り出す。腹から出て向かうは尾だ。

 数珠つなぎになる尾の球と球の間に刀身を滑り込ませ、素早く剣を振るった。胴の時とは違い、物を斬る手ごたえを感じた。

 異形が吠え振り返ると、切り離された巨大な尾が砂煙の中に横たわっていた。

 リュトの思惑通り、関節の硬度は胴に比べてかなり低いようだ。今のようにすべて切り落とせば、ヴォルガン達を救い出すことができるだろう。

 そして、その後は遠慮なく魔法をぶつけることができる。

 リュトは次の行動に移ろうと、異形の動きを窺う。

 尾を斬られたことが予想外だったのか、現状の把握に時間がかかっているようだ。敵であるリュトを無視し、痛みに体を震わせ呆けている。

 リュトはその隙に、次の尾へと狙いをつけた。

 身体強化魔法を維持しつつ戦える時間はそう長くない。外へと放つ魔法と違い、身体かかる負荷が大きいからだ。短期戦で一気に勝負をつけなければ、やがて限界が来てしまう。

 リュトは呆ける異形の背後へと回り込み、続けざまに尾を二本切り落とした。

 再び異形が叫び声を上げ、今度はすぐさま後方へと飛び退いた。

 三本の尾を斬られてようやく己の状況を理解したようだ。リュトを警戒し、両鎌を構え臨戦態勢をとった。

 赤い目が威嚇しているかのように、強い光を放つ。


 ーー楽にはいかないか。

 もともと勝てない相手では無いはずだ。魔法さえ自由に使えれば、もっと早く決着はついていただろう。

 しかし、今は敵に人質を取られた状態であって、そのせいで巨体相手に戦闘方法は魔法意外に限られている。

 戦闘のなかで、何とか弱みを見つけることができたが、そこまでだ。尾を三本切り落としても、まだ残りは五本もある。

 それも巨大な異形は自身が傷つけられるとは思っておらず油断してしたからこそできたことだ。リュトを敵と認識し警戒を始めたこれからは、そう簡単にはいかないだろう。

 複数人で取り囲めればいくらか隙をつくこともできたであろうに。一人で相手をするには、目の前の異形は少々大き過ぎだ。


 リュトと異形、両者睨み合いの末、先に仕掛けたのは異形だった。

 怒りに任せ振り回す鎌の動きは単調で、避けるに苦労はないが、厄介なのはその大きさから来る破壊力だ。水平攻撃はかわせばいいが、砂地に触れる攻撃は、その度に砂埃が舞い視界が悪くなった。

 身体強化で感覚が鋭くなっているものの、視覚を十分に使えないことで反応が少し遅れてしまう。攻撃を交わせても、反撃に出るまでにはいかない。

 このままでは、こちらが時間切れになる。

 焦るリュトの右側から、異形の鎌が迫った。地のすれすれを滑る鎌に、反応の遅れたリュトは咄嗟に身を低くし、剣を斜めに構える。強い衝撃を全身で受け止め、鎌を刀身に走らせ軌道を上へと反らした。

 過ぎ去る鎌の風圧か、少し頭を引かれる感覚があったが、今はそれを気にしている場合ではない。

 次の攻撃が来る前に、リュトは一度距離を取ろうと後ろへと下がった。

 リュトのいなくなった後も、異形は無作為に鎌を振るっていたが、その場にいないことに気が付いたのか、動きを止めた。


 砂埃が晴れ、お互いの様子が見やすくなったところで、戦いは振り出しに戻る。とは言っても、一見して疲れも見えない異形と違い、リュトの額には汗がにじんでいる。

 異形の激しい猛攻を受けていたせいもあるが、身体強化の方もそろそろ限界が近い。このまま無理をして使い続ければ、切り札の魔法を使えなくなるどころか、身を守ることも困難になるだろう。

 異形の苛立ちは、目に見えてわかる程に膨れ上がっていた。バラバラと足をバタつかせ、五本の尾がゆらゆらと大きく揺れている。

 そろそろ決めなければならない。ヴォルガン達を犠牲にする覚悟を。

 リュトは魔法を発動する為に魔力を集め始めた。大気中の魔力がリュトの中へと流れ込んでいく。世界が魔力で満ちているおかげで、集めることに苦労はなかった。集まった魔力を練り魔法を構築していく。大型魔法の時は少し時間がかかるが、それまでの時間ぐらいならば耐えられるだろう。

 リュトは右手で魔力を練るため、左手で剣を握ると、異形を挑発するかのように、剣を向けニヤリと笑った。

 「貴様ごときが俺に勝てると思ったか?自惚れるなよ」

 イラつきを示すように異形が体を震わせる。リュトに突進しようと足を踏み鳴らした。

 「かかってこい!粉々にしてやる」

 リュトは剣を突き出し、異形を挑発する。が、異形は突然叫び声をあげ、動きを止めた。

 空で揺れ動いていた尾が一本、どさりと地に落ちる。

 「この尻尾、意外と簡単に切れるものね」

 落ちた尾の横に立つスファラが、得意げに笑った。

 

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