エピローグ:観覧席

 勝者と敗者、両者が遠景にしか映らぬ貴賓席にて。えんじ色の袴を纏った偉丈夫は、その結末を静かに見届けていた。


「じょ、冗談とお申しください。お館様」


 傍に控えていた家老――佐武が引き攣った声で言った。いつもの傲慢な振る舞いも鳴りをひそめ、しきりに額をさすっていた。


「アキラさまの処遇は、この私めに一任なされたはず。今更異を申されましても、見合いの段取りや、新設する道場の手続きなどもございますし」


 そんな抗弁を、ばっと広げられた扇子が遮る。

 泰然自若と腕を組むその姿には、たしかに王者の風格が漂っていた。


「アキラは家に必要ない」


 その端正な顔を微塵も動かさず、ひやりとした声で言い捨てる。そうして、勝者の顔を眺めながら朝来野家当主、朝来野武臣は立ち上がった。

 四十前と、選手として脂が乗り切った時分である彼は、日頃評されるダンディーな甘いマスクではなく、武人としての顔を覗かせる。

 閑職である高校生大会の役員に任ぜられてはいるもののの、その存在感ゆえにはっきり役不足もいいところだ。関心を得ようしていた隣席の重役など、どこかおよび腰だった。


「で、ですがお館様」


 その背中に追い縋るよう、老紳士が哀願した。


「道場はともかく、見合いは困ります。なにせ、相手はあの将軍家。不義を働けばアキラさまだけでなく、家名に泥をぬることに」

「ならば佐武、お前が始末をつけるんだな」

「なっ……!」

「家は気にするな。お前一人で傾くほど、我が朝来野は困っていない」

「そ、そんなご無体な!」

「これまでご苦労だった。最後の仕事も頼むぞ、佐武よ」


 崩れ落ちるようにして両手を突く小男を横切りながら、武臣は階段を登った。


(ふん、愚か者が。自分の手におえぬような相手を引っ張り出すからだ。あの本家も、寝耳に水と憤慨していたのだぞ)


 その動きに迷いはない。全国で同日開催される総体予選だが、役員である彼が連日この会場に脚を運んでいるのは、もちろんアキラのことではない。

 前日も訪ねたが、その際に「一日待ってほしい」と言われたことを思い出す。

 彼が通路へと差し掛かると、学者肌である碩学な肉親と違う、どこか退廃的な雰囲気を漂わせた少女に遭遇した。


「ああ、君か。すまないね。使いを送ろうと思ったんだが」


 壁に背を預けていた彼女は、著名な朝来野の名にもまるで怯む様子がなかった。


「雲林院くん。もう用は済んだのかい?」

「満足できる演目でした。それも、十分に」

「ふむ。興味本位でしかないが、どうしてこの試合に入れ込むんだい? こう言うのはなんだが、君の腕ならプロお抱えでもおかしくないだろう。レベル的には、観るものなどないと思うが」


 この雲林院という才女は、一応ながら高校に通っているものの、その頭脳は学会の重鎮である父すら超えているともっぱらの噂だ。

 そういう意味では、アキラ以上に場違いな存在であった。


「たしかに、私の専門はあくまでも理論です。それに、今日は溶けそうなほど暑い。ああ、歩きすぎたせいで脚も痛いな」

「まだ三月初頭なんだがね」

「まあそれでも、来た甲斐は有りました」


 ほう、と武臣は顎を撫でさすりながら、わずかに赤らんだ彼女の頬へ眼をやった。

 共感力に欠いた天才。そう聞き及んでいたが、こうやって前に立つのは、年相応の少女に思えた。


「意外ですか?」

「あ、ああ。そういうわけではないんだが」

「構いませんよ。不肖の父といえど、遺伝子情報は似通っているのです。科学者としては半端でも、自身の遺伝子運搬体の評価ぐらいは適切に下せるでしょう」

「そ、そうか」


 これも聞いていたとおり、親子の関係は冷え切っているらしい。

 打って変わって淡々と述べる彼女に、武臣は相槌を打つしかできなかった。


「それで、私への仕事とは一体なんです」

「そういえば言ってなかったね」


 気を取り直した武臣は、懐から書類を取り出した。

 そこには、ある少女の顔写真と、それに付随するカルテが羅列されていた。とはいっても、専門外の武臣にはまったくのちんぷんかんぷんだが。

 それを奪い取るようにして流し読む少女は、眼鏡に伶俐な光を走らせた。


「さるお方から育てて欲しいと預けられたんだが、彼女に合うデバイスIHRがなくてね。少し特異なタイプだから、より専門的な知識が欲しいんだ」

「それで私に白羽の矢が立ったというわけですか。しかし、なぜ私なのです。朝来野ほどの家ならば、いくらでも技師は抱えているはず。見たところこの個体は、生来の身体の弱さと思念量が釣り合っていないだけ。そのうえ、私は専門の技術者ではない」

「ああ、最初はそのつもりだったんだが、体質なのかうまくいかなくてね。結局、お父君に助けを求めたのだけれど、匙を投げられてしまったよ」

「はあ」

「ああ、待った。そういえば何と言ったのだったかな」


 興味が失せているのか、彼女は退屈そうに瞼を瞬かせている。

 武臣は慌てて、吐き捨てるように言った彼女の父の言葉を思い出した。


「そう、『カムイ』と言えばわかると。どういう意味かわかるかな?」


 何の気なしに言った言葉は、しかし、劇的に彼女を反応させた。

 持っていた書類はぐしゃりと握りしめられ、ガラス玉のような無機的な瞳に光が灯った。

 理解さえ拒むのか、上唇を噛んでいる。それでも震えは抑えられず、頬にまで伝わっていた。


「あり、えない。空想も空想、ありもしない子供の戯言なのに。まさか、実用化したのか」

「雲林院くん?」

「扉を開いた? そもそもどうやって? 科学だけでは座標を固定できないと。いや、データ上『カムイ』の形跡はない。それ以前の調整体? だが、そのほとんどが先天的資質に依るはず……」


 没我の世界に入り込み、反応しなくなった彼女に声をかける。独り言を呟きながら、ふらふら千鳥脚で思案にふけっている。

 仕方なく肩を叩くその瞬間まで、彼女は視線すらくれなかった。


「だ、大丈夫かい?」

「実物を見せていただきたい。それも、可及的速やかに」

「ああ、それは願ってやまないことだけど」


 言い淀みながら、ひとつの内案が口をついた。

 それは、先ほどの試合を見ていてよぎった、どうにも効率的ではない思考だった。


「彼女は戦えるようになるのかな? 無論、君の見立てで構わないが」

「それはどのレベルを指してです?」

「アキラと比べては」


 そういうと、彼女は意外そうな顔をした。


「可能でしょう。推測さえ正しければ、技量さえも」


 それは意外な言葉だった。技術畑の人間である彼女は、当然ながら選手の技術云々については門外漢だろう。

 武臣はあくまでも、SNP能力や基礎的な身体機能について尋ねたつもりだ。だというのに、こうも太鼓判を押されるとは驚きだった。

 満足そうに頷いていると、彼女もわずかに眉を動かした。


「私も一つ。英霊杯二位から見て、先ほどの試合はどうでした」

「……ほう。君ほどの人間がそれほど興味を引くとはね。選手としての評価、という意味でいいのかい?」

「ええ」


 少女が頷くのをみて、武臣は深く腕を組んだ。その小揺るぎもしない瞳に、一瞬どう切り出そうかと迷ったのだ。

 教育者としても活動する身だ。選手の評価、というものがどれほど繊細に行われなければならないかよく知っている。

 しかし、彼女のような手合いの場合、糊塗で塗り固めることはかえって逆効果だと思った。


「稚拙」


 武臣は冷たく言い捨てた。


「そもそもまず、評価の基準に達していない。鍛錬が足りないだけではなく、武術の骨格ができていない。恐らく、優れた指導者に巡り会えないまま騙し騙しやってきたのだろう。才能あるなし以前の問題だ」

「ふむ、続けてください」

「攻撃手段が剣のみというのも気になる。彼も高校一年生、上を目指すならチーム戦が主戦場になるだろう。通例、圧倒的なエースでもないかぎり、ポリバレントな選手が重宝される。例外もないではないが」

「でしょうね。引き出しは、少なそうです」


 平然と同意する彼女に、武臣は苦笑いをもらした。


「酷評こそしたが、見るべきところもある。しっかりと指導を仰げば、大成することも夢ではないだろう。言うならば原石。輝くも曇るも磨き方次第、といったところかな」

「貴方ほどの人にそう仰って貰えるならば、十分希望が持てましょう」

「そう買い被られても困るけどね。ただ」


 ただ、そうだ。武臣はわずかに口籠もりながら、組んだ腕に力を込めた。

 最後の瞬間、彼が見せたその技を思い出す。刀身を黒々と染め上げるその力は、どこかで見たことがなかったか。

 そう、あの十六夜長秀と同じ。闇を操る概念系SPKは、アキラにも使えない選ばれし力だ。そう穿ってみれば、どこか技の一つ一つに面影がないだろうか。武臣の知るかぎり、弟子を取っているという噂は聞いていないが。


「ただ、なんです?」

「ああいや、怪我が深くなければなと思ってね」

「そうですか」


 行こうと、武臣たちは会場を後にする。

 ちらりと最後に後ろ目で競技場をみやって、二人の少年をその目に焼き付けた。


(いや、まさかな)


 何にしても、彼がこの果てない頂きに挑むというのであれば、いずれ自分の前に現れるだろう。

 それこそが、MMAに魅了された者のさだめなのだから。

 時代を彩る英傑の一人。

 朝来野武臣は雄大にその袴を翻した。




 § § §



 トオルはすべてを放り捨てて仰向けになると、天を仰いでいた。

 陽が高々と登り、濁りきっていた空は澄み始めている。

 大会スタッフたちは、青ざめた顔で担架を運んでくる。

 ぐるりと会場を取り囲む観覧席からは、激しく轟く大歓声が風にのって運ばれてきた。

 土の匂いがあたりに漂っている。

 身体はもう、指先一つさえ動かせない。このまま眠ってしまえそうなほど疲れて切っていた。


 自分は、皆に少しは返せたのだろうか。ふと、そんな想いが脳裏をよぎった。

 身体を起こすことが億劫で、一人一人確認することはできない。

 柔らかな微風が頬を撫でた。痛む身体を心地よく包んでいる。

 思い浮かべるのは、一人の少女の泣き顔だ。勇気以上のものを与えられるといわれ、それを証明するための戦いだとしても。

 二、三週間はベッドの上だな、と無謀な行いに苦笑いする。

 朝来野は当世、二度は出ない神童だろう。野心高く武から寵愛される、今は未熟な一匹の蛇だ。

 そんな天高く登ろうとする龍の前身に、裸足のまま挑んだのだ。

 翼をもがれ、重りを付けられた小鳥の分際で。


「アーク」


 ふと、閉じかけていた瞼の裏に影が差した。

 そこには、白銀の甲冑を輝かせながら、健闘を讃えるよう微笑む一人の勇者がいた。


『悪くない啖呵だったぜ』


 まぜっ返そうと、悪態が胸の中をよぎる。

 胸の中は、清々しさで満ち溢れていた。


不屈ブレイブって嘘じゃんか。根性って言ったほうがいいんじゃない?」

『甘えんな。勇者ってのは、泥臭く這うように戦うもんなんだよ』

「はは、スパルタだね」


 トオルは、目の奥が痛くなってそっと右手で覆う。

 熱い言葉が、止まること知らずに流れ落ちる。

 隣に腰を下ろしたアークが優しく頭を撫でた。


『泣いてんのか』

「泣いてないよ。僕は、三界の覇王になるんだから」

『その設定、まだ有効なのな』


 当たり前だろう、と唇を噛み締める。

 今日から歩き出すのだ。だからこそ、舌に残る土の味はどこまでも苦かった。


『ま、よくやったほうさ。あっこから一太刀浴びせただけでな。お前だってわかりきってたんだろ? 世の中、奇跡の大逆転はありえねえなんて』


 ――君はエルじゃない。エルなんかじゃ、ない。


 そう言い捨て、勝者の朝来野アキラは去っていった。

 そして、敗者である夏目トオルはこうやって転ばされている。

 勝負の世界は実に無情だ。気合いや願望、その者の背景などで結果は左右されない。そんなことわかりきっていて、けれど、わかっていたからこそトオルは啖呵を切ったのだ。


 ――僕を見ろと。僕の名前は、夏目トオルだと。


 今はたとえ相手にされなくても、エルという仮面から、本当の自分を見てもらうために。

 今日の戦いとは、そう彼に宣戦布告するための舞台だったのだろう。


「でもさ」

『でも、なんだよ?』

「悔しい。悔しいよ、アーク……」


 瞑った目頭の奥が痛んでゆく。もう、流れ出した感情を抑えることなどできない。トオルは混じる涙を味わいながら、嗚咽を漏らすしかない。

 見守っていたアークの眼差しが柔らかくなる。クシャクシャと頭をかき混ぜると、遠くを眺めながら言った。


『そう思えるなら、お前はいくらでも強くなれるさ』


 檻を蹴破った籠の鳥。

 翼をもがれ、飼い主も失い。

 それでも、空を仰ぐ。

 折れぬかぎり、歩くと決めたのだから。

 抜けるような碧空には、二人を祝福するように日の輪が花開いていた。


 名だたる武人が激突するMMA戦国時代。夏目透とエルの両名は、苦杯を舐めながらもひっそりと名乗りを上げたのだった。




 § § §




ハヤシ:『いやぁ、それにしても派手な試合だったねぇ。どうもファンが付いたのか、SNSのフォロワーが何十倍にもなっていたよ。いつかこの掲示板も私たち以外で埋め尽くされる日が来るのかな?』


スプリング:『ああいう取り上げられ方は好きじゃありません』


ハヤシ:『それは仕方ないよ。相手はあのまま圧倒的に優勝してしまったし、何よりプロ顔負けの浮遊能力まで見せたんだ。かませ犬扱いでも大きく取り上げてくれただけましさ』


スプリング:『だからって“必死に食らいついても負けてしまうところが幸薄そうで可愛いなんて”おかしいと思います。悔しいのは本人なんです。ファンならもっと素直に応援するべきです』


ハヤシ:『いやいや、彼は歴とそういったタイプだろうに。私も好感が持てるよ。ああいう不器用っぽいところ』


スプリング:『あなたに倫理観を期待した私がバカでした。そういう人ですよね、あなたは』


ハヤシ:『文句でもあるのかい。別に友達というわけでもないんだし、抱く印象は千差万別だろう?』


スプリング:『たとえそうでも、言い方ってものがあります。また傷付いたらどうするんですか』


ハヤシ:『それ、君自身もそう思っているって自白しているのと変わらないけどね。それに、また? もしかして君、案外近くに居るのかい』


スプリング:『近くですか?』


ハヤシ:『見に行けるってことは、実はすれ違っていたり。なんなら知り合いかも知れないじゃないか』


スプリング:『日本がどれだけ広いと思っているんですか。ありえません』


ハヤシ:『まあ、だろうね。ドレイク方程式に当てはめれば、運命的に相性の悪い存在と巡り合う可能性は〇、〇〇〇〇〇三四パーセントだというし』


スプリング:『なんですかそれ』


ハヤシ:『まあなんにしても、薄い確率というわけさ。それにしても君、もうインビジブルズで居られないと言ってなかったかい?』


スプリング:『それがその、援助してもらえることになって』


ハヤシ:『援助? それはまたラッキーだったね。誰だい、その奇特な変態は』


スプリング:『それがまったく面識もなくて。事務所へ連絡しても知らぬ存ぜぬの一点張りです』


ハヤシ:『ふうん。世の中、拾う神が居るものだね。パパ活でもしたのかと思ったよ』


スプリング:『最低ですね。なにより下品です』


ハヤシ:『そうかい? 木目を数えていればいいだけだろう。それとも、相手にされないくらい歳を食っているのかい?』


スプリング:『もうこの話は止めましょう。それよりあなたもここ数日居ませんでしたが何かあったんですか』


ハヤシ:『仕事さ、たまにはそんな日もある』


スプリング:『今更ですけど社会人の方なんですか』


ハヤシ:『身も心も十七歳さ』


スプリング:『三十路、ということで大丈夫ですか?』


ハヤシ:『ま、君がそう思いたいならそれでいいけどね。おっと、もうこんな時間か。ユーもこないようだし、そろそろ失礼するよ』


スプリング:『ユーさん、どうしたんですかね』


ハヤシ:『ま、推し活もコストが掛かるからね』


スプリング:『推せるほどグッズ出てないですけど』


ハヤシ:『気持ちの面で、さ。何事もね』


スプリング:『だとしてもなにもトオルくんが活躍したときに』


ハヤシ:『だからこそじゃないのかな。名が売れるほど遠い存在に思ってしまう。よくある話だよ』


スプリング:『言うほど売れていますか?』


ハヤシ:『ファンの増加倍率でいうなら、プロよりもすごいよ。ま、元々三人だけだったから当たり前だけどね』


スプリング:『そうですか、残念です』


スプリング:『すみません。私も用事があるので抜けます』


◇スプリングさんが退出されました◇


ハヤシ:『そうかい。なら私も戻るとするかな』


◇ハヤシさんが退出されました◇

◇ユーさんが入室されました◇


ユー:『誰も居ない』


ユー:『珍しい』


ユー:『残念』


ユー:『これが最後なのに』


ユー:『二人とも、楽しかった。また会いたい』


ユー:『それと試合も。すごく、良かった』


ユー:『でも、少し寂しい。登ると決めたことが。その果てなき道を。栄光と孤独の階段を。あなたの、本当の翼で』


ユー:『私たちは向かい合う。いつの日か、必ず』


ユー:『それは、嫌だな』


◇ユーさんが退室しました◇



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