二章:雨宮リノ

間話1:吉兄、遥姉が好きだってよ。 その一

 ――「雪中花」を知っとるか、亮吉。


 幼少期の思い出というのは、いくつになっても鮮やかに色づいている。

 五つのころ上信越から引っ越した亮吉にとって、ふとした拍子に思い出されるのは、目の前いっぱいに広がる一面の銀世界だった。


 古民家の木の匂い。こごえるような冷たい息吹。斜め上を見上げると、行儀悪く膝を立て、首にタオルを巻いた祖父の横顔があった。

 六十代には見えぬかくしゃくとした祖父は、祖母の「風邪をひきますよ」という言葉にも耳を傾けず、庭を眺めながら言うのだ。


 白く甘い香りを漂わせる水仙の花は、ひっそりと雪の中で春を告げる。

 雪よりも白くうすらいで、重みをこらえる姿は力強く。

 なによりも、その美しい姿に人は目をうばわれる。

 だから、「雪中花」と呼ぶのだと。

 冬の日に、祖父は決まってそう言った。


 幼き亮吉にとって、さほど思い入れのある出来事ではない。

 けれど、興味をひかれて花辞典をめくったことは覚えていた。

 祖父が遠くに旅立ち、その多くがおぼろげになった今でも。


「はーい。それじゃ、予選突破者で写真を撮るので、呼ばれた順に並んでください」


 係員の声を耳にしながら、亮吉は表彰台のうえにのぼった。

 予選突破程度では、扱いもそう大きくない。見にくるのも、親族や学校関係者ばかりだ。親友の涙が、壁一面に張られたロビーガラスの向こうの陽光できらめいていた。


 ふと、亮吉の眼がぱらぱらと降りそそぐ粉雪をみとめた。

 ああ、こんな空だから思い出すのだろうか。

 なによりも白く、なによりも儚いその花を。

 亮吉はごった返すホールの中で、降り積もる雪の下の、隅っこで佇む雪中花をみやった。


「それではAブロックニ位、本庄亮吉くん。予選トーナメントに向けた意気込みをどうぞ」


 係員にマイクを向けられ、亮吉はわずかに微笑んだ。

 彼女はきつく手を組みながらも、誇らしそうに顔をほころばせる。

 それが、なによりも「神秘的」で。

 亮吉は、彼女を一心にみつめていた。


「俺は……」


 口を開いた亮吉は、言葉を放とうとする。

 ひっそりとホールの端で佇む彼女――『古賀遥菜』に向かって。


 今日に至るまでの長い道のり。「雪中花」をめぐる物語を、亮吉は思い返していた。




 § § §




「へへ、ここにゃどんな強えやつがいるかな」


 桜舞い散る並木道の中央で、本庄亮吉は今日から通う高校――鶴岡工業の学舎を一望していた。

 その背丈は高校一年生の平均を大きく越し、百八十五はあるだろうか。緊張した様子の一年生に混じると、一人坊主頭が飛び出ている。日焼けした肌もあって、新入生は遠巻きにしているようだった。

 たぶんそれは、その鋭い目つきも深く関係しているのだろう。中学時代、トレーニング中の事故で右眉に傷が入って以来、パッと見の人相は堅気には到底見えなかった。


「と、その前に。おっすおっす、新発田!」


 うんと一度背伸びすると、亮吉は野太い声で校門前にたたずむ一人の少年に声をかけた。


「もぅ亮くん、遅刻だよ」

「悪いな、待たせちまって」

「はぁ。まあ、五分ぐらいいいけど」


 不満そうに頬を膨らませながらも、彼はどこかほっとした様子で鞄を肩にかついだ。

 くりくりとした茶色の右目が、僅かにくすんだ髪に隠れた、ひどく線の細そうな少年だった。曖昧に微笑んでいる彼の名を、新発田薫といった。


「つかよ、なんか見られてんだが。初日からなんかしたか?」

「え、えぇ! ご、ごめん。わ、わ、な、なんで。なな、なんで、だ、だ、だだろ」


 新発田は緊張したのか、丸い目玉をぐりぐりと動かした。

 亮吉は苦笑いした。


「マジで落ち着け。な、ほら」

「う、う、うあ、うん。ふー、ふー。えっと、そうだね。でもべつに変なことなんて。髪が乱れないようリムジンくるまで来たし、身だしなみだってさっき佐東サトウさんに……」

「いや、絶対それだろ」


 入学早々学ランの第一ボタンを開け、おらおらと風を切る彼と対象的に、首を完全に埋めてしまった新発田は、しぐさの一つ一つまでが女っぽかった。

 亮吉にしれみれば野暮ったいかぎりな前髪で左眼を隠し、生来の挙動不審なしぐさで周囲を見回している。中学来の仲でなければ、たぶん話しかけもしなかっただろう。


 というか、元々それほど仲が良かったわけではない。さる事件を通して、二人は親友とも呼べる仲になったのだ。

 割と早めの集合だったからか、余った時間を利用してふたりは施設をみてまわる。

 目的はもちろん、MMAの競技場だ。

 グレーのハードコートを目にした亮吉は、フェンスにしがみつきながら歓喜の声をあげた。


「こいつはマジすげーぜ! 毎年高校生HSSOランキングで五桁台を出すだけあんな」

「でしょ? 亮くんの学力だったら、ここが一番いいと思って」

「ってそれは馬鹿にしてんだろ、おい」

「い、いたたた。痛いよ、亮くん!」


 チョークスリッパーを決めた亮吉は気がすむまで散策すると、入学式の会場への道を戻った。

 新発田も、とほほとぼやきながら横に並んでいる。けれど、その表情はどこかほころんでいた。


「けどよ、マジでよかったのか? お前の成績なら、もっと上の高校にいけたろ」


 新発田はぽかんとした。


「なにどうしたの、いまさら」

「いや、鶴工ってけっこうガラ悪いだろ。俺はともかく、うまくやってけんのかなって」


 亮吉は、親指でニヤニヤと校舎から見下ろす先輩たちを指差した。腰パンに髪を染めてと、品行方正とは程遠い見た目であった。


(けっ、マジで感じ悪りぃ)


 我が者顔で、新入生を押し退けて校舎へと入っていく連中を何度かみた。近隣一平凡と言われた桜台中学に通っていただけあって、どこか隔世の感がある。

 新発田は困ったように微笑むと、小さく肩を落とした。


「僕、初対面だと緊張して話せなくなるから。だから、亮くんと一緒の学校がよかったんだ」


 うっと言葉につまる。新発田には、極度の吃音癖があった。人によってはわずらわしく感じたり、遠ざけたりされるような欠点だろう。

 とくに、学校という閉鎖的な環境においてそういう特異性は、いじめの標的になりやすいものだった。

 それらが彼の人見知りを加速させたのだろう。亮吉は、反応にこまってわざとらしくバカ笑いした。


「ま、まあ心配するこたぁねえ。俺が守ってやっからさ」

「うん、ありがと」

「あたぼうよ。なんてったって、俺は全国に行く男だからな」

「うん、それと古賀さんにも」

「おうとも――、う、げほ、げほ。なにを」


 亮吉は顔を真っ赤にしてむせた。立場が一転し、今度はニタニタと新発田が笑っている。


「照れてるの?」

「マジで死にてぇみたいだな」

「あ、それギブ、ギブだから!」


 逃げ惑う新発田を、亮吉は追った。相手が汗みずくになったところで、大きく息をはく。

 それを終了の合図と見たのか、ゲンコツの落とされた頭をとほほと撫でた新発田が言った。


「でも、ね。古賀さんには本当に感謝してるんだ。こうやって、亮くんと仲良くできるなんて、あのときは想像もしてなかったから」

「お、おう」


 今度はまじめに言われ、亮吉は口ごもった。

 それを見た新発田は、ふふっと微笑んだ。


「亮くんは、どう?」

「俺は……」


 してる、してるさ。そんなこと、言われるまでもない。

 新発田という親友をつくり、正道へと戻してくれた彼女は、亮吉にとって憧れのすべてだ。

 そのときのことを、一度も忘れたことはない。つぶさの蘇るそれを、亮吉は頭に描いたのだった。






 小中における階級社会というのは、割と単純にでできている。駆けっこがはやいとか、身体がでかいとか。大人からみればくだらない、意味もなさないようなことで上下関係ができてしまう。

 その中でも、地方校のMMAプレイヤーというのは、ある種スーパースターに近い扱いをうけるものだ。恵まれた体格を生かし、めきめきと頭角をあらわした亮吉は、少しばかり図に乗っていたといえよう。

 中学二年度早々の昼休み。どっかりと最後列に腰を下ろしながら、怯える新発田を睨みすえていた。


「うっ、あ、あえ、ええ、え」

「だからメロンパンはチョコチップ付きだって言ってんだろ。パシリもできねえのか、お前は!」


 亮吉が受け取った紙袋を地面へと投げ捨てると、ぎゃははと取り巻きたちが笑い声をあげる。

 吃音癖のせいもあってか、新発田は意味をなさない言葉を漏らしている。

 露骨なイジメに、二年の時同じクラスだった者は、「またはじまった」と小さく舌打ちした――その瞬間だった。


「こんなこと、恥ずかしくないんですか!」


 パシンと、乾いた音が響いた。

 友達と談笑していた遥菜が駆け寄ってくると、おもむろに振りかぶり、亮吉の頬を平手打ちしたのだ。

 かよわい少女の一撃だ。たたらを踏ませる程度の効果しかない。

 我にかえった亮吉は、すさまじい形相で彼女の胸ぐらを掴み上げた。

 当時の彼は先生でさえ気を使う、クラスの帝王だ。クラスメイトたちは、これから起こることを想像して目を逸らした。

 けれど、彼女だけは大粒の涙を溜めながら一直線に睨みつけてきたのだ。


 それはまさしく、洗礼、であった。

 怖かったはずだ。恐ろしかったはずだ。しかし、その細い体を奮い立たせ、正義のために立ち向かった彼女が、どこまで貴く思えた。

 そして結局のところ、代々つづく気質なのだろう。昔堅気で無骨な祖父は、典型的ともいえるほど尻にしかれるタイプだった。

 学校のエースだけあって人並み以上にモテた亮吉だが、一度たりとも本気になったことはない。長続きしたのでさえ、一ヶ月がせいぜいだ。

 けれど、その時以来、亮吉の眼にはたった一つしか映らなくなっていた。


 いきどおる友達の前で「悪かった」と頭をさげた亮吉は、彼女の気を引くため、これでもかと自分を変えた。不仲の兆しあらば首をつっこみ、ボランティア活動にも精を出した。

 そうして気付けば亮吉は、卒業生代表に選ばれるほどの模範的な生徒になっていた。


 ついぞ在校中の告白は実らなかったが、「全国大会に出場すれば一度デートする」という約束を土下座までして取り付けたのだった。

 勉強のできた彼女は、名門として知られる城西大附属高校へと進学した。いくらMMAに関心がないとはいえ、いつなんどきコロっと心変わりするかわかったものではない。あの器量だ。そう長々フリーにはなるまい。

 聞けば、鶴岡高校は数年に一度の頻度で全国へと駒を進める生徒がでているらしい。そうと決まれば、やるべきことは一つだった。

 素質だけでやってきた彼に、一本芯が入ったのはそこからだ。

 そうして彼は、鶴岡工業の門を叩いたのだった。






「でもさ亮くん、ちゃんと連絡取ってる? あんまり話題にのぼらないって聞いたけど」


 亮吉がそんな思い出に浸っていると、ふと横に並んだ新発田が前髪をいじりながら言った。


「な、なんでそんなこと知ってんだ」

「弟の一樹くんが言ってたよ。ほら」


 新発田はSNSの履歴をみせてきた。日付をみるかぎり、そこそこの頻度でやり取りしているらしい。

 そういえば、二人は中学のとき物作り研究会なる文化部の先輩後輩であったことを思い出した。


「だめだよ~。女の子ってのは、マメじゃないと心を開かないんだから。ただでさえ、マイナス印象から始まってるんだし」

「うっせえ。彼女のいたこともねえ奴に説教されたかねえよ」

「う、それはそうだけど。でも…………えっとあれ、なんだろ?」


 話の途中で新発田は、ひとかたまりとなった集団を指差した。釣られて亮吉も目をやる。遅れて、異様な雰囲気が直に伝わってきた。

 入学式が行われる講堂前で、新入生や在校生が一緒になってボソボソと囁き合いながら、ただ一点に目をそそいでいる。群衆の隙間から切れ切れにうかがえるのは上級生だろうか。

 気になって耳を澄ませると、あちこちから事の断片が聞こえてきた。


「けっ、薮岡の野郎か。金剛が居なくなった途端調子に乗りやがって」

「原因は新入生が、一七〇ない男は男じゃないとか言って騒いでたかららしい。禁句だぜ、そいつは」

「けどよ、見たところ女子一人じゃねえか。一人で騒いでたのか?」

「幼なじみだかの男はメンチ切られた時点で逃げ出したよ。で、残されたのは彼女ってわけさ」

「入学早々切ないねぇ。さっそく目付けられるたぁ」

「ま、金剛よりはマシと思うしかねえな」


 亮吉たちは顔を見合わせると、一もニもなく、集団に身体を割り込ませた。体躯を活かして前方に躍りでると、じっとあたりを睥睨する。

 そこには、泣きながら座り込む新入生と、それを取り囲む制服を着崩した先輩たちという光景が広がっていた。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」

「ああっ、うるっせぇ。いまさら謝られたってな俺の気持ちがおさまらねえ。いいか、今日からお前は奴隷なんだよ。この俺に逆らった時点でな」

「ひゅぅぅ、薮岡さんさすが鬼畜っす」


 薮岡という小男は、帯びた刀をこれでもかとじゃらじゃら鳴らした。

 明らかに見下している。さらには激しく舌舐めずりして、ひどく不快だった。

 競技者の二世――とくに「帯刀」できる者の中には、このように身分を傘にきた連中が存在するのも事実であった。生来、立てられてきたのだろう。横柄に振る舞う輩が、社会問題として燻る程度には大きな問題であった。

 亮吉は舌打ちしてから、「いけ」と目配した。そろそろと新発田が彼らの背後にまわる。

 配置についたのを見届けると、これみよがしに啖呵を切ってみせた。


「なんだてめぇ、文句あんのかっ!」

「おうともよ。頭ん中までチンパンジーじゃなくて助かるぜ」


 集団から割って出ると、亮吉は高々と拳をかかげ、気勢良く吠えた。


「義を見てせざるは勇なきなり。本庄亮吉、ここに見参!」


 派手に見得をきると、あっけに取られたのか男たちは黙り込んだ。筋骨隆々としたその肉体も作用したのだろうか。亮吉の鍛えぬかれた猪首は、ある程度競技をかじった人間ならさっと目の色を変えるほど迫力がある。

 そうこうしているうちに、裏に回っていた新発田が女子生徒を助けおこしながらサムズアップする。

 亮吉はにやりと笑うと、拳を打ち付けながらにじり寄った。


「糞野郎なんかに、加減はできねえぜ」


 真正面から侮辱されたことに、男は顔を煮立たせた。瞳はカッと血走り、大きく拳を震わせる。


「な、舐めんじゃねえッ!」


 激昂した薮岡。亮吉は、その矮躯よりもさらに身体を沈めると、飛び跳ねるようにしてボディーブローを決めた。鈍く、重い打撃音が響く。

 腹を抱えながら、こひゅーと息を吐き出す彼を踏み越え、亮吉はさらに拳をうならせた。残った取り巻きたちは、頭目薮岡の瞬殺を目の当たりにして、その場で凍りつくしかない。


「俺の目が黒いうちは、二度とんなこたぁさせねえ。文句があるやつは、いつでもかかってきやがれ!」


 亮吉は拳を掲げると、男らしく盛大に雄叫びをあげた。

 それは、本庄亮吉ここにありという宣言であり、古賀遥菜に相応しい人間でありたいという宣誓でもあった。

 すさまじい拍手が亮吉をつつむ。

 かくして、期待のニューフェイスとしてスタートを切った彼の、転落人生が幕開けた。



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