5-5:
しばらくの間長椅子に腰掛けてモニターを眺めていると、手足を同時に出しながら身体をガチガチに緊張させた遥菜が更衣室から出てきた。距離を取りながらも隣へと腰掛ける。抜けるような白い頬はどこか朱が走っていた。
「さっきはその、ごめんなさい。変なもの、見せちゃって」
「いや、僕のほうこそ」
トオルが赤くなった頬をさすって内なる理性を働かせていると、チラリチラリと横目でうかがっていた遥菜が言った。
「お父さんとお母さんに、会ったんだよね」
トオルが顎を小さく引くと、彼女は困ったように微笑みながら居心地悪そうに背中を丸めた。
「ごめん。何も知らないのに、失礼なことを……」
「あ、う、ううん。そんなことないんだよ。お父さんこそ、試合前なのに迷惑かけて。それに一樹も生意気なこと言ったでしょ?」
家族の話をするにつれ、彼女はいつもの自然な表情をみせるようになった。とくに熱の入った一樹の愚痴を終え、膝の上に置いていた紙袋の紐をキュっと握りしめた。
「夏目くんはどうだった? あの先生が、お父さん代わりだったんだよね。思い出とか、ある?」
「思い出、か。そう、だね。孤児院はどっちかというと学校、って感じだったから。院長先生も毎日居るわけじゃなかったし。音楽の先生、って感じだったかな」
トオルは、自分の口から留めなく言葉が溢れてくるのを、どこか奇妙に思いながら聞いていた。
彼女も、そのまとまりのない言葉の連なりに、ただじっと耳を傾けている。
すべての思い出は歌とあった。
「院長ってさ、ああ見えてスパルタでさ。僕ばっかりいっつも居残りで。そのくせ、上手くなったとは絶対に言ってくれないんだよ。懸命とか、真面目とか。そりゃ、僕は下手だったけど、ちょっとくらい褒めてくれてもいいのに。あーもう、今思うと腹が立つな」
「良い、思い出だったんだね」
「……今のところ僕、辛かった思い出しか話してないんだけど。もっとあるんだよ。肺活量を鍛えるために走らされたり、毎朝大声で練習させられたり。子供には厳しすぎると思うけどね」
「でも、楽しかったんだよね?」
遥菜は、どこか確信を持って微笑んだ。
「じゃなきゃ、泣きながら笑うなんて、できないよ」
えっ、と目元に手をやると、何かが冷たく指先を濡らした。
それに気づけば、胸の中からどんどんと熱いものが込み上げてくる。セピア色の記憶は、真実を知ってもなお暖かいままだ。もう決して、二度と更新されることないのだとしても。
永遠の別れなど知るよしもない遥菜は、けれどその感情の揺らめきに感応され、目尻に大粒の涙をためていった。
「あはは。私とは、真逆だね。学校は好きじゃなかったな。先生からいっつも優等生って思われて、なんか息苦しかった」
「……そっか」
「もしかしたら、向いてなかったのかも。あはは、ごめんね。暗くしちゃって」
それっきり、二人は顔も合わさずじっと前を見つめていた。
場内放送で、選手の呼び出しがかかる。
立ち上がった遥菜は持っていた紙袋を抱くと、名残惜しそうにきゅっと力をこめた。
「どうしたの?」
「あのね、明日までその……」
言いかけて、遥菜が止める。
その表情は、いつの日か見たものだった。彼女の内面にはじめて触れた、あの月明かりを思いだす。どこまでも儚く、壊れてしまいそうな気がした。
「古賀、さん?」
「ううん、なんでもない。試合、無理だけはしないでね。負けたって、誰もあなたを責めたりしないから」
彼女は去り際、前にかがみ込むとその手をやさしく包んでから、どこまでも健気に見つめてきた。
陽だまりのように暖かくて。
雪解けを待つ花のようにたおやかで。
わずかに潤んだその瞳は、吸い込まれそうなほどに美しかった。
彼女がすっと身を翻す。トオルはその姿が消えるまで、瞬き一つできなかった。
『本当に嘘が下手だな、あいつ』
「……うん」
そしてトオルは、予選トーナメント第六回戦でも勝利を飾り、三日目の決勝トーナメント進出を決めたのだった。
§ § §
払暁、トオルは疲れ切った身体に鞭打って、ビジネスホテルの硬い寝台から身を起こした。
のろのろと準備を始める。輝かしい朝日が登る瞬間は、濁った雲に遮られていた。まるで、神の祝福が失せたかのように。
夜が待ち遠しい。誰とも話さなくていい、誰とも顔を合わせなくていいあの瞬間が、どうしても恋しい。なんとなしに、そう思った。昨日の夜から、思い続けていた。
カーテンを完全に閉め切る。フードを深く被って、部屋の隅で丸くなった。意味などないのに。そうしたところで、夜になることなどないのに。
荒い息を長く吐くと、息苦しさを感じてわずかに唇を震わせる。地響きのような歓声が轟いた気がした。
行かねばならない。
トオルは鞄を担いで部屋を出た。
泊まっているホテルから徒歩十分のところにあるメインアリーナは、朝の八時前だというのに凄まじい人だかりができていた。
その目当ては、ほとんどが朝来野アキラだろう。デジタルサイネージには繰り返し、彼の軌跡が映されている。
トオルは関係者通路を進み、ロッカールームに降りた。
今頃メインアリーナでは、仰々しい言葉で熱戦が煽られているのだろう。到達した達成感と、どことない虚無感が全身を気だるく包んでいる。
『お前は、よくやったよ。正直言って、勝ち上がれたのは奇跡だ』
「……うん」
『オレ様は、一対一なら最強だ。剣を掲げれば、振り下ろすまでやり通す。間に何があろうとな。
だから、一度だけ聞く。これで、いいんだな』
「それしか、ないでしょ」
『お前の顔はそう言っちゃいないぜ」
アークは、項垂れるトオルの前で仁王立ちしていた。
『気にするこたぁねえじゃねえか。バラされたところで、誰がエルの正体をお前だなんて信じるよ。
それよりお前、このままじゃ影に苦しむことに。いや、お前こそがオレ様の影になっちまうぜ。それでいいのか。本当に、それで』
「アークが言ったんじゃないかッ! 人には向き不向きがあるって、だから自分を頼れって! なのにどうして、どうして今更そんなこと言うのさ!」
『後悔はいつも、先には立たないからよ』
悲鳴に喉を詰まらせ顔をあげると、アークが頭をくしゃくしゃとかき混ぜてきた。
子供扱いに、トオルは顔を歪めながら首をふった。
『お前に語った弟子の話だがよ、実はまだ続きがあるのさ。
覚えてるか? 無理やり鍛えて、殺しかけた。そいつを後悔してるって』
「それがなに?」
『そいつは別に嘘ってわけじゃねえ。だがよ、本当のところ、そのバカは昔からよく死にかける奴だったんだよ。度胸もねえのに賊に絡み、得物もねえのに魔物の前で立ち塞がった。バカだよ、バカ。それも真性のな。戦で死にかけたのも、退けっつってんのにガンガンつっこむからだった』
「……」
『思い立ったら、行動せずにはいられない。実力もねえくせにな。だが、だからなんだろうな。中心はいつもあいつにあった。勇者のオレ様でも、剣士のホーフェンでも、賢者のウェーバーでもない。さしずめ、“最弱”の英雄譚か。あいつの光があるからこそ、オレ様たちは勇者パーティだった。勇者パーティーで居られたんだ』
そう語ったアークの姿は、まるで幾つも歳をとったように小さく見えた。
その瞳は、どこか物悲しく、そして凪のように澄んでいる。
深い後悔、過ぎ去った哀愁を全身で感じ取った。
『光とは願いであり、希望だ。人は誰しも力に縋る。だがよ、本当は希望こそが人を救うんだ。だってそうだろう? 希望のない人生が、希望のない明日が、どうやって人を人らしくさせる。力じゃ、力だけじゃダメなんだ。あてのない、ただ闇を駆けずり回る日々に光をもたらすのは、希望という名の輝きなんだ』
アークは高々と天を仰ぎながら、それでも何かを掴むように広げた手を握った。
そして、最後はどこか茶化すように湿っぽい空気を払った。
『それによ、こっちじゃオレ様は幽霊みたいなもんなんだぜ。
いつまでも手を貸してやれるとは限らねえだろ?』
触れられる、言葉を交わせる。
だから、忘れてはいなかったか。アークが、この世にあるはずのない存在だと。
手が届こうとも、信じ込もうとも、事実は一つしかない。
粒子の集まった、陽炎のような存在でしかないのだと。
それを承知のアークは、敢えて蓮っ葉な言葉を選んだ。
力を望んでもいい、力に縋ってもいい。
だから、嘘偽りなく答えろと。
――お前は、何を望むと。
鞄にしまい込んでいた社用端末が、プルルと音を立てた。トオルは視線を動かすと、憔悴しきった顔のまま反射的に掴んでいた。
表面の油脂を拭いながら、画面をタップする。専用ファンサイト、「インビジブルズ」の掲示板だった。
ハヤシ:『それにしてもまさかまさか、総体予選で決勝トーナメントにまで残るとはねえ。勝率は紙のように薄いと思ったけど。とはいえ、紙でさえ四二回折れば月に届くのだから、観測するまで事象は確定しない、という良い例なのかな』
スプリング:『信じていなかったんですか。透くんが勝つこと』
ハヤシ:『願ってはいたよ。君と違って造詣が深いから、現実が見えてしまうのさ』
スプリング:『相変わらず嫌な人ですね。私は確信していました』
ハヤシ:『君の負けず嫌いはもはや病気だな。ま、今日ぐらい不毛な争いは止そうじゃないか。久々の陽射しに溶けそうだしね。ああ、これなら一番後ろの席にすればよかったな』
スプリング:『まさかあなたも見に来ているんですか?』
ハヤシ:『あなたも? まさか君もかい。大概、君も暇人だな。いくらなんでも今日は勝てないだろうに』
スプリング:『そんなこと決まってません。それにあなただって見に来てるじゃないですか』
ハヤシ:『それはそうだよ。負けるとわかっていても、応援するのがファンだからね。うん? もしかして、違ったかい?』
スプリング:『私もそうです』
ハヤシ:『おいおい、コメントを読み返したまえ。まったく、これだから。君の頭は鶏以下だな』
ハヤシ:『おーい、返事はまだかい』
ハヤシ:『うわ、この待ち時間。長文を送ろうとしているな。ユー、君だけがインビジブルズの良心なのに、どこ行ったんだい?』
ポタポタと落ちる雫が、画面に雨を降らせた。いくら拭おうとも、感情は流れ出ることを止めてくれない。電源を落とし、鞄にぶちこむ。ただ、わかりきっている答えだけが頭を巡っている。意味にならない言葉を紡ぎ、蹲りながら嗚咽を殺した。
そうしていると、ふと控え室の扉が叩かれる。目元をタオルで拭ってから返事をすると、大会スタッフが「ご家族の方がいらっしゃっています」と顔をのぞかせた。
「みんな、どうして」
そこには、手を繋いだ青希たちを引き連れながら、不安そうに両手を組んだひかりの姿があった。
不機嫌そうな顔の政和も、壁に寄りかかりながらポケットに手を突っ込んでいる。視線が合うと、ふんと逸された。
「
ひかりはか細い声で言うと、再び視線を地面に落とした。その表情は、どこまでも陰を帯び昏く沈んでいるようだった。
当の政和は、どこか身体を庇っているようにみえた。想像するまでもなく、方々を駆け回って無茶をしたのだろう。隠してもわかる。長年、家族として共に過ごしてきたのだから。
「院長先生のこと、聞いたんだね」
その言葉に身体を震わせたひかりは、火がついたように激しく泣き出す。その涙を合図にしたかのように、子供たちが顔中をくしゃくしゃにした。
ひかりは聞いたのだろう。院長が死んだ遠因として、トオルの糾弾が深く関わっていることを。いや、それ以上に彼の裏切りも。長年手伝い、守ってきた故郷が失われたことも。
けれど、彼女は責めなかった。何も言わなかった。ただ、代わりに泣いてあげるんだと感情をあらわにした。ときに、言葉は刃物よりも鋭利という。そして、真に胸を打つのはなによりも感情の揺らめきだ。
トオルが寄り添って歯を食いしばっていると、政和がいつにない平素な声で言った。
「始末はアイツらがつけるってよ。
「……」
「それじゃあな。試合頑張れよ」
「っ待って政和!」
踵を返しかけた彼の腕を掴む。トオルが力なく「あのときは、ごめん」と謝罪すると、政和は呆れたように首をふった。
「俺は謝らねえぜ。ひかりを泣かせるやつは、みんなクズだ。女を泣かせるようなやつに、俺はならねえ。俺は、そんな半端もんにはならねえ」
「……政和」
「けどよ、俺たちは“家族”なんだろ。
ダセェとこばっか見せんじゃねえぜ。兄貴」
ニカっと歯をこぼしながら、そばかすの浮いた年相応の笑顔をみせると、政和は胸を拳で叩いてきた。
ふと、かたわらにいたひかりが瞳を潤ませながら見上げていた。きらきらと輝く、どこまでも純な想いで満ち溢れていた。
「トールは、帰ってくるよね。院長先生みたいに、ならないよね」
「……うん」
「絶対、絶対だよ。約束したからね!」
指切りげんまんと、ひかりは空元気に笑う。そうして気付けば、一人だった。
抜け殻のように腰を落ち着けていると、時間の感覚さえ曖昧で、虚脱するようなまどろみに浸っていた。
武具を纏い、深くフードを被る。こうして世界を拒絶していれば、いつの日か有耶無耶にできるのではないか。そう思ったこともあった。
外の世界が、やけに静かな気がする。
誰かの声がする。気がついた時には立ち上がり、歩き出しているような気さえした。空は重くのしかかるような曇天が蓋をして、光一つ差し込まない。今にも泣き出しそうにみえた。
腰にぶち込んだ名刀が、重みを増してゆく。どうして自分が歩き出したのかも、どこに向かっているのかもわからないまま。
道標を失い、それでも何かに突き動かされるよう歩みを進める。
その先に何かがあると知って。ごうごうとうねりをあげ始めた歓声を耳にしていた。
ふいに、視界が開ける。拍手喝采が、まるで雷のようにトオルを出迎えた。
それを待ち受けるのはただ一人。威風堂々佇立する男が、闘気を高々と噴き上げていた。
「この日を待ちわびたよ、エル」
当世二度と出ないであろう神童、朝来野晶。
かたや、何も持たぬただの凡夫、夏目透。
そうして両者は、三度あいまみえた。
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