4-7:

 アキラは頑ななアシスタントマネジャーにメディカルチェックを受けさせられたあと、自室に戻っていた。一人暮らしには大きい2LDKの寝室で身体を横たえる。頭の中で、同じ単語が反芻された。どれほどそうしていただろうか。遮光カーテンを開くと空が白んでいた。

 平日の朝だ。学校にこそ通っていないが、午後にはクラブへ行かねばならない。軽くシャワーで汗を流し、姿見の前で身だしなみを整える。静かに、携帯の着信音がながれ始めた。

 壁掛けのディスプレイに転送する。表示されたのは、朝来野家で世話になった門人の男だった。


『お久しぶりですアキラ様。お噂はかねがねお聞きしておりましたが、元気そうでなによりです』


 老齢の男――佐武は、ぴくりとも表情を変化させずに言った。ありていに言って、慇懃無礼もいいところだ。

 朝来野の名を聞くだけでも吐き気を催すほど気分が悪いのに、この男はクラブの清水以上にいちいち神経を逆撫でするのが得意だった。


「なにか用ですか。家に迷惑をかけた覚えはありませんが」


 アキラは、家を出るに当たって本家から二つ条件を出されている。

 一つ、名に恥じぬ実績をあげること。

 一つ、名を貶める不祥事を起こさぬこと。

 そんなもの、聞く耳を持たないと放り出すことはできない。家への未練など頭の端にもかからないが、ふせった姉が養生する場所でもあるのだ。そもそもが、未成年な以上保護者が必要となる。疎遠にしようと、完全に切り離すことは不可能だった。

 アキラは、この男がまたしても下らぬ用で連絡を取ってきたのだと思い込んでいた。この男は、家格を重んじ、本家から疎んじられる原因を毛嫌いしていた。

 どうせ、小言でも言いにきたのだろう。本家に稽古へ出ていた頃から、こういった嫉妬、悪意には慣れっこだった。


『家の一部から、此度の敗戦が大きく名を穢したと憂慮する声が上がっています。私としましても、朝来野家がこれ以上、凋落の憂き目に合うのは阻止しなければなりません』


 くだらない、とアキラは思った。一部とはつまり、お前のことだろう。

 この男は、自分の意見をさも全体の声のように扱う癖があった。


『非ナンバーズの星、でしたか? いくら子供とはいえ、アキラ様も家紋を背負って立つ身。あのような野良犬相手に後れを取るのでは困りますな』

「勝敗は兵家の常です。仰られることも理解できますが、そもそもあれは、公式戦ではありません」

『ええ、ええ。勿論、そのとおりございましょう。しかし、何事にも体面というものがございます。何朝来野の名は英霊杯の影響で注目は高まっておりますし、門下生の目も御座いますので。お館様も、近頃は多忙でお疲れになっているのです』

「もう、構いませんか。用がありますので」


 父の話題になりそうな時点で、アキラは先手を打って立ち切ろうとした。

 だが、この老齢の男は、おぞましいことをのたまい始めた。


『ですのでアキラ様には、師範として後進を育てていただきたいのです』


 クッと喉が詰まった。同時に、頭の中が灼熱で煮えたぎった。

 アキラの空気が一変しても、男は一切表情を変えることなく、それどころか僅かに頬を緩ませた。


「まだ私は、若輩です」

『アキラ様の実力に疑いはありません。本家も是非にと、仰られておりました』


 とんでもない鬼札を切ってこられた。

 冗談ではない。聞こえこそいいが、実際のところ強制的な隠居という意味だ。

 簡単な話、一生目立つところに立つなと言いたいのである。


『いやいや、これはめでたいことでございます。十代で師範といえば、今は亡き先々代と肩を並べることになりましょう。当時よりも門人はよほど増えました。アキラ様ならば、必ずや裾野を広げる役割を立派に務められることでしょう』


 血が凍る思いだった。これ以上、この男の戯言を耳にしたくない。

 アキラは強制的に電源を落とそうと、右足の筋肉に力を込めた。


『それと。気が早いかと存じましたがクラブに退団を打診しておきました』

「は――?」


 男がたもとから、一枚の印鑑が押された紙切れを取り出した。

 それは、クラブ側が戦力外、もしくは昇格させないと決めた時に送る一枚の通知書だった。


『心配は無用です。先方も渋っておりましたが、家の決定と申せば、市井の意見など関係ないのですから。しかし、アキラ様ご自身でなされるのは酷かと、老婆心ながら気を回した次第でございます』

「ふざけるな! 何を勝手に!」

『それから幾度も申し上げた婚約の件、どうぞご期待を。では、来月にお会いできることを楽しみにしております』


 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!

 ブラックアウトした画面に向かって怒鳴ると、アキラはすぐさま携帯に飛びついてクラブに連絡した。数瞬ののち、後悔することになる。


「冗談といってください! どうして急に!」

『すまない、アキラ。僕も必死に抵抗したんだ。だが、クラブとして、松平家に睨まれてはやっていけない。そういう判断になってしまう。本当にすまない。君の事情は理解していたんだが』

「な、んで……」

『監督は、いつかアキラをチームの主軸に据えるだろうと、そう言っていた。こんなこと、今更何の慰めにもならないけど』

「……」

『君の新たな門出を、心から祈っている』


 いつ通話が切れたのかも定かではなく、アキラはぼうっと寝台に腰掛けていた。日が巡り、闇が覆い尽くしている。

 世界が素晴らしいものだとは、錯覚していなかった。だがまさか、まさかここまでのものとは。ばきばきと歯が鳴っている。乾いた笑いが高々と虚しく響いていった。


 すべてが砂のように崩れてゆく。掌を握りしめた。豆を潰した、剣だこの感触を一心に思う。

 結局は、こんなものか。

 所詮、穢れた野良犬のさだめなど。


 どれほどそうしていただろうか。

 くふ、くふと奇妙な笑いがこぼれ出した。狂ったのではない。むしろ逆。頭は驚くほど冷静だ。なにせすべてがたった一つに収束したのだ。

 アキラは一つ、後悔があった。いうまでもなく、エルとの決戦のことだ。今しがたまで、易々と再戦の機会は持てないと思い込んでいたそれが、降って湧いたように道がつながった。


 アキラという字を、ショウと間違う人間は少ないだろう。

 それに加え、背格好、技、同じ大会への出場など、諸々の条件を兼ね備えるのはたった一人しか居ない。

 そして、それを遮るものはもはや存在しないのだ。

 すべてはもはや、終わったのだ。


 アキラは端末を操作し、今月末に予定されている大会のトーナメント表を眺めた。

 ユース選手であり、第一シードである自分の名が記された表を眺める。プロになろうとしていた彼にとって、アマチュア最後の大会と目されていたものであり、エルとの対戦を熱望してご破産になった大会でもあった。

 スーパーシードであるアキラの山には、予選として約三百人近い名が刻まれていた。


 最後に、一つ大きな花火を打ち上げよう。炎のように苛烈で、どこまでも燃え広がるそれを。自分が生きた、MMAプレイヤーとしての証を。

 ディスプレイをなぞりながら瞳に炎を宿らせる。

 そして、その名を呟いた。


「夏目、トオル」




 § § §




 夜、寝付けなくて床から出た。ホテルの外は一面、銀世界が広がっていた。ロビーに降りて、窓の外を眺める。輝かしい月が出ている。世界はまるで誰も居ないかのように静まり返っていた。

 消灯され、月明かりだけを頼りに窓際のソファで膝をかかえる。たなびく雲の下に、大きな競技場が見えた。総体予選の会場である。よく目を凝らすと、ホテルの掲示板にもいくつか告知がなされている。


『眠れないのか?』


 ようやく白河夜船になりかけたころ、アークがふよふよと漂ってきた。

 何も答えなかったのに、お節介に側へと腰を下ろす。

 オレ様も勇者失格だぜ、と。

 聞けば、後悔していたらしい。ずっと口を噤み、邪魔しないよう徹していたことを。院長とのやり取りで、無理やりに意識を奪えばとしきりに反省を口にした。


『あんま自分を責めんなよ。遅かれ早かれ、いつかこうなるしかなかったのさ。生き物っておは、大なり小なり誰かから光を奪うしかない。

 けどよ、よく見ろよ。この世界はそれを覆い尽くすぐらい光で溢れてる。争いはある、諍いはある。そいつは知ってる。だがよ、戦争はないんだぜ。なにがあったってお前は生きてる。違うか?』


 それは、そうだろう。

 言っていることは正しい。割り切れれば、それもまた真実の一つだ。

 殺し殺されの世界で生き抜いてきたアークの言葉は、たしかに重い。

 けれどそんなもの、トオルにとっては夢物語に過ぎない。今生きている世界がすべて。ゼロとイチで切り捨てられない。


『かぁー、あんまこういうのは得意じゃないんだがねぇ』


 ガシガシと頭を掻きながら、アークはぼやくように慰めを口にした。


『オレ様にはよ、一人だけ弟子が居た。ま、正確には兄弟弟子なんだが』

「今、そんな気分じゃ」

『まあ聞けよ。そんなに長い話じゃねえさ』


 と、アークはどこか懐かしむような口調で、一人の仲間のことを語りだした。


『お前によく似てる奴だった。血が嫌いで、変な趣味があって。ま、あいつの方がだいぶお調子者だったが。一緒になって稽古を受けたが、いつも逃げ出すような奴でよ。親父は呆れてたな』


 剣士、魔法使い、僧侶、盗賊、そして勇者という名だたる面々に一人だけの村人A。剣、魔法を使えず、かといって特筆すべきスキルもない。そんな彼こそが、勇者アークはじめての仲間であったそうだ。


『だが、妙に華のある奴だった。ビビリで臆病なうえ、よくオレ様の背に隠れて威張る小賢しい奴だったが、いつもあいつの周りには人集りがあった。素直に、羨ましいと思ったこともある。力至上主義のパーティメンバーも、なんだかんだで認めてた』

「……」

『だから、鍛えてやった。もったいねえと思ったのさ。あいつに力があれば、より大きな光になれる。いや、オレ様以上の勇者になれる。そう、勘違いしたのさ』

「その人はどうなったの?」


 アークは暗い空の向こうを遠い目で眺めると、どこか寂しげに微笑んだ。


『次の戦で死にかけたよ』

「……」

『生兵法は怪我の元ってな。身にならないどころか、戦力にカウントしちまった。結果、援護が遅れた。

 わかるだろ? 向き不向きさ。あいつは戦う必要なんざなかったんだ。そんなことしなくても、光をもってた』

「アーク……」

『陳腐だがよ、人は助け合って生きている。それが真理なのさ。全部背負い込むことはねえ。お前の言う、“家族”にゃ頼れねえんだろう。なら、オレ様に頼れ。そいつがオレ様の、勇者の役割なんだからよ』

「……うん」

『ま、テレビでも見ようぜ。せっかくの宿なんだ』


 リモコンでロビーのテレビを操り、深夜放送をただ巡回した。芸能ゴシップが流れる。ドラマの主役、アイドルの雨宮リノが昔非ナンバーズだったことで、打ち切りになったらしい。けれどそこに、院長の自殺など取り立たされることはなかった。

 そして、静かに夜は明けた。朝のニュース番組が始まっている。この時期の話題は中学、高校、大学と順繰りに行われる総体予選一色だった。もう、関係ない。まるで他人事のようにぼうっとしていると、驚きの情報にトオルは目を見開いた。


『それでは、スポーツニュースです。本日午後、家庭の事情で休養を発表された朝来野アキラ選手に、悲しみの声があがっています』


 えっ、と声を漏らしてから呆然と立ち上がる。画面上には、かのエルと決闘を繰り広げた朝来野アキラの映像が流れていた。


『あん? アキラ?』

『朝来野選手は、中学一年で総体、国体のタイトルを連取すると、それ以降も破竹の勢いでジュニア選手権など勝ち星を重ねてきました。今月行われたプロツアーでは惜しくも予選敗退となりましたが、数多くの最年少記録を叩き出したその才を惜しむ声は未だ鳴り止みません。朝来野選手の休養前最終戦は、総体予選になるとの見通しです』


 朗々と読み上げるキャスターの声や、名前間違いなど気にもならない。何が起きている、何が。

 トオルは画面の縁を掴み、ガタガタと声にならない悲鳴をあげていた。


『あっと、ここで続報です。所属していたクラブから、朝来野選手の声明が発表されました。その映像をお送りします』


 切り替わった画面には、クラブの記者会見場で、スーツ姿の朝来野が威風堂々鎮座していた。

 膝に手を置き、どこまでもまっすぐ見つめている。画面越しだというのに、トオルは怯えるように退いていた。


『江戸ユナイテッド関係者の皆様。この度、私事ではありますが、私朝来野晶は全面的な休養を決断する運びになりました。このような形でのご挨拶になってしまったこと、沢山の期待を寄せてくれたサポータ、およびファンの皆様には、その期待を裏切ることになってしまい、本当に申し訳ありません』

『この決断をするまでに長い間悩み、本当にこれでいいのか迷いました。しかし、競技に集中できないまま、チームでプレーすることは、サポーターの皆様、そして私のプレーを見に来て下さっているファンの皆様に申し訳なく、このような決断をするに至りました。今後の予定は未定でありますが、いつか帰って来られるよう、努力していきたいと思います』


 朝来野はまるで未練もないように、今後の予定を語った。

 想定される疑問をすべて答え終わった後、彼は立ち上がった。

 静かな表情とはまるで違う、炎のように熱い眼差しだった。


『ボクは、ELエルの正体を知っています』


 その一言で、ドクン、と心臓が脈打った。咄嗟に顔を強張らせる。

 二人は対話するかのように、テレビ越しに視線を交錯させた。


『公言するつもりはありません。ただ、ボクの願いは再戦することです。三度、同じ相手に執着するのは士道に悖るとも理解はしています。ですが、負けっぱなしで休養することは、ボクにはできない』

『彼とは、総体予選の決勝トーナメントであいまみえます。それが、ボクにとっての集大成です。そして、もしもエルが逃げた場合、口を噤む保証はできません』

『これが、わがままだとわかっています。ですが、ボク、朝来野“ショウ”――いえアキラは、選手生命を賭けて総体予選に挑みます。そこでエルに敗れたとき、休養ではなく正式に引退することを宣言します』


 あっ、とトオルは己の失敗に気付いた。

 晶、という字をショウと呼んだのは、知る限り二人だけだ。名前を見て勘違いしたトオルと、別れ際そう呼んだエルトオルだけ。

 これは宣戦布告だ。魔王エルにではない。夏目トオルへ向けた、果し状だ。


『勝負だ、エル』


 そう、朝来野アキラが拳を突き出した。

 画面がスタジオへと戻る。司会に振られ、元選手であろうコメンテーターたちがやいのやいのと憶測を述べていた。

 エルの正体は学生か、などというコメントすら頭の中を通り過ぎていった。

 トオルは一人、テレビの前で立ち尽くす。

 もはや、追い詰められたのだ。


 そうして、場は最終決戦。

 総体予選へと移されることになった。



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