4-6:

 古賀家は笑顔が絶えない家庭だ。しかし、今は見る影もなかった。度重なる嫌がらせに疲れきっていた。

 寡黙な父は一層言葉を喪失し、呑気な母にもどこか暗い影が差している。一樹だってそうだ。いつもはハル婆と顧みもしないのに、遥菜が連れていかれてから毎日、それとなく登下校を共にしていた。


 だからといって、金田の居所を言うつもりは毛頭なかった。

 父も、母も、弟も、そして遥菜自身も。

 考えるまでもない。捕まった金田がどのような目に合うか、わかりきっているからだ。現実問題、父しか居所を知らないし、父も本当の居所を教えられているかわからない。

 けれど、そんなことは関係ないのだ。

 知り合いがそんな目に遭うなんて耐えられない。

 我慢さえしていれば、いつかは諦めてくれる。そう願うばかりだった。


 そんなときである。

 弟の一樹が、夏目トオルに二千万払ってもらったと言ったのは。


 家族の意見は一つだった。遥菜は両親に頼まれ、コートも持たずに駆け出した。

 居場所はわからない。連絡先は知らなければ、学校にもあまり顔を見せない。住所も知らない。けれど、遥菜の行先は決まっていた。


 美術部の友達に聞いたことがある。同じ表現に傾倒するのは、得意だからではない。憧れやコンプレックスを拭いきれないからだと。

 幼なじみらしい少女と会ったところも、一樹が出会ったところも、いつもいつも同じ道、同じ場所だ。


 多分あそこは、通り道である以上に彼にとってのなにか思い出の場所なのだろう。

 昔の遊び場だったとか、友達がいたとか。

 だからこそ、後悔が湧いてくる。


 なぜあのとき「気にしないよ」とはっきり言えなかったのだろう。

 彼が“非ナンバーズ”であることなど――承知の上でファンだったのに。


 第一印象は最悪だった。初登校は一週間遅れ。宿題もやってこないし、プロ志望にしてはやる気もない。いつも疲れたように笑ってて、もそもそと廃棄パンを食べている。

 クラスの評判は低かった。なまじ、事務所と契約していたのが良くなかったのだろう。奨学金を受けるため、良い成績を取らねばならない遥菜にすれば、不真面目で、不良の極みのような人間に思えた。


 けど、違った。

 夏のある日。勉強が嫌で、友達もできない学校が嫌で、もう何もかもが嫌になって、遥菜は通学路を横にそれた。

 そして出会った。汗水垂らして働くクラスメイト、夏目トオルに。


 彼は眠そうな顔で交通整理に就いていた。声をかけると「おはようございます」と挨拶をする。

 お昼にもう一度会った。小腹が空いて入った中華料理屋だった。声をかけると「いらっしゃいませ」と返事をした。


 そして夜にも会った。売れないアイドルに混じって、一人プロマイドを配っていた。ときおり立ち止まる人は彼目当てではなく、隅っこに避けられていた。急いでいた会社員に荷物をぶちまけられ、いそいそと拾う彼に遥菜は聞いた。どうしてそんなに頑張るんですか、と。

 彼はいつもどおり笑って言った。「がんばることしかできませんから」と。


 そこまで知れば、あとは簡単だ。素性なんて嫌でも想像がつく。

 でも彼は努力して、遥菜と同じステージにいる。


 それ以来、遥菜は弱音を吐いたことがない。

 そのとき貰ったプロマイドが、唯一の宝物。


 競技は野蛮だし、まったくもって好きじゃない。

 勝とうが負けようが、怪我さえなければどちらでもいい。

 でも、たった一つ。

 その頑張る姿に、勇気をもらったから。

 だから、古賀遥菜は踏み出すのだ。


「このお金はいただけません」


 と、天使のように微笑みながら。




 § § §




「雪だね」


 月明かりに照らされた遥菜は右手の上に粉雪を積もらせた。

 髪を流し、制服姿でポツリと立つ少女の姿は半ば幻想的なまでに儚かった。

 丁寧に梳かれたその柔らかな茶髪は、どこまでも艶やかに流れている。僅かに紅潮した頬は、雪よりも白くうすらいでいた。素直に綺麗だと思った。騒がれる理由もわかる。触れれば折れそうな美しさだった。


 なんなんだ、なにがしたいんだ彼女は。

 トオルは先刻のやりとりを思い返していた。長い間待っていたのだろう彼女は、指先を赤くしながらも五十万の入った封筒を突き出した。そして言った。あなたを巻き込めないと。何の打算も感じられない。ただ無垢な眼差しを仰ぎ見た。尊かった。貴かった。努めて感情を伏せ、ただ天真爛漫な笑顔だけを見せている。作り笑いとは違う、本心からのものを思わせた。だからこそ、何もかもが理解できなかった。


「ねえ、夏目くんの誕生日っていつ?」

「僕は……十二月です」


 正確には、十二月二十四日のクリスマスということにしている。出生日のわからないトオルに、院長がつけたものだった。


「わたしはね、三月十四日」

「……ホワイトデー?」

「そう、その日がハルナの日。一年に一度だけ、わたしが主役の日。わたしの好きな梅の花の季節」


 トオルの困惑を見てとったのだろうか。後ろで手を組みながら、遥菜は寂しげに微笑んだ。


「梅はね、春を知らせる花なの。三月の一番初めに咲く花。それが梅。そうして、ハルが始まるの。えへへ、少し狙いすぎかな」

「古賀さん……」

「だから、はい。本当は、事務所に送らないといけないんだけど」


 彼女が手渡してきたのは、赤いリボンが巻かれた長方形の箱だった。中身は見ずともわかった。少し遅れた、バレンタインチョコレートだろう。

 彼女の真意が何一つとして理解できなかった。好みを尋ねてくるのも、三月十四日を空けておいてねと満面の笑みを浮かべるのも。

 いや、嘘だった。すっと悲しみが流れてゆく。彼女の頬を流れる涙。やがて、ボロボロと崩れていった。


「あれ、あはは、ご、ごめんね。泣かないって決めたのに。お、おかしいなぁ」


 トオルは立ち尽くすので精一杯だった。察しの良さが嫌になる。そう、自分は手折ったのだろう。遥菜という存在を。


「学校、やめるんですか」

「あ、あははは、何言ってるの夏目くん。やだな、そんなこと…………」

「……」

「はあ。やっぱり夏目くんには敵わないなぁ」


 彼女は肩を落とすと、素直に白状した。

 金田という男の借金を捻出するため、父が店を畳むという決断をしたこと。遥菜は高校を諦め、一樹のために就職するという道を選んだこと。だけど、最後のわがままに誕生日まで先延ばししてもらったこと。

 元々、隠し通せるような少女ではなかった。だから、わかってしまう。すんでの所で耐えていた彼女たちを突き落としたのが、誰なのか。


「どうして! そこまでするほどの人なんですか!」

「うーん、どうだろ? いい人だけど、ちょっとエッチだったからわたしは苦手、かな」

「なら、どうして」

「誰でも、関係ないんだよ。命より重いものはない。たぶん、それだけなの」

「お金なら僕が払う!」


 トオルは彼女の手を握ると、無理やりに封筒を握らせる。

 冷たかった。ゾッとするような冷たさだった。


「二千万ぐらい僕なら払えるから、だから!」

「それはダメだよ」

「どうして!」


 トオルは両肩を掴んで、覆いかぶさるように彼女を直視した。

 その瞳は揺るぎなく、ただ湖面のような色を映し、静かに瞬きした。


「それを貰っちゃたら、今まで通りじゃ居られないでしょ?」

「そ、そんなことで」

「全然違うよ。だから、あなたからは貰えないの」


 上背のあるトオルが大声で覆いかぶさるさまは、襲っているようにしか見えないはずだ。

 けれど、誰の目にも、泣きじゃくりながら縋り付いているようにしか映らなかった。


「あなたからはね、お金なんてもらわなくてもいっぱい貰ってるの。だから、心配しないで」

「……嘘だ」

「ウソじゃないよ」

「嘘だ! 僕にはお金しかない! それ以外にあるものなんてない! 全部仮初なんだ。全部、嘘なんだ!」

「そんなことないよ」

「ッ、君に僕の何がわかるって言うんだ!

 僕は、僕はクズで、嘘つきで、非ナンバーズで……!

 君だって、本当はそう思ってるんだろ!」


 止まらない。とめどなく本音がこぼれてくる。トオルは全身を振り乱しながら絶叫した。


「苦労もしたことないのに僕を憐れむな!

 君なんかが、底辺の気持ちなんてわかるはずがないだろ!

 何も知らないくせに、ナンバーズのくせに、僕に同情なんかするな!!」

「わかるよ」


 迷いなく、遥菜は断言した。


「一番の、古参なんだから」


 彼女は静かに抱きしめると、まるで子供をあやすように背中をさすった。春の陽だまりのように暖かかった。知るはずのない母の温もり。それを、感じていた。


「あなたの価値はお金なんかじゃない。あなたはもっと、すごい人なの。みんなに、勇気以上のものを与えられる人。わたしはMMAの良し悪しなんてわからないけど、でも、あなたは輝いていた。だから、自分を卑下するのだけはダメだよ」

「ぼくは、ぼくは……!」

「泣いていいんだよ。わたしなんかでよければ、いくらでも胸を貸してあげる。だから、だから負けないで。自分に、負けないで」

「――――っ――」


 トオルは嗚咽を堪えると、彼女を突き飛ばして逃げた。逃げながら思った。自分はなんと臆病者なのだろう。逃げ出したいのは彼女だ。これから闇を這うような未来が待ち受けている。なのに、その彼女に縋りつき、あまつさえこの月の輝く夜に突き放した。あの折れそうな身体が、どこまでも怖かった。秘められた強さに打ちのめされた。

 あの朝来野もそうだ。

 勝てるはずのないアークに一直線で挑んだ。一太刀まみえれば、大抵の選手は戦意を喪失する。敵う見込みなどないのだ。だというのに、なぜ挑める。なぜ折れないでいられる。

 自分はそう成れず、院長のように目先のものへ飛びついた。それが普通なはずだ。アークがいれば勝てる。金が稼げる。生きていける。

 自分は非ナンバーズだから。そう言い訳して、すがるしかなかった。

 思えば、昔からだ。ゲームもそう、アニメもそう。空想の世界に逃げた。直視するのが怖かった。仮装のとき、覇王などと詐称するのは、そうありたいからと願うからだ。けれど成れないと知って、厨二病という殻で覆っている。逃げ続けているだけなのだ。


 臆病者。政和がよく口にする。

 的を得ている、とトオルは思った。

 負けることが怖くて、怖くて。

 いつしか、大好きだったMMAからも逃げ出した。


 働かなければ生きていけないと言い訳して。

 家族のためと言い訳して。

 いつしか、惰性で大会に出ていなかったか。


 皆のため。非ナンバーズだから。

 そう思い込むことで、すべてを忘れ去り、怠惰な毎日を送っていれば気が楽だった。

 勝ち負けなど無視して、ただ身体を酷使していれば向き合わずにすんだ。


 遥菜は違った。

 朝来野は違った。

 けれど、トオルは踏み出せない。

 踏み出せないのだ。

 そんなことは、許されない。そう知っても、犯してしまった朝来野への冒涜、院長の裏切りと死、自らの情けなさを直視したいま、勇気を振り絞って立ち向かう道は選べなかった。


『アーク、助けてよぉ……』


 無意識のうちに、光へすがりつく。

 気まずそうに顔を背けられ、うずくまるしかなった。

 トオルは何度も、自傷するように地面を叩いた。

 拳から血がぬちゃぬちゃと流れ出てゆく。それでもなお、頬を伝う涙は止まってくれなかった。

 激しい慟哭が、夜風に流されてゆく。 

 あえかなる月光が、川面をやさしく撫でた。

 闇が深まる。

 何時間経とうと、トオルは立ち上がることができなかった。



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