4-5:
波打つ花壇のスイセンが、落ちゆく残光にあぶられながら紅に染まっていた。
トオルは一人、陰鬱な表情で正門を押し開いた。天使の彫像は深く影を伸ばしている。枯れた蔦の伸びる崩れかけの壁面に年月を感じる。淡く差し込むステンドグラスの光が、祭壇までを厳かに照らしていた。
床版を軋ませ歩を進める。オルガンの荘厳な音が滑らかに響いていた。トオルが彼の前に立つと、曲調がアップテンポに変わった。
「ああ、あなたでしたか。庭の花壇は見ていただけましたか。喜捨のお礼に少しでもと、院のみんなで考えたのですが」
「院長先生。お聞きしたいことがあります」
穏やかな笑みで出迎える夏目院長へ、トオルは腰に佩く
「孤児院がなくなるという話。
それが嘘だったというのは本当ですか」
言った瞬間、鍵盤の上で踊っていた指に力が入った。耳障りな不協和音が聖堂内に響く。
隠しようもない動揺。すべての真実を悟り、トオルは絶望の淵にたったときのような感覚を抱いた。
あの男からもたらされた情報は、物事の根幹を打ち砕いていった。
孤児院存続のため寄付した百万円が、院長の私腹を肥やすために使われている。そんな荒唐無稽な与太話だ。
信じられない。そう方々を駆け巡れば、藤沢組の若頭がすべてを打ち明けた。
つまびらかにされた現実は、想像よりもさらに過酷であった。
トオルは一つ、夏目孤児院に対して疑念を抱いていることがあった。日頃、院長はどのようにして日銭を稼ぎ、なんのために身を粉にして子供を救済しているのだろうと。
外に職を持ち、時折食料や日用品を持ってきては聖歌隊と呼ばれる活動に従事する。そこには、善意の富豪という印象しか浮かばない。だがしかし、院長は特別地位を持たない。富豪でもなんでもないのだ。
そうでなければ、この
虚しくも、すべてが符号する。
院の卒業生にヤクザや風俗嬢が多いこと。
ひかりが極端に水商売を嫌うこと。
そして、真っ当な道を歩み始めたものが悉く、世を儚んで自死を選んだこと。
トオルは、それが選択の余地のない末路だと信じきっていた。非ナンバーズとして生を受け、社会に忌まれながら息を繋ぐ。院に拾ってもらえただけ、恵まれているのだと。
だが、真実は違うのだ。ゴミのような人生から、さらに搾取する者がいる。
言ったではないか。奴隷は、奴隷の中に奴隷をつくると。
苦しみもがいて、なんとか這い出ようとするその脚を引っ張られるほど痛ましいことはない。それも、信頼している育て親から。そうして、数多もの人生は虚しく露へと消えたのだ。名も知らぬ、少年少女のように。
トオルの諦観を他所に、夏目院長は落ち着き払った態度であった。
藤沢組の大元の末端組員にして、幼き子供の斡旋業を生業にする。年齢も、潜った修羅場も向こうがはるかに上だろう。人としての格も、悪党ぶりも、はるかに上だろう。
怒りなど、ない。
ただ、半身を失うような喪失感だった。
「
「……今、関係ありますか?」
「まあ、そうですね。どうせ、藤沢のところでしょう。これだから、非ナンバーズあがりの舐め合いは困ります」
鍵盤の蓋を下ろした院長は、静かに背を向け、神に祈るよう仰いだ。いつもと変わりない姿に吐き気を催すようなおぞましさを感じる。
数多の子供を踏みしめ、血肉を啜るようにして生きている。落ちかかる夕日が、法衣を真っ赤に染め上げていた。
カタカタと鍔が鳴る。遠く、大きく伸びるその影が歪んでゆく。胸の中で、がりがりと苛立ちのようななにかがわき起こった。
「あなたほど優秀な子は居ませんでした。扱いに困る政和を宥め、縋るひかりに応える。その上、一年以上三人もの“家族”を養った。あなたの輝きを見たときから、あなたがMMAに魅せられたときから、確信したのです。あなたはいつか、飛び立ってしまうと。だからあれほどまで、鎖で雁字搦めにしておいたのに」
「……ひかりの、あの電話もそうなんですか?」
「ええ、それとなく督促状を置いておいたのです。そうすれば、ひかりは必ずあなたに頼る」
そうだ、若頭が言った。予定とは違ったと。
そもそもまず、なぜかトオルのことを知っていた。そのときは見過ごした。当初、大浜オープンの結果か何かで知ったかと思ったからだ。
だが、違う。相手は遥菜の言った「夏目」に反応したのだ。
つまりは元から、裏で何かしらのやりとりがあり、裏闘技場に出場することとなっていたのだ。それが何の因果か、アークという救世主が手を差し伸べた。そうでなければ、今頃トオルは地面に冷たく横たわっていただろう。
不憫だと嘆かれるのも頷ける。
夏目恒夫という男は、
大浜オープンの結果を知って金子を無心し、
裏闘技場を仕切る藤沢組に斡旋しようとし、
仲介料を貪ろうとして、
そのうえ寄付までせがんだのだ。
それも、ひかりを操り人形のように使って。
トオルは、バキバキと砕ける音を耳にした。知らず、噛み締めた奥歯が鳴いている。荒い息を吐きながら、よろける。視界は真っ直ぐ定まらなかった。
「それにしても、MMAというのはすごいものですね。ただの子供がたった数時間で何十万も稼ぐ。ひかりに聞いたときは腰が抜けそうでした。汗水垂らして働くのが、馬鹿らしくなる」
「……なぜ、こんなことを」
「簡単です。あなたの才能が羨ましかった。妬ましかった。なぜ、愛らしいのあなたで居られないのです? あの、辿々しく歌うあなたのままで」
「僕に才能なんて……!」
「ありますよ。あるに決まっているじゃないですか。天下のMMAですよ。国中で栄達を望む若人が凌ぎを削っています。こんな何もないところからプロになれるなら、それこそ天凛に他ならない。私とは、まるで真逆だ」
そうして院長は、途切れ途切れに昔話をはじめた。
かつて、バンドとして鳴らしていたこと。奔放なメンバーを支えるため精力的に働いたこと。けれど、ついにメジャーデビューという段になって、自分だけが梯子を外されたこと。見返そうと努力したが、結局夢叶わなかったこと。
「傑作なところは、私だけが働いて活動を支えているつもりでしたが、実のところ、音楽家として能が足りず邪魔になっていたという現実です。それも、一発屋にさえなれない無名バンドのね」
「だから、だからあなたは」
「ええ。どうせ、叶わぬ夢なのです。非ナンバーズが真っ当に生きようなど。それでも飛び立とうと思い上がるなら、翼をもいでおけばいい。重りをつけておけばいい。ただ、歌いましょう。そうすれば、現実を知らずにすむ」
トオルはもはや、立っていることもできず胸を抑えた。
夢、というのはどこまでも甘美だ。だからこそ、破れたときの喪失感は何よりも大きい。
夢を諦め、倫理を葬り、少年少女の斡旋など悪魔にまで魂を売った結果、彼が再び立ち返ったのは音楽という名の救済だったのだ。
下手な子供に構ったのは、なんのことはない。昔の自分に重ね合わせ、傷を慰め合うことを望んだだけ。
それこそが砂漠に活けられた、聖歌隊、という花の正体だった。
アークが穢らわしそうに唾を吐く。トオルの全身は寒さで凍えていた。
「いつかこんなときが来ると思っていました」
夏目院長は、大きく両手を広げながら自嘲するように笑うと、懐から黒い塊を差し向けた。
自動拳銃であるトカレフ。その銃口が、トオルの頭に合った。
フロントサイトを通して、目が合う。幽鬼のような足取りで、トオルは身構えた。
「申し訳ありません。返せ、と言われてもない袖は振れないのです。すでに使い果たしましたから」
「そんな武器で、僕には」
「ええ、ええ、わかっています。あなたの言いたいことは。素人の私が、士の端くれであるあなたには勝てないと言いたいのでしょう? けれど、私のようなゴミは、こうやって縋ることでしか生きていけないのです。
だってそうでしょう。私には、頼れるものなどお金ぐらいしかない。あなたとは違うのです。あなたのような夢も、希望も溢れている人とは」
「僕は、そんな……!」
トオルは全身を震わせて、彼の言葉を拒絶した。
「ふう、不毛ですね。いつまでも、この話は平行線だ。与えられたものと、与えられなかったもの。元から見えている世界が違う。わかりあうことは未来永劫来ないのでしょう」
「……院長先生!」
「終わりにしましょう。もう、疲れた」
そう言った院長は、トオルの向こう側に語りかけていた。
彼には何が見えているのだろうか。澄み切った瞳には、深い諦観が宿っていた。
「さようなら、トオルくん」
そして、引き金がひかれた。
火薬の炸裂する音。
赤い華が虚空に散った。
どさりと落ちた肉体から、命が流れ出してゆく。
トオルはなすすべなく、その一部始終を見ていた。
――目の前で、院長が自分の頭に向かって発砲するのを。
「うあぁぁぁっっぁぁぁ!」
トオルは狼狽しながらも血の海に駆け寄り、しかし冷たくなってゆく肉塊を眺めるしかなった。夕闇が彼方から忍び寄ってくる。みるみるうちに辺りは夜の帷に包まれていった。
うずくまり、握りしめた拳を幾度となく叩きつける。視線を転じると、銃声を聞いて飛び出してきた少年少女が手を取り合いながらじっと見つめていた。
吐くようにして肩を震わせた。傍に持つ刀が異様なまでに重かった。何が違う、何が違った。違わない。すべてが生き写しだ。寄る辺をなくし、金や過去に縋った男の最後がどこまでも鏡のように反射した。お前の末路だと、突きつけるように。
ふと影が差す。トオルが顔をあげると、そこには十いくばくかの少年が立っていた。手には包丁が握られている。彼は涙を浮かべながら、神に捧げるように逆手で振り上げた。
「院長先生のかたきだ!」
飛び跳ねるように身体を起こすと、手首を掴み、刃物をはたき落とす。それでも、少年は激しく泣きじゃくりながら小さな拳を叩きつけてきた。
トオルは少年を突き飛ばすと、歯を食いしばりながら駆けた。
やり場のない絶望がその身を襲った。
激しく、ただ激しく吠える。
どこまでも、天を突くがごとく。
生まれおち、どこまでももがいて。
翼をもがれた籠の鳥。
檻の外には、飼い主が事切れている。
それでも空を、仰ぐのだ。
どこにも行けぬと、わかっていて。
だが、状況はトオルをそのまま悲しみに浸らせておかなかった。
街灯の下に、手を温めながら立つ少女がみえた。
明るい茶髪の少女だった。
「古賀、さん……」
その少女――古賀遥菜は、やはり優しく、やはり痛々しく、天使のように微笑んだ。
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