4-4:

 一直線に蛇口から水が落ちる。スポンジと器に当たってエプロンや服の袖に飛沫が散る。ただ何も考えず手を動かし、洗剤を洗い落としてゆく。トオルは静かに、綺麗になった食器の摩擦音を耳にしていた。


「ありがとトール。食器洗いしてもらって」

「……ううん」


 追加の洗い物を持ったひかりが横に立つ。ただ洗って、洗ってを繰り返す。それが今は、無性に心を癒した。

 朝来野との決闘から数日が経った。

 エルの衝撃的デビューはメディアで大々的に報じられ、深夜番組などではちょっとした特集が組まれる扱いぶりだった。

 それほどまでに、朝来野の実力・注目度はずば抜けていたということだろう。

 たしかに、トオルが知っている中堅クラスのプロとなんら遜色のない実力者だった。

 それを一蹴したエルの存在は、そんな簡単に無視できるようなものではなかった。


 無論、中にはまだ高校生である朝来野の実力を疑問視する者も居たし、何より協会登録していないことから主要大会には出場できないことが強く取り沙汰されていた。

 だとしても、クラブ所属でもない一選手が番組の一コーナーで取り上げられるなど滅多にないことだ。

 非ナンバーズの星。

 そして、正体不明。

 弱者の味方でありながら、謎という観衆を引き込むスパイスがある。なまじ実力があるだけ、注目度は抜群に高い。そういった事情で、今日も今日とて、エルの話は大いに盛り上がっていた。


 食器洗いを終え、最近買った自動掃除機を稼働させる。上に乗ったりと騒がしかった家族も、今や見慣れたのか反応すらしない。

 トオルはシンクに凭れかかりながら、家族の喧騒を眺めていた。


「なんか元気ないね。トール」

「そんなこと、ないよ」


 微笑もうとして、顔が引き攣る。ヘラヘラするなと叱られる作り笑顔も台無しだ。

 今のは誤魔化せなかっただろうな。蛇口を捻って、マグカップに水を溜めた。


「家賃は随分先まで払ったし、貯金もある。何も心配するようなことなんて」

「でもトール、辛そうな顔してる」


 ひかりは胸の前で手を組むと、上目遣いに覗き込んできた。


「困ったことがあったら言ってくれていいんだよ。私たち、家族だもん」

「別にそんなこと」

「あるもん。だって去年と全然違うよ」


 トオルはごくりと唾を嚥下した。


「去年のトールはね。いっつもキラキラしてて、すごくカッコよかった。自分でも覚えてない?」

「それは」


 去年の今頃。つまり、事務所と契約する前で、一番成績が良かったころだ。たしかにあの時は、近隣でも少し抜けた存在だった。

 敵なんていない。そんな風に思い上がっていた時期でもある。高校にあがって、一瞬で現実を知ったけれど。


「昔は毎日MMAの話ばっかりしてたけど、今はなんか……」

「今は、どうしたの」

「お金の、話ばっかり」


 ひかりは口籠もりながら、それでも言った。

 カップを傾ける手が震える。喉を潤すと、何か重たいものまで飲み下した。


「そんなつもりは」

「あ、でもでも。お金も大事なんだよ。トールはすっごい頑張ってるし。だけど、昔のトールなら」

「んなとこでペチャクチャ喋ってんなよ!」


 カーテンを引いてリビングから顔を出した政和は、不機嫌そうに柱へもたれかかった。

 険悪な空気に、年少組の三人が弱々しく身を寄せ合う。テレビのバラエティ番組が、虚しい笑い声を響かせていた。


「ウダウダ抜かしやがって。うざってんだよ」

「こらっ、和!」


 ひかりの猛抗議も意に返さず、政和は胸ぐらをつかみ上げてきた。


「いつもいつもどんよりして帰ってきやがって。言っとくけどな、テメェだけが疲れてるわけじゃねんだぞ」

「と、トールに何するの!」

「ひかりは甘やかしすぎなんだよ。男の癖してメソメソしやがって。昔っからそういうとこがムカつくんだ」


 政和は額がくっつくほど顔を寄せると、凄まじい形相でメンチを切ってきた。


「俺が組に入ったら、ひかりをこんな風に困らせたりしねえ」

「……」

「テメェがデカイ顔してられんのも今だけだ。覚えとけ!」


 政和に突き飛ばされ、食器棚に背中を打ち付ける。食器が音を立て、赤里が小さく悲鳴をあげた。

 ひかりは知らないことだが、政和とはこうして喧嘩することがあった。とはいえ、いつもトオルが一方的に罵られるばかりだが。

 一応、反抗期ということにしているが、実のところ最初期からソリが合わないのである。

 政和はナンバーズに関するすべてを嫌っており、援助団体の支援を得て中学に通っていたトオルを半ば裏切り者扱いしていた。


「んだよ、その目は。

 “臆病もん”の癖しやがって」


 家族内での喧嘩は御法度だ。トオルが怪我しないようにと、ひかりが厳しく諌めている。

 だから政和は、いつも勘に触るような言葉を使った。

 ひかりに庇われる卑怯者。

 言い返せもしない臆病者。

 そんな風に言って、トオル側から殴りかかってくるように。


 それがわかっているから。いつもなら、ヘラヘラ笑って受け流す。

 相手の怒りが収まるまで。


 でも今ばかりは――カチンと来た。


「……うるさいな」


 自分でも、ゾッとするぐらい低い声がでた。

 ひかりたちはびくりと肩を震わせた。


「と、トール?」

「あぁ? 口ごたえかよ。それともやんのか」

「……」

「できるわけねえよなぁ。いつもひかりに庇われるびびりのくせしてよ」

「うるさい」


 あ? とポケットの両手を突っ込んで睨む政和を、トオルは見下すように鼻で笑った。


「なんなの、毎回毎回突っかかってきて。

 僕に養われているくせしてさ」


 売り言葉に買い言葉。家族というのは、ある意味で弱点を晒し合って生きている。一度本気で喧嘩になると、導火線を握り合っているようなものだ。

 トオルは、政和が自らの稼ぎのなさにコンプレックスを抱いていることをよく知っていた。


「て、テメェ!」


 政和がキレた。身体の割に分厚い拳で殴りつけてくる。硬い拳が肉を打つ。その動きも喧嘩慣れしていた。

 けれど、そんなものはトオルにとってど素人同然だ。

 今でこそMMAは競技だが、元は代理戦争の道具だ。

 日夜、鉄塊を振り回しているのは伊達じゃない。

 張られた頬を撫でると、続けざまに振られた右腕を掴み、捻り上げた。背中側にまわり、脚をひっかけて転がす。反撃しようとした頭を掴んで、地面に叩きつけた。


「がっ、っつう」

「政和が僕に勝てるわけないでしょ」

「く、くそが。卑怯もんの癖しやがって!」


 腕をさらに捻る。ゴキゴキと嫌な音が響いてきた。

 暗い快感がよぎる。苦しそうにうめく政和の横顔が、なににも変え難いスパイスになった。


「トール、それに和も! もうやめてっ!」


 ひかりはか弱い力で引き剥がしにかかった。よろよろと力なく壁に寄りかかる。

 鈍くうめく政和を両手で庇いながら、ひかりが啜り泣くよう言った。


「トール、変だよ。おかしいよこんなの」

「ひかり……」

「どうしちゃったの。元の優しいトールに戻ってよ……」

「どけっひかり。ぶっ殺してやる!」

「もうやだぁ、やだよぉ」


 涙を零しながら顔をくしゃくしゃにするひかりを見て、トオルは一歩、二歩と後ろに下がっていた。

 裏切られた、という感が強かった。

 先に手を出したのは政和だし、いちゃもんをつけてきたのも政和だ。

 それに、いつもひかりはトオルの味方をしてくれる。「こらっ、和ぅ!」と言って叱るのだ。

 なのに、そのひかりが立ちはだかり、泣きながらトオルを糾弾していた。

 視線を彷徨わせると、つぶらな年少組の瞳がまっすぐ射抜く。どこかで見た目だ。

 そう、ひかりが古賀遥菜にすべてを打ち明けた、そのときとまったく同じ。

 恐怖と怯えが混じった、そんな想いのつまる瞳だった。


「ごめん……頭、冷やしてくる」


 トオルは靴を履くと、すぐさま外に駆け出した。ここにいるのが嫌だった。ただひたすらに走った。

 曇天の空模様はなみなみと続き、乾いた風が薄着のトオルをなぶった。

 重みで垂れた電線をくぐり、褪せた掘立て小屋を何度となく通り過ぎる。軒下通りは、真昼から安酒で酔ったホームレスが虚な目で空を見上げていた。

 何度となく転び、その度に膝をつく。一歩一歩の足取りが、果てしなく重い。脚に鉄球でもつけられた気分だ。

 ふと気づけば、何の気なしに街区へ出ていた。

 辺りからは、殺伐とした気配が失せている。

 胸が苦しくて、立ち止まる。

 おもむろに携帯を取り出して、番号をプッシュしてから耳に押し当てた。数コールの後、間伸びしたあくびが聞こえてくる。トオルが挨拶をすると、相手はくくっと魔女のような笑いを漏らした。


『珍しいじゃないか電話なんて。そんなにこの私が恋しいのかい?』


 スピーカーから響く中性的な声は、相も変わらず抑揚がなかった。

 電子上の相棒、WOODYである。

 どこか胡散臭くて、それでいていつも変わらない。そんな相手にホッとする自分がいた。


『それにしてもこんな昼間っから君はヤンチャだな。まだ高校一年生だろう? 留年しても知らないよ』

「まあ、私立だからそこらへんは」

『ふふ、それもそうだ。私が言っては、モーツァルトが私生活を改めろというぐらい説得力がない』

「あーうん? まあ、そうだね」


 適当に相槌を打つと、相棒はこれみよがしにため息をついてみせた。


『まあなんにしてもいいタイミングだ。君にもこの成果を自慢したくてね。ほら、画面同期に切り替えてくれたまえ』


 促されるままに操作すると、画面一杯に一人称視点の戦闘状態が映される。飛んで跳ねて、ぐるりと回転しながらクイックショットを決める姿が映されていた。

 まさしく戦場の死神である。通常倍近いキルレート差を付けられるが、しばらく見ない間に尋常でないほど上達しているようだった。

 窓から銃身だけを覗かせると、おもむろに小高い丘の上の住居を撃った。影も走っておらず、遠目には無人である。

 トオルが疑問に思っていると、穿たれた板塀の向こうでゴロリと人が転がってゆく。ボルトアクションのフルメタルジャケット弾だ。相手はどこから撃たれたかすらわからなかっただろう。


「何今のすごっ、よく壁の向こうの敵がわかるね。音? それとも勘? どうやったの?」

『チートさ』

「へぇ、チートか。それってどういう……はい?」


 あまりに自然だったので、トオルはふうんと受け入れそうになる。ゴホゴホと咳き込んでから、相棒の言葉を繰り返した。


「は? え? チートって」

『グゥレイト! と、さらにもう一発。ふふ、エイムアシストは楽でいい。おっと、レーダーに感ありだ。

 さあ、相棒も早く準備してくれたまえ。一緒に戦場を蹂躙しよう』

「え、けど」

『なんだい。まさか倫理に違反しているだなんてくだらないことを言うんじゃないだろうな』


 画面上のアバターがギロリと睨みつけてきた。


『いいかい相棒。私はね、自分の持っている力でゲームをしているだけだ。生まれ、才能、技術、そのすべてが私自身の力だろう?』

「う、うん」

『チートもいわば、生まれ持った反射神経と同じさ。なにより、私は負けるのが嫌いでね。勝つためなら手段を選ばないよ』


 相棒は素知らぬ顔で匍匐の体勢になると、反動を殺しながら風を裂いた。

 六人組の部隊は、こちらを視認することなく力尽きた。

 圧倒的に、一方的に。

 トオルからみて、彼らの立ち回りは決して劣った物ではなかった。それを、手も足も出ないままに葬り去る。チートという、勝利が定められた道具で。


 それが、――誰かの姿と被った。


「ごめん。今日は、やめとくよ」

『あっ、おい!』


 トオルは無言で通話を切ると、懐に端末をぶち込んだ。

 黙々とただ歩を進めていると、アーチ橋のたもとで複数の男が、小柄な少年を取り巻いているのが見えた。お節介な地元民も、諍いを恐れてか視線を向けるだけで脚早に去ってゆく。その見覚えある髪色にトオルは立ち止まった。

 古賀遥菜の弟、一樹である。

 取り巻く男たちも見覚えがある。あの藤沢組の事務所でアークが一刀両断したならず者たちであった。

 暴力を振るう気配はないが、にやにやと囲む空気は澱んでいる。甲高い少年の怒声が、閑静な住宅街に響いていた。


「あっ、トオル!」


 こちらに気付いた一樹は、ぱぁっと表情を明るくして駆け寄ってきた。


「おい、おっさんたち。今日はもういいだろ。こっちはトオルと用事があるんだ」

「あ、アニキィ……」


 あの大立ち回りを覚えているのだろうか。部下の何人かが身を固くする。若頭の不戦条約を杓子定規に守りたがる者もいるだろう。

 けれど、中央に立つ男は、黄ばんだ歯茎を剥き出しにしながら瞳を瞬かせた。


「相変わらずタイミングのいい兄はんでんな。

 もしかしてボディガードもやっとりますか」

「……狙いは彼女だったんじゃないんですか」

「もしかして兄はん、なんも知らん?」


 どこか愉快げに男が笑う。そして滔々と、古賀家の従業員であった金田という男の顛末を語った。


「わかりまっしゃろ。関係あらへんのや」

『ああ、あんときのはコレか』

「若はあのエルが大お気に入りや。何の断りなく抜けたことも一々文句は言わへん。ワイらかて、兄はんにもろうたもんを必死こいて水に流したわけや。

 せやから、あんま楯突くんはやめてくれまっしゃろか。若とちごぉて、ワイは器が大きぃないもんで」


 小男のように振る舞いながら、彼明らかに裏街道を突っ走るやさぐれた雰囲気を全身から発していた。

 事実、その意味では負い目があった。若頭は、エルの飛翔を願って揚々と送り出してくれたが、彼らにしてみれば憤懣やる方なしであろう。

 トオルは縋り付く一樹の頭を撫でると、驚くほど冷たい声音をだした。


「金田さん、って人の借金。僕が払うよ。いくら?」


 トオルは懐から端末を取り出す。わずかばかり呆けていた男は怒気をあらわにした。


「兄はん。冗談もそこまでにせえ。堪忍袋がいつまでも持つおもうなや」

「そ、そうだよトオル。これはウチの問題だから!」

「御託はいい。いくらなの」


 ぴくぴくとこめかみに青筋を浮かべた男は、「二千万」と吐き捨てるように言った。


「ま、わこうたらさっさと――」

「手付けは五十でいいかな。再来月には払える」

「と、トオルっ!?」


 安い、とトオルは正直思った。アークがプロの大会で活躍できることはすでに証明済である。

 プロとなれば、優勝賞金一千万を超えない大会のほうが珍しい。一、二ヶ月あれば、優に稼げるだろう。

 端末を操作して五十万の送金準備をする。軽薄ながらも険悪さを隠さなかった男は、今度こそ手放しで大爆笑した。


「なるほど、若が気にいるわけや。“地獄を彷徨う奴を蹴落とすほどやない”かぁ。そう言われると、ワイもたしかに不憫でしゃあないわなあ。兄はん、悪いこと言わへんから生き方見つめ直したほうがいいとちゃうの?」

「……なにがおもしろいんです」

「いやいや、なんもないですわ。金払うてくれるゆうんなら、文句はおまへん。元々利子もばこぉ取っとったから、再来月末までに二千万で手打ちとしときますか」


 男が手をふると、ゾロゾロと仲間を引き連れてさってゆく。

 あたりは、すでに静まり返っていた。


「トオル……」

「気にしなくていいよ。お姉さんには迷惑かけたし」

「だけどウチのこと、だから」


 そう言った一樹は、へなへなと舗道の縁石に腰を下ろした。ひどく憔悴している。そういえば、姉遥菜のほうもどこか疲れた表情をしていなかったか。

 立て続けにこうも都合よく助けられるとは思えない。恐らく一樹たちは、日常的に尾け回されているのだろう。

 かつて政和から聞いた話を思い出す。ナンバーズの年間行方不明者数は、軽く一万を超えるそうだ。その内何人が、このような悪意ある事件に巻き込まれているのか全容は掴めない。ならば借金のかたに、どこまでも堕とされる彼女は想像がついた。


 見過ごせるものか。

 だってそうだろう。金さえ払えば助けられるのだ。

 所詮、金があればいい。

 借り物でも、金だけは嘘をつかない。


 そうしていると、ふとシルバーのバンが背走してきて真横についた。助手席のウィンドウが降り、歯茎を剥き出しにして笑う男がヤニ臭い息を吐く。怯える一樹を背中で庇って、向き直った。


「兄はん。ワイらの仕事を片付けてくれた礼に一つ助言や。世話のぉてる院長に聞いてみぃ」

「院長先生? 夏目先生のことですか?」

「まあまあ、言われた通りにせえや」


 男は、にやにやと笑みを浮かべながら、口をこう動かした。


 ――新しい別荘はどないや、と。



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