4-1:

 アキラは初対面の人間から水のようだと評されることが多かった。

 嫉妬や讃美を受け流すさまや家格が育んだ挙措は、傍目には余裕に映るのだろう。そのうえ、観客を背負って平然とできる胆力も生まれつき持ち合わせていた。

 どんなことにも動じず、いつも水のようにそよいでゆく。母譲りの端正な顔立ちが、男でさえ色を覚えるような気品をも育ませた。


 けれど、よく知る人物からは正反対の評価を受ける。

 何かしらにつけ苦言を呈されるのだ。周りが見えていないだの。感情的になりすぎるだの。

 最後は決まって、恐怖で瞳を濁らせる。

 すべてを焼き尽くす大炎のようだと。

 ユースのコーチ陣、チームメイトに先輩たち。それにあの父親からでさえも。激しさや苛烈さを、度々諌められることがあった。


 恐らくこの資質は、彼の特異な出自が育んだのだろう。

 名門松平の分派である朝来野家は、現当主である父武臣が歴代三指に入る実力者と評されながら本流を外れ、破門同然にある微妙な立ち位置であった。

 というのも、父武臣は武門の誉である皆伝を最年少で戴きながら、その禁として最たる貴賤婚を犯したのである。

 つまりアキラとその姉の母親は、血統を重視する武家にあって一般家庭の出身であった。学生恋愛のもつれ。若かりし頃の二人は、半ば駆け落ち同然で家を出奔し、慎ましながらも愛を育んだそうだ。


 しかし、そのような仮初が長く続くわけもない。きっかけは、朝来野家の前当主が病に倒れてからである。親族累々に請われ、戻らぬわけにもいかなかった。なにせ、枝の家とはいえ、名門松平に連なるのだ。御家断絶となれば、どれほどの人が路頭に迷うか。

 苦渋の決断の末、父武臣は再び家へ戻ることになる。本家に許されなかった、身籠った母を置いて。


 その前後に何があったのか、アキラの知るところではない。物心ついた彼は、同和地区出身者非ナンバーズとして幼少期を送っていた。

 その六歳までの記憶は、筆舌にし難いものであった。なにせ、同棲する新しい男に暴力を振るわれていたのだ。ひと回りも上な姉と違い、幼きアキラには頼る術がなかった。母が男と家を出て行くまで、満足に言葉を操れない知恵遅れ同然だったのである。いや、それもまだマシか。心身を病んだ姉は、虚な言葉を繰り返すだけになってしまった。


 結局、アキラたちは朝来野家に迎えられることになる。

 しかし、名家に引き取られた彼を待ち受けたのは、想像を絶する過酷なイジメであった。

 そもそも上級士族の常として、朝来野ほどの家格を持つ家柄ならば、幼少期から最低限の礼儀作法や武芸を覚えこまされるものだが、アキラにそのようなものはない。歳近い者には野良犬と蔑称を受け、世話役には面と向かって育ちを侮辱されたこともあった。


 夜なべ枕を濡らし、未だ立ち直れぬ姉を想いながらふつふつと怒りを燻らせる。それが幼き彼の日課だった。

 父への恨みは骨髄にまで達していた。

 元を正せば、アキラたちが苦しんだのは父武臣の曖昧な決断そのものだ。母を放っておかなければ、これほどまで苦しみに喘ぐことはなかっただろう。

 なぜ産んだ。

 なぜ放置した。

 そんな怒りが昇華され、憎悪にまで歪んだのはもはや仕方ないことだったのだろう。


 アキラは奮起した。誰よりも貪欲に、誰よりも苛烈に武芸・学問へうち込んだ。さいわい、才能があったのだろう。侮りはやがて嫉妬へ、そして畏敬へと変わった。

 武芸の本質の前には、冷然な実力主義だけが横たわる。結局、十数えるころには、その天凛を認められるようになった。


 アキラの原動力は他者を見返そうとする意志だ。それは長じて、誰の追随も許さないほどの実力を得るにいたった。しかし代償としてか、中学時代、今では考えられぬほど荒んでいた。

 見かねた家人の勧めで今所属するユースチームに入るまで、家庭で私的な会話がないほどの徹底ぶりである。


 それは、朝来野の家を出たことでその苛烈さは息を潜めるようになった。

 目標のない近年のアキラは、人が変わったようにめっきりおとなしくなったと評されるようになった。元来、根は大人しいのかもしれない。事実、例外はあれど、追い立てられるような感情に走ることはなかった。

 順風満帆。

 凪のように穏やかだったアキラは、一つだけ疑問を覚えるようになっていた。


 ――このままプロになっていいのだろうか、と。


 アキラの人生は、常に走らされている状態だった。転ぶことは許されない、フルスロットルの全力疾走だ。

 だから、ふと突然に追い立てられなくなり、何がなんだかわからなくなったのだ。勿論、MMAは好きだ。クラブには感謝しているし、同期相手に教導することも厭うつもりはない。

 けれど、本当にこれで良いのだろうかと思う時があるのだ。

 思えば、同年代に負けたのはかなりの年月を遡らなければならない。対戦相手は常に年上であり、今は及ばずとも、いずれは追いつくだろうと確信を持っている。


 アキラは、自分の苛烈な面を好いてはいなくとも、すべからく欠点であるまでは思っていなかった。

 情熱とは、パワーだ。

 好きなものこそ上手なれ、という言葉もある。自分を騙しながら生きていくことに一抹の不安がある。

 だから、なのだろう。清水を叩きのめしてもまるで感じなかった高揚感。それが、あの黒づくめを想うだけでひしひしと蘇ってくる。次やれば、勝てる。本当にそうか。いや、勝つまで挑むのだ。技を見切り、力を逸らし、その喉元に食らいついたとき、己は高々と飛翔する。そんな妄想が昂った。


 夏目透があの黒づくめなのかはわからない。けれど、方々を駆け巡った末見つけた裏闘技場に出場するELエルは、まさしくあのとき遭遇した相手に他ならなかった。見間違うはずがない。幾重にも過ぎった夢と、寸分違わない動きなのだ。

 それが奇しくも、あの夏目トオルの所属する芸能事務所に登録された。裏闘技場に出るのは尻込みし、未練がましく会社のホームページを巡回していた最中のことだ。

 高校生である夏目トオルには、無理に対談や試合を申し込むことはできない。総体予選前のこの時期だ。会社や学校が許可するはずもないだろう。

 けれども、一般登録であるエルは違う。いや、最強を標榜する身だ。その肩書きがあるかぎり、挑戦者を退けることはできない。


 アキラはすぐさまコンタクトを取り、返事も聞かぬままクラブ上層部の元へ足を運んでいた。

 大々的なプロモーションまで整えれば、相手も出てくるしかない。ブレーキは踏まない。いや、そもそも壊れているのだろう。


「いや、だけどねぇ。配信までするっていうのは」


 アシスタントコーチは難しい顔でうなる。クラブハウスの応接室で、上層部は一様に難色を示していた。


「確かに話題にはなるけど、正直、戦うメリットがないというか。こんなことで人気に翳りが出たら困るし」


 異例なことだが、アキラはユース所属でありながら、トップチームの中堅所よりも遥かに人気があった。今年など、トップチームに所属していないのに、ウェアだけ作るという案が真面目に検討されたほどだった。

 当たり前の話だが、集客の面で容姿というものは絶大の力をもつ。

 そのうえ期待の星というだけでなく、名門の御子息でもある。扱いに関してはクラブ側も相当ナイーブで、苦慮しているようだった。


「勝敗はなんら今後に響きません。賭けるのは名誉それだけです。公式チャンネルの今月登録者数は、ノルマが達成できていないのではありませんでしたか?」

「そう言われると立つ瀬がないんだけどねえ」


 アキラの激しく輝く瞳に、クラブのスタッフたちは気圧されたように目を逸らした。練習場を借りれば費用はたかが知れている。試合の機会はクラブ側も望む所だ。彼らは積極的に断る理由もなく、かといって賛成することもなく黙り込んだ。


「前回の大浜オープンでは、ご期待に沿えない成果しか残せませんでした。プロになるのならば、一戦一戦に囚われない心構えも重要だとわかってはいます。しかし、まだアマチュアの間に一度だけ、雪辱を晴らす機会が欲しいのです」

「アキラくん……」

「なにもタダでと言うつもりはありません。今まで迷っていましたが、トップチーム昇格の件、お受けしたいと考えています。ですので一度だけ、一度だけチャンスをいただけませんか!」


 アキラは立ち上がり真摯に頭をさげた。本心からの言葉だ。スタッフたちは皆気まずそうに息を漏らしていた。


「山本SD、よろしいですか」


 一人、険しい顔で腕組みをしていた男が静かに手をあげた。トップチームの監督である。

 百八十を超える巨躯の彼は、野太い声で言った。


「デメリットがそれほど大きいわけではありません。選手立っての望みですし、私は賛成します」

「ふむ、君がそこまで言うか」

「あの、私のほうからも」


 アシスタントマネジャーがそろそろと手をあげた。


「プライドの高いアキラが頭を下げるのは、そうないことです。アマチュアへの踏ん切りを付けるという意味でも、お願いしたいのですが」

「ふむ。君たちの意見はわかった。他はどうだ」


 スポーツディレクターが周囲に目配せすると、積極的に反対意見を示すものは現れなかった。

 結果、エルとの公開試合が今週末に開催されることが決まる。先方とのやり取りについて詳細を詰めることになり、スタッフたちは席を立った。

 礼を言ってまわりながら、トップチームの監督を呼び止める。彼はいつもの険しい顔で、傍で控えていたトレーニングスタッフに先へ行けと指示を出した。


「助言していただきありがとうございました。今後とも何卒ご指導ご鞭撻の――」

「いい」


 彼は手をかざして言葉を遮ると、まっすぐ凄んできた。


「それより、わかっているな」


 この男は、選手に貪欲さを求める。いや、勝利への情熱だろうか。科学的なトレーニングが尊ばれる世情で、クラブレジェンドである彼は昔気質な気合いや執念を高く評価する傾向があった。

 これは練習試合などではなく、公式戦だ。そして、プロ昇格を決断した以上不甲斐ない敗戦は許されない。

 そんな彼の眼差しを受け、アキラは怯むことなく応えていた。


「必ず勝ちます」


 言われるまでもない。

 アキラの胸は、今や張り裂けそうなほどに高鳴っていた。




 § § §




「だ、大丈夫なんですかね。係長」


 あれから一週間。芸能事務所ケイベックス・マネジメントに勤める沢村マネージャーは、助手席に坐す社長の顔色をうかがっていた。

 バックミラーには、白仮面に全身黒衣装とキワモノ一直線な脚を組む男が映っている。こんな奴を大通りのクラブハウスで降ろさないといけないかと思うと、今から胃に穴が開きそうだった。


「だから社長だつってんだろ」


 一方、社長は鼻歌を歌うほど上機嫌だ。けれど沢村は、それが果てしない勘違いであるようにしか思えなかった。

 なにせ、薄暗い路地裏から乗り込んできた金になる木はこんなヘンテコ仮面だ。しかも、ポンコツトオルの師匠筋だというのだ。なおさら信用できない。弟分である彼は、人間的には可愛い性格だが、商品としては社長の審美眼を疑わざる得ないと思っていた。

 沢村はハンドルを指で叩きながら、大きく嘆息する。

 角を曲がれば、もうクラブハウスだ。大通りに構えられた練習場へ乗り付け――そこで驚愕することになる。


「おい、来たぞ。あれがELエルだ!」


 クラブハウスの前は、想像以上の人集りができていた。朝来野アキラのファンと思われる女子に、大手メディアこそ居ないが個人レベルの記者が何人も詰めかけている。後部座席を開いた途端、目も眩むようなフラッシュが焚かれた。

 沢村はエルを庇いながらクラブハウスに案内する。このような出待ちは初体験で、MMA人気というものをひしひしと実感する。肩で風を切りながらも影でほくそ笑む社長の気持ちがわからないでもなかった。

 クラブのスタッフに案内され、向こう側の上層部と軽く挨拶する。端正な顔立ちをしている朝来野は、凛々しい顔立ちを尖らせ、終始エルを睨みつけていた。

 美人が怒ると怖いというが、まさにそれである。凄絶なまでの迫力があるのだ。そのうえ、MMAの選手というのは存在感が強い。業務上、売れない男性アイドルの管理をしているが、比べ物にならないオーラを感じていた。


「それにしても、どうして試合を申し込んできたんですかね」


 控え室に案内されている途中、沢村はなんの気なしに言った。

 すると、意外な方向から答えが返ってきた。


「たしかにそういえば」


 えっ、と沢村は振りかえる。仮面の変声器を通しているのに、どこか聞き覚えのあるような気がしたのだ。


「え、あ、やばっ」


 エルは一度咳払いをした。


「私と彼との間には、一度えにしが結ばれた。

 あの目を見ただろう。激しく燃える瞳を。

 彼は窺っていた。この私と再び相見える機会を」

「な、なるほど?」

「つまり勝ったことがあるってことだろ」


 上機嫌で鼻歌を歌いそうな社長が相槌をうった。


「なら、今回も勝てる可能性が高いな。良いことを聞いたぜ」

「可能性?」


 ピタリと立ち止まったエルは、紫紺の紋様が入った外套をはためかせた。


「愚問だな。まさか私が敗れると」

「自信家なのは結構だが、相手はプロ顔負けっつう期待の新星だぜ。そう易々と勝てるのか?」

「クク、この私が安く見られたものだ」


 その黒い瞳が、影を持って暗く沈み込んでゆくのが見えた。緋の環がうっすら浮かび上がる。陽光がわけなく翳り、辺りが寒気に包まれてゆく。

 音もなく滑ったエルは、煌々と緋い尾を引きながら、社長の前に手をかざした。


「ならば証明してみせよう。

 最強、それがいかなるものか。

 光が闇にのまれゆくそのさだめを」


 仰け反って背を壁につける社長。エルは高々と哄笑を響かせながら、控え室の向こうに消えていった。

 ずるずるへたり込んだ社長が、やがてニヤケ面をさらす。それはしだいに爆笑へと変わっていった。


「こいつはすげえ。本物だ。それに“非ナンバーズの星”っつうアイコンまでありやがる。半端じゃねえビックウェーブだ」

「そうですかねえ」


 沢村は手を貸して、社長を立ち上がらせる。そのまま試合会場へ脚を運ぼうとした。


「ね、ねえ。本当に正体ってバレてないんだよね。…………え、うん、あそうか。バレてたら直接僕のほうに来るか。

 あ、まあたしかに、こんな七面倒なやり方しないよね普通」


 控え室の向こうから微かに声が聞こえた。それも、かなり情けない。

 二重人格かなにかなのだろうか。


(こんだけ派手に宣伝して、呆気なく散ったらウチは終わりだ)


 上機嫌な社長に対し、転職しようかと思った沢村だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る