2-9:


 非ナンバーズ。

 行政用語を使えば、同和地区出身者。

 職業階級制度からこぼれ落ち、権利と称して福祉をむさぼる。そんな彼らを指す差別用語だ。


 乗車賃無料の電車に料金を払い、仕事を探しても問答無用で落とされ、ときには入店すら拒否される社会の鼻つまみもの。

 全国民に配布される国民証ナンバーカードを持たぬ者たち。

 いわば非国民の代名詞ともいうべきそれが、トオルたちの身分だった。


「あのねぇ君。いや、夏目透くんと言ったかな。せっかく“保証人付き”になれたんだ。同居人の積み立てなんてやめて、もっと自分が自立できるよう努力したらどうなんだ」

「“家族”ですから」

「しかしだねぇ……」


 同和地区担当窓口に座る中年の職員は、意志が固いと見たのか、侮蔑的な空咳をして渋々業務を進め始めた。

 遥菜と別れて数日後。

 事務所の仕事に託けて方々を転々としたのち、賞金が入ったトオルはいつもの手続きに馳せ参じていた。


 けれどその前に、現日本の階級制度についておさらいしておこう。

 職業階級は大きく分けて三つ。

 生産者、

 政商者、

 競技者である。

 すでに述べたとおり、各階級に依って多額の税や強制徴兵などが課されるものの、代わりに行政サービスや一方的な婚礼まで許可されるほどの特権が与えられる。

 これら階級は、子供の内は親の身分をそのまま引き継ぎ、成人もしくは働き出すと同時に己が職業に依って身分を移す。

 つまりは、江戸幕藩時代の職業身分制度――アーク風に言うなら、農民、商人、騎士――に倣った仕組みであった。


 けれど、トオルたちは違う。

 生まれながらにして、親から捨てられた者。

 または、その彼らから生まれた者。

 それか、やんなき事情から身を落とした者。


 国に何も益することはなく、国に何も供与することはない。ただ、川の向こうやフェンスの向こうで屯するだけ。

 いや、違った。人が人らしく生きるためには、最低限インフラが必要だ。同和政策と称し、毎年多額の税金が投じられている。治安維持の為に警官を多数配置し、県によっては自立補助費として月々十万少々の給付金が配られているのも珍しくない。

 だから昔、面と向かって見知らぬ人に怒鳴られたことがある。


 ――おまえらを養っているのは俺だ、と。


 他県で暮らすことになった院の卒業生が言っていた。給付金を受け取るには、自らに財産がないことを証明しなければならないと。

 通帳を見せ、小銭を一枚一枚調べられ、最後には「これ、読めますか?」と、すべてに振り仮名のある書類へ判を押さねばならなかったと。

 屈辱だったと言っていた。

 生きるとは、プライドを捨てることだと。

 涙ながらに悔しさを語った彼は、二年後に首を吊った。


 この時のトオルはまだ幼かった。非ナンバーズが差別を受けるという事実さえ知らなかった。

 無知で、馬鹿で、けれど外区の下劣さに耐えられないほどには純粋だった。

 だから飛び出してみた。コンクリートで舗装された街区と呼ばれる住宅地に。

 そこに居る子供たちは、孤児院に住む家族と違って優しかった。食料を巡って争うこともなければ、些細な諍いから殴り合いになることもない。


 余裕が、品格をつくる。

 トオルの眼には世界が輝いて見えた。

 仕立ての良い衣服に健康的な肌、すべてを知っているような見識。ボロボロのお古をまとう彼からしてみれば、皆が勇者で、皆が賢者だった。


 けれど、その幸せは長く続かなかった。

 噂になったのだ。非ナンバーズの子供がウロチョロしていると。

 一人、また一人と遊び場から友達が消えてゆく。最後まで残った一人、その子の親に意を決して尋ねたのだ。

 僕は悪い子ですか、と。

 いつも飴をくれる彼は、にこりともしなかった。


 以来、その子とは会えなくなった。チャイムを鳴らしても母親が出てきて風邪を引いたの一点張り。幼いトオルでさえ、その眼に侮蔑が宿っていることを悟っていた。


 物心付けば、嫌でも自覚することになる。

 生きていて申し訳ない。

 胸を張って外を歩けない。

 そんな、現実に。


 だからトオルは、公共交通機関を極力使わない。国民証さえあれば無料なのに、わざわざ駅員に頭を下げ、侮蔑に晒されながら財布を開かねばならないからだ。

 医療もそうだ。国民皆保険を謳う日本は、非ナンバーズでも医療費を負担してもらえる。けれど、説明はしてくれない。国民証ナンバーカードの代わりが何なのか知らんぷりするのだ。

 昨年、黄河が盲腸になったとき。泣きじゃくるひかりに急き立てられ、区役所へ電話し、出張所で医療券が貰えることを知り、窓口をたらい回しにされながら、そのたびに「国民証ナンバーカードがありません」と小声で言った。

 事務所契約がある今は立派な人間ナンバーズの一員だ。けれど仕事に疲れる社会人が、駅ホームで、道端で、非ナンバーズ相手に怒鳴り散らすのを見ると、いつかの自分を重ね合わせてしまうのだ。あの、人間以下非ナンバーズであった自分に。


『お前もまぁまぁ苦労してやがんだな』

「別に、僕だけじゃないから」

『けっ、こんなところもよく似てやがる』


 引きこもりの略語「ヒッキー」と、懐かしいの略語「なつー」、それから本名の夏目。

 合体させて、「ナッツー」。

 今となっては良いあだ名にすら思える。所詮、人格や素行を論っているだけだからだ。


 けれど、非ナンバーズは違う。

 生まれてついての汚名。濯ぐことのできない忌み名。

 運よくトオルは一歩逃れ得た。けれど、油断すれば真っ逆さまだ。

 そうでなくとも、一度差別された記憶はなくならない。

 お前は無価値なんだと突き続けられた十何年間は、烙印のように、拭っても拭っても消すことはできないのだ。


「皆さん、騙されないでください。非ナンバーズは悪、悪なのです。彼らは我々の血税を貪りながらも、なんの努力もせず、悠々自適の毎日を送っています。よく考えてみてください。月々一万五千程度の国民税が払えないなどあるのでしょうか?

 断じて、断じて、社会的弱者などではありません。目を覚ますのです。マスコミは、差別意識過剰な意見しか取り上げず、それに踊らされた政府は無意味に教育・意識調査を続け、延々と同和政策をとり続けています。この無限ループを止めるのが我々、日本ループの役割なのです!」


 役所から出たトオルは、演説中のヘイト団体から資料を受け取らされる。

 怒りに任せ、くしゃくしゃに丸めた。紙屑を握りしめた拳が痛いほどに軋んでいた。


『もうやめとけ。明日は学校に行くんだろ』

「……うん」


 トオルが脚繁く役所に通っているのは、青希たち下三人の家族のためだ。将来を見据え、日々少しづつ人間ナンバーズへの足掛かりを築こうとしている。

 出生税、未払いである月々一万五千程度の国民税、高校は出してやりたいので諸々の学費と職域登録料。すべて併せて五百万いくらだろうか。その積み立てが三人。加えて、日頃の生活費も捻出しなければならない。

 双肩にかかる重荷は、十六の彼に背負いきれるものではなかった。


『まあ、これでよかったのかもな』


 遥菜に執着していたアークだが、あっさり宗旨を変え、頻りに別の女を勧めてくる。

 文句はないが、翻意のらしくなさにトオルは首を捻っていた。


『って、おいおい嘘だろ』


 同和地区の役所は、職員の安全性を考慮して街区にある。そこから自宅へ向かう途中の出来事だった。

 向かいの角からシルバーのバンが飛び出してきて、古いビルの前で急停車した。ゾロゾロと人相の悪い男が降りてくる。その中に、見覚えのある茶髪の少女が目に入った。

 俯いてはいるものの、己の意志で歩いているように見える。ただ、男たちの物々しさは、ありていに言って誘拐そのものだった。


「ここはたしか、藤沢組の……」


 ビルを見上げながら、孤児院の卒業生が構成員として属していることを思い出す。

 政和ならば伝手はあるか。いや、悠長なことを言っていられる場合ではない。張り裂けそうになる胸をぎゅっと握りしめた。


『って、おいっ!』


 アークの静止も無視して、ビルへと乗り込んだ。フロント企業らしく、平凡な中年男性が事務机の前に座っている。

 あはは、とごまかし笑いながらエレベーターが停まった階を確認して、飛び跳ねるように非常階段を駆け登った。


「くそっ、てめぇらカチコミだ!」


 たちまち、潜んでいた男たちが血相を変えて追走してくる。耐久年数を超過してそうな赤錆だらけの階段を駆け上り、五階と記された非常ドアを蹴破った。

 転がり込んだ先は、長い廊下に左右二つづつしか扉がなかった。小窓から光が漏れるのは一つだけ。入り口を固めるよう二人の巨漢が控えていた。トオルは廃材らしき鉄パイプを掴むと、呼吸新たに突撃した。


「アークっ!」

『やることが派手だねぇ』


 瞳に赤い輪が浮かび上がると、身体の感覚が失われる。

 アークは、轟、と凄まじい音を立てて鉄パイプを振るった。

 脳天に真正面から叩きつけた。続けざま、男が飢えた狂犬のように殴りかかってくる。手刀で叩き落とすと、顎を蹴り抜いた。

 扉の向こうが殺気立つのも構わず、アークは無造作にドアノブをひねる。身を固くする男たちの中に、少女が寄る辺なく立ちすくんでいた。


「な、夏目くん!?」

「なんやぁ、ガキぃ! ここをどこや知ってかいっ。生きて玄関跨げるたぁおもうなや!」


 容姿を見て侮った下っ端が、反射的に飛びかかってきた。格好の餌食だ。アークは酷薄に笑った。


「やれやれ、どこの世界もバカはバカか」


 サバイバルナイフを向けられる前に、鉄パイプは閃いた。びょうと風を巻き起こして走ったかと思うと、男が事務所のガラス仕切りに頭から突っ込む。

 あまりに鮮烈な一撃で一同が凍りついた。鉄パイプとはいえ、立派な鉄の棒だ。競技用の防具やシールド機構がなければ、即死する可能性もある。


 ここに、異世界人との認識違いが的面に作用した。

 面子を売る家業とはいえ、現代日本という殺し殺されなど縁遠い安全地帯だ。呼吸をするように魔物を屠り、裏切り者を処理してきたアークとでは、命という価値観がハナから違った。

 ガラス片で裂けた額から、ぬるりとした液体が壁を伝っていく。悶絶する入り口の警備員を併せれば、アークのイカれ具合を知るのに十二分だった。


「が、ガキぃ……」


 余裕綽々と部下を嗾しかけた男は、懐のチャカを握りながら殺気を高らかにした。

 だが、悲しいかな。手足、腰ともに力が入っていない。

 怯えを隠し切れていないのは明白だった。


「まあ待ちな、兄ちゃん」


 不意を打って、奥のソファに座す男が脚を組み直した。

 途端に事務所の空気が冷え冷えとする。元より両隣を賃貸マンションで挟まれた日陰にあるが、その男が音を発するだけで、世界が一層陰ったようだった。

 クラリーノの革靴に皺一つない高級なスーツを纏い、オメガの腕時計をした若い男は、何事もなかったかのように親指を立てた。


「アンタ、このお嬢さんのいい人かい。威勢が良いのは関心だが、ちょっと思い違いをしちゃいねえか?」

「若っ、こいつは!?」

「なあに心配すんな。無理はしねえよ」

「……」

(おーいアーク早く答えて)

(だりぃからパスだ。ま、死にそうなったら代わってやるからよ)

(ウソウソうそうそぉぉぉぉ!)


 感覚が戻ってくる。オドオドしだしたトオルを尻目に、若と呼ばれた男は応接ソファに置いてあったテレビリモコンを操作した。

 液晶に映されたのは、鉄柵に囲まれた闘技場だった。防具もつけず、上裸な二人が真剣で斬り合っている。

 会場は血飛沫舞う光景に大熱狂だ。凄惨な光景にひっと遥菜が息をのんだ。


「その無鉄砲さ、気に入ったよ。どうだい、俺の子飼いにならねえか?」

「ち、ち、近寄らないで。じゃないと、僕の切り札ラスト・リゾートが……!」

『はぁ、やっぱダメだこりゃ』

「あん、なんか雰囲気が?

 まあいい。兄ちゃん、そういきりたつな。元々脅しをかけるだけだからよ」


 男はガン、とガラス机に踵を叩きつけると、煙草を燻らせはじめた。

 その瞳はガラス玉のように感情がない。なけなしの勇気が水気の失せた浮草のように萎えてゆく。

 灰皿に煙草を押し付け立ち上がった男は、身を強ばらせる遥菜の腕を掴み、こちらに突き飛ばしてきた。


「このご時世、歴としたナンバーズの娘さんを拐かすとなりゃ、警察総出でしょっ引かれる。こいつは聞き分けの悪い親父さんへの脅しさ。

 面子だよ、面子。俺たちの目的は、あくまで金田の野郎にある。どこへ逃げたか教えてくれりゃ、こんな手間のかかる真似をしなくてすむんだ」

『金田って誰だ?』

(アーク頼むから黙ってぇぇぇ!)


 トオルは彼女を背に庇うと、震える手で鉄パイプを握りしめた。


「それにしても今日は凄えもんをみた。この臆病そうな兄ちゃんが、まさか切った張ったを演じるたぁ、火事場の馬鹿力ってやつかね。それがどう発揮されるか、今から楽しみだ」

「若っ、おふざけも大概に」

「いいだろ別に。俺は尾けられたお前の後始末をしてやってんだぜ」

「か、彼は関係ありません!」


 背中にしがみついていた遥菜が絞り出すように叫んだ。


「そう、お嬢さんの言う通りもう関係ないのさ。部屋を汚してくれたのや、大立ち回りしてくれたのはな」

『はん、シミを増やしてやろうかって言ってやれ』

(ム、ムリだよぉぉぉ)

「アンタも今映ってるこいつが見えるだろ。なあに、たった何試合か出るだけさ。勝てばガッポリ稼げる。何も悪いことはない。ウィンウィンだろ?」


 映像の先は、ちょうど男の肩に白刃が叩きつけられ、火柱のような血流を噴き出したところだった。贓物をこぼれ落としながら、血の海に沈む。

 誰の目にも明らかな、死だった。

 トオルの全身が恐怖で固まった。喉がカラカラに乾き、極度の脱水状態に陥ったようだった。

 カチカチ、カチカチと歯を打ち合わせていると、縋り付く遥菜の熱が高まった。青ざめた顔で声を上ずらせながら、


「夏目くん。わたしが、するから」


 と呟いたかと思うと、彼女は進み出ようとした。慌てて腕を捕まえる。目が合うと、首を振って動くなと伝えた。

 それでも遥菜の意志は固かった。健気にも哀願しようと、袖から腕を抜いて拘束から抜け出そうとしはじめた。


『どいつもこいつも、もっと自分のこと考えたらどうかね。代われ、全員血祭りだ』


 どうしようもないと覚悟をきめる。しかし、それを傍観していた男は、何を思ったか一際声を高く張り上げ笑った。


「兄ちゃん、あんたまさか夏目透って言うのかい?

 いや、こいつは傑作だな。悲劇通り越して喜劇だぜ」

「こ、古賀さんには、指一本触れさせないぞ……!」


 懐から漏れる着信音にさえ気を払えないほどに緊張が高まる。

 しかし、彼の目には、彼女のことなど映ってはいないようだった。


「いや、目に染みて堪らねえ。よし、決めた。詫びは勘弁してやる。たしかに俺はお天道さまに顔向けできるような生き方はしちゃいねえが、地獄を彷徨うような人間を蹴落とすほど腐っちゃいねえ」

「そんな、若っ!」

「こいつは決定だ。お前らも、先走ったりすんじゃねえぜ。

 ほら、出ていいぜ。兄ちゃん」


 促される、というよりは強制されるまま、トオルは内ポケットで鳴る社用端末を耳に当てた。


『と、トールっ! い、院長先生がっ!?』


 キーンとするような甲高い声に目眩を起こす。

 それを見た男は、ニタニタと笑いながら一枚の名刺を指で弾き飛ばしてきた。


「送ってやるよ。長い付き合いになりそうだからな」



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