2-8:

 遥菜は学校から帰ったあと、憂鬱な表情で空を見つめていた。

 夕方の店客がよくさばけている。両親は察してか手伝えと言ってこなかった。今日も持ち主が現れなかったブレザーを抱きしめて顔の陰影を深くした。


「こんなんじゃだめだよね、わたし」


 遥菜は、自身があまり小器用でないことを自覚している。勉強や仕事もそうだ。

 いつもサボってばかりだが、弟の一樹のほうがよほど要領良くこなせる。頑張るのだけが取り柄だ。そう言い聞かせるように頬を叩いた。


「さあ、お仕事お仕事」


 遥菜は店のエプロンに着替えると、額縁に飾ってあるプロマイドを一度だけ撫でた。元気と、それに伴う後悔が襲ってくる。大きく深呼吸。どちらも仕舞い込んで笑顔をつくる。化粧箱を取り出して、髪を整えればいつもどおりだ。

 古賀家が経営する「古賀青果店」は、レストラン兼直売所だ。従業員は近隣の学生を一人か二人雇う程度で、直売所のほうは朝仕入れた品を、警備員も置かず機械精算で処理している。

 特段安いわけではないが、住宅地にぽつんとある立地と、ついでにランチが楽しめる利便性、父の学生時代の人脈で得られた産地直送の野菜が人気な、地元の便利屋のような存在だった。

 現代では、農作物もプラント産ばかりだ。それを味気ないと感じる人々の声はいまだ根強い。無論、古賀家もすべてが自然そのままにとはいかないが、客が求めているのは雰囲気だ。情緒ある昔ながらの人付き合い、井戸端会議できるスペース、相互扶助の関係。それを求めるとおり実現できる店は、あまりないのが実情だった。

 二日ぶりに店へ降りると、猫の手でも借りたかったと弟が顔を出した。


「もう、姉ちゃん遅いって。疲れちゃったよ」

「一樹は何にもしてないでしょ」


 陳列棚に隠れて携帯ゲームで遊んでいたのだろう。耳元にイヤホンが差し込まれていた。

 来ていないと知りつつも、無意識のうちにその影を探してしまう。それに気づいた一樹は、にっしっしとその瞳を波打たせた。


「トオルならまだ来てないよ。へへ、姉ちゃん振られたなぁ」

「べつに、そんなんじゃ……」

「またまたぁ。だって姉ちゃんいっつもそんな気合い入った化粧しないもんね。ほら、昨日もちょっと店覗いてたでしょ。そんとき来てた吉兄、顔真っ赤にしてたもん」


 吉兄とは通っていた中学のクラスメイトで、トオルと同くMMAの選手だった。学内でも評判の高かった彼は昔から遥菜にぞっこんで、幾度か告白を受けたこともあった。

 ただ、残念なことに家訓としてMMA反対派――というより禁止――であり、一般的な幼少期を送れなかった遥菜は、極めて競技熱が薄かった。

 彼は目立って容姿や学芸に優れてはいない。黄色い声援を送る同級生など、遥菜にしてみれば奇異以外の何者でもなかった。


(禁止の理由もわかるんだけど)


 あれは中学の頃だったか。納屋を片付けていると、出るわ出るわ。大学時代、そこそこ名の知れた選手だったらしい父は、結婚後もプロリーグの応援に熱狂していたようだ。

 しかも、ヴィジュアルもウリにしていた大友レッドエルフズと、ミーハー感は拭えない。さぞ母はお冠だったのだろう。一族の血を嫌なところで実感した瞬間だった。


「あーあ、吉兄にしとけば良かったのに。ガサツな姉ちゃんが好きなんて珍獣いないよ普通」

「うるっさい」

「いってぇ。もぉー、ホントのことだろ!

 あーでも、もしかしてトオルも選手だから、決闘とかになりそうかも。いやぁー吉兄めちゃくちゃ強いらしいからな、トオルは弱っちそうだし。

 あれでも、トオルは城附に入れるのか……どうなるんだ」

「テレビ見過ぎ。禁止にするよ、もう」


 二人は店の裏手に出て、段ボールを台車に積み始めた。


「いいじゃんかよー。決闘ー」

「そんなことばっかり言ってたら晩ごはん抜きだからね」

「別にいいよ。作るのどうせオレだし。それよりさー、この前の千円早く返してくれない。友達と映画見に行こうって誘われててさ……どうした姉ちゃん?」

「一樹、お父さん呼んできて」


 むくれていた遥菜の顔が強張る。姉の変化に気づき、一樹が無言で首肯して裏口へと駆け出そうとしたそのとき、無骨な手がわらわらと行先を遮った。


「へへへ、まあ待ちんさいな。そう怯えるこたぁないやろ?」

「いってぇ、はなせよ!」

「一樹っ!」

「おーおー、威勢のいいお嬢はんやなあ」


 脇道からにゅっと出てきた男たちが一樹を取り囲んだ。それを皮切りに、電柱の影で監視していた男たちが姿をみせた。

 近所の犬がけたたましく吠えはじめた。男たちは襟をはだけ、シルバーアクセサリーをジャラジャラと鳴らしている。そのやさぐれた雰囲気は、明らかに無頼の者だった。


「もう、やめてくださいとお願いしましたよね。営業妨害で訴えますと」


 弱る心を奮い立たせ、キッと睨みつけながら遥菜は言った。


「まあまあ、そないなこと言いなはんな。ケンカしとぉて来とるわきゃおまへん。ワイらも仕事なんですわ」

「金田さんが辞めたのは、あなたたちが来る日も来る日も付け回したからじゃないですか」

「人聞きの悪いことはやめなはいな。借りたモンは返す。ただそれだけちゃいますか?」


 一人だけ背広を肩に掛けた男が、腰を屈めながらニタニタと舐め回すよう見つめてくる。

 ゾワゾワと鳥肌が立って、遥菜は咄嗟に腕を握りしめていた。


 金田とは、トオルの前任者として厨房を務めていた男であり、父将典の学生時代の顔馴染みだ。

 温厚な人柄で、料亭で修行を積んだということもあり腕前は確かだったが、ギャンブル癖が抜けず、妻に逃げられた過去があった。

 父の温情で職を得て、一年ほどは依存症から遠ざかっていたようだが、年始あたりから挙動不審になっていた矢先の失踪だった。

 何かの拍子にまた底なし沼へと嵌り、藁にも縋る思いで闇金に手を出したのだろう。厚生途中の転落など、つまらぬほどありふれた悲劇だった。


「へへ、やっとわこうてくれましたか? お嬢はん方が悪いたぁワイらも思うとりまへんが、慈善事業でやるわけにゃぁいきまへんで。恨むんなら、連帯保証人を頼みはった金田の野郎にしといてくれまっか」


 中年の男は遥菜の髪をかき上げると、鼻息荒く匂いを嗅ぐ。粘ついた口臭を浴び、全身の血という血が引き抜かれたように顔を青ざめさせた。


「姉ちゃんに近づくな!」

「いつっ、このガキっ!」


 噛み付いた一樹に向かって男が拳を振りあげる。

 その瞬間、遥菜の前に立っていた男が激変した。


「小僧、殺されてぇんか!」


 一喝した頭目と思しき男は、黄ばんだ歯ごと歯茎を剥き出しにした。ドスの効いた怒鳴り声に、まだ二十台半ばの下っ端は全身を硬直させた。

 言い訳するよう仲間に目配せするが、蛇に睨まれた蛙のように微動だにしなかった。


「堅気にゃ死んでも手出すなぁ言うとるやろ。オマエ、ワイを舐めとるんか?」


 下っ端が引き攣った声で謝罪の言葉を並べるも、男はにべもなく膝蹴りを食らわせた。

 倒れ込んだ頭部をメチャクチャに蹴りつける。地面に赤いシミが増えて、思わずひっと背中を壁につけた。


「部下が失礼をば。これで堪忍してくれまっしゃろか」


 振り返った男は、まるで何事もなかったかのように笑顔を見せた。


「は、早く病院に……」

「いやいや、んなもん気にせんでええんですわ。コイツらは頑丈さだけが取り柄ですからに。

 それよりお嬢はん。話は大体わかりまっしゃろ? 言うたとおり、ケンカしたいわけやない。ただ、物分かりの悪いお父はんに代わぉて、小一時間お茶飲みに来てくれたらそれでいいんですわ」


 どさくさに紛れて逃げてきた一樹が裾を掴む。遥菜は弟の背中を一度さすると、震える脚を叱咤して一歩踏み出した。


「わたし、だけなんですよね」

「姉ちゃん!」

「へえ、そいつはもう。ちょっくら車でひとっ走したあと、少しばかりおしゃべりするだけでさ。心配せんども、終わればちゃーんと家まで送らせますさかい」


 ぺしりとひょうきんに男が頭を叩く。大きく深呼吸した遥菜は、促されるままシルバーのバンに乗り込んだ。


「一樹、お姉ちゃんは大丈夫だから」


 後部座席のドアが閉められる。屈強な男に挟まれながら、遥菜は両手を組んで祈りをささげた。


 ――どうかわたしに、勇気を。


 街並みが流れてゆくのを眺める。心細くなったときのお守りは、今手元になかった。



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