2-10:


 トオルたちは、正門と呼ぶには寂れた大扉を開くと、ステンドグラスから光の差し込む木造の聖堂に脚を踏み入れた。

 元は白が基調だったのだろうが、風雨にさらされ色褪せてしまい、どこか物悲しさを感じさせる。庭も手入れはされておらず、雑草が伸び放題だった。

 それでも傷の残る長椅子、丹念に磨き上げられた銅像、いつも聖水が置かれる祭壇は、立つものをすべからく厳粛な面持ちにさせる雰囲気が漂っていた。

 ギィと床板を軋ませながら、居心地悪そうな遥菜を引き連れてゆく。オルガンの音を響かせていた老父が、聖歌隊の少年たちを退がらせ静かに微笑みかけてきた。


「ご無沙汰しています。院長先生」


 トオルは襟をただし静かに頭をさげた。

 穏やかに見つめる初老の男は夏目恒夫といい、この夏目孤児院を預かる院長でもあった。

 歳は六十を過ぎ、側頭部に白髪が残るのみだ。

 学者しか掛けない大縁の眼鏡に落下防止の紐をつけている。背も百六十ばかりと小さい。

 いつもピンと背筋を伸ばし、口調も澱みがない。凪のように穏やかな目で諭されると聞かん坊がこぞって耳を傾けるような、そんな神聖さすら漂う老神父であった。


 外区とは住所不定無職かつ扶養者なし非ナンバーズの溜まり場だ。駐在所はなく、隔離壁だけがある。治安は荒れ放題だ。

 そんな中で、慈善団体の職員ナンバーズである夏目恒夫は、ここ一帯の顔役として認知されていた。極めて異例のことだ。就労支援や孤児の保護と恩義を感じる者は多く、近在で暴れることは暗黙の了解で禁じられている。そんな徳を積んだ僧侶であった。


「本当なんですか。孤児院がなくなるというのは」


 はっと息を呑んで遥菜を置いて、院長は鍵盤に指を躍らせはじめた。

 馬の疾走感のある音と、忍び寄るような不気味な音が淀みなく流れる。脳裏に歌詞が再生され、狡猾な魔王が言いよる場面、家路を急ぐ父親などが連想されていく。

 シューベルト作曲、「 魔王 エルケーニッヒ」。夏目孤児院の聖歌隊でよく披露される曲のひとつだった。


「あなたは好きでしたね。この曲が」


 印象的な終結部を終え、鍵盤の蓋を閉じて立ち上がる。

 諦観すら感じさせる微笑みを浮かべながら、院長は祭壇の前に立ち、祈りを捧げた。


 夏目孤児院とは、この老神父によって設立された児童養護施設であった。

 児童は非ナンバーズで構成されており、保護、教育が主な目的としている。ただ、いかんせん人が足りず、最低限な衣食住を用意するので精一杯というのが現実だった。

 かといって人を増やすと、今度は運営資金が足りなくなる。政府の助成金、卒園者の寄付金などで成り立つわけだが、所詮非ナンバーズの子供が大きくなったとて、十分な地位を与ることはまずない。いいところ、ヤクザの下っ端か下級労働者が精々だろう。


 ゆえに、であろうか。特異なシステムとして、五人の「家族」という構成単位で小さな部屋を共有し、相互扶助の関係となるよう教育を受ける。

 その中で、手に職を付けた者は、早期卒園と称して部屋を開けることを促されていた。

 MMAという才能で事務所にスカウトされたトオルたち、元九号室の家族もその一つだ。馴染みきれないトオルを見兼ね、卒園を勧めたという経緯があった。


「まだ練習は続けていますか?」

「……いえ。元々、うまくありませんし」

「そう、ですか。あなたの懸命な歌声が、私は好きだったのですが。残念です」


 経営状態は常に火の車なので、弱い家族は大体飢えに苦しんでいる。院長の前では借りてきた猫同然だが、目を離すと即座に奪い合いがはじまってしまう現実があった。

 ゆえに、外部調達を基本とするトオルのような児童は、宿舎を雨風を凌ぐ住居程度にしか捉えておらず、束縛はないに等しい。が、たった一つだけ決まり事があった。


 聖歌隊、と呼ばれる活動である。


 何日かに一度少年たちが集められ、院長のオルガンに合わせて歌う。

 元プロミュージシャン志望だった院長は、歌の力を信じ、子供たちに救済を与えようとしているそうだ。

 不得手な子供ほど、とくに親身だ。元々恥ずかしがり屋なトオルは、声が外れ調子で、可愛がられる子供の一人だった。

 これらはなんら銭にならないが、慈善団体や活動家などからは高く評価されており、義務教育ならば学費を援助してもらえることもあった。


「ひかりから、でしょうか?」

「……」

「そうですか。私も漏らさないよう注意していたのですが。ひかりは、あなたに頼りすぎるきらいがありましたから」


 立ち上がった院長を追って聖堂を出る。手を引く遥菜の温度は、宿舎から突き刺さる視線で下がりきっていた。

 院内を掃き清める子供たちも異物感を隠さない。いや、それはトオルも違わないのだろう。異例ともいえる出世頭など嫉妬の的でしかなかった。


「あなたにとってここは辛いところでしょう」

「……そんな、ことは」

「畠中管領の施政は私たちにとって厳しいものでした。強者は弱者から奪い、弱者はより弱い者から奪う。

 奴隷は、奴隷の中に奴隷をつくる。いつの世も、時代も、悲しみの連鎖に終わりはありません。両親どころか、

どこから来たかもわからないあなたにとって、院は針のむしろだったはずです」

「……」

「ひかりはいつも手伝いに来てくれますし、政和も時々は顔を出します。けれどあなたは、一度だって来ようとはしなかった」


 院長は庭の大きな楠の前に立った。

 向き合った彼の目は、海のように澄み切っていた。


「恋人、ですか?」

「……いえ」

「そう、ですか。あなたは抱え込むところがありましたから、そうであればと思ったのですが」


 それっきり口を噤んだ院長に一礼をして院を辞した。

 街中まで送迎されている間も、遥菜は一切口を開かずただ唇を噛み締めていた。

 感受性の高い彼女のことだ。近所の犬猫が死んだと聞くだけで涙ぐむ。いくら非ナンバーズとはいえ、そのやるせなさに同情し、沈み込むのは極々自然なことであるように思われた。

 車から降りた途端、無言で右手を包まれた。俯く彼女にされるがまま、細い指に手を絡める。静かに、啜り泣く声が聞こえてきた。


 帰りは終始無言だった。

 元々饒舌な彼女が、沈鬱に黙り込むのは傍目にも異常だ。それでいて車道側を率先して歩いたり、土地勘のないトオルを導いたりと、その甲斐甲斐しいさまは胸を打った。

 お通夜のように静まっていた古賀家では、目も剥くような歓待を受けた。涙ぐむ両親に頭を下げられ、感極まった弟一樹からは尊敬の念を新たにされた。

 いつもならむず痒い一幕であったが、しかし、頭を占めたのは孤児院の出来事だけであった。

 ぐるぐると院長先生の言葉が回っている。来週には地域の元締めが建物ごと接収するそうだ。外区といえども、一応は水道・電気などが通っているが、開通させるには半ばギャングと化している事業者に法外な額を納めねばならなかった。否、それは土地もである。みかじめ料と称し、毎月いくらの取り決めは、この夏目孤児院とて例外ではない。


 あれほどのことがあったというのに、空元気で盛り立てようとする遥菜が眩しかった。自分が居ては、古賀家は冬の寒空に相違ない。早々に辞し、一人街路で立ち尽くした。


 空を覆う闇はどこまでも深く、白く立ち昇る呼気はどこまで尾を引いて流れてゆく。固く握り込まれた拳は感覚が遠く、ただ指先に痺れを走らせていた。

 重かった。

 背負いきれない荷物がのしかかってくる。

 悲鳴を上げたひかり。

 同情し、静かに涙ぐんだ遥菜。

 最後の最後まで、何ひとつ助けを乞わなかった院長先生の姿。

 そして、名も知らぬ夏目孤児院の子供たち。

 トオルの足は、もはや一歩も前に進めぬほど、鎖で雁字搦めになっていた。


 わかっていたことだった。社会に迎合し、従属することの難しさは身に沁みて知っていたつもりだった。

 ドブネズミ非ナンバーズ人間ナンバーズになるのは、並大抵の努力では足りない。


 だから政和は、世界に反逆した。

 だからひかりは、世界を拒絶した。

 だけどトオルは、世界に隷属しようとした。


 諦めきれなかったのはトオルだけ。

 トオルだけなのだ。


『おまえ……』


 ねえ、アーク。

 僕はどうすればいいのかな。


 縋るような想いで光を望む。

 その手には、一枚の名刺が握られていた。




 § § §




『レディィィィス、エンド、ジェントルメェェーン!

 今宵もやってきた血沸き肉踊る真剣勝負。勝てば大金、負ければ死。勝利の美酒を浴びるのは果たしてどちらだァァあああ!』


 戦の銅鑼が高々と鳴らされている。

 地下闘技場へと繋がる扉からは、狂おしいほどの大歓声が、剣闘士を今か今かと待ち侘びていた。

 蛍光灯一つない通路は、絞首台を照らすような眩い光が漏れ出してきていた。


『まずは赤コォォォナァァァァァァア! 十戦全勝、過去の対戦選手をことごとく処刑してきた完全無欠のサイコパス野郎。紅指のビータスぅぅ! こいつに敵うやつは、この世にいるのかぁぁあ!』


 歓喜の雄叫びは地鳴りとなって会場を震わせた。スポットライトを浴び、殺戮者は首を掻っ切るパフォーマンスまで演じ切る。惨劇を予感して、大人でも身を竦ませかねない迫力だ。


 しかし、反対側の入場口廊下で静かに佇立する男は高揚を抑えるよう、仮面の中の唇を三日月のように歪めていた。

 ジェストコール、マント、パンツとすべて黒一色であるが、それぞれ微妙に深さが違い、なんとも言い難いコントラストだ。

 上背は平均より高く、細く頼りない印象ではあるが、それがよりミステリアスでもある。深淵から滲み出したような、温度を感じさせない佇まい。寒気を感じさせるほど気配がなかった。


「アンタがあいつの師匠ってやつか。ま、予定とは違ったが正体不明ってのも悪くない。楽しませてくれよ」


 高級なスーツを纏った男が、腕を組みながら満足気に頷いている。

 血のこびりついた刃を腰から引き抜くと、猛獣を嗾ける悪魔のように卑しく囁いた。


「そういえば聞いてなかったな。アンタ名は?」


 それを耳にして、男は高々と哄笑した。身を仰け反らせ、感涙にも、悲嘆にも似た声をあたりに響かせる。数多もの生き血を啜った刀剣を右手に持てば、自然と怖気が這い出てきた。

 尋ねた男の太々しい笑みが崩れ去る。じわりと、滲んだ汗が額から滴り落ちていた。


『そして青コォォナァァア! 今日が初登場にして、そのまま朝日を拝めなくなるかもしれないニューフェイス。その名もぉぉぉぉ!』


 その男は、すっぽりと顔を覆う白仮面を掴みながら、赤い眼を煌々と輝かせた。


魔王エル



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