最終話 とある伯爵の、決意1

 この世へ生まれ落ちる前に、父親を失った少年がいた。


 オレンジがかった金髪に、薄青の瞳を持ったその少年は父親によく似た、気弱そうで優しい面差しの持ち主。

 容姿だけでなく、父親から名も譲り受けた少年は、成人すればアリソン伯の爵位を賜ることが決定していた。


 決められた人生。

 彼に、拒否権は与えられない。

 それは貴族に産まれたのなら当然のことではあったのだが、彼の前に広がる道は、決して平坦ではなかった。


 でこぼこと歪で、先を示してくれる人のいない、暗い道。


 誰かが言った。


 もう、アリソン伯爵家はおしまいだと。



 姉達は、いつも何かに怒っていた。

 お茶会やパーティーではきらびやかな衣装で身を包み、綺麗な笑顔を浮かべていた母が、書斎で一人きりになるとよく、疲れたため息を漏らしていたのを彼は知っている。


 姉も母も彼には親切だったが、他人にはそうでもないようだということは、なんとなく、気付いていた。


 六つの誕生日。

 彼の人生に、変化が訪れた日。


 未来の家長であるにもかかわらず、頼れる大人がいなかった彼に伸ばされた手があった。

 それは、父の前妻だったアマンダの実家である、コルソン侯爵家から差し出されたもの。


 最初、母は拒んだらしい。


 だが、国の宰相であるコルソン侯爵からの申し出は、誰が見ても素晴らしいものであるのは間違いなく。息子の教育方法に悩んでいた彼女は、最終的に首を縦に振った。

 後から知ったことだが、同時にコルソン侯爵は、領地運営や父が残した事業に詳しい者も紹介してくれていた。

 それは隣の領地のウォルシュ子爵で、父の、友人だった人。


 コルソン侯爵からの助力により、母の細い肩に掛かっていた重荷は、大分軽くなったようだった。


 そうして、六歳になったばかりの彼は生まれ育った土地を離れ、王都にあるコルソン侯爵の屋敷で、寄宿学校に入学するまでの時を過ごすこととなる。


 寄宿学校を卒業すれば爵位を受け継ぎ、領地を治める役目は全て、彼が負う。


 国が定めた規則で、継承者が未成年の場合、近親者が代理として爵位を預かると決められていたから。彼はまだ伯爵ではなく、ただのジョシュアだった。

 もし代理となれる者が一人もいない場合、爵位は国へ返還される。そうなればその家は潰えることとなり、遺された者は貴族の資格を失うのだ。


 彼の父が亡くなった時点では、アリソン伯の爵位は、会ったことのない姉のものになるはずだった。

 だが彼女は、彼が一歳の時にこの世を去り。そのために、彼へと転がり落ちてきた役目。

 彼が望むと望まないとに関わらず、十八になればすぐに、己の力で全てをこなせるようになる必要があった。


 出来ないなど、許されない。


 出来なければ、全てを失うのだから。


 とはいえ、己を取り巻く状況を彼が正確に理解できるようになったのは、王都に移って数年が経過してからのこと。



 その間、彼は、様々な人と出会った。



 生まれてはじめて母とも姉とも離れ、目まぐるしい王都での生活に、こっそり泣きべそをかいていた頃だった。

 コルソン侯爵の屋敷で、引き合わされた女性がいた。


 美しい金糸の髪。

 優しく温かな、アメジストの瞳。

 どこか泣き出しそうな表情で彼を見つめるその女性は、コルソン侯爵家が懇意にしている帽子屋だという。


「彼女は、リディア。王家御用達の帽子屋でね。貴方の帽子を頼もうと思って呼んだのだ」


 どこか誇らしげにコルソン侯爵が告げると、帽子屋の女性は困った様子で口を開いた。


「私のお店ではありません。私はあくまで、グウィニスさんの補佐ですので」

「店主も、貴女はひとり立ちできる腕前だと褒めていたよ。もし貴女が望むのなら――」

「侯爵様」


 ぴしゃりと、女性が侯爵の言葉を遮る。


「その話も、お断りしたはずです。私はグウィニスさんと働いていたいのだと、お伝えしたでしょう?」


 駄々をこねる子供をあやすような表情を侯爵へと向けた女性。

 その視線を受け止めて、しゅんと項垂れた侯爵。


 親しげな二人の様子を、ジョシュアは黙って、見つめていた。

 姉と母と暮らしていて、大人の会話へ口を挟んでも良いことはないと学んでいたからだ。

 大人が話している間は黙って、何かに集中しているふりをする。

 そうしないと母は苛立った様子を見せるし、あとで姉に酷く叱られることになる。


「貴女は、何にも受け取ってくれないのだね」


 存在感を消したジョシュアの前で、侯爵と女性のやり取りは続く。


「いいえ、伯父様。私の一番大きな願いを、叶えていただくじゃありませんか」


 言葉の後で、女性のアメジストが何故か、ジョシュアへと向けられた。


 またあの表情だと、ジョシュアは思う。

 先程からこの女性は、ジョシュアを見ると泣きだしそうな、後悔の念にさいなまれているような表情を浮かべるのだ。


「はじめまして、ジョシュア様」


 ジョシュアの目の前へと歩み寄り、女性は淑女の礼を取る。それは、ジョシュアがこれまで目にしたどの女性よりも美しいものだった。


「リディア・グリーンシールズと申します。これから、ジョシュア様のお好きな物をたくさんお教えくださいね」


 じっと彼女を見つめ、ジョシュアは首を傾げる。


「僕、あなたを知っています」


 ジョシュアの言葉に、大人たちの表情が凍りついたような気がした。

 だが、その時のジョシュアは周囲の反応を気に掛けるよりも、己の記憶を辿ることに気を取られていた。


 女性と対面して、彼の脳裏を過ぎった光景。


 それは自分の家の暗い部屋に追いやられていた物で。たくさんの、絵だった。

 アリソン伯爵邸の、誰も立ち入らない埃っぽい部屋に、いくつもの絵が隠されていた。

 彼の父親と、母とは違う女性と、姉達とは違う少女が描かれた、幸せそうな家族の絵。


 金糸の髪とアメジストの瞳を持つ女性と少女の絵は何枚も、何枚もあった。

 

 いつだったか……姉のジュエルが教えてくれた。

 その絵を隠したのは母で、絵の中の人物は皆、亡くなってしまったのだと。


 今、ジョシュアの目の前に立つ女性。


 彼女は、絵の中で、父の隣で笑っていた金髪の女性によく似ているような気がした。


 もう一度、リディアと名乗る帽子屋をよくよく見つめてみる。


 そうして、ひらめいた。

 彼女は、父と女性の間で大切そうに肩を抱かれていた少女のほうにこそ、そっくりではないかと。


「おばけ、ですか?」


 恐ろしいとは、思わなかった。


「ジョシュア様」


 柔らかな声が降ってきて。

 温かな手のひらが、ジョシュアの頬を包む。


「私は、生きた人間ですよ」

「温かいですね」

「ええ」

「……良い香りがします」


 空気を揺らす、優しい笑い声。


「お会いできて、本当に嬉しいです。ジョシュア様」


 泣きそうに震えた声が告げて、ジョシュアは、彼女の両腕に抱き締められた。


 同時に、脳裏を過ぎった記憶。


 隠された絵について問うたジョシュアに、乳母が青い顔で告げた言葉。


『坊ちゃま、どうか約束してください。その話を、奥様にしてはなりません。決して、なさりませんよう』


 あまりの怯えた様子に怖くなり、ジョシュアは約束をした。だから、母にはしなかった。

 代わりに、姉に聞いたのだ。


 姉のジュエルは、いつもの意地悪な表情で、告げた。



『みんな、疑っているのよ。ジェレーナを殺したのはお母様だって。あんたのためにお母様は、人を殺したのかもしれないの』



 噴き出した、記憶。



 幼いジョシュアは優しい腕の中、口をつぐむことを選択した。

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